硫黄島における某事業


 

私が絶海の孤島に渡った理由は、当時間もなく開始される計画であった某事業の先遣調査的なもので、その某事業とは航空自衛隊「F-104J無人機化事業」のことです。当時はQF-104J事業と呼ばれていました(数年後の量産機からUF-104Jと制式化されました)。この当時、世間とくに航空機業界は日米両政府を巻き込んだ航空自衛隊の次期支援戦闘機(現F−2)の選定、計画に沸いており、同じ航空自衛隊の事業でありながら、QF-104J事業はあまり注目されなかったのが残念なところです。
F-104J無人機化事業」とは何か。余命少ないF-104J(多くは分解、油付けで保管されていました)を無人機として蘇らせ、ラジコンのような遠隔操縦をさせ、空対空戦闘の標的機として活用すると言うものです(ラジコン模型とは機体規模も性能も行動半径もまるで大違いですが)。試験場所そして被撃墜場所は硫黄島。未だ火山帯の直上に在り隆起活動も活発なところでありますが、海自、空自が駐留し、基地として管理され、立派な滑走路があり、周辺空域も自衛隊のもの。長さが約17mに達する無人航空機を気兼ねなく飛ばせることが出来るのは国内ではこの島以外ではないでしょう。
機体改修工事及び地上管制装置の建設は昭和62年(1984年)に始まり、まず愛知県にある三菱重工の工場で、標的機に不要なレーダ、武装関連が取り外され、その空きスペースに標的機のフライトコントロールのための計算機や実際に舵面を動かすために必要となる電動アクチュエータ(人間が操縦棹を動かすくらいの力で舵面までのケーブルを押したり引いたりするもの。無人機ではこれがパイロットの腕力や脚力に相当する)、電波によってディジタル信号として地上の操縦コマンド等を機上に伝え、また機体の運動の状態、システムの状態を地上側に電波で伝えるためのデータリンク装置等を搭載しました。コックピットの風防最前部に小型カラーカメラを搭載し機体前方の映像を地上に伝送し、地上管制装置内に設置したコックピットの前方TV(20インチ以上)にビデオ表示するようにしました。この画像を頼りに地上パイロットはF-104を遠隔操縦着陸させたのであります。最初の2機(QF-104Jは最終的には14機になるのだが)は試改修機形態としてパイロットが搭乗し、いつでも母機機能の状態に戻せることとして不測の事態に対応できるようにしました。(この形態での離着陸試験における機上のセーフティーパイロットの恐怖感は如何ばかりか。)パイロットは5人で交代して機上、地上の操縦をしていたが、気のせいか先任(1番偉い)パイロットが多く地上操縦に従事していたような気がします。QF-104に関する技術的紹介は「三菱重工技報(Vol.30.No61993)」に記載されているので、ご覧いただけると幸いです。

さて小牧南工場で様々の技術トラブルに悪戦苦闘しつつもほぼ不具合も出尽くし、全体としてほぼ問題なく作動することを確認でき目出度く昭和63年末にシステム(機体2機+地上管制装置等)が硫黄島に空輸されました。会社の作業員も技術、工作、品証部門合せ大挙数十名が硫黄島に行き、機体の再組立に従事しました。

年も代わり再組立も終え地上、機上システムを総括する作動試験に入り3月には無人機システムによる初飛行を目指すことになりました。セーフティーパイロットの母機演練も上々。ただ2件ほど解決に手間どっている不具合があり飛行試験がストップしているというので、しかも自分の担当部位らしいことがわかり、押取り刀で、硫黄島に向かいました。すでに島に派遣されている人々のフラストレーションが溜まってきた時のある春の日、私は島に降りました。皆の目(60位あったかな)は、「何ゆっくり来ているんだ、おまえを待っていたんだ、明日にも飛行させたいんだ。」と語っていました。このピリピリとした雰囲気の中で私は来島するなり、徹夜でのトラブルシュートとなりましたが、運と知恵の相乗効果で2日後には不具合は2件とも解消、そして飛行へ、と遅れ気味であったスケジュールも回復に向かい、その頃には工作の人達からも「いい時にあんたが来てくれた。大江(名古屋)のほうでも考えた派遣計画をしているな。」と言われ、大部言葉の言われ様が変って来たことを覚えています。

 

 

運と知恵の相乗効果で直した不具合の細部はここでは控えますが、一つは旧い機体にあまり荷物を乗せるなということです。今回の例では無人機化システムとして機器を沢山追加したため電源の余力がなくなり、なにか重たいことをさせると(たとえばフラップを上げ下げさせたりすると)一時的に低血糖、ではなく低電力になり所定の電圧を各機器に供給できなくなります。わずか1Vでも所定の入力電圧に不足を生じると機体に搭載した機器はとんでもないことを始めます。特に一時的に起きた電圧低下がとりあえず復旧したときが一番要注意。或る機器はいきなり自己テストモードに入ってあちこちに無意味な電圧を出力したり、いままで続けてきた作業をご破算にしたり、あるいは黙り込んで不作動状態になったり、と各機器の挙動の見当もつきません。さすがに無人機でこのようでは拙いと思い既搭載のバッテリーに繋げば電源の瞬間的な電圧低下が防げると思い、実際そうしました。が、それでも時々不時システムダウンします。バッテリー自体が老朽化して放電電圧が低めぎりぎりに成っているためです。しかし硫黄島という孤島の中で他に妙案もなく、結局バッテリー様様、こまめに充電をして仕様最低限ぎりぎりの電圧を出していただいくことにしました。教訓:「機体電源は余裕をもつこと」「電源瞬断が起きた際、復帰後にシステムが瞬断前と連続的な値を出すようなシーケンスにすること」。あと思ったのは不具合解消には色んな人があっちこっち機体や機器をこねくり何かの反応が偶然出て、それがヒントになって一気に不具合解消と言うケースもありました。普通のトラブルシュートは起こりうるケースをツリーにしたシステマティックな方法が常道ですが、たまにはインスピレーションもありと言うのが実態でしょう。
そんなこんなで私は3月に3週間、4月に3週間硫黄島で暮らす羽目になりました。飛行試験も何度が行われ、私のメイン担当でもある無線によるデータ伝送、TV映像伝送も電磁干渉には度々悩まされ叱られたりもしましたが致命的な問題はなく、その他のシステムも一通り評価完了ということで、6月に官側に無事納入されました。飛行試験では、チェイサー機のF−4がまず凄まじい轟音とともに離陸し、次いでわがQFが独特のエンジン音で離陸発進するわけですが、この様は近くで見ていると非常に迫力のあるものでした。

 

空自は6月にシステム受領後、かなりのペースで飛行試験をこなし、数多くのデータも蓄積されているようでした。機体前方を映すTV画像を見て着陸するのに一番感覚的に分かりにくいのが対地高度でこれの勘が狂うと着陸角度に大きく影響し、下手をするとバウンド・・・・・・。対策として機首部分下に電波高度計を取付け、正常な高度で着陸に至っているか地上パイロトットが分かるようになり、着陸時の安全性がかなり改善されたようです。

試験評価は1年では終わらず3年近く続きました。このころになると会社側の技術者はごく一部を除き島を撤収、余り情報も掴めなくなってきました。しかしやはり百ソーティを越える飛行をこなしていると色々な事(不具合)が起き大江から不具合解消のために技術者が度々出かけていました。どんなことが起きどうやって解決したかは話せば長くなるのでやめます。自分の体験した例ではやはり老朽化した機体では電気配線の被覆も損傷が各所にあり、意図しない信号短絡等がかなりあったように記憶しています。

なお量産が始まったのも確かこの頃です。3回の契約で12機が製造されました。
上の写真は量産型機です。実運用は3年度にわたり太平洋上において空自第一線の要撃機と巧妙に動く標的機というシチュエーションで実施されました。戦闘をかわし基地へ帰投した剛のものもありましたが、最後は空自戦闘機の空対空ミサイルにより全機撃墜されました。
            

 

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