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横田滋・早紀江夫妻に孫娘ウンギョンさんが初告白 めぐみさんの「消息」

 投稿者:東京新報  投稿日:2016年 6月 9日(木)11時51分56秒
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  横田滋・早紀江夫妻に孫娘ウンギョンさんが初告白 めぐみさんの「消息」

2014年3月、横田夫妻はモンゴルでめぐみさんの娘、ウンギョンさんに面会した。その際、ウンギョンさんが生後10カ月のひ孫を同行した3日間の詳細は報じられていない。めぐみさんの消息をたずねる横田夫妻にウンギョンさんは…。ひ孫との6枚の写真とウンギョンさんとの会話の全貌を初公開!

 ここに六枚の写真がある。歩行器に入っている赤ちゃんと楽しそうに遊んでいるのは横田滋さんだ。穏やかな笑顔で赤ちゃんを抱いているのは横田早紀江さん。どこにでも見られる日常生活のスナップのようだが、そうではない。横田夫妻と一緒に写っている若い女性は、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの娘だからだ。
 横田滋さん、早紀江さんがめぐみさんの娘である金恩慶(キム・ウンギョン)さんとモンゴルで感動の初対面を果たしたのは、二〇一四年三月のことだった。
 そのときのことをわたしは今年三月十八日の参議院予算委員会で安倍晋三首相に次のように問うた。
「これからのことを、御夫婦の意向も含めて、総理、お聞きになる御予定ありますでしょうか」
 安倍首相は「お二人のお考えを尊重しながら考えていきたいと、こう思っております」と答えた。
 それから三カ月が経とうとしている。この間、政府サイドから横田夫妻の「お考え」を確認することはいっさい行われていない。
 横田夫妻はモンゴルから戻って、マスコミはもちろん、知人たちからも出会いの詳細を聞かれ、写真を見せて欲しいと何度も頼まれている。早紀江さんは内心をわたしにこう語った。
「いつも引き出しから写真を出して楽しかった時間を思い出しているんですよ。この当たり前の喜びをみなさんに知っていただきたい、ずっとそう思っていました。でもその機会がなくてね。モンゴルに行ってから二年が過ぎ、日朝交渉が再開する見通しもないから、みなさんに拉致問題がどんな悲しみを生んだか、改めて関心を持っていただきたいんです」
 横田夫妻と話し合った結果、ここにモンゴルで撮影された写真と交流の詳細をはじめて明らかにする。
 二〇一四年三月十日、横田滋、早紀江夫妻は数人の外務省職員とともに成田空港からモンゴル航空で首都ウランバートルに向かった。空港では特別室に待機し、他人に見られないため最後に搭乗した。この計画は外務省側の強い意向で、準備から決行、そして帰国まで徹底して情報が秘匿された。
 成田十四時五十五分発、十九時四十五分着の予定が、機材の遅れで二十時九分に到着する。十日深夜、ウランバートルにある迎賓館。外気温はマイナス五度だ。横田夫妻が四階の部屋に入って荷物を整理しているとドアをノックする音がした。開けるとそこにはピンクに白を配したチマチョゴリ姿のウンギョンさんが背広を着た夫と緊張した面持ちで立っていた。
 部屋に入った二人は「遠いところをようこそ。しきたりなので挨拶させていただきます」とひざまずき、朝鮮式の丁寧なお辞儀をしたという。平壌からは三時間ほどかけてチャーター便で来たそうだ。夜も遅く初対面は短時間で終わる。その最初の会話のなかでウンギョンさんは泣きながらこう語っている。
「どうしてあのとき会ってくれなかったんですか」

外務省から滋さんにかかってきた電話

 早紀江さんはウンギョンさんの言葉に小さな衝撃を受けた。そのつぶやきには歴史的な深い経緯が込められていたからだ。
 横田夫妻は、娘のめぐみさんが北朝鮮によって拉致されたと知った一九九七年から街頭に立ち、集会で訴え、一刻も早い救出を求めてきた。しかし失意の時間はまたたく間に過ぎていく。そして迎えたのが二〇〇二年九月十七日に実現した小泉純一郎首相(当時)の訪朝だった。大きな期待を抱いた。ところが知らされたのは、拉致被害者の「八人死亡、五人生存」という無慈悲な通告で、めぐみさんは死亡とされた。横田夫妻の悲痛な記者会見が、憤りと悲しみを呼び起こしたことは、いまでも多くの人の記憶に鮮やかだろう。
 この翌日、外務省から知らされたのが、めぐみさんの娘の存在だった。当時十五歳で「ヘギョン」と呼ばれていた。そのとき早紀江さんは「奇跡があるんだと思った」。
 横田滋さんの自宅に外務省の平松賢司・北東アジア課長(当時)から電話があったのは九月十九日の午後一時すぎ。平松課長は「(めぐみさんの)娘さんと言われている子供にお会いになりますか」と言ったそうだ。滋さんは「会いたい」と即答する。
 平壌で十五歳のウンギョンさんに対面した梅本和義駐英公使(当時)は「めぐみさんに似ている」と語ったが、横田さんが会えば「本当に似ているかどうかわかる」からだ。滋さんは「本人が希望すれば日本で教育を受けさせてあげたい。ホームステイに来てもらったり、学費を出してあげてもいい」と思っていたという。
 〇二年九月末に訪朝した政府調査団は、十月一日にウンギョンさんの血液を持ち帰る。警察庁は、その血液と滋さん、早紀江さんの血液、さらにめぐみさんのへその緒を試料にDNA鑑定、ウンギョンさんがめぐみさんの娘だと最終的に確認された。
 〇二年十月十五日。日本政府の受け入れチームが帰国する五人の拉致被害者を平壌の順安空港で迎える。
 そこにウンギョンさんの姿もあった。貴賓室に入ってきた彼女は水色の縦縞のブラウスを着ていた。どうして来たのかと問いかけられて、こう答えている。
「空港に来れば、おじいさん、おばあさんも来てるかなと思った」
 ある日本政府関係者が「おじいさん、おばあさんが会いに来ますから」とウンギョンさんに伝えていたからだ。ウンギョンさんが横田夫妻と初めて会ったとき泣きながら語ったのは、「会いに来る」という言葉を信じていたからだ。
 口にはしなかったが、早紀江さんも孫娘に会いたい気持ちはひとしおだったが、政治的事情がそれを許さなかった。「会えばお母さんは亡くなったと言わされる」と支援団体が主張したからだ。早紀江さんもそう危惧し、肉親としての感情を公の場ではずっと隠してきた。
 わたしがウンギョンさんとの交流について横田夫妻と話しあったのは、まだ国会議員になる前の〇六年秋のことである。
「平壌に行くわけにはいかないから難しい」
 それがお二人の結論だった。孫に会いたい願いを隠しながら時間だけが過ぎていった。年齢が重なるほどに健康不安も増していく。
「いま会っておかなければもう無理かもしれない」
 そう判断した横田夫妻は、安倍首相と岸田文雄外務大臣に手紙を書き、外務省幹部に託す。しばらくして「実現しましょう」という首相の意思が伝えられた。一三年十一月なかばのことだ。モンゴルでの対面実現までには、ウンギョンさんの存在がわかってから、十二年近い歳月を必要としたのである。ここでウンギョンさんの経歴を紹介する。
一九八七年九月 平壌生まれ
二〇〇八年十一月 金日成総合大学コンピューター科学大学卒業
二〇〇九年八月 国家科学院発明指導局研究生
二〇一一年五月 二十三歳で結婚
二〇一三年五月 長女「J」(プライバシーに配慮しイニシャルとした)出産
 ウンギョンさんは結婚の経緯をこう語ったという。
 自分の母が拉致された日本人だと知ったのは、小泉訪朝時だった。子供のころ、めぐみさんが絵本を読み聞かせたとき、そこに朝鮮語で「鳥」とあれば、日本語の読み方も教えていた。だからウンギョンさんは、成長してから、自分の母は在日の帰国者だと思っていた。のちに夫となる男性と出会ったのは大学時代。同級生で一歳年上だ。交際するようになっても、自分の出自を明かさなかったことが、ずっと気になっていた。交際一年後にわだかまっていた事実を伝える。このとき同席したウンギョンさんの父(金英男さん)は「あなたの将来のためによくない。それでもいいのか」と伝えたが、男性は素直に受けとめてくれた。「ずっと愛します」と返事があったそうだ。
 十カ月になったひ孫、Jちゃんと対面した時の印象を早紀江さんは思いだす。

「あなたのお母さんのことだけど」

「Jちゃんはとても元気な女の子で、よく食べ、歩行器で部屋じゅうをにこにこしながら走り回っていました。この子もめぐみの小さい時にそっくりでしたよ。自分にひ孫がいるなんてとても信じられません。ウンギョンちゃんもめぐみによく似ていてね。お父さん(滋さんのこと)のいちばん下の妹にそっくり」
 滋さんは歩行器に入って速いスピードで部屋を移動するJちゃんとよく遊んだそうだ。「Jはめぐみにそっくり。目はJちゃんの方が大きいかな」とにこやかな笑顔で思い出を語る。


横田早紀江さんに抱っこされて微笑むひ孫のJちゃん(仮名)。
滋さんも優しく手を添える

 めぐみさんについても話し合われた。
 モンゴルに到着した翌朝、二階にある食堂で料理は肉、野菜、チャーハン、デザートが順々に出てきた。じつはウンギョンさんは母が日本人だと知ってから、日本語の勉強をしていたので、聞くことや読むことが多少できるようになっていた。夫も高校、大学時代に英語とともに日本語を学んでいたので、横田夫妻とウンギョンさんの会話を取り次ぐことができたが、ここでは外務省の女性職員が通訳をした。
 きっかけはウンギョンさんが「五月に大きなお祝いをするので来てください」と口にしたことだ。朝鮮では子供が一歳の誕生日を迎えたとき「トルチャンチ」という盛大なお祝いをする。
 早紀江さんは「(平壌には)行けないと思う」と答え、めぐみさんのことをこう切りだした。
「あなたのお母さんのことだけど」
 ウンギョンさんはきょとんとして「えーっ」と呟き、当惑した表情を浮かべた。
 早紀江さんは続けた。
「あなたが明るく元気に暮らしているのを見て安心しました。おばあちゃんは、めぐみちゃんが元気で生きていると信じていますよ。せめてみんながあなたぐらいのレベルの生活をしているとわかれば、それらのご家族のみなさんは、どんなに喜ばれるでしょうね……。お母さん(めぐみさんのこと)をはじめ、たくさん連れていかれた人がいて、家族はおばあちゃんと同じような気持ちで待っています」とひとりごとのように言って、「最後まで私たちは助けてあげたいという気持ちで頑張っていくから。絶対に希望をすてないからね。これは国どうしの問題で、あなたの問題ではないのです。あなたは大事な孫だから、信じているし、嫌いだから来なかったわけではないのよ。いつも祈っていました。これからもそうですよ」と続けた。
 めぐみさんの遺骨として渡されたものが偽物だったことにも触れたからだろう。ウンギョンさんの顔つきはこわばり、「日本の悪い人がウソをついているんです」と泣きだしてしまった。めぐみさんのことをそれ以上聞く雰囲気ではなくなった。
「この話はやめようね」早紀江さんはそう言った。滋さんはずっと黙っていた。
「何も知らされていないんでしょうかね。めぐみの話をした翌朝は、じんましんが出たといって、部屋から出てきませんでした。夕方に会ったら、顔の皮膚があちこち赤らんでいましたよ。この話題にはもう触れないようにしようと思いました」と早紀江さんは語る。
 ウンギョンさんはこんなことも語っている。
「数日前から眠れなくて、お会いしたらどうご挨拶をしようかと、そればかり考えていました。そしておじいさん、おばあさんにお会いしたら、興奮してしまって、いろいろ考えていたことは忘れてしまい、お辞儀をしたこと以外は何を言ったかも覚えていません。成長してから母のことを話したのは、はじめてです」
 ウンギョンさんが自分で作ったキムチなど、平壌から持ってきた材料で、卵焼き、ネギ入りワカメスープ、豚肉とジャガイモを煮込んだ料理などを作って横田夫妻に振る舞うこともあった。「お母さんの料理は美味しかった」というウンギョンさんの口元は滋さんによく似ているという。
「入院しているとき、お母さんは家まで会いに来てくれました」と、ウンギョンさんがめぐみさんの生活の断片を語ることもあった。
 屋根にいたスズメのヒナと遊んでいたときには、家に持ち帰った友人たちは親から返してくるようにいわれたが、「うちの母は『かわいいわね。飼いましょう』と言って、筆箱の中で育てました」。
 特殊機関が使用していた太陽里(平壌市順安区域太陽里)の招待所で暮していた蓮池薫、祐木子夫妻、地村保志、富貴恵夫妻と家族ぐるみの交流があった。子供同士でよく遊んでいたから「いつか再会したい」と思っているようだ。めぐみさんの写真は数枚しかなく、蓮池さん、地村さんの子供と写った写真といっしょに、紙でできた「宝箱」に入れているそうだ。

ウンギョンさん、Jちゃんとの別れ

 三日間の日程はあわただしく過ぎていく。最終日の夕食会は通訳が同席せず家族だけですごしたという。
 別れの朝がきた。三月十四日早朝。バスで空港へ向かう横田夫妻を、チマチョゴリ姿のウンギョンさんたちが見送った。早紀江さんが振り返る。
「私は『今日みたいなことが起こるのだから、必ずまたいい日がくるから、希望だけは捨てないでね。絶対に希望ですよ』と言って窓から手を差し出しました。向こうも握り返してきて、涙をためながら笑顔でうなずきました。外は寒かったので、Jちゃんには動物の着ぐるみのような暖かいものを着せ、だっこして、一緒に見送ってくれました」
 早紀江さんは「めぐみがいなくなってから三十九年の時間がすぎようとしています。いまも辛い日々が続いています。そんな中でこれほどうれしかったことはありません」と当時を振り返る。
 帰国後に行われた記者会見で自然に浮んだ横田夫妻の満面の笑みがすべてを物語っているだろう。「あんな笑顔を見たことがない」と多くの支援者から手紙や電話をもらったそうだ。
 横田夫妻とウンギョンさんのモンゴルでの邂逅、日朝ストックホルム合意からすでに二年が過ぎた。当時、十カ月だったひ孫のJちゃんは三歳になった。
 北朝鮮の核実験、ミサイル発射をきっかけに、日本は独自制裁を復活、強化した。それに対して北朝鮮は拉致問題などの調査を中止し、特別調査委員会を解体すると表明した。拉致被害者家族の落胆は、これまでにないほど深まっている。
 わたしは横田夫妻に「もう一度第三国でお会いになるつもりはありませんか」と訊ねた。早紀江さんは滋さんの顔を見ながらこう言った。「身体がもう許さないですよ」。めぐみさんの問題が解決していない以上、平壌に行くことはない。第三国での再会もない。ならば選択肢は一つしかない。
「情況が許せば日本に来てもらうしかないですね」
 そう伝えると早紀江さんは言った。
「いまでも会いたい気持ちは強いですよ。でもわたしたちだけがいい思いをするわけにはいかないんですよ。ほかの被害者の方々もいらっしゃるでしょ」
 お気持ちは察するが、そうだろうか。孫やひ孫に会ったことを誰も非難などしなかった。むしろ大きな喜びで迎えたではないか。
 拉致問題解決に政府は本気で取り組むべきだ。
「もはや時間はない」。拉致問題でそんな言葉が何度使われたことか。だがスローガンを唱えているだけでは何も前に進まない。消息がわかっている家族が交流する人道的課題は、政治的問題と切り離して解決しなければならない。「行動対行動」を原則とするなら、人道問題を閉塞からの突破口にできるのではないか。
 横田滋さん八十三歳、早紀江さん八十歳。拉致被害者と家族にこれからの十年はない。急がなければならない。

「週刊文春」2016年6月16日号
 
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