外交部の官僚や職員たちの話を聞くと、今の外交部は大統領府による外交行事のための出先機関のようなものだという。朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は今回アフリカを訪問したが、その直前に外交部の職員たちは「コリア・エイド」と呼ばれる援助協力政策を短期間でまとめ上げた。しかしその実態は、ウガンダなど3カ国に10台の車を回らせて食料を配り、韓国歌手の映像を上映してその車やDVDを来年の後半にそれらの国々に送るだけのことだ。この程度で援助協力などと言えるだろうか。ところがこれと同じようなことが、ここ3年あまりにわたり実は繰り返され続けた。このようなことのために巨額の税金を使って外交官を育てているわけではないはずだ。
たとえ外相という非常に重要な職位にあったとしても、時の最終決定権者である大統領の考えや方針、そしてその指示に従うのは当然のことだ。ただしそれには前提条件がある。大統領の意に沿い一致して行動するだけでよいわけではなく、国際社会における殺伐としたリアリズムも直視しなければならない。この二つをつなぎ合わせて何らかの結論あるいは結果を導き出すまでのプロセスは厳しく熾烈(しれつ)なものであり、その結果には自ら責任を取るという剛気や大胆さも時には必要だ。中国との関係ではただ踊らされ、日本との関係では強硬と軟弱の両極端をふらつくような状況でも、それが大統領一人の「孤独な決断」などといった美名でごまかされ、外相がただ大統領の後をくっついているだけでは困るのだ。
これはある意味当然のことだが、一国の外交において、外交政策のトップは大統領と席を同じくしながら夜を徹して討論できなければならない。たとえ大統領とはいっても、外交官たちが数十年にわたり外交の現場で蓄積してきた経験や功績は持ち得ていない。しかし建国から数十年が過ぎたにもかかわらず、この国には外交政策におけるこれといった戦略家が思い浮かばない。これは外交官たちを鼻でこき使う政権トップたちにも責任があるが、官僚主義に染まりきった外交部そのものの責任も決して小さくはない。
いずれにしても尹長官には5年を勤め上げる最初の外相になってほしい。今後どのような政権が登場しても、一人の外相が最初から最後まで大統領と共にあること。これがいわば一つの原則になってほしいとも思う。しかしその外相が今の外相と同じような、また別の「尹炳世」であれば、心から喜んで受け入れることはできないだろう。