本会創立60周年記念座談会
家族計画運動60年の歩みと今後の展望
一般社団法人日本家族計画協会は、4月18日に創立60周年を迎えます。今号では、これを記念した座談会の模様を掲載します。ジャーナリストとして、長年にわたり人口や家族計画について追いかけている元共同通信社論説委員の西内正彦氏を進行役に、本会顧問/元専務理事の原澤勇、柴田昭二の両氏、近泰男会長、北村邦夫専務理事/家族計画研究センター所長が、家族計画運動60年の歩みと今後の展望について討論しました。(編集部)
出席者
(進行役)
元共同通信社論説委員 特定非営利活動法人2050理事西内 正彦
本会会長近 泰男
本会顧問/元専務理事 公益社団法人母子保健推進会議理事長原澤 勇
本会顧問/元専務理事 公益財団法人ジョイセフ監事柴田 昭二
本会専務理事/家族計画研究センター所長北村 邦夫
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本会創立者 國井長次郎(1916-1996)
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(進行役) 西内 正彦氏
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近会長
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原澤元専務理事
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柴田元専務理事
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北村専務理事
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【西内】 昭和29年(1954)4月18日、日本家族計画普及会(現在の本会)が発足しました。この日、加藤シヅエらを中心とした日本家族計画連盟の発会式の会場で、雨の中機関紙「家族計画」(現在の本紙)を配るという、非常に印象的なスタートを切りましたね。
【近】 当時は家族計画の理念が二つに割れていました。一つは人口抑制的な観点。もう一つは戦前からマーガレット・サンガーや加藤らが推進していた母体の保護、女性の自立、女性の解放という産む性を持つ女性を中心とした考え方による、いわゆる母子保健の観点です。
昭和27年(1952)に優生保護法が改正され、受胎調節の指導が始まりました。このときに、国の家族計画普及事業を実施する都道府県は本当に混乱したんです。やるところはやる、やらないところはどうやっていいか分からない。
そのころ、本会創立者の國井長次郎は、戦後取り組んできた寄生虫予防の活動にもある程度先が見えてきて、これから何をしようかと考えていました。そんなとき、出入りしていた厚生省公衆衛生局(当時)の樋上貞夫事務官から、「国は優生保護法改正に伴う受胎調節の指導を何とか各県に定着させたい」という話を聞いたのです。
【西内】 一方でそのころ、人工妊娠中絶が激増していましたね。
【近】 117万件になったのが昭和30年(1955)です。國井は、「これからはとにかく家族計画だ。人工妊娠中絶がこんなに増えている。人間のセックスほど奥深いものはない。これに関わったら、人間そのものに関わっていくことになるから、いろいろ面白い仕事ができる」と言い、家族計画運動に取り組む
人間中心の家族計画を
【近】 そこで、日本家族計画連盟の発会式に、「家族計画」という本会の機関紙第1号を配ることにし、この日を本会の創立日としました。当時、私は寄生虫予防会の職員だったので、毎日寄生虫予防の仕事をやった後に、一生懸命に機関紙を作りました。第1号はほとんど國井が書きましたが、本当に手作りでした。
その翌年、昭和30年(1955)の10月に、国際家族計画連盟(IPPF、本部ロンドン)が第5回国際家族計画会議を東京で開きました。会議には、家族計画運動に熱心な全国の自治体リーダーが参加しました。それをきっかけとして始まり今日まで続く家族計画普及全国大会(現在の「健やか親子21」全国大会)、そしてこの機関紙。これらは自治体が家族計画の理念について混乱している中で、一本筋の通った理念、情報を流すということに大きな役割を果たしていたと思います。
【西内】 その一本筋を通した家族計画の理念とは、どういうものでしょうか。
【近】 それは「人間中心の家族計画」ということです。家族計画というのは、人口の問題ではない、あくまで個人が考えるべき問題だということです。
【西内】 10年前の座談会では、その統一した理念について、近さんはこんなふうにおっしゃっているんです。「家族計画について、人口抑制は大事なことではあるが、それは結果論であって、あくまで家族計画は母親と子どもの幸せ、健康のために行うべきだと。さらに、産む・産まないの自由は、どこまでも個人にある、そういう結論に達した」と。
【近】 今も、その考えは変わっていません。
【西内】 こういう考え方に基づいて、昭和37年(1962)に日本家族計画普及会から日本家族計画協会になり、現在に至るまで、ずっと活動を続けているわけですね。
市町村の事業を後押し
【西内】 国の家族計画普及事業は、最初は都道府県がやっていたのが、途中で市町村の事業になりましたね。
【近】 昭和33年(1958)です。母子保健や家族計画の仕事は、住民に近いところにある市町村に移管すべきだと主張したのも、われわれなんです。
【西内】 家族計画の普及に当たっては、受胎調節実地指導員の資格を持った助産師たちが具体的な話をしたり、器具を売ったりということもしましたね。
【近】 家族計画特別普及事業といって、厚生省が予算を付けました。生活保護所帯は無料、生活困窮者には5割負担で、器具・薬品を行政が配ったんです。
【原澤】 助産師が訪問して配りました。
【近】 そのときに必要な器具・薬品の供給を、本会がやったわけです。最初に大口の注文が来たのが長野県飯田市からで、注文が来たときは本当に小躍りしましたね。
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昭和30年、第5回国際家族計画会議の冒頭で演説するマーガレット・サンガー。このときの通訳は村岡花子(「赤毛のアン」翻訳者)が務めた
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昭和29年、コンドーム工場視察。左3人目から近、國井、加藤、山口の各氏
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【原澤】 岡本ゴム工業で本会の「FPブランド」のコンドームを作りましたね。
【近】 そのきっかけはこうです。昭和29年(1954)、当時参議院議員だった加藤シヅエに、朝日新聞社の記者から連絡が入りました。「コンドームの苦情が入った。一体コンドームというのは、どういうところで、どのように売られているのか」。それで加藤と國井がコンドーム工場に視察に行くことになり、地元の山口シヅエ代議士と共に私も同行しました(写真)。この視察がきっかけで、ファミリー・プランニング、FPというブランドのコンドームができたんです。
【原澤】 自治体からの注文は、本会への信用があってのことです。それを成り立たせたのには機関紙の役割もあるし、家族計画研究委員会の先生方が全国を講師として走り回ったこともあるし、市町村を集めたブロック別会議の役割もありました。
【近】 そのうち、本会では市町村巡回事業を始めましたね。
【原澤】 昭和38年(1963)からです。最初は千葉県で始めました。ただ、その前からわれわれ組織部の職員は、近県の市町村を回っていたんです。県の保健師を車に乗せて、一緒に市町村を回りました。市町村巡回事業も、家族計画は人減らしではない、今で言うリプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)のためのものだという理念を推進するための重要な手段でした。
婚前学級から思春期保健へ
【西内】 昭和35年(1960)、池田内閣が発足して、一時は「家族計画不要論」も出てきました。そういう中で、地域では婚前学級のニーズが高まりましたね。
【近】 家族計画指導は、最初は子どもが2、3人いる家庭から始まったんです。
【原澤】 しかし、それでは遅い。もっと前にやろうということです。昭和38年(1963)、厚生省母子保健課の発想で婚約者学級をやろうということになり、本会でその教材テープを作りました。その後、婚前学級、新婚学級などのセミナーを全国で展開しました。
【近】 そんな中で、私が思春期医学シンポジウムで、後に本会理事長、会長となられた松本清一先生と出会ったのが、昭和42年(1967)です。家族計画の必要性がさらに前倒しになり、思春期という言葉もそのころから言われ始めました。そして思春期保健事業が、本会の次の一つの大きな柱になっていったわけです。
【原澤】 その当時、国の施策上、思春期というのは母子保健の対象に入らないと言われていました。しかしそんな中、十代妊娠の増加が始まったんです。そこで松本先生らが世界の情報を取り入れて、本会で家族計画クリニックをやるための補助金を厚生省に付けさせました。国としては、子どもたちの妊娠、中絶というのは大問題だったわけです。
【近】 健全母性育成事業というのがそれです。本会も思春期保健の啓発と指導者の養成に取り組み始め、思春期保健相談士を養成する思春期保健セミナーを昭和56年(1981)に始めました。
【原澤】 最初は参加者が集まらなかったんですよ。でも国が健全母性育成事業を全国に展開するに当たり、思春期保健セミナーを受けて取り組むよう都道府県に課長内かんを出してから発展した。行政の施策とタイアップしてやってきたんです。
【北村】 思春期保健相談士の認定者数は、現在では延べ8331人になります。
不妊相談と遺伝相談
【北村】 本会の思春期クリニックは、昭和59年(1984)に始まりました。
【近】 クリニックにその後、不妊相談のテーマが入ってきましたね。
【北村】 不妊相談は平成8(1996)年度からなんですよ。平成6年(1994)、リプロダクティブ・ヘルス/ライツの概念が提唱された国際人口開発会議(カイロ会議)の後です。
【近】 私も政府代表顧問としてカイロへ行きましたが、そこで「不良な子孫の出生を防止する」という日本の優生保護法がつるし上げられました。その後、平成8年(1996)に優生保護法は母体保護法に変わり、優生という言葉は一切なくなりました。
【原澤】 優生保護相談所を含めてですね。
【西内】 協会では遺伝相談センターもやっていましたね。
【近】 これは昭和52年(1977)からです。子どもを産むとき何か遺伝の問題があった場合、親たちは非常に悩みます。これに対して家族計画の観点から正しく指導する必要がありました。どちらかと言うと最初は、優生結婚セミナーとか、優生という観点から遺伝を考えようとしていたんです。
それに対して本会の遺伝相談センター所長になられた大倉興司先生たちは、遺伝というものは、あくまで学問的な面では正しく教える必要はあるが、産む・産まないの結論は産む当事者がやるべきであるという考えでした。
当時、厚生省でも遺伝を何とか行政に載せられないかというので、日本人類遺伝学会の中の研究委員会に研究費を出して、昭和49年(1974)から3年間、遺伝相談医師カウンセラーの養成と組織のネットワークづくりの研究を始めたんです。
そして昭和52(1977)年度から家族計画特別相談事業という名称で予算化し、本会が引き受けることになりました。
【柴田】 平成22(2010)年度からは、国が遺伝相談センターの予算を切って、市町村の事業もなくなってしまったんです。
しかし今の時代、生殖医療や分子遺伝学がどんどん発達して、遺伝の問題はとても大事なものになっていると思います。当事者が一番困っているんです。その受け皿となるシステムを作っていかないと。
【北村】 今、出生前遺伝学的検査の結果として、胎児条項を無視しての中絶が現実に起こっています。生殖医療はどんどん進んでいく中で、法整備が立ち遅れています。
【近】 現場にいる保健師、助産師、それから親御さんたちに対して、これからも、本会としての役割を果たしていかなくてはなりません。
調査とアドボカシー活動
【西内】 協会では大きな調査を行っていますね。
【北村】 僕が昭和63年(1988)に本会に入って以来、ずっと厚生労働科学研究費補助金を受けています。
平成14年(2002)に、本会で初めて「男女の生活と意識に関する調査」をやりました。毎日新聞社の人口問題調査会が1950年から25回行っていたんですが、やめると言い出したので、早速厚労省に直談判に行って、何としても継続したいと申し出ました。2002年から2010年、5回までは国の研究費が付きました。
6回目からは研究費が付かなくなりましたが、本会としては、この調査を続けていこうと決めたんです。こうした調査を通しての情報発信は、本会の社会的評価を高めるのに役立っています。また調査を通じ、メディアとの関わりも非常に強固となりました。
【原澤】 調査や研究に大いに投資していかなければ、本会のこれからはありません。大いにやらなければ。
【北村】 婚姻関係にありながら、1か月以上セックスがないというセックスレスの人たちが増加し続けているというデータは、国内外に大きなショックを与えました。
【西内】 そういう状況が出てくる背景には、ワーク・ライフ・バランスがうまく働いていないという指摘もされているわけですよね。
【北村】 日本の少子化は、セックスレスが重要な原因となっています。男女間のコミュニケーションスキルをいかに高めていくか、あるいはワーク・ライフ・バランスをどう考えていくかといったことを、もっと推し進めなくてはなりません。
「妊活」や「婚活」を森まさこ少子化担当大臣が本年度事業で起こそうとしています。この調査はこうした問題に目を開かせる役割にはなったかと思っているんです。
それと婚姻関係にある人たちのセックスレスの問題を社会に対して発信している以上、年齢の高い人たちのセクシュアル・ライフについて、例えば本会が性交痛に対して昭和57年(1982)にリューブゼリーを開発したように、この調査結果を事業につなげていく必要があると思います。
【西内】 最近は、安全な人工妊娠中絶のための経口中絶薬承認に向けた活動もされていますね。
【北村】 アドボカシーの活動については、平成11年(1999)6月承認、9月発売となった低用量経口避妊薬(ピル)の承認に向けての活動から、どっぷりと足を入れることになりました。
そのほか緊急避妊薬の承認や、IPPFとの関わりから、リプロダクティブ・ヘルスに対する新しい考え方の普及などにも取り組んできました。
最近では、HPVワクチンや経口中絶薬の問題についても、われわれがやらなくて誰がやるんだ、という思いで動いています。
家族計画運動の基礎4原則
【西内】 協会は平成24(2012)年度に一般社団法人へ移行しましたが、今後も事業と運動を続けるためには経済的な地盤が必要です。國井さんも経済的自立の必要性を主張していましたね。
【北村】 運動と事業は車の両輪であって、事業によって経済的基盤を作り、その経済的基盤を基にして、家族計画という分野で日本をリードする運動をいかに進めていくかということが、大きな課題だと思います。
【近】 運動を続けるためには自分たちの足で立つ、という國井の考え方は、今までもこれからも変わりありません。
運動については、昭和37年(1962)に國井が「夜明け前の若い機関車―日本家族計画協会15年の歩み」の中で書いた「家族計画運動の基礎4原則」というのがあります。①家族計画は民主主義の上でしか発展しない②家族計画は平和主義を基盤とする③家族計画は生活近代化の基盤・基礎である(家族計画は静かな生活革命である)④家族計画は人間尊重の上に成立する―この考え方は、これからも変わりません。
【柴田】 海外の家族計画協会は、クリニック活動が中心です。そこでも経済的基盤というものが大事になっています。
クリニックについては、できれば各県に拠点となるクリニックがあって、それらをネットワーク化しながら、情報を発信したり吸い上げたりして、そこからまた新しい活動を展開していくことができれば理想ですね。
性の健康教育への挑戦
【柴田】 今後の活動としては、学校教育への取り組みというテーマもあります。先ほどの遺伝の問題についても、自分の問題として捉えられるように、基本的な情報提供を学校教育の中でもしてもらえたら理想です。
【北村】 学校教育の中でという点では、卵子の老化、精子の老化を教えることが必要です。今まで僕たちが取り組んでいた性教育は、初経準備教育、性感染症予防教育、あるいは望まない妊娠防止教育です。閉経教育なんてほとんどしてこなかった。これが結果として、非常に妊孕性の低くなる35歳を超え、気付いたらもう子どもができないという事態を招いています。
【近】 そういう教育・啓発活動は、もっとやっていかなければならないですね。
【西内】 性教育という言葉から来る、特に高齢の人が持っているイメージを壊すようなものを。
【北村】 僕たちは最近、性教育を「性の健康教育」と言っています。もし僕たち医療者が、学校で性教育という言葉を使うならば、そこにいつも冠を付けようと言っているんですよ。「望まない妊娠を回避するための」性教育、「HIV/エイズを予防するための」性教育と。漠然と「性教育」と言うと、「何で子どもに避妊教育をする必要があるんだ」とか、誤解を受けかねません。そこは十分注意しながらやっていかないといけません。
リプロ・ヘルス/ライツのために
【西内】 リプロダクティブ・ヘルス/ライツという言葉が、カイロ会議から20年たっても日本の中ではなかなか浸透しません。リプロダクティブ・ヘルス/ライツは基本的人権であり、近さんがおっしゃった「家族計画運動の基礎4原則」と重なっているところがあると思います。協会の活動に対して、これからも注目していきたいと思っています。
(了)
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