スミスの懸念
「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向は……われわれの道徳感情を腐敗させる大きな、そして最も普遍的な原因なのである。」
どこの左翼からの引用だ、と思われた方もいるかもしれないが、これは古典派経済学の父、あのアダム・スミスの『道徳感情論』からの引用なのである。新古典派(やその影響下にある)経済学者などがスミスのこのような倫理的部分を切り捨てているかについて取り上げられることは少なからずあるが、一般に浸透しているとまではいえないかもしれない。
上の引用はトニー・ジャット著『荒廃する世界のなかで これからの「社会民主主義」を語ろう』からの孫引きである。この本はジャットが筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒されながら行った講演に病床で補足したものだ。
ジャットはまたこう書いている。
「スミスにとって、こうした富そのものへの無批判な賛美は、単に願い下げというだけでは済みませんでした。それはまた、近代の商業経済が潜在的にもっている破壊的な特徴の一つでもあって、時間の経過とともに資本主義の長所そのものを蝕んでしまうかもしれない、彼の見方からすれば資本主義が保持し育成しなくてはならない長所を蝕んでしまう恐れがあったのです」(p.33)。
スミスの懸念はここ数十年でグロテスクにも復活してしまったかのようだ。
イングランドでは「新救貧法」が1834年に制定される。ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』で、オリヴァーはワークハウス(救貧院)で育ったために「ワーカス小僧」と罵られる。「これこそ今日わたしたちが「福祉の女王さま」などとけなして言うのとまったく同じ気持ちが、一八三八年に表明されていたのです」(p.35)。
二〇世紀の福祉国家は「すべては本人の意思次第、したがって受給資格の規準は懲罰的、というヴィクトリア時代の倫理」から脱したものの、「さて、今日、わたしたちはヴィクトリア時代初期に我が先祖たちがとっていた態度へと立ちもどってしま」ったのである(p.36)。これらがレーガンやサッチャー政権のみならず、クリントン、ブレア政権下において一層進められたのであった。
「福祉の「改革」は、あの恐ろしい「ミーンズテスト(資力調査)を復活させました。ジョージ・オーウェルの読者なら覚えておいででしょうが、大恐慌期イングランドの低所得者が生活保護を申請できたのは、当局が――高圧的調査によって――申請者の蓄えが使い果たされたことを確認した場合だけでした。一九三〇年代アメリカの失業者に対しても、同じような調査が行われました。マルコムXはその回想記のなかで、彼の家族を「チェック」に来た役人のことを書いています――「毎月の福祉チェックで、彼らお役人は遠慮なしだった。我が物顔に振る舞っていた。母としては、できることなら連中を家に入れたくなかっただろうに、それはできなかった。……政府が肉やらジャガイモやら、果物やら、あらゆる種類の缶詰をくれるというのに、母が明らかにそれを嫌がっているのはなぜか、わたしたちにはわからなかった。後になってわたしたちは理解したのだが、母は自分の、そしてわたしたち家族の誇りを護ろうと、絶望的な努力をしていたのだ。誇りだけがわたしたちに残されたすべてだった。と言うのも、一九三四年に至って、わたしたちは本当に困窮し始めたのである。」(pp.37-38)。
2016年に本書を読むと、このあたりはさらに考え込まされることになる。「パナマ文書」は世界に衝撃を与えたとされることもあるが、むしろそのインパクトの少なさにこそ注目すべきかもしれない。ジャットの死の数ヶ月前に誕生したキャメロン保守党政権はイギリスの社会保障制度の破壊をさらに進めている。ケン・ローチの新作I, Daniel Blakeは、病気で働けない身体になったにも関わらず嫌がらせのような仕打ちにより苦境に立たされる高齢者の物語のようだが、これがイギリスの現状を大袈裟にいっているものではないことは、『経済政策で人は死ぬか?』を読むとよくわかる。
非人道的のみならず経済政策としても不合理な緊縮策を押し進めた当事者であるキャメロンの父親がタックス・ヘイヴンを利用し、キャメロンはその資産を相続したのではないかという疑惑は以前からくすぶっていた。キャメロンはこれまでその疑惑を否定してきたが、パナマ文書の流出によりこれを認めざるを得ないところまで追い込まれた。脱法的行為によって利益を得ていたうえに虚偽の説明をしてきたという二重にひどい話なのだが、そのしたことと比べて怒りの声はそれほど高まらなかったように思える。もしこれが、貧困者が違法ではないが脱法的行為により社会保障費をかすめとっていたということが明らかになったのだとしたら、どうだったろうか。怒りはすぐさま沸騰し、瞬く間に法改正が図られることになったのかもしれない。
脱法的行為によって利益を得ていたキャメロンが押し進める緊縮策が受け容れられる一方で、パナマ文書の波及力が「弱い」ままに留まっている状況は、まさにスミスが危惧した「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向」が現代の多くの人にとって内面化されていることを表したものだろう。
オーウェルが指摘した、あるいはマルコムXの母が経験した尊厳を傷つける「ミーンズテスト」は日本では過去から現在に至るまで変わることなく行われ続けている。そして日本で近年起こった生活保護バッシングは、スティグマ性を高めることによって申請そのものを抑制する、あるいは「水際作戦」をはじめとする行政側の違法行為を正当化するために仕掛けられたものであることは想像に難くない。
貧しい人はそれだけで「罰」を受けるべきであり、権利を主張するなど盗人猛々しいと感じている人々が、富裕層の脱税に対して生活保護の「不正受給」と同じだけの怒りを抱くのかといえば大いに疑問である。
生活保護バッシングが吹き荒れた一方で、ふるさと納税は富裕層への還付措置に他ならず、そればかりかまさに日本のタックス・ヘイヴンとして機能しているという報道がなされても大きな関心を呼ぶことがなかったのは、日本においても権力者、金持ちに対して「崇敬」の念を抱くこと、あるいはそれらとの心理的一体化が進んでいることをよく表している。
そもそも権力者はそのまま金持ちであることが多いし、直接的に政治権力を保持していなくとも、当然ながら貧しい人よりも金持ちの方が権力に対して影響力を行使できる。貧しい人たちを蔑み、「金持ちや権力者を礼賛」するイデオロギーを作りあげることは、直接的に権力者や金持ちの利益に結びついたもので、人間の「自然」の感情などではなくまさにイデオロギーとして形成されたものとすべきだろう。
しかしそのようなイデオロギーが通用しなくなる時代が迫っていたことがあった。ビスマルクは社会主義者の弾圧と社会保障制度の拡充を平行して行ったが、これは革命を防ぐためであった。この裏面として、かつて共産党は社会民主主義者を「社会ファシスト」と罵倒した。これは社民主義者によって漸進主義的改革が行われれば、革命が遠のくと考えたからであった。
ルーズヴェルト政権のニューディール政策や、第二次大戦後の労働党政権によって進められた「揺りかごから墓場まで」のイギリスの社会保障政策は、政権が保守に移っても基本的には継承されていった。これは福祉国家を堅持することが、当時の保守層にとっても革命を防止するという観点からも利益になると考えられたせいもあろう。
こうして西側資本主義諸国においてさえ、貧困者に対して「懲罰的」な「ヴィクトリア朝の倫理」は過去のものとなったのであった。
しかし革命への幻想が潰え、左翼の退潮もあって、権力者、金持ち崇拝のイデオロギーはサッチャー政権、レーガン政権によって復活を遂げることになる。
幾度か揺り戻りが起こることが期待されることもあったが、保守政権が福祉国家を堅持したかつての姿との裏返しのように、クリントン政権やブレア政権においても貧困者に対する「懲罰的」なイデオロギーの拡大を押しとどめられないどころか、それがむしろ強化されることとなった。
当初は「リベラル」で穏健な、サッチャー的なものとは異なる新しい保守であるかのように装っていたキャメロンが、サッチャー以上に悪辣な社会保障攻撃を繰り広げるようになったのは、臆面もないその姿をさらしても政権を維持できると考えてのことだろう。そして反発を呼びつつも、ほとんど極右と化しながら政権を保っているというのがイギリスの現状である。
何も金持ちの資産を全て奪い焼き尽くせなどというのではない。ただ適正な税金をきちんと納めろという、それだけのことがハードルの高い政治的主張と化してしまっている。
タックス・ヘイヴンを利用している企業や富裕層がまともに税金を払うようになるだけで、世界の少なからぬ問題が解決できるのかもしれない。タックス・ヘイヴンなどによる恩恵を直接的に受けている人々など超のつく少数派であるにも関わらず、民主主義国家であるはずの多くの国で高い関心を呼ぶことがなく、そればかりか貧しい人々の尊厳を傷つける政策がより一層進められていくのは、「富そのものへの無批判な賛美」というイデオロギーのなせる業だろう。
そしてこのようなイデオロギーは、「資本主義が保持し育成しなくてはならない長所を蝕んでしまう」ことにもなる。
企業や富裕層がまともに税金を払い、きちんとした再分配政策を行うことは、長期的には他ならぬ企業や富裕層の多くにとっても利益にも結びつくものでもあろう。労働者も、そして貧困者も消費者であるというごく当たり前の事実を忘れ去り、ひたすら人件費を抑制することによって短期的利益をあげるというのは、タコが自分の足を食べて腹を満たすようなものであり、この結果社会は不安定さを増し底が抜けたような状況へと向かっているかのようだ。
スティグリッツはレント・シーキングの問題に度々言及している。権力者と金持ちのインナー・サークルにおいては利益相反という言葉は存在しない。日本には「政商」という言葉があるが、近年はこのような存在が暗躍どころか、大手を振って公然と活動するようになった。権力への近さが富につながるというのはクローニー・キャピタリズムそのものであり、このような権力者と金持ちとの結合は資本主義をも腐らせることになる。このような歪んだ体制を維持するためには、中間層を含む多くの人に権力者や金持ちとの心理的一体化を高め、貧しい人々への蔑視を広める必要がある。
あのスミスが「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向」に懸念を抱いているように、これは多くの人が共闘できる課題であるはずだ。
ジャットの本のサブタイトルである「これからの「社会民主主義」を語ろう」というのは邦訳によってつけられたものだが、今こそこの旗を高く掲げることが求められている時だろう。ケン・ローチのようなガチの左翼にとってはこういった論法は気が進まないものであるだろうし、僕も本来はそっち側の人間であるのだが、そんな悠長なことをいっていられないほど、この社会は深く傷つき、腐敗が進んでいるように思えるのである。
どこの左翼からの引用だ、と思われた方もいるかもしれないが、これは古典派経済学の父、あのアダム・スミスの『道徳感情論』からの引用なのである。新古典派(やその影響下にある)経済学者などがスミスのこのような倫理的部分を切り捨てているかについて取り上げられることは少なからずあるが、一般に浸透しているとまではいえないかもしれない。
上の引用はトニー・ジャット著『荒廃する世界のなかで これからの「社会民主主義」を語ろう』からの孫引きである。この本はジャットが筋萎縮性側索硬化症(ALS)に冒されながら行った講演に病床で補足したものだ。
ジャットはまたこう書いている。
「スミスにとって、こうした富そのものへの無批判な賛美は、単に願い下げというだけでは済みませんでした。それはまた、近代の商業経済が潜在的にもっている破壊的な特徴の一つでもあって、時間の経過とともに資本主義の長所そのものを蝕んでしまうかもしれない、彼の見方からすれば資本主義が保持し育成しなくてはならない長所を蝕んでしまう恐れがあったのです」(p.33)。
スミスの懸念はここ数十年でグロテスクにも復活してしまったかのようだ。
イングランドでは「新救貧法」が1834年に制定される。ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』で、オリヴァーはワークハウス(救貧院)で育ったために「ワーカス小僧」と罵られる。「これこそ今日わたしたちが「福祉の女王さま」などとけなして言うのとまったく同じ気持ちが、一八三八年に表明されていたのです」(p.35)。
二〇世紀の福祉国家は「すべては本人の意思次第、したがって受給資格の規準は懲罰的、というヴィクトリア時代の倫理」から脱したものの、「さて、今日、わたしたちはヴィクトリア時代初期に我が先祖たちがとっていた態度へと立ちもどってしま」ったのである(p.36)。これらがレーガンやサッチャー政権のみならず、クリントン、ブレア政権下において一層進められたのであった。
「福祉の「改革」は、あの恐ろしい「ミーンズテスト(資力調査)を復活させました。ジョージ・オーウェルの読者なら覚えておいででしょうが、大恐慌期イングランドの低所得者が生活保護を申請できたのは、当局が――高圧的調査によって――申請者の蓄えが使い果たされたことを確認した場合だけでした。一九三〇年代アメリカの失業者に対しても、同じような調査が行われました。マルコムXはその回想記のなかで、彼の家族を「チェック」に来た役人のことを書いています――「毎月の福祉チェックで、彼らお役人は遠慮なしだった。我が物顔に振る舞っていた。母としては、できることなら連中を家に入れたくなかっただろうに、それはできなかった。……政府が肉やらジャガイモやら、果物やら、あらゆる種類の缶詰をくれるというのに、母が明らかにそれを嫌がっているのはなぜか、わたしたちにはわからなかった。後になってわたしたちは理解したのだが、母は自分の、そしてわたしたち家族の誇りを護ろうと、絶望的な努力をしていたのだ。誇りだけがわたしたちに残されたすべてだった。と言うのも、一九三四年に至って、わたしたちは本当に困窮し始めたのである。」(pp.37-38)。
2016年に本書を読むと、このあたりはさらに考え込まされることになる。「パナマ文書」は世界に衝撃を与えたとされることもあるが、むしろそのインパクトの少なさにこそ注目すべきかもしれない。ジャットの死の数ヶ月前に誕生したキャメロン保守党政権はイギリスの社会保障制度の破壊をさらに進めている。ケン・ローチの新作I, Daniel Blakeは、病気で働けない身体になったにも関わらず嫌がらせのような仕打ちにより苦境に立たされる高齢者の物語のようだが、これがイギリスの現状を大袈裟にいっているものではないことは、『経済政策で人は死ぬか?』を読むとよくわかる。
非人道的のみならず経済政策としても不合理な緊縮策を押し進めた当事者であるキャメロンの父親がタックス・ヘイヴンを利用し、キャメロンはその資産を相続したのではないかという疑惑は以前からくすぶっていた。キャメロンはこれまでその疑惑を否定してきたが、パナマ文書の流出によりこれを認めざるを得ないところまで追い込まれた。脱法的行為によって利益を得ていたうえに虚偽の説明をしてきたという二重にひどい話なのだが、そのしたことと比べて怒りの声はそれほど高まらなかったように思える。もしこれが、貧困者が違法ではないが脱法的行為により社会保障費をかすめとっていたということが明らかになったのだとしたら、どうだったろうか。怒りはすぐさま沸騰し、瞬く間に法改正が図られることになったのかもしれない。
脱法的行為によって利益を得ていたキャメロンが押し進める緊縮策が受け容れられる一方で、パナマ文書の波及力が「弱い」ままに留まっている状況は、まさにスミスが危惧した「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向」が現代の多くの人にとって内面化されていることを表したものだろう。
オーウェルが指摘した、あるいはマルコムXの母が経験した尊厳を傷つける「ミーンズテスト」は日本では過去から現在に至るまで変わることなく行われ続けている。そして日本で近年起こった生活保護バッシングは、スティグマ性を高めることによって申請そのものを抑制する、あるいは「水際作戦」をはじめとする行政側の違法行為を正当化するために仕掛けられたものであることは想像に難くない。
貧しい人はそれだけで「罰」を受けるべきであり、権利を主張するなど盗人猛々しいと感じている人々が、富裕層の脱税に対して生活保護の「不正受給」と同じだけの怒りを抱くのかといえば大いに疑問である。
生活保護バッシングが吹き荒れた一方で、ふるさと納税は富裕層への還付措置に他ならず、そればかりかまさに日本のタックス・ヘイヴンとして機能しているという報道がなされても大きな関心を呼ぶことがなかったのは、日本においても権力者、金持ちに対して「崇敬」の念を抱くこと、あるいはそれらとの心理的一体化が進んでいることをよく表している。
そもそも権力者はそのまま金持ちであることが多いし、直接的に政治権力を保持していなくとも、当然ながら貧しい人よりも金持ちの方が権力に対して影響力を行使できる。貧しい人たちを蔑み、「金持ちや権力者を礼賛」するイデオロギーを作りあげることは、直接的に権力者や金持ちの利益に結びついたもので、人間の「自然」の感情などではなくまさにイデオロギーとして形成されたものとすべきだろう。
しかしそのようなイデオロギーが通用しなくなる時代が迫っていたことがあった。ビスマルクは社会主義者の弾圧と社会保障制度の拡充を平行して行ったが、これは革命を防ぐためであった。この裏面として、かつて共産党は社会民主主義者を「社会ファシスト」と罵倒した。これは社民主義者によって漸進主義的改革が行われれば、革命が遠のくと考えたからであった。
ルーズヴェルト政権のニューディール政策や、第二次大戦後の労働党政権によって進められた「揺りかごから墓場まで」のイギリスの社会保障政策は、政権が保守に移っても基本的には継承されていった。これは福祉国家を堅持することが、当時の保守層にとっても革命を防止するという観点からも利益になると考えられたせいもあろう。
こうして西側資本主義諸国においてさえ、貧困者に対して「懲罰的」な「ヴィクトリア朝の倫理」は過去のものとなったのであった。
しかし革命への幻想が潰え、左翼の退潮もあって、権力者、金持ち崇拝のイデオロギーはサッチャー政権、レーガン政権によって復活を遂げることになる。
幾度か揺り戻りが起こることが期待されることもあったが、保守政権が福祉国家を堅持したかつての姿との裏返しのように、クリントン政権やブレア政権においても貧困者に対する「懲罰的」なイデオロギーの拡大を押しとどめられないどころか、それがむしろ強化されることとなった。
当初は「リベラル」で穏健な、サッチャー的なものとは異なる新しい保守であるかのように装っていたキャメロンが、サッチャー以上に悪辣な社会保障攻撃を繰り広げるようになったのは、臆面もないその姿をさらしても政権を維持できると考えてのことだろう。そして反発を呼びつつも、ほとんど極右と化しながら政権を保っているというのがイギリスの現状である。
何も金持ちの資産を全て奪い焼き尽くせなどというのではない。ただ適正な税金をきちんと納めろという、それだけのことがハードルの高い政治的主張と化してしまっている。
タックス・ヘイヴンを利用している企業や富裕層がまともに税金を払うようになるだけで、世界の少なからぬ問題が解決できるのかもしれない。タックス・ヘイヴンなどによる恩恵を直接的に受けている人々など超のつく少数派であるにも関わらず、民主主義国家であるはずの多くの国で高い関心を呼ぶことがなく、そればかりか貧しい人々の尊厳を傷つける政策がより一層進められていくのは、「富そのものへの無批判な賛美」というイデオロギーのなせる業だろう。
そしてこのようなイデオロギーは、「資本主義が保持し育成しなくてはならない長所を蝕んでしまう」ことにもなる。
企業や富裕層がまともに税金を払い、きちんとした再分配政策を行うことは、長期的には他ならぬ企業や富裕層の多くにとっても利益にも結びつくものでもあろう。労働者も、そして貧困者も消費者であるというごく当たり前の事実を忘れ去り、ひたすら人件費を抑制することによって短期的利益をあげるというのは、タコが自分の足を食べて腹を満たすようなものであり、この結果社会は不安定さを増し底が抜けたような状況へと向かっているかのようだ。
スティグリッツはレント・シーキングの問題に度々言及している。権力者と金持ちのインナー・サークルにおいては利益相反という言葉は存在しない。日本には「政商」という言葉があるが、近年はこのような存在が暗躍どころか、大手を振って公然と活動するようになった。権力への近さが富につながるというのはクローニー・キャピタリズムそのものであり、このような権力者と金持ちとの結合は資本主義をも腐らせることになる。このような歪んだ体制を維持するためには、中間層を含む多くの人に権力者や金持ちとの心理的一体化を高め、貧しい人々への蔑視を広める必要がある。
あのスミスが「金持ちや権力者を礼賛し、崇敬さえしかねないこうした傾向、さらには、貧しく卑しい境遇に置かれた人びとを、良くて無視、悪くすると蔑んでしまう傾向」に懸念を抱いているように、これは多くの人が共闘できる課題であるはずだ。
ジャットの本のサブタイトルである「これからの「社会民主主義」を語ろう」というのは邦訳によってつけられたものだが、今こそこの旗を高く掲げることが求められている時だろう。ケン・ローチのようなガチの左翼にとってはこういった論法は気が進まないものであるだろうし、僕も本来はそっち側の人間であるのだが、そんな悠長なことをいっていられないほど、この社会は深く傷つき、腐敗が進んでいるように思えるのである。