カシュミール問題は「対立」と「対話」の歴史の象徴だ

カシュミール問題の見取り図

 

イギリスの植民地であった時代、インドには560を超える藩王国が、イギリスへ服属しつつ、領内の自治を認められて存続していた。英領インドは、こうした藩王国とイギリスの直轄領という二つの部分からなっていたのである。

 

英領インドは1947年に独立する際、一つのインドとしてではなく、そこからパキスタンが切り離され、二つの国家となって独立したが、その際、それぞれの藩王国は、インドとパキスタンのいずれかへ帰属するかを選択することになった。

 

そうした中、カシュミール藩王国は帰属の意向を明らかにしないまま独立を迎えた。独立の可能性を模索していたともいわれるが、カシュミール藩王領がどちらに帰属するかという問題が、パキスタンとインドの間で70年近くにわたって解決されないまま今日に至り、両国間の不和の核心部分をなしている。

 

カシュミール問題は、インドとパキスタンという二国間の領土をめぐる問題であるが、時間の経過とともに、時代を反映する様々な要因の影響を受けて、その性質が変容してきた。

 

まず、独立直後から1971年までに、インドとパキスタンは3度にわたって戦争をしている。1度目と2度目は直接カシュミールをめぐって、3度目はバングラデシュ独立戦争であるが、カシュミールも戦場になった。また世界各地のインド・パキスタン人移民社会において、カシュミールの自治や解放を求める運動が盛んにおこなわれた。

 

1980年代になると、インド政府がカシュミールに対する統制を強め、カシュミール住民の権利の守り手であったはずの州首相がインド政府に協力的な姿勢に転じたことをきっかけに、カシュミール人自身が武装するに至る。

 

さらに90年代後半になるとカシュミールに外国のイスラーム武装勢力の影響がおよび、いわゆる対テロ戦争の渦中に、カシュミールも巻き込まれていくことになる。このような経緯を見れば、カシュミール問題がインド・パキスタンの独立過程にまつわる事情を越えて、南アジアを取り巻く国際環境の変遷を色濃く反映して変容してきたと納得されよう。

 

一方でもう一つ重要な観点がある。インドとパキスタンは1971年以降も、開戦につながりかねない緊張状態や、両国の境界線であるLoC(実行支配線)(注)周辺で正規軍同士が交戦状態に陥る事態に、たびたび直面してきた。こうした緊張と交戦のたびに両国は、政府、民間を問わず、各レベルで対話を繰り返し、緊張緩和をはかってきた。したがって、両国の緊張や交戦、対立の歴史は、対話と信頼醸成の試みの歴史と表裏をなしていることには留意する必要がある。

 

(注)実行支配線(Line of Control)は、1949年に第一次インド・パキスタン戦争の停戦ラインである。

 

 

カシュミール藩王国とカシュミール紛争

 

まず、カシュミールの地理的、文化的背景を簡単に見ておこう。ヒンドゥー教徒のドーグラー朝の下、ムスリムが多数を占めるカシュミール渓谷、ヒンドゥーが多い平野部、チベット仏教徒を含むラダック地方、高山地帯でたくさんの少数言語があり土着の宗教が存在するギルギットなどが統合されて、カシュミール藩王国ができたのは19世紀のことにすぎない。

 

とくにギルギットではドーグラー朝の併合に対して強い抵抗があり、また部族間相互の抗争も絶えなかったことから藩王は手を焼き、1935年にはこの地域をイギリスに租借させている。現在はムスリムが多いが、イスラーム化されずに土着の信仰を維持している地域もある。現在、紛争地域となっているのは、主としてカシュミール渓谷とそこから東へつづく高地・氷河地帯である。

 

 

カシュミール藩王領と紛争地域(中ほどの破線(LoC)が事実上のインド・パキスタンの境界線。斜線部分が紛争地域。)

カシュミール藩王領と紛争地域(中ほどの破線(LoC)が事実上のインド・パキスタンの境界線。斜線部分が紛争地域。)

 

 

先に述べたとおり、カシュミール藩王が帰属表明を避けたまま、1947年8月にインドとパキスタンが独立した。カシュミールの帰属が不明なまま10月にはいると、パキスタン北西部のパシュトゥーンの民兵がカシュミール藩王領へ侵入を開始し、略奪を繰り返しながらカシュミール渓谷を目指した。この報せに首都シュリーナガルの藩王は脅威を感じ、急遽インドへの帰属を表明してインド政府に対して支援を要請した。インド政府は軍を派遣し、カシュミールでインド軍とパシュトゥーン民兵との間に戦闘が始まる。

 

冬の到来による停戦を挟んで、1948年5月に戦闘が再開されると、パキスタンの正規軍が派遣され、両国軍の間で第一次インド・パキスタン戦争が始まった。この戦争は国連の調停を受けて1949年1月に停戦し、両軍の前線に停戦ラインが引かれた。

 

その後、インドとパキスタンはさらに二回の戦争を経るが、カシュミール人たちは、住民投票の要求など穏健な運動や、カシュミール解放戦線のような海外で民族自決を求める運動が中心で、カシュミール渓谷では平穏が保たれていた。カシュミール人が自ら武装して、インド側で今日のような紛争状態に陥るのは80年代末になってからである。

 

カシュミールで武装闘争が始まった要因としては、インドの政策の変化や、アフガニスタンで対ソ連戦争に従事していたイスラーム武装勢力が移動してきたこと、あるいはこうしたイスラーム武装勢力に対してパキスタンが隠然と支援を開始したことなどが指摘されている。

 

90年代後半になるとカシュミールには、さらに外国のイスラーム武装勢力の影響が強まり、彼らによって「カシュミール解放(アーザード)」より「聖戦(ジハード)」ということばが多用されるようになった。それはカシュミールの民族自決という大義の後退を意味し、カシュミールの人々にとっては、武装闘争が乗っ取られたようなものであったが、今日に至るまで、こうしたいわゆるイスラーム主義者の影響はカシュミールに色濃く残っている。

 

 

武装闘争とカシュミール

 

カシュミール渓谷周辺で続く武装闘争は、カシュミール人によるものにせよ外来のイスラーム主義者によるものにせよ、ゲリラ的なものであり、地域社会によってある程度許容され、そこに参加する人々がいなければ長く続けることはできない。カシュミールの人々が彼らを許容するのは何故なのだろうか。

 

第一に、こうしたイスラーム勢力は一面で社会福祉を担っているということ、第二に紛争地となった地域においてイスラーム勢力へ加入するということは一種の経済活動であるということがある。

 

イスラーム組織であるかぎり、たとえそれがテロ活動を目的とする組織であっても、ムスリム同胞を支援し救済する活動をおこなう。彼らはカシュミール渓谷でインド軍やパラミリタリーと戦うムジャーヒディーンたちへの給与や留守宅への生活援助に責任をもち、万一死亡すれば殉教者(シャヒード)として称え、遺族に対して補償を支払う[Stern 2000]。

 

2005年にカシュミール地方をマグニチュード8の大地震が襲ったが、最も甚大な被害を受けたカシュミールの山岳地帯で、いち早く救助活動と被災者支援を行ったのは、過激派組織としてパキスタン政府に非合法化されたラシュカレ・タイバの関連組織であった。

 

急峻な地形であることからパキスタン政府が容易に被災地に近づけず、紛争地域であることが妨げになって国連機関や外国のNGOが被災地に入れないときに、緊急支援を行った武装組織は被災者にとって大きな存在であったことは想像に難くない。

 

さらに、紛争地となって雇用の場が失われたカシュミールにおいて、若い働き手は、武装組織が日当を出して軍事訓練への参加をよびかければ、就職口としてこれらに参加する。つまり若いカシュミール人たちにとって、武装闘争に加わることは自発的であるにしても、ナショナリズムや宗教的な熱心さの表れである前に、家族を養い、生きていく手段だということを我々は考えに入れなければならないだろう。【次ページにつづく】

 

 

パキスタン・インド国境(パンジャーブ州ワーガー)では、毎夕、国旗の降納式が行われる。国境のゲートを挟んで、写真手前がパキスタン、向こう側がインドである。双方で国境警備兵が隊列を組んで行進し、強さを誇示しつつ国旗を下ろし、最後は荒々しくゲートを閉じる。市民はそれを観覧し拍手喝采する。一見対抗的なセレモニーであるが、実は双方の国境警備担当者同士が、申し合わせて調和のとれたパフォーマンスをおこなっているのであり、むしろ両国の対話と共存の象徴である。


 

 

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