2016年06月06日

サウスポー/俺らが人を殴る理由

southpaw_01.jpg
オフィシャルサイト

36戦全勝28KOという強打の世界ライトヘヴィー級チャンピオンにして、その粗暴な気質ゆえたびたび暴力沙汰を起こし、ついには拳銃の不法所持で実刑を課せられ投獄を目の前にする男、といえば『クリード』においてアポロの息子の敵役となるリッキー・コンランその人に違いないのだけれど、彼にしたところで必ずしも恵まれた生い立ちとはいえない中、おのれの拳ひとつで世界に居場所を作った男なわけである。現役の世界チャンプに課せられた7年間の懲役は実質的に選手生命を閉ざしたに等しく、そんな彼がまだ幼い息子にしてやれるのは世界チャンピオンとしての勇姿をその記憶に焼き付けること以外に何があろうかという悲痛な決意のもと彼はラストファイトのリングに上がり、死闘の末にチャンピオンベルトと息子をリングで抱きしめるのだった。というのが『クリード』に隠されたサイドストーリーなわけで、実際ワタシにとってはそうしたリッキーの動機の方が心に刺さる瞬間もあったことなど思うと、まさにそのリッキー・コンランを主人公に据えたと言ってもいいこのボクシング映画を嫌いになれるはずなどなかったのである。何よりこれが怒りと痛みについてのポエジーであったのは、アントワーン・フークアがボクシングを深々と愛していることのあらわれに思えたし、痛みをもたらす相手を理解した上でそれを怒りへとすり替えるボクシングの合理性は恩讐と無縁な男の意識を10秒間奪うための理由として絶えず磨きをかけられ、しかしそれがひとたび人目に触れた瞬間、そこにあるのは殴り合いという蛮性にほかならないという劇症ゆえボクシングに魅了され続けているわけで、その合理性と蛮性の間に描かれた溝が深くて昏いほどボクシング映画は魅力的で成功するように思うのである。『レイジング・ブル』がいまだ圧倒的なのはその溝への墜落だけを描くことでボクシングという在り方の独自と特異を浮かび上がらせていたからで、その段差を人生の一発逆転や返り討ちに利用するだけのボクシング・ドラマとは永遠に一線を画し続けるはずである。この映画の面白さはその段差の行き来をビリー・ホープ(ジェイク・ギレンホール)のボクシングスタイルによって表しているところで、ただひたすら痛みをガソリンに怒りを燃やしていた男が、立ち止まってあたりを見回したことでどんな武器を手に入れたのか、観終えてみればいささか直截的に思えたタイトルは彼が成し遂げた再生の象徴でもあったわけである。そうした構成上ビリーという個人の造形に起伏が足りなくなってしまいそうなところを、妻モーリーン(レイチェル・マクアダムス)が彼の共犯者にしてミューズとなることで鮮烈に彩っていて、あらかじめ退場が約束される役柄にレイチェル・マクアダムスという手だれをキャストした意図は十全であったし、彼女と入れ替わるように登場するティック・ウィルズ(フォレスト・ウィテカー)のドライな必然性にもなるほどとうなずけたのである。ワタシたちが観るボクシングは基本的にTV中継の画面を通してであることを考えれば、ボクシング中継に関しては世界最高のスキルを持つであろうHBOのカメラ・クルーを引き入れたのはまさにフークアの慧眼で、例えば『クリード』にあった長回しのような映画的愉悦よりは、この高密度でパッケージされた臨場感による圧倒的なケレンこそをワタシは推すし、だからこそ土壇場でギャラクティカマグナムのごとくぶっ放されるアレがすべての落とし前をつけることで浄化すらを果たしたように映ったのである。ボクシングによって人生を試すのではない、ボクシングが我々を試しているのだというフークアはまったくもって正しいし、それはすなわち、ジョイス・キャロル・オーツの“人生は、多くの不安定な点で、ボクシングに似ている。だが、ボクシングは、ボクシングにしか似ていない”という言葉の新たな裏書きであったように思うのだ。黒いショーツ一丁にガウンを引っ掛けたまま旦那と娘をちゃきちゃき仕切るレイチェル・マクアダムスがいなせでチャーミングで、彼女を殺さずに済む方法はなかったのかと少しだけフークアを恨めしく思った。
posted by orr_dg at 23:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | Movie/Memo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/438659533
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック