「税と社会保障の一体解決」という財務省のスローガンは、社会保障を人質にとった増税策ともいえる。増税がイヤなら社会保障を切りますよ、という脅しめいた政策だ。
上から目線で納税者を脅す、というのでは財務省がいくら健全財政を叫んでも、増税路線は支持されない。
財務官僚が「官邸の横暴」を嘆いても、庶民の同情が集まらないのは、独善的は財政至上主義の匂いがするからだ。
税収が足らなければ、社会保障だけでなく、一機200億円もするオスプレイなどの防衛費や、被災地の地元でも異論がある巨大防波堤といった公共事業など見直すべき対象はいくらでもある。
現実は様々な既得権が絡み合い、簡単ではないが、増税ができないなら、削減に挑戦する課題は事欠かない。
日本の財政に今必要なのは、財政支出をゼロから見直す、納税者目線に立つ予算の組み替えではないのか。
人口増と企業の躍進をバネにした高度成長期に税収が増えた日本経済が、財政を差配する大蔵省に権力を与えた。財政破綻すればその権威が陰るのは当然のことである。
権力を失いながら、いまもその幻想の中から人々を見下ろしている財務官僚の限界が今の迷走に現れている。
誰のための財政か、どうすれば公正な世の中が実現できるのか。納税者に寄り添う視点を取り返さない限り、財務官僚への憧憬のまなざしは戻ってこないだろう。
天下の秀才たちが組織の歯車に組み込まれ全体が見えない。若手は意味を見いだし難い資料作りに明け暮れ、動機づけは評価と昇進。ベテランになるとポストと再就職先に意識が向かう。自負心と輝きを失った組織に突破力は期待できない。
現状を憂う官僚に「危機待望」が静かに広がっている。
日本の財政はもう自己修正できない。やがて破局が訪れる。5年先か10年かかるか、分からない。でもいつか必ずやって来る。
歴史の節目には常に大混乱がある。その時が勝負だ、と。ゼロからのやり直しを待つしかない、という。
無力感は破局願望を伴いがちだ。自分たちは混乱の外にいるのだろうか。エリートにはチャンスかもしれない。激動に翻弄されるのは庶民である。
危機回避を使命とする人たちが、危機を待望することに、組織の深い病理が見える。