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走る車を車内ショットで捉えた長回しから始まるのは『父の秘密』と同様。そしてそれを運転している男の漂泊が後戻りの叶わないところまでたどりつくラストもまた同じなのだけれども、このデヴィッド(ティム・ロス)という看護師の、その職業倫理は突き詰めるほどにまっとうなのに、どこかしら人をはみ出てしまっているような佇まいのせいなのか、世界に吹く昏くて重い風を浴びせ続けてルドヴィコ療法のように目を閉じさせなかった前作に比べると、人でない生き物が懸命に人であろうとする世界の奇妙で哀しい記録(たとえば『アンダー・ザ・スキン』のような)から目を離すことができなくなる感覚が今作では強い。それはもしかしたら終末期の患者という、次第に人から離れていく存在に寄り添うための擬態なのかもしれないけれど、例えばエイズの末期患者サラ(レイチェル・ピックアップ)との関わりにおいてデヴィッドは彼女の肉親すらをコントロールしていて、その時の彼が自らを彼女の夫に擬態させていたことは彼女の死後、あるエピソードで明らかになるわけで、このあたりから彼はどこかしら信頼できない語り手となっていく。そして、サラの次に彼が関わる脳梗塞の患者ジョン(マイケル・クリストファー)のケースでは、おそらくは永年連れ添ったパートナー(同性愛的な要素を多分に含む)としての擬態に患者の家族が嫌悪を抱いたことでセクハラの抗議を受け、デヴィッドは看護師の派遣元から解雇されてしまうのである。こうした患者との日常と平行して、離れて暮らす娘と思しきナディア(サラ・サザーランド)との関わりにおいて彼の過去は少しずつ肉付けされていくのだけれど、デヴィッドが意を決してナディアの前に姿をあらわすシーンにおける、いかに彼が生者の世界から漂ってしまっているかを明らかにする長回しの、それは父と娘であるはずなのに世界の歩き方が決定的に異なってしまっていることを告げる寄る辺のなさのあまり、いつしかホラー化するカメラは中盤の白眉と言っていいだろう。自分はまだ死んでいないことを確認するかのようにランニングマシーンで汗を流すスポーツジムでスタッフから渡されるタオルに対するデヴィッドの潔癖症的な反応と、患者の排泄物や吐瀉物に対する献身的な反応との落差を思い出してみると、患者の人生の最終カーヴから急速に併走するための前述した擬態は彼の熟練したスキルによるものなのか、患者の死に喰われてしまわないための無意識の鎧なのか、とにかくこの映画は断定をはぐらかすことそれ自体に意味があるとでもいう綱渡りによって極度の緊張を持続させるのだけれど、末期ガンの患者であるマーサ(ロビン・バートレット)のある頼みを聞き入れることで、それまでうっすらと提示されていた彼の源泉が亡くした息子をめぐる自罰とつぐないにあることが明かされて、してみるとやはりあのラストは、それが果たされた以上自分がこの世界にいる理由は既にないという総仕上げ、すなわちすべての絶望も哀しみも消えたバニシングポイントだったように思うのである。感情の無重力を漂っているようで実はその足には重い錨がくくりつけられている役柄を、昼と夜のどちらにも染まらないグレーの緻密なグラデーションで演じ切ったティム・ロスが圧巻。隙あらば首を絞めにくるこの監督の長回しはほんとうにろくなことが起きないのだけれどと嬉しそうなワタシは、うっ血した目の夢心地でエンドロールに沈み込んだまま、こういうことをされると家に帰るのが面倒になるんだけどと一人ごちていたのである。世界はワタシたちに何も負っていない、と監督は解放する。傑作。