まず池田氏発言
日韓条約の経済援助8億ドルは「はした金」だったのか 池田 信夫

今週の「そこまで言って委員会NP」が話題になっているので、補足しておこう。ゲストに出てきたケバい化粧の金慶珠という韓国人は、韓国併合のとき韓国人が「一進会」という合邦運動に100万人も署名したと私がいうと、「そんなもの本当にあったんですか」と驚いて、スタジオの失笑を買った。
http://agora-web.jp/archives/1646158.html

 この100万というのは、一進会の自称会員数のことを指すと思われる。署名というのはどこから出てきたのだろうか。
四十二年十二月四日は夜来天寒うして繽粉たる六花塵界を埋め一望皚々たる京城の暁景色云はんばかりなく爽快なりき、此朝一進会李容九は会員一百万を代表すと称して南山緑泉亭上に曾禰統監を訪問し日韓合邦提唱の理由を述べ一封の上書を提出し一進会の微意を牽きて日本天皇陛下の天聴に達せんことを懇願したり、右の上書に曰く

▲統監に上る書
大韓国一進会李容九等一百万会員大韓国二千万の民衆を代表し恐惶頓首再拝して謹で書を大日本国天皇陛下を代表せらるゝ韓国統監子爵曾禰荒助閣下に上る・・・
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946463/129

ちなみに、その一進会の合邦声明は日本人が首謀者だという。
明治四十二年十二月八日
統監             秘書官
憲機第二〇八七号
総理大臣           統監

別紙報告書御参考迄及御送付候也

憲機第二三六五号(1)
今回一進会の発表したる声明書(2)首謀者は内田良平にして、仝人が該書を齎らしたることは蔽ふ可からざるものにして、発表後、以〔ママ〕外にも国民及政府の反対激烈なるため、殆んど今日にては其成算に苦み居れりと。而して昨日、菊池謙譲(3)は内田に対し大要左の如き忠告を与へたりと。

一、今日の事件は時機未だ熟せず、一般の反対を受け平和を破壊する而已ならず、平地に風波を起すものなれば、一進会の指揮は東京に於て之れを為さず、一切之れを京城に移し、且つ内田等は潔く関係を断ち、間接に一進会を援助すべしと。
二、各会中声望あるは大韓協会なるを以て、該会に反対すれば到底希望を満し能はざるにより、大垣丈夫(4)と協議決定すべしと。

右二項の注告を内田は容れ、菊池の紹介に拠り大垣と正式の会見をなすことゝなり、本日午前十一時より菊池宅に於て会見をなしたりと(5)

明治四十二年十二月七日

(注)
(1)憲兵隊からの機密情報。
(2)前掲史料6のほか、一進会は皇帝に合邦上奏文、李完用首相に合邦請願書を提出した。
(3)菊池謙譲。統監府顧問。
(4)大垣丈夫。前掲史料7注5参照。
(5)会見内容は『駐韓日本公使館記録』四〇巻、三四号別紙五、一七八~一七九頁。)
(出典)『駐韓日本公使館記録』四〇巻、三四号、一七四~一七五頁

(海野福寿編『外交史料 韓国併合 下』p657)

そもそも一進会とは日本人が「操縦」していた団体だという。
乙秘第二五〇号 一月二十九日
菊地忠三郎ノ行動

日韓電報通信社長菊地忠三郎は内田良平が退韓後同人に代り一進会操縦の任に当り居りたるが今回李容九の内●を銜み杦山茂丸、内田良平と会し善後策を講ぜんが為め帰朝せるものにして着京後は日々杦山及内田と会し協議を重ねつゝあり。始め日韓合邦論の起るや一時韓国の政界を賑はしたるも事予期と齟齬し今や頗る窮状に陥ろ殊に近く合邦の成功を期するの見込なく今や一進会は土崩瓦解の悲境に瀕し此侭推移せば一進会は遂に暴徒に変ずるの虞なきにあらず。・・・

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伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件
標題:3 隆煕4年〔明治43年〕1月7日から〔明治43年〕2月18日
菊池忠三郎


一進会の声明文は、実際は内田良平らが日本国内で作成し、発表直前に韓国に持ち込んだようである。
  一進会李容九の名において曾禰荒助統監に提出された合邦請願書(史料5)は、内田良平の下で合邦運動に従事していた武田範之が起草し、一二月一日に再渡韓した内田が持参した原稿に若干の修正を加えたものである。
(海野福寿編『外交史料 韓国併合 下』p611)

詳しい経緯を内田良平自身が記している。 
内田良平「日本の亜細亜」1932年 ※昭和7年

  著者は帰京後直に杉山茂丸及び宋秉畯と会見し、形勢此処に迫りては最早躊躇すべからざるを以て、断然合邦に向って歩武を進むべしと協議一決に及び、具体的合邦案を以て当局を説くことゝなった。時に伊藤公の満州出遊の挙あり。之れに先だち著者は大森に公を訪ひ、三派提携の現状及び合邦の断行し得べき所以を述べたるに、公は意外にも、『余も爾か思ふが故に、先日の枢密院会議に於て、韓国処分期の到来せることを説きたり』と言はれた。公の口より初めて此の決然たる意見を聞き、大に喜び話頭を転じて満州行の危険なるを注意したるに、公は『韓人にして余に危害を加ふる如き愚挙を敢てするものあらざるべし』と笑って意に介する所がなかった。杉山は又た伊藤公出発前に於て、桂首相を三田邸に訪ひ、三派提携の顛末を報じ、合邦の機迫れるを論じ、首相の不同意ならざる色を見て更に言を進め、『我にして既に此の意あらば、彼等は必ず合邦を請ひ来るべし。其の際首相は如何に処せんとするか。』首相曰く、『果して然るを得ば実に是れ良策にして、列国も亦た異議を挟むの余地無からん。』杉山曰く、『然らば此の方法を以て決行せしめん。』首相曰く、『合邦の実行には自ら其時期あり。猪突猛進して累を生ぜしむる勿れ。』杉山曰く『時期に至りては一に首相の指揮に従はん。唯だ合邦断行の決意を為せば足れり。』首相曰く『然らば可なり』とて議漸く決した。是に於て杉山は、帰路芝区綱町なる宋秉畯邸に到り、電話にて著者を招き、三人鼎座の上、右の顛末を語り、且つ曰く『君は宋君と共に合邦建議書の案文を草せよ。余は乃ち予め之を桂首相に提示し、首相をして期に臨んで変心せしめざるを期すべし』と。余即ち宋と上書の大綱を談合して宅に帰り、川崎三郎、葛生能久の両人を招き、三人攻究の末、韓国皇帝に上る書、統監に上る書、及び韓国皇帝に上る書の三通の文案を草し、宋秉畯に一覧せしめ、異議なきを以て杉山に渡したるに、彼は佳なりと称し、転じて桂首相に提示した
  宋秉畯は合邦提議の方法を決定する必要あるより、頻りに李容九と書信を往復して内容の説明を為したるに、李容九の主張と頗る懸隔を生じたるを以て、著者は『合邦の内容は日本天皇陛下の叡慮に依って決すべきものにして、韓人の上るべき合邦建議書中には之を記載すべきものに非ず』となし、此の意を伝へたるに、李より『君等の意思は之を解するのみならず、僕も同意する所なれども、今説くに皇帝の廃位、内閣破壊等を以てせば、多くの賛成を得んことは至難である。僕は一人でも賛成者の多くして勢力の強盛たらむことを欲し、敢て此の要求を為す所以である』と答へて来た。李容九の要求は固より至当であって、彼は百万の会員を率ゐ、且つ大韓協会、西北学会以下、雑駁なる党派団体を糾合し、合邦の大目的に向って歩武を進めしめんとするものなれば、所謂合邦なるものは如何なる形式を具備するものなるか、之を説明してして首肯せしむることは洵に至難の業であり、宋秉畯も亦、衆人をして釈然諒解せしむべき説明を書信に依って通ぜんとするは益々困難なるを以て、断然説明を廃し、単に合邦の大標題のみを立て置き、之を連邦と解し、或は政権委任と釈くものあるべきも、それは総て各自の解釈に任せ、彼等を統率し節制して進行せば、結局統治権全部の授受を完成するを得べしとなし、此の旨を以て李容九を同意せしめた。
  十月二十六日、伊藤公暗殺の報突如として哈爾賓の天より飛来し、朝野愕然として一大衝動に襲はれ、之に関する衆議は紛々として起った。然かも此機に於て合邦を断行すべしと唱導せるものは、一大阪毎日新聞ありたるのみにて、他は多く公の遭難を悼み、刺客安重根の兇悪を憤るに過ぎず、桂首相に至っても豹変せんとするものにあらずやと見らるゝ態度あり、廟堂の内に於て早くより合邦を希望せる山縣公、寺内陸相の如き人々も、尚ほ多少躊躇の色あるに至った。蓋し諸当局が併合実行に躊躇したる所以のものは、是より先き日清、日露の両戦役に際し、韓国の独立を扶植すべき御詔勅のあるあり、我より進んで合邦する時は、聖徳を損ひ、列国の抗議を招来する憂ひあり、之が為めには指導権を墨守するの外道なしとして、根本的解決を為す能はざる事情に在ったので、著者は韓国より合邦を提議せしむるに於ては、列国をして異議を挿む余地なからしむるのみならず、以て聖徳を発揚せしむるに足るものであるとの見地から、爾来四年間寝食を忘れて韓人を導き、漸く之を実現し得べき大勢を作り、初めて合邦の手段方法を説明し、首相等を賛成せしむるに至ったのである。然るに今日に及び、首相の合邦の提議に逡巡の色あるは憂慮に堪へず、此機会を以て合邦を断行するは絶好の時機なるのみならず、伊藤公の死を有意義ならしむるものなれば、此際飽く迄之が断行を決せしめんことを期し、恰も伊藤公の国葬に派遣せらるゝ一進会副会長洪肯燮をして、京城より武田範之和尚を同伴帰朝せしめ、武田をして合邦の建議書を草せしむる為め、宋と協議の上、其の電報を発した。武田は著者と天祐侠以来の同志にして、博学且韓国流の漢文を書くことに於て唯一人者であった。同人の漢文は韓人が之を読んで、日人の筆に成ったと観るものなき程の文章家である。武田の着京するや、曩に杉山より桂首相に内覧同意せしめたる合邦請願書の草案を示し、原文の意を以て漢文となさしむる為め、芝浦竹芝館に籠居せしむること一週日の後、上奏文及び韓国統監に上る書、総理大臣李完様に上る書の三通を脱稿し、準備は茲に全く完成した
 然かも首相の心中尚ほ疑はしき点あり、合邦請願の後、廟堂諸公にして変心することあらんか、一進会百万の大衆其他韓国の同志悉くを死地に陥るゝ憂あるを以て、我が民間の輿論をして後援せしむるの素地を作り置くの必要あるを感じ、同志森山吐虹に日韓合邦の計画を打ち明け、国内輿論の喚起に当らんことを懇嘱した。森山は新聞社通信社等の有力なる同志を説き、大谷誠夫、福田和五郎、倉辻明義、松井廣太郎等及び小川平吉外数名の有志と両三度相談会を開き、十一月十三日、以上の同志主催者となり、芝公園三縁亭に於て発起会を開き、朝鮮問題同志会を設立した。其の後、会の発展と共に多数の人士入会し来りしが、其の一部には高く志士浪人を以て標置するも、胸量狭小にして識見浅薄なる人物あり、森山を目するに後藤新平一派なりとし、著者を目するに藩閥の走狗なりとし、批難攻撃するものあるに至った。元来国家的の実行問題は、政府と民間との協力に待って始めて成立するものにして、政府を措きては終に成功を望むべからず。別して韓国問題の如き政府の決心と施設を本として遂行さるべき事業に対し、藩閥に関係あるが故に相提携するに堪へずと思惟する短見者流ありしが如き、頗る憫笑すべきものである。著者は此状勢に対し、既に輿論喚起の機関たる同志会を成立せしめたる上は、自ら会に在る必要なきに至ったので、自然之に遠ざかることゝなった。
 十一月十四日、著者は宋秉畯を訪ひ、京城より来りし報告書を示したるに、宋も彼の手に達したる報告書を出し、形勢の良好にして成算歴々たるものあるを喜び、翌日武田を京城に向け出発せしむるに決し、十五日、杉山を訪ひしに、杉山告ぐるに『山縣公、桂首相に武田起草の上奏文を示し、一進会は之を提出して合邦を請ふの手順となれるを語り、更に寺内陸相にも示し、陸相の質問に対し答解し置きたる』を以てし、其問答を覚書となし来り、之を著者に交付した。合邦運動は漸く此処迄進行し来りたるが、之より先き京城に於ける統監曾禰荒助の感情態度俄かに一変し、書を山縣公に寄せて著者を批難し、又た岡喜七郎も統監の意を承け、公に対して盛んに著者を攻撃し来れる旨を桂首相より杉山に注意され、杉山は之に対し、合邦を遂行せんとするには必ず統監の賛同なかる可からず、然るに統監の感情彼が如しとせば、円滑なる進行を期すべからず。因て速に誤解を釈くの道を講ぜよと著者に勧告して来たので、著者は書を曾禰統監に贈って感情の融和に努めた。時に十一月四日のことであった。
  十一月二十八日、著者は愈よ合邦請願書を携へ、京城に出発することゝなり、二十六日桂首相、寺内陸相を訪問したが、生憎何れも留守中なりしを以て書面を両相に致し、又警視総監亀井英三郎を訪ふて発程を告げた。亀井は熱心なる合邦賛成者にして、首相に対する斡旋其他陰に陽に力を致せること少なからず、其後に於ても終始尽力する所があった。杉山は二十六日首相に面会するを得、著者の渡韓に関して述ぶる所があった。是より先き首相は合邦に賛成したるも、時期の点に就ては未だ確定し居らざりしを以て、杉山は此会見に於て、内田及び宋が此機運に乗じ、合邦論者を統率して其の運動を実現せしむるとすれば、政府者に於て或は事情の不可なるものあらんも、四辺の形勢は今や一進会を駆りて苟も一日を綬ふすべからざるに至らしめたるものあり、内田等の渡韓にして遅延せば、彼等は独力事を挙げんとすとの電報頻々として来り居り、徒らに之を看過するに於ては、不測の変を生ずるを免かれざる勢となれるを以て、先づ内田を急行せしめ、次いで宋を派せんとする旨を報告し、且つ其の同意を求めたのである。首相は一次決心を鈍らせ居りたるも、茲に至りては断然同意を表せられたる旨、二十七日の夜、烏森濱の家に於て、著者の送別と協議会とを兼ねて開きたる席上にて杉山から報告を受けた。
  著者は渡韓の途中、下の関に於て暴風雨に沮まれ、予定より一日後れて三十一日乗船、十二月一日京城に入り、即夜清華亭に李容九、武田範之、菊池忠三郎の三人と会合して、携帯せる合邦上奏文及び建議書を李容九に渡し、之が提出の手順を議定した。蓋し建議書を武田の帰韓の際に托せざりしは、提出の機に至る迄内容を絶対秘密にする必要ありたると、我政府当局との交渉纒まらざる裡に提出せらるゝことありては、大事を破る憂ひありたる為であった。李容九は合邦運動を開始するに当り、挙国一致的ならしむべく三派の提携を成就し、基督教青年会、褓負商団体、儒生仲間等、有らゆる方面に亘りて同志を求め、在野の者は既に挙国一致と謂ふべき準備を整へて居た。唯だ大韓協会のみは、三派提携の直後おり分裂すべき懸念があった。それは大韓協会の前身が自強会と称する極端なる排日党であって、韓皇譲位の際、暴動を起したる張本なりしため解散を命ぜられ、其の中の穏和分子と見るべき者等が大韓協会を組織したのであったが、協会の顧問大垣丈夫は、予て自強会の顧問たりし人物で、自強会が決死隊を募って暴動を起し、韓国の大臣及び一進会長並びに同会顧問たる著者をも暗殺せんと謀った時、大垣は、著者を狙ふ決死隊に教へて、内田は武術に達し、酒も嗜まず、油断なき男なれば、刀剣を以ては敵し難かるべく、銃器を用ふるにあらざれば目的を達すること能はざるべしと云った由で、一進会の密偵にして決死隊に加はりしものが之を開〔ママ〕き、大に驚いて本部に報告し来りたることもあった。
  斯の如き人物が曾禰統監の許に出入し、大韓、西北の二会は自分の頤使に甘んじ居り、元来彼等は排日を敢てするものにあらざるも、内田等が一進会を率ゐて親日を専売とするが故に之に反発されしに過ぎずと説き聞かせ居りたるに、突如三派提携が成立したので、統監に対する面目を失ひ、且つ己の立脚地を失はんことを恐れ、三派提携を破るべく捏造の材料を新聞通信員等に与へ、言論機関を利用して讒誣中傷を試みたのである。十月十日発行の万朝報、時事新報、大阪毎日新聞等の紙上に、京城電報として、『三派提携の目的は日韓合邦に在りと伝ふる者あれども、是れ日人雑輩の為にする所ある流言に過ぎず。三派の迷惑尠からざるにより、其の首脳者等は凝議の上、之れが弁明に関する宣言書を発表する事となった』との記事を掲げたる如き、皆大垣の所行であった。彼は又た李完用、趙重応等に買収せられ、一進会の計画打破を企て、其の手段として自ら一篇の声明書を草し、大韓協会の尹孝定に交付して、彼の手より社会に配布せしめんとしたが、尹が諾せなかったので、更に呉世昌、権東鎮の徒を説き、予て三派間の意見交換を目的として組織せる政見研究会に提出し、一進会多年の宿題たる合邦論の基礎を根底より破壊せんと試みたけれども、李容九が全力を挙げて之を防止したる為め、漸くにして事無きを得た。
  適ま伊藤公の国葬に参列した一進会の副会長洪肯燮其の他の人物が東京より帰来し、李容九が東京に在りて日韓合邦運動を開始せんとする計画あるを伝ふるや、之れを聞き込みたる李完用は大に驚き、一進会の目的は全然首を日本に渡すものなりと揚言しつゝ、一方大垣及び愈吉濬等を使嗾して反間苦肉の策を用ひ、大韓協会を攪乱した。此に於て大韓協会よりは一進会に対し、曩に政見研究会に提出せる大垣の手に成りし声明書発表の督促状を発すると同時に、該声明書の全文を韓訳して其の機関紙大韓民報に掲載した。李容九は大韓協会を失ふも、西北学会とは、首脳者たる鄭雲復と堅く結合せるものあり、其の他の団体に至っては、少しも動揺せしめざるべく、結束を堅め居ることなれば、著者の来着を待ち、三派提携を断絶すると同時に、合邦請願書提出の準備を整へて居たのである。
  十一月二日、武田は一進会中の能文家崔永年と共に、合邦の上奏文其他の字句修正を行ひ、李容九にも熟読せしめて慎重に協議する所ありしが、僅かに二三句を刪正したるのみにて之を終り、能筆家たる崔永年の子息をして、一室に籠居浄書せしめた。三日、一進会は三派の提携を断絶すると同時に、本部に於て大会を開き、合邦の上奏案を討議し、満場一致を以て一気呵成的に之を可決した。李容九は著者等が大会の結果を待ち居りたる清華亭に馳せ来り、欣然として之を報じ、共に祝杯を挙げ、旅館天真楼に帰宿した。十二月四日、一進会は愈々会長李容九外一百万人の名を以て、韓国皇帝陛下及び韓国統監曾禰荒助、総理大臣李完用に対し、合邦に関する上奏文及び請願書を上った。此日、一進会は合邦の声明書を機関新聞たる国民新聞の付録として普く配布した。一進会の合邦提議を為すや、褓負商団即ち大韓商務組合七十三万人は李学宰を、漢城普信者二千二百四十名は社長崔晶圭を代表とし、又た各道の儒生団体並に耶蘇教徒の一部も、続々として合邦賛成の声明書を発表し、李容九が多年苦心して連絡したる同志は悉く起ち上り、遂に国民同志賛成会が組織され、会長李範賛、副会長徐彰輔等も亦た合邦賛成の請願書を曾禰統監、李総理に提出するに至った。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918943/150

会員100万人を自称する一進会だが、それは誇大に過ぎるという説。
(写)
合邦反対の理由
大垣丈夫談

日韓合邦は目下の状勢に於て寧ろ我国の一大不利なりと断言するを憚らず。其理由は概ね左の五項を以て之を悉くすを得ん

一、(省略)
二、(省略)
三、合邦主唱者たる一進会が実数四千に満ざる会員を以て漫りに百万と称するは虚声も亦太甚し。一進会員果して百万なりとせんか老幼及婦女子を除くの外殆んど韓民の総てを挙て同会員たらざる可らざる筈なり。然るに事の実際に於て一部少数の同会員なれば左まで政治的及社会的勢力を有する者にあらず、反て同会は予て韓民多数の排斥を受け居るは事実なり。故に民心の安堵を図らんとせば窮余の一策に出でたる同会の合邦論に対し特にい深重の顧念を払ふの要あり、実状洵に然り区々たる一進会を非難するにあらざるなり。 
四、(省略)
五、(省略)

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また当時の韓国で、一進会以外に大きい政治団体はあったようである。そして一進会は不振だったようである。
明治四十二年十二月八日接受 主管 政務局 
乙秘第二七一一号 十二月七日
日韓合邦論に対する韓人の言動 

韓国興学会副会長朴炳哲は日韓合邦問題に対し左の通り言明し居れり。
我が韓国に於ける政治的団体の重なるものは第一、大韓協会、第二、西北学会、第三、一進会の三種にして大韓協会は恰も日本に於ける政友会の如く全国民多数の会員を有し韓国民全般を代表し居る政治団体と謂ふも強ち過言にあらず。又西北学会は文字の示すが如く平城〔ママ〕、平安道、咸鏡道、黄海道等韓国西北地方に属する政事敵学術の進歩を図る政治団体たるに過ぎず。又一進会は或る一部の人士より成る政治団体にして其勢力も我が韓国に於ては大韓協会の如く厖大ならず其会員は僅か三千人内外に過ぎず。而して大韓協会及び西北学会は其主義及び目的とする所大体に於て殆ど相合致し居りて帰する所何れも愛国主義と謂ふに外ならず、一進会に至りては素より何等の主義目的なく些の愛国心なく祖国に対し不平を懐き居る所謂る一種浮浪者の会合にして今回日本新聞紙の報ずる所に拠れば一進会は突如として日韓合邦論を提唱したる由。予は未だ此の件に付本国より何等の報道を得ざれば果して事実なるや否やを知らざれども今仮りに之を事実なりとすれば実に其暴状呆然たらざるを得ず東洋平和の為め慨嘆の至に堪ざるなり。
看よ今日日韓両国合邦したりとて目下何等の利益ありや否却て合邦は大害ありとも寸益なし。予は目下学生の身分にして日夜黽勉学術の研鑽に従事するの外全く余事なきものにして如此政治上の問題に容喙論議するは学生の本分を逸したりと云ふ●りは免れざるや知らざれども予も韓国民なり、本問題は我韓国の興廃に関する重大問題なれば仮令学生たりと雖も之れを論議するに於て敢て僭越の事にあらず否国民の本分なりと信ず。・・・

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警察事務概要(保安課の部)

第二 高等警察に関する事項
高等警察に関する分掌事項中其重なるものに就き今左に項目を分ちて概況を記述せんとす。
(1)各種団体
韓国に於て政治団体と認むべき重なるものは一進会、大韓協会にして其他は一起一倒殆んど永続するもの無く勢力微弱にして重をなすに足らず多くは一二野心家の利用する処に従ひ利益の為に集り権勢の為に動くものにして主義定見を有するものに非ず。尚政党の外に政治的傾向を有する宗教団体あり此等も一の天道教を除くの外深き沿革を有するもの無く勢力亦微々として振はず又西北人の教育機関として西北学会なるものあり表面教育事件を目的とするものなるも会員中には政界にあるもの多く従て間々政治的行動に出づることありて西北人間に勢力を有する団体なり。今各種団体中重なるものを挙げ其概況を記載せんとす。

一進会
光武八年八月(明治三十七年)尹始炳なる者京城に一進会なる者を組織したるが現会長李容九は尹始炳の勧誘により地方十三道に進歩会なるものを組織し間もなく合同して一進会と改称し李容九回超に推され左の四大綱領を発表す。
一、皇室尊重と国家独立を鞏固にすること
二、人民の生命財産を保護すること
三、政府の政治を改善すること
四、軍政財政を整理すること
而して地方官吏の●政を矯め人民を救済すと称し頻りに地方行政に客嘴し又地方民の訴訟等に関与し其勢力増大すると共に其弊も亦頗る大なるものありし。其後宋秉畯、一進会に顧問となりて殆んど其実権を掌握し彼が農商工部大臣として朝に立つや一進会員にして官吏となりしもの頗る多かりし。
右の如く一進会は一時地方に勢力を有したりしも光武九年(明治三十八年)日韓保護条約締結当時進で日本の保護を仰ぐの可なるを宣言してより大に勢力を失墜し隆熙元年(明治四十年)日韓新協約発布せられ軍隊解散と共に各地に暴徒蜂起するや日本官憲に反抗的態度を執ると共に売国奴一進会員を殺すべしと唱へ会員中其毒刃に斃れたる者多く殆んど一進会員たるの甚危険たるを感ずるに至らしめたり。昨隆熙三年十二月日韓合邦論を提唱してより世論益売国奴を以て之を目し攻撃一層甚しきに至れり。只一進絵画今日尚相当勢力を保ちつゝある所以は宋秉畯は親日派として常に日本官憲に接近し其後援を有せりと称せらるゝと勢力盛なる当時種々の口実の下に獲得したる利権あるに依り、尚日韓合邦は近き将来に実行せらるべく其暁には再び我党の天下たるべしと夢想し会員の離散を防ぎつゝあり。
一進会は官吏の●政及両班の横暴に反抗せんが為めに起ちたるものなるを以て其会員の多数は常民なりとす。従て宋秉畯、李容九等二三の輩を除くときは殆んど有力の士なし。

大韓協会
隆熙元年十一月一日(明治四十年)、尹孝定、呉世昌、権東鎮等の発起により一、教育の普及、二、三業の開発、三、生命財産の保護、四、行政制度の改善、五、官民弊習の矯正、六、勤勉貯蓄の実行、七、権利義務責任服従の思想鼓吹の綱領を以て組織せらる。其真(?)想は隆熙元年七月日韓七協約に反対を以て成立したるものと云ふを得べし。京城に種々の政党と称する者あるも比較的多数の会員と人材を有するは大韓協会なりとす。現会長は金嘉鎮にして会員中の有力者は権東鎮、尹孝定、呉世昌等なり。該会が今日迄勢力を保ち居るは排日党なりしが為めにして一進会が会長の専制的なるに反し大韓協会は評議員の合議に依り行動するを以て多少敏活を欠くの嫌あり。
昨年末一進会と殆んど連合の内約成らんとして一進会は日韓合邦を提唱したる為め遂に連合●破れ行掛り上大韓協会は一進会の提唱に反対し現状維持の態度を執り今日に至れり。爾来勢力に甚しき消長なし。

国民同志会
隆熙四年一月二十三日李範賛、徐彰輔の首唱に成り一進会の声明したる日韓合邦に賛成し仝会の別働〔ママ〕隊たり。則ち一進会の援助に依り維持せられ居るものと云ふべく殆んど勢力なし。又地方に会員を有せず。

国民協成会
朴●奎の発起に成る。仝人は前に国民仝志会員たりしに仝会長と意思投合せず別に一派を為したるものにして共に一進会の別働団なり。会勢微々として振はず。又地方に勢力なし。

(以下省略)

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韓国警察報告資料巻の3

明治四十二年十二月一日印刷 ※1909年
韓国現時に於ける地方人心の状況

一六、政社其他の会の状況会員の行動及官民の会に対する感情
一進会は各道全く萎靡沈衰に陥り平安南道の如きは会員中一進会を口にするだに避くるの風を生じ全羅道に於ては会員中大賊の群に投じ或は猥りに人の財物を恐喝取財し漸く生活の資を得んとする者あり。黄海道は一進会員皆な侍天教徒にして殆んど無資無頼の徒多く弊害尠少なりとせず。要するに一進会員は概ね下層者が一時会勢振興の時に呵咐し漫に親日を標榜して民財を掠略し深く良民の怨恨を買ひたるに当り偶々暴徒蜂起し大打撃を受け僅に其名を存するのみの悲境に遭遇せるものとす。其偶々暴徒討伐上便宜を致すの観あるも之に伴ふ弊害却て甚しきものあり。咸鏡北道は一時一進会道の勢力中心となりしが弊害益々滋く為めに暴徒の攻撃に遇ひ殆んど全滅の状ありしが近時官民中入会する者を生じ較や復興の望あるに至りしも未だ行動するが如き域に達せず。
大韓協会は各道を通じ会員中流以上者に属し会員少数なりと雖も一進会を凌駕せんとし平安南道の如きは一部の民心を支配するの潜勢力を有すと。然れども全道僅に五十内外の支会にして会員又六千を出でず一般より見るときは会勢不振の状況にあり。全羅北道の会員が施政改善国民教育を唱導し地方民を益すること少なからざるものあるも咸鏡北道の会員は殆んど皆露領に根拠を有する暴徒と通じ其物資の供給密偵等を事とせしが支会首脳者を逮捕処分せし為め土崩瓦解せり。
要するに大韓協会は未だ全国に周ねからざるを以て一勢力として見る能はざるも社会の中流者を会員に吸収し又其会員の多数は排日的傾向を有する注意人物なり。其他の会としては京畿の畿湖興学会忠清北道の商務会忠清南道の大韓労働会大韓実業会江原道の関東学会黄海道の大韓労働界帝国実業会平安南道の自正社平安北道の商務●実業組合等あるも殆んど有名無実の団体たり。西北学会は平安咸鏡黄海道に根拠を占め耶蘇教徒と提携し学校を興し遊説を為し会の拡張に努むるも見るべき効果なきの状あり。反之黄海道の紳商社平安北道の定州商務会は殖産興業の発達商業上の利害共通を目的として組織し将来有望の会たり。其他平安南道陽徳郡儒生及有力者を以て組織せられたる郷会は郡政を論評し郡守の諮問に応じ(?)有力の会たり。観人は団体結合に狂奔するの癖あり、近時国権回復設と共に国民の合心団結を説く者続出せり。然れども其組織は必ず野心の欲望に出弊害あるを常とす。

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韓国警察報告資料巻の1
 

一進会の合邦声明に対し、韓国世論や政界の反対を示す資料。上に挙げた資料にも「以〔ママ〕外にも国民及政府の反対激烈」「今や一進会は土崩瓦解の悲境に瀕し」とあるが、その他のもの。
韓国警察報告資料 巻の四

一進会の合邦声明後に於ける各地一般の状況を総合するに一般人民は当時合邦の何物たるを詳知し居らざる者多く偶新聞紙により之を知れる者は其論説等の口紛を借りて喧伝し合邦は韓国の滅亡なりと憤慨し而も之を一進会の罪なりとし仝会員を憎悪するの度を増したるものゝごとし。各地大韓協会員等は一進会の声明を以て無謀なりとし一進会の暴挙は一面日本に媚び一面仝会の頽勢を挽回せんとし却て他人を賊し又己をも欺くものにして韓国五百有余年の社稷を亡滅せんとする乱臣賊子なりと唱へ其軽挙を憤慨し居ること各地殆んど仝一状態にして其表面の行動に出でしものは慶南河東支会の檄文配布を始めとし次で咸鏡南道咸興に於ける総会又は平安北道鉄山宣川等に於ける市場利用の反対演説となり一時何れも騒擾を惹起せんとせしも官憲の注意に依り其後何等の行動に出づるものなく一般に沈静に帰したるものゝ如し。西北学会の如きは各地会員中多少反対の言を洩すものなきにしもあらざれども該問題発表前数日本部より仝会は学術奨励を以て本旨とし決して政治問題に関渉するものにあらず仝会員はよろしく此旨を体すべしとの指明書に接し居ることゝて表面之が反対の行動に出づるものあるを見ず。只一進会に反対する者及耶蘇教徒の如き何等かの時機に投じて排日の気勢を強からしめんとするものは此機を利用し一進会を攻撃し延て排日の思想を扶植せんとするの観あるは疑ふべからざるものあり。鎮南浦、咸興鉄原の各学校に於ける合邦反対の演説及一進会員を退校せしめたるが如き是なり。又学校教員及生徒等は或一部の少数者を除き其多数は皆反対の言を吐かざるものなく甚しきは江華島に於ける生徒六十名の仝盟退校となり又は新義州、寧辺及北韓の三水等に於ける教員生徒の憤慨演説となり中には教員中一進会員と大韓協会員たる者ありて互に相衝突を演じたるが如き其例なり。又忠南に於ては郷校直員が檄文を草して各道の仝会員に配布したりしも敢て感動なかりしものゝ如し。而して西韓地方の人民の中韓国民の安住すべき場所なきに至れば寧ろ間島地方に移住するの外なしと悲観せる者あり、又或地方に於ては日韓協約の本旨に悖るものにして何人も之に反対せざるを得ずと唱ふる者あり、或は之を国家問題とせず党派又は個人問題として論議する者少なからず、甚しきは表面を衒はんが為め更に反対の運動を開始せんとする者等根底なき反対論を吐くものありしが彼の京城に於ける国民大演説会の発せる布告文の各地方に伝はるや南韓西韓等の各地に於て学校教員生徒及両班郡守又は団体員にして心を動かし賛成を表したるものありしが而も此等の地方と雖も何等影響を与へたるを見ず。或は路傍に広告文を貼布したる者等ありしも是れ一進会に対する平常の悪感情より今回の問題を借りて仝会員攻撃の具としたるに過ぎざれば元より合邦に対する衷心よりの反対行動にあらざるや知る可し。果せる哉其後彼等の徒は沈黙に帰して何等行動の見るべきものなかりし。又城津府民会、寧辺国民会及慶北謝罪使等の如き合邦反対の意見を総理大臣に上書し又順川郡民の統監に対し又龍岡郡教員の中枢院に対し仝一意見を上書したる者ありたり。其中多少地方民心を動かせしものは寧辺国民会及城津府民会の行動なりしが之れとて其後間もなく鎮静に帰した。地方有志中には方今韓国の実情に鑑み早晩合邦は免かるべからざるの趨勢なりと観念せる者あるのみならず徒に無名の独立を保ち百年河清を俟たんよりは寧ろ合併して日人仝等の利権を獲得し日韓一家団樂的の国家を形勢するを得策なりと云ふ者あり。又官吏側に在りて当初以来の状態及新聞紙等により到底成功せざるものなりとの意志を懐き居る者多し。又一進会員の如きは始め本部より『皇室尊重人民仝等合致宣言書頒布』の電報に接し次に国民新聞により宣言書の内意を知りたるものにして中には其突然の発表に驚きたるものあり。中には自党の問題たるに係はらず反対の言を吐くものあり、又四面の攻撃に耐へずして脱会を公示したる者ありしが、各地多くは本文の諭示により何れも慎重の態度を持し他の動静を観望するに怠らず(?)。南韓に於ては晋州其他一二ケ所に於て支部の会合を開き又は合邦の主旨を一般人民に知らしめんが為めに巡回演説を為さんとし又北韓に於ては両班其他の有力家を説破して味方となし自党拡張に努めたるものありしも何れも不穏の行動を認めず。各地の仝会員は其後合邦の時機切迫せりとの本部よりの通知に接し実現の日を待ちつゝあるものゝ如し。
之を要するに下層人民に在りては該問題に対する感情太だ冷静にして其の他の合邦反対者にありては愛国の衷心よりする者と表面忠臣義士を衒ふに過ぎざるものと兼て嫌忌せる一進会の提唱に係るに依る者との三者あり。耶蘇教徒にして反対する者は多くは排日の思想に胚胎すると自教の拡張とに外ならざるものゝ如し。又合邦賛成者にも一進会に近きものと時勢上止むを得ずとなすものとの二者あり。然れども概して該問題は今直に実行せらるゝことなかるべしと予断し居れるものゝ如く従て各種の言動も稍沈静に帰しつゝあると仝時に有識者は其後に於ける日本の言論に注目を怠らざるものゝ如し。今茲に各道に於ける状況を概括的に摘録すべし。

一、京畿道
始め新聞紙により之を聞知せしものにして当時一部人民の説として曰く『人民の幸福を得ば国体如何に変ずるも意とする所にあらず云々』と楽観的に解し居るものありし程にて先づ平穏なりしが其後次第に各地に知れ渉るに至りては合邦に対する賛否区々に岐れ其絶対に反対を主唱する者は事理に通ぜざる頑固者流の両班に多く又江華郡に於ける効率普通学校第三、四年生徒及び補習生等六十余名の如き憤激の・・・
・・・大体より之を言へば道内反対七分賛成三分にして其中水原の如きは賛否相半し驪州郡の如きは殆んど賛成なるものゝ如し。而して京城の政界鎮静と共に該問題に対する論評を耳にすること稀なるに至り只有識者間に於て今後の成行を注目しつゝあるものゝ如き状態なり。

一、忠清北道
・・・以上の如く道内の大部分は該問題に反対なるが如し。或一部の中流以上の者にありては早晩斯の如き状勢を見るべしと予期せし所なるが此突然の発表には稍や意外の感をなしたるも李容九は流石に先見の明ありとて暗に之を賞賛するの観ありし其後日本の各新聞記事及統監府の態度が寧ろ一進会の主張を否認するが如くなるより従て之に対する非難の声薄らぎしが有識者にありては其成行の如何に就ては之を等閑に付せざるものゝ如し。(15枚目)

一、忠清南道
・・・以上の如く反対の言動に出づるもの各種の方面に渉りしを以て一進会員の如きは終始沈黙し仝道観察使たる崔廷徳の如きは始め該問題発表に際し此の如き仝会浮沈に関する重大なる事件に就て仝会幹事が一進会員たる自分に何等協議する所なかりしとて遂に脱会するに至れりと云ふ。・・・(24枚目)

一、平安南道
一進会に於て該問題発表のこと道内に伝はるや各団体及一般人民の意向は何れも合邦に反対し一進会の行動に対しては売国奴なりと称へ・・・(69枚目)
・・・此の如くして一進会を除くの外は殆んど該問題に反対の言動に出で従て排日思想を増進したるかの感あり。蓋し本道に於ては兼て排日的思潮瀰蔓し居るを以て一進会員の外合邦賛成の説を為すことを得ず・・・(72枚目)

一、平安北道
・・・以上の如く其言ふところ一様ならずと雖も而も合邦は韓国の存亡に干する大問題にして此等厭ふ可き宣言を一進会なる一政党が単独に発表するに至りしは憤慨に堪へず仝胞は宜しく団結して其成立を防止せざる可からずとは官民上下仝一の感想なるが如し。之に反して一進会員は本部の戒告により深く言動を慎み一般人心の趨勢に注意しつゝあるものの如し。日を経て京城の反対運動熾なる模様が新聞紙上に現はるゝや一般人心に大なる影響を与へて反対の声更に益々高きを加え偶々一部人民のこれに賛成の言を洩す者あるも忽ち攻撃せられて再び之を口にする能はざる有様なりし。・・・(77枚目)

一、咸鏡南道
地方有志者は一般に反対を表し居るも利害得失を研究して根拠ある主張を為す者なく只日本に併呑せらるゝものとし排日的感情より単に不仝意を唱ふる者多し。・・・(86枚目)
・・・以上の如くにして該問題に賛成の言を漏す者を尋ぬるに殆んど或一部の少数に過ぎざるなり。又一進会員に在りては如何なる迫害を受くるも之が遂行に力むる決心なり云々或は日本官憲と連絡あるにより必ず成功す可し云々など口外するものあるも四面反対の声熾なる為め何等表面の行動に出づるものなき状況なり。・・・(89枚目)

以上は二月末日迄に於ける状況にして猶、三月中に於ける状況別紙の如し。(96枚目)

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韓国警察報告資料巻の4

韓国警察最近事務概要

第七、合邦問題に対する取締
一時民心囂々として排日的思想を高めたる合邦問題に関しては統監の指揮を受けて取締に従事し各道警察部に対しては訓令を発して厳重なる取締を励行し又其民情に関しては総合したる報告を為したること数次に及び今尚注意取締中に属す。(118枚目)

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韓国警察報告資料巻の4 

吉岡吉典「 総点検日本の戦争はなんだったか」p146

「一進会」については、『併合』によって設置された日本の朝鮮植民地支配機関である朝鮮総督府が編纂した『朝鮮の保護及び併合』(=『日韓外交資料集成』8)によっても、「一進会の提唱する日韓合邦問題に対する反対の声頗る盛んにして同会は殆ど孤立の状態にあり」(三一八頁)と記しているのです。

小松緑「朝鮮併合之裏面」p71・72

  是の時合邦説を提唱したものは、独り一進会に止まらず、大局の何時か転廻せざるべからざる気運を見抜いてゐた大韓商務組合、国民同志賛成会等の団体及十三道儒生の代表者と称する者も亦国家百年の大計を定めむとせば、日韓両国の宜しく一家たらざるべからざる所以を唱へ始めたのである。併し他方に於ては固より反対派が多かった。国是遊説団、大韓協会、皇城基督教青年会員、大韓毎日申報社員等がそれであった。渠等は或は新聞の論説に或は演説会に、極力合邦説を非難し、元老閔泳韶の如きは曾禰統監に激越なる一書を送り、一進会員を以て兇逆の徒と為し、其の巨魁宋秉畯、李容九等を厳罰せざるべからずとまで迫った
  首相李完用は、大韓協会を率ゐて、合邦論に反対せしめたのであるが、頑冥なる一派の韓国人は、李首相を以て、売国奴の元凶と思ひ込んでゐたと見える。其の中の血気の一青年は無謀にも李完用の暗殺を企てた。・・・
  日韓合邦賛否の議論が、囂々として、恰かも其の絶頂に達した際、殊に首相の遭難で人心

  一進会の日韓合邦論提唱は伊藤公暗殺以後日本が其機会に投じて対韓政策を一変することあらざるかと不安危虞の念に駆られ居りし韓国朝野に向って警を伝ふるの暁鐘なりき、而して一進会の主張を是なりとし日韓合邦に賛同したるものは李学宰の大韓商務組合(註 褓負商の団体なり 褓負商は行商人の一種なれど有事の際義勇兵となるものにして古き歴史を有す)徐彰輔等の国民同志賛成会、崔晶奎等の賛成建議所、金在龍等の国民義務賛成会徐肯淳等の紳士協議所の諸団体にして此等は皆日韓合邦賛成に関する意見書を統監府に提出し一進会の合邦運動に声援を与へたり、然れ共此等の団体たるや大韓商務組合を除くの外凡て日韓合邦賛成のため臨時に組織したる烏合の群れにして未だ大勢力を以て許すに足らず却って有力なる反対所々に崛起し朝野の輿論俄に沸騰して合邦賛成の議論紛々として帰一する所を知らざるに至れり。一進会の合邦声明に対し第一に反対の行動を執りたるは元老閔泳韶、金宗漢、李重夏の一派及び高義駿、鄭応卨等の率ゆる国是遊説団にして彼等は十二月五日正午より西大門内円覚祉〔ママ〕に臨時国民大演説会を開き一進会攻撃及び日韓合邦反対に関する数番の演説を試みて盛んに排日論を煽動し基督青年会及び大韓毎日申報の梁起鐸一派其他の小団体之に付和雷同し反対論の勢焔大に揚りたり。此時に当り大韓協会の態度は頗る曖昧たりき。而して此紛擾し更に陰嶮なる行動を執りたる者は韓国内閣総理大臣李完用にして彼は三派連合の最初より若し在野党の結合を以て内閣攻撃を開始する暁は自己の地位を危殆ならしむる虞あるより極力之を分裂せしめんと欲し種々の悪辣なる方法を以て一進会に反対せしめたりと伝へたれ此重大なる国家の一大問題は例に依り権勢争奪の具に供へられつゝある観あり、且つ一進会大韓協会の裏面には黒幕の策士ありて之を操縦し醜怪なる風聞尠なからざりしを以て日韓併合論に対しては賛成を表せる日本人間に於てすら其方法手段に就て一進会の軽挙を非難するもの多きを加へたるは是非なき次第なりき、恁の如く合邦賛否の議論紛々擾々として韓国朝野の間に瀰満し延いて治安に妨害を与へんとするの情況あるに対し最初極めて緩慢の処置を執りたる統監府も最早之を放任し置く能はざるより俄に韓国政府に命じて一進会の上奏文を却下せしめ同時に処士横議を厳重に取締り一切屋外屋内の集会決議を金鵄して賛否両側の議論を抑圧し漸く苟安を保ち得たり。当時在京城新聞記者団は時局に鑑み臨時大会を開き長文の宣言書を発したるが又以て当時の実情を知るの資料たるに足るべし矣。依て左に之を付記す。

宣言書
東洋の平和を保持し韓半島の一千万の蒼生に文明の恩沢を分ち生存の幸福を与へ以て世界人道の為に貢献せんと欲するは我帝国の国是にして夙に内外の認識する処なり。而して吾人は我国是を遂行する為め前後三千歳遼遠なる歴史と深甚なる因縁を有する日韓関係に最後の解決を下すを以て両国の親和幸福を増進する最善の方法なりと信ず。曩に我帝国が韓国保全の為悽愴惨烈なる二大戦役を冒し鉅億の財帑と百万の生霊を犠牲に供したる実に此国是を完成せんが為に外ならず。然るに韓国に対しては始め其独立を認めたるも積年の弊政上下に浸潤し到底自立の力なきを認め明治三十八年十一月遂に之を我保護政治の下に抱擁して爾来五星霜外交を監理し内政を指導して今日に及びたるが韓人の頑冥蒙昧なる屡々我が誠意ある保護指導を排して宗主国に反抗せんとし暴徒の横行今尚熄まず我居留同胞を惨害すること挙げて数ふべからず。其他前に海牙の密使事件あり、近くは哈爾賓の伊藤公兇殺事件ありて我保護政治の前途を誤らんとするを以て吾人は当時我官憲に向ひ日韓関係の進展を献策し根本的解決を断行すべしとて前後二回の決議を発表したり。蓋し世界の強大国が自主独立の能力なき弱小国を併せ文明の徳政を布し人類の幸祉を進めたるは古今東西の歴史に其類例乏しからず。殊に利害共通の関係尤も密接せる日韓両国が勢の趨く処遂に合併の止むべからざるは中外の与に之を認識したる所にして吾人の主張する日韓関係の根本的解決とは此世界の大勢に則り両国の合併を断行し彼我共に其利益慶幸に依らんことを欲するに在り。今や韓国の政党一進会突如として日韓合邦論を提唱したるに輿論の痛烈なる反対を受け所期の目的を達する能はず唯徒らに韓人朋党軋轢の具に供せられ一敗地に塗ゆるの悲境に沈淪したるは同会の為めに是を遺憾とするのみならず日韓関係の促進上甚大なる障害を残したるを痛嘆せずんばあらず。素より吾人は一進会と恩怨なく敢て必ずしも之を憎悪し排●せんとするものにあらず。其提唱する日韓合邦は外見上吾人の主義政見に稍々近似するものあるに拘はらず吾人が之に賛同せざるのみか却て反対の態度に出でたるは一見頗る奇怪なる現象の如きも其職由する処は一進会の提唱したるが如き曖昧姑息なる政合邦は我対韓唱策の根本的解決に累を胎するものと信じたるのみならず其行動陰険醜陋にして且つ誠意なきを認めたればなり。吾人は今吾人の所見を宣明するに当り此間の真相を敍し立脚の地を明かにする必要を感ず。
韓国にては真に政党の本義を備へたるものあるなし、強ひて政党と目すべきものを求めば一進会、大韓協会の二者あるのみ、其の他には西北学会、畿湖学会、矯南学会、関東学会、中央学会、国是遊説団、普信社、大韓商務組合所、天道教会、待天教会、孔子教会等約二三十の非政社あり。其多数は宗教教育若くは商事団体にして元来政治に干与すべきものにあらざれども朋党比周の盛んなる国抦〔ママ〕とて往々此等の非政社まで政争渦中に相閲ぎ殊に西北学会国是遊説団、負褓商団体(大韓商務組合所及普信社等)の如きは最も政治的野心を包蔵するものなり。而して本年九月一進会大韓協会西北学会は三派の連合を形成し政治上の活動を企てたるに偶々伊藤公兇変の報北満の一方より飛来し韓国の朝野を震駭せしめ官民共に其善後策に狂奔するの余り三派は各自個々の画策を試み遂に十二月三日最終の政見協定委員会意見の衝突を来し分裂の止むなきに至りたるが翌四日一進会は単独にて日韓合邦を声明し京城政界に一大波瀾を淘湧せしめたり。然るに一進会が何故俄かに他派との提携を断ち爾かく急激突飛なる行動に出でたるか。其深因を探究するに多年一進会に関係を有する一部嘖々者流あり、突然東京より来り大言壮語を放ち日本政府の意志既に韓国合併に決せる由を一進会長李容九西北学会首領鄭雲復等に遊説し予て計画せる一進会の合邦運動を此機会に於て断行すべしと煽動し一進会が漫然是等策士の言を信じ軽挙盲動大事を誤りたるは深く同会の為に惜む処なると共に策士等が(以下伏字)如き不謹慎の言動に至りては苟も国家の大事を遂行せんとする者の為べき所行に非ず。吾人は冷静の見地より彼等の小策を看做し其行動を目して一場の茶番狂言に過ぎずと冷評し去り彼の徒らに事功を急ぎ名利を貪る一進会及其党与が時機未だ熟せず輿論定まらざる時に当りて突如平地に波瀾を起し一蹶再び起ち難き失敗を醸すを是れ恐れ言論の権威を揮ひ彼等に警告を与ふると共に世人を謬らざらしめん事を務めたり。果然一進会の合邦提議は各派団体の大反対を受け京城の天地は忽ち鼎の湧くが如く一たび伊藤公の兇変に驚駭したる人心は更に合邦問題に逢着して一層の危懼心を起し相率ひて排日気勢を昂騰せしめ紛糾混乱の状態を現出し之を小にしては親日党を以て標榜する一進会を窮地に陥らしめ之を大にしては日韓関係の促進を妨害するに至りたる等吾人の深哭痛嘆措く能はざる所也。然るに彼等の厚顔なる事敗れたる後媚を吾人に売らんとして果たさず遂に居留民及記者団を中傷し罪を他人に嫁せんとして有ゆる讒誣虚構の流言蜚説を放てり。其醜陋なる心事寧ろ憫笑に堪へず斯の如くにして一進会の運動は全然失敗に終り其の合邦提議も有耶無耶の間に消滅せんとす。若し成敗の結果が単に一政党の盛衰消長に影響し二三雑輩の栄辱利鈍に関係するものならば則ち已む。苟くも事国家の重要問題に属し日韓両国の利害に至大の関係を有するものに於ては吾人之を雲烟過眼視する能はず。見よ一進会が合邦を提議せし後の形勢を。内閣総理大臣李完用は身秉政の首班に列しながら種々陰険なる術策を弄して反対の民論を鼓吹して元老団及各団体は何れも慷慨激越なる合邦反対を唱道して親日派を迫害し一斉に起って排日的思想の勃興瀰漫に全力を尽すを以て合邦賛成論者は此大勢に左右せられて意志の発表を逡巡しつゝあり。若し此状態を自然の儘に放棄し置かんか、時局の紛糾益々甚しからんとす。茲に於え吾人は猛然同志の奮起を促し以て時局の難を救ひ宿昔の抱負を実行せんと欲する所以なり。
一進会提議の日韓合邦は其内容実質鮮明ならず恁かる曖昧姑息なる合邦は吾人の理想と一致せるものに非ず。故に吾人は此機会に於て世界の大勢に鑑み人道の本義を重んじ可憐なる韓国一千万生霊を拯済して文明の徳化に浴せしめんが為め進んで日韓関係最後の解決を断行せんことを提唱し天下の同志と共に誠意誠心目的の貫徹に奮励努力せんことを期す。

明治四十二年十二月二十一日
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946463/138

伏字部分は、別の本にはこうある。
策士等が「或は桂首相より出兵の準備成れりとの電報達したりと誇称し我は寺内陸相より一進会をして擾乱せしむる勿れと伝言ありたりと放言し其他台閣諸公の名を仮りて幼稚なる韓国政客を煽動教唆して壮挙の時機を誤らしめ更に新聞記者をも欺瞞せんとした」如き不謹慎の・・・
(山辺健太郎「日韓併合小史」岩波新書p233) 

警察事務概要(保安課の部)(436枚目)

第六 隆煕二年中に於ける重要事項と警察の行動(521枚目)
(9)合邦問題
合邦問題は一進会の提唱に係るものなるが其提唱以前に於ける所謂三派の提携並に是に次で起りたる分離は本問題提唱を早めたると仝時に本問題に対する三派の去就を決せしむるに至りたる動機なるを以て今左に合邦問題提唱前に於ける三派の関係を記述し次に合邦問題の経過に及ばんとす。

(イ)合邦問題提唱前に於ける三派の提携及分離
一進会大韓協会は現今韓国に於ける韓国政治団体中最も有力なるものに属し西北学会は学術的団体を標榜し而も政治的傾向ある団体なるが昨隆煕三年九月の頃三団体中重立者に於て国家大事の時に際し各政党徒らに紛争を事とするは愚の極なりとし三団体を結合し鞏固なる一大政党を組織せんことを議し●に其計画進捗して三派提携の形勢を見るに至れり。而して此提携に対する各派の内情を推測するに一進会は予て合邦運動を企てつゝありしを以て大韓協会を自家薬籠中のものとし之を利用して合邦の準備運動に着手し之を実行せんとの野心を有し大韓協会は一進会と提携して政権に●かんとし西北学会は会員中大韓協会に属する者多きより自然共に合同を煩するに至りしものゝ如し。
然るに西北学会は三派合同の基礎鞏固ならず到底永続の見込なきを看破し寧ろ此際機先を制して学会の態度を声明し以て分離の場合に処する所あらんとし十二月一日付けを以て指明書を発し西北学会は素と教育事業を目的として起りたるものなるを以て会員は此の範囲を超越して行動するが如きことなき様会員に指達したりしが俄然仝月三日の夜に至り一進大韓両班の提携は一進会の日韓連邦案なるもおにより合邦実行の真意あるに対し大韓協会は其宣言条項に於て意見を異にし且つ李内閣の為めに動かされて当初の歩調を変じ一進会と分離せんとするの態度に出で遂に両班の分裂を見るに至れり。

(ロ)一進会の合邦問題の提唱及大韓協会の態度
茲に於て一進会は急に単独行動を採るべく各道より来会したる代表者会員中重立者を本部に集め大会を開催し突嗟の間に合邦案を発表することを決議し徹宵上奏文統監並に李総理への上書及声明書の起草を為し翌四日一斉に之を発表せり。之を聞きし大韓協会は其機敏なる行動に驚き之に対抗する為め仝日直ちに重立者の密議を催し更に仝夜評議員会を開き政府と提携して合邦論に対し絶対的反対することを決議し数日間風雲観望の後其皇道を開始することを決議したり。

(ハ)合邦論に対する内閣元老両班儒生の態度
合邦の議一たび発表せらるゝや世論鼎の沸くが如く宮内官の如き時事を云為し政争渦中に狂奔するに至れる如き趙承寧府総管金奎章閣大提学、閔〔ママ〕●候官(閣祇候官?)等の如き又内閣大臣の如き殆んど政務を忘却し此運動に熱中し居るの聞へあり。又李総理の如きは種々の劣手段を講ずるに至り為めに統監の戒飭を受けたるが如き状態となり儒生金東●の如きは各道儒生に合邦反対の●文を発したるあり。或は各道授精両班中合邦賛成の上書を統監及内閣に呈出したるあり、又之れに反対の意思を発表するものあり、殆んど是非賛否を捕捉し難しと雖も大体に於て反対の態度を取りしもの多きに居れるものゝ如くありき。

(ニ)合邦問題に対する集会
之れより先き李総理は曾禰統監訪問の結果一進会の行動全く日本政府と没交渉なることを看破し現状維持及合邦反対するの画策をなし国是遊説団を慫慂し其援助により国民大演説会を五日正午西大門内円覚社に開催し知名の元老其他有力者弁士として演説をなしたり。後ち会集に謀りて仝会を尚存続し活動せんことを決したり。又大韓協会にては国民大会を開催し各道より代表者を集め合邦反対の行動を取らんことを企て二三有志の主唱により漢城府民大会なるものを組織し同様反対運動を試みんとするの計画ありしが警視庁により之を中止するに至れり。

(ホ)東京方面に於ける合邦問題に対する声援
又東京に於ける朝鮮問題同志会は韓国一進会と互(?)呼し国論を喚起せんとして十三日大会を開き宣言書決議案及会則案を決議し河野広中を委員長に押し「飛檄」なる印刷物を会衆に配布し弁士は直ちに演説会に移り何れも合邦の必要を演説し大に本問題に対し声援を与へ更に二十一日委員総会の結果統監に意見書を送り又一方実行委員は桂首相を訪問し意見を陳述する所ありしと云ふ。

(へ)東京在留韓国学生の行動
朝鮮問題同志会大会に於ける演説会に於て当日在●韓国学生約三十名傍聴せるに各弁士の合邦演説を警察官が中止せざりしは祖国を侮辱せるものなりとし之れが状況を故国の先輩及元老に報じたりと云ふ。又李容九が大会へ合邦問題に対する弁解的意味を以て電報せしを同会に於て朗読したるを傍聴したる仝学生等は本問題を惹起したるは李宋の二名の主唱によるものなれば宜しく天誅を加へんと危激の言を吐きたる者あり。又学生団体なる大韓興学会に於ては其決議せる合邦反対の布告文及討国賊一進会文を各道に郵送し更に学生総代として李、高二名之を齎し帰韓せしが同人等より統監府の圧迫甚しく印刷物配布及集会を禁ぜられたる旨学生団体なる大韓興学会に通知し来りしより彼等は学生総会を開き冬期休暇を利用し何れも帰国の上一進会の解散を迫らんと内議し合邦反対運動に関し種々画策する所あり。

(ト)合邦問題其後の状況
日本政府に於て合邦問題は斯くの如く賛否各派相互に其主張を争ひつゝありしも日本政府の政策上何等其反響を見ず。従て三月頃より其声を潜めたりしが今や統監の交迭に際し合邦実現せらるゝものなりとの説多く之に関しては韓人多数の感想は合邦実現後に於ける皇室は如何なるべきや合邦せば大韓国の名を失ふべく又合邦後に於ては法令乱発人民の苦痛尠からざるべしとの杞憂により悲観しつゝあるものゝ如し。
(尚詳細は別に合邦問題経過摘録に登載せり)

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韓国警察報告資料巻の3