ネット上で、千田夏光が「従軍慰安婦正編」に掲載した、原善四郎関東軍参謀へのインタビューについて、千田が実際にインタビューなどせず、捏造したものだと言う「珍説」が飛び交っている。ウィキペディアの日本語版では、実際は千田は原参謀に面会してはいない、別の書物の記述をもとにあたかも自分が面会したかのような嘘を書いたと認めたと、つい最近まで書かれていた。事実無根だ出典を示すべきと言う抗議を受けて、度々消されるのだが、シツコクいつの間にか記述が復活すると言う、滑稽とばかりも言っていられないような状況にある。この文章を書いている時点(2015.11.22)では、復活していないが、放っておいたら、いずれまたデタラメで埋まるだろう(追記:間違いでした。2015.11.22時点でもきっちり記述が残ってます)。
アマゾンの書評も酷い。私はレビューをアマゾンさんで書かせてもらってるのだが、昔は慰安婦問題関係でヘタなことを書くと、有象無象の方々から2chよりヒドイよってたかっての総攻撃を受けたもので、千田の本のレビューなど目も当てられないデマデタラメのオンパレードである。産経新聞などは、既に看板シリーズ記事の「歴史戦」で、千田を吉田清治と同列の人間というレッテルを貼ってしまっている。だが、これだけ無内容な記事を、堂々と掲載する産経ですら、ウィキペディアにも書かれている、この有名なインタビュー捏造「疑惑」については触れていない。さすがに、全国紙では記事にはできないと判断したのだろう。産経もまだ、文春やWILLよりは少しだけマシと言うところか。
ならばこのデマの大元は誰なのだろうか。最初に千田が本当にインタビューしたのかと言う疑問を呈したのは加藤正夫氏である。加藤氏はあの西岡力氏が当時編集長をしていた現代コリアに「千田夏光『従軍慰安婦』の重大な誤り(1992年2・3月号)」を発表、以下のような論点で、関特演時の朝鮮人「慰安婦」の大量徴発はなかったと言う主張を展開した。
(1) 関特演時の関東軍の兵站担当参謀は多忙であり、とても慰安婦集めなどに関っているヒマはない。
(2) 当時の満州では朝鮮人経営の遊郭が、多数営業していたため、改めて「慰安婦」を「調達」する必要はない。
(3) 関特演の際の大量の兵士や軍馬の動員は極秘に準備されたもので、慰安婦集めのような目立つことをするわけがない。
(4) 慰安所建設の予算など記憶がないと、当時の陸軍省の予算担当者(加登川幸太郎氏)と原氏の上司である兵站主任参謀(今岡豊氏)が証言している
(5) 関特演は二カ月の作戦予定であったので、慰安婦は必要としなかった。
(6) 千田は日債銀(旧朝鮮銀行、現あおぞら銀行)に、総督府の「慰安婦」徴発資料があると主張しているが資料などない。
加藤氏は、以上のように主張し、千田が本当に原氏にインタビューしたのか、島田俊彦「関東軍」をタネ本にして架空のインタビューを本に掲載したのではないかと疑問を呈した。上記の6つの論点については別項を設けて検討するが、「ではないか」と言う回りくどい言い回しが連発、まあスカスカの論文である。加藤氏は、結論として千田の主張にはタネ本があったと非難しているのだが、千田は原氏のインタビューのきっかけが島田俊彦氏の「関東軍」であることを、「従軍慰安婦正編」中で公言しているので、単なる言いがかりである。結局のところ、インタビューがなかったとする根拠はだた一つ。インタビュー中で、千田が原善四郎氏の経歴を、「参謀一課」ではなく、「参謀三課」と書いていたことである。
—————————————————
千田氏の著書のもう一つの重大なポイントは原参謀が「たまたま関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました。でも当時のことはよく憶えていないのです」(一〇三ページ)といったように書いている点である。
前述したように原参謀は関東軍司令部第一課参謀であるから、千田氏が実際に原参謀と会見して取材したとすれば「第三課(兵站担当)でした」という書き方にはならないという ことである。
ということは千田氏が原参謀から直接取材して書いたかどうかの点で疑問ありといわねばならない。原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだが。原参謀の直属上官今岡兵站主任も「私も第一課参謀であり、第三課は”教育全般”を行うところで、課長は青木一枝大佐であった」と筆者に証言してくれたので、千田氏が原参謀が語ったという「関東軍第三課参謀で兵站担当であった」という発言はありえないことといわねばならない。(P60~61)
出典:千田夏光著「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993/2・3号)
———————————————-
参考までに言うと、インタビュー中、千田が参謀一課を参謀三課と記述しているのは一ケ所だけである。では、原氏は関特演時に、兵站担当の参謀ではなかったのだろうか。それならば確かに話が通らないということになるが、加藤氏は上記の記述の前に以下のように書いている
———————————————-
その今岡氏も筆者に「当時の関東軍の組織は第一課が”作戦”、第二課が”情報”、第三課は”教育全般”であった。第一課長は田村義富大佐で、第一課の中に兵站、交通、通信が含まれており、私も第一課の兵站主任であった。私の部下の兵站担当参謀は原善四郎少佐など五名の参謀がいたが、兵站の仕事は作戦準備が主で、作戦軍がいかにすれば十分な作戦ができるかということが最大日標で、莫大な軍需物資を集めて、必要な方面に確実に届けることのために毎日多忙をきわめていた。しかも時間的、地域的にきわめて制約された仕事をしており、作戦第一を考えるのが精一杯であった。原参謀は朝鮮軍との連絡の仕事もあって、朝鮮軍とは平時から密接に連絡し、特に兵站面での連絡は行っていたかもしれないが、朝鮮継督府に慰安婦の件を依頼に行くなどはなかったのではないか。慰安婦二万人動員計画、などは私は聞いていない。一万人の慰安所設備は莫大な予算が必要だが、そのようなものは私は 知らない。今聞いてビックリしている」と述べていた。
今岡兵站主任の話から考えても、千田氏の書いていた「慰安婦二万人動員計画」があったとか、後方担当、兵站関係の仕事が、あたかも関特演、で増員された兵隊のための慰安婦集めにあったかのような書かれ方をしている点には大きな疑問がある。(P56)
———————————————-
文中の今岡氏とは、当時、関東軍参謀一課の兵站主任の今岡豊氏である。その部下の一人に原氏が実際にいたとしたら、何の問題もない。一年前のノモンハン事件の時、参謀三課はまだ兵站(後方)担当だったから、千田の記憶が混乱していただけということだろう。当時は電池で動くテープレコーダーはないし、おそらく手帳片手のインタビューである。間違いなく、原善四郎氏は、関特演時、兵站担当の参謀であった。おまけに、ここでは原氏と朝鮮軍との強い関わりを示す話も出てきている。飛行機で当時の京城に飛ぶことなど、特別なことではなかったと言うことだ。この年は太平洋戦争が開戦した年だが、翌年(1942年)、朝鮮軍は南方軍から依頼を受けて、ビルマに703人の朝鮮人女性を「慰安婦」として送り出している。
引用した文章は、関東軍の兵站担当の参謀は、忙しくて慰安婦集めどころではなかったと言うことを主張するための文章だが、今岡氏の知らない指示が、朝鮮との関わりの深い原氏に出ていたとすればはどうだろうか。「部下」といっても、今岡氏がこまごまとした指示を出す立場にないことは、発言でうかがい知れる。だいたい、今岡氏が千田の本を読んだことがないはずがないのである。「加藤氏に今聞いて」ビックリしているなど、ヘタな小芝居としか言いようがない。
当時の関東軍の司令官は梅津美治郎である。1938年3月の有名な「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(通称副官通牒)が出た時の陸軍次官である。通牒に梅津の印がはっきりと押されているから、梅津が陸軍の慰安所制度創設の時から、その全てを知りうる立場にいたことは疑いない。指示が原氏に出されたとしたら、梅津からだろう。今岡氏を通すかどうかの問題だけである。しかも、当時の朝鮮総督は、自由主義研究会理事の杉本幹夫の証言にあるように、元関東軍司令官の南次郎。朝鮮における徴兵の推進者である。「状況証拠」から言えば、むしろマックロなのだ。
千田は「従軍慰安婦 正編」を出すにあたって、多くの人にインタビューしている。例えば、旧満州の孫呉の軍医の話など、その後の慰安所研究や、同時期に孫呉にいた金井英一郎の証言とも合致する。そもそも、千田のインタビューが架空のものだとしたら、原氏に抗議されているはずである。千田に余計なことを書かれて、多大の迷惑を被ったと主張する、麻生軍医の娘である天児都氏の例もある。当然、天児は千田が麻生軍医と会わずに書いたなどと言うことは言っていない。麻生軍医とは会い、原氏とは会わずに捏造インタビューを書かねばならない理由は、私には考え付かない。
言及されている慰安所の設置に伴う経費については、秦郁彦氏は、虎頭(第四国境守備隊)の本原政雄憲兵の話として、関東軍司令部から「軍特殊慰安所開設ニ関スル件通達」と題した関東軍司令部の公文書が来て、駐屯地司令部は建設資材等の便宜供与を指示されたという証言を紹介している。つまり慰安所の建築費用は現地部隊の負担。別にこれは旧満州に限らない一般的な話である。
ともあれ、上記の加藤氏の記事は、掲載された「現代コリア」自体が、北朝鮮への「帰国事業」に邁進し、その後、日本の嫌韓言論人の先駆けとなった佐藤和己氏が創設した、いわくつきのところだったこともあり、特に何の反響も呼ばなかった。加藤氏の論文と前後し、上杉千年氏の千田批判(被害者女性に総督府の官斡旋の証言がない)が出たが、これも全貌社という、当時は珍しかった完全な「反共」まるだしの出版社から出たため、ほとんど話題にならなかった。
河野談話潰しを公言する、西岡氏の「盟友」である秦郁彦氏も、「慰安婦と戦場の性(1999)」の中で、千田に対する異論の紹介として、下記に引用した文章中、(4)の注記と言う形で、上杉氏の論文、草地貞吾、今岡豊両氏の談話と一緒くたにして加藤の論文に触れているが、内容についての言及すらなく、黙殺と言う態度に近い。しかも、秦氏本人は注釈もなしに、「元関東軍第一課兵站班(班長今岡豊中佐)の原少佐」と千田の原文を修正して書いてしまっている。秦氏ですら単なる誤記であると考えていると言うことだ。
秦氏は「慰安婦と戦場の性(1999)の中では、官斡旋による慰安婦連行と言うそれまでの持論を修正し、身売りか娼妓の慰安婦の鞍替えによるものとしているものの、この時、慰安婦の大量「調達」があったことについては、完全に認めているし、本が出版された同じ年に行われた、千田と秦氏の対談でも、インタビューがなかったと言う話など、まるで出てこない。この頃までは、千田捏造説など、世に広まるような状況では全くなかった。
———————————————
この関特演がらみで、多数の朝鮮人慰安婦も動員されたというエピソードが伝わっているが、その真偽をめぐって論争があるので、概略を観察しておきたい。初出の情報源は次の二つである。
「原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業させた、という一幕もあった」(島田俊彦『関東軍』、中公新書、一九六五年、一
七六ページ)
「関特演のとき兵站担当をやっていました。はっきり憶えていないが、朝鮮総督府総務局に行き依頼したように思います。それ以後のことは知りません。・・・だが各道に依頼し、各道は各郡へ、各郡は各面にと流していったのではないですか・・・一部に二万人と言われたが、実際に集まったのは八千人ぐらい」(原の千田夏光への談話、千田『従軍慰安婦』正篇、三一新書、一九七八年)
島田、千田の両方とも、出所は元関東軍第一課兵站班 (班長今岡豊中佐)の原少佐である点は共通している。そして総督府が行政機構を通じて最末端の面(内地の村に相当)まで割り当てたらしいことから、慰安婦の「官幹旋」ではないか、との推測を生んだ。
しかし、名のりでた百数十人の元慰安婦たちから、この件に該当する申告が出ていないことから、疑問が出た。
また人数についても、兵士の新規増員は三十五万人だから、計画の慰安婦二万人は多すぎる、既に満州で稼業していた女性をふくめた数字ではないか、とも臆測された。それにしても新規増員の女性は何人ぐらいだったのか。
この点について、原参謀の助手役で「命令伝達・通達・配置指示及業者との接触等事務処理」を担当した村上貞夫曹長(のち中尉)は「記憶では三〇〇〇人ぐらいだったと思う。配置表は兵站班事務室の小生のロッカーに秘扱いで保管していたが終戦と共に処分したことと思う」と手記(一九七五年執筆)で回想している。(P97)
出典:慰安婦と戦場の性/秦郁彦 新潮社(1999)
———————————————
「村上元曹長の手記」と言うのが、またクセモノで、秦氏はこの手記が1975年に書かれたと記しているだけで、詳細を明示していない。おそらくは千田宛に書かれた村上元曹長の手紙であるが、これについては長くなるので別の機会に回す。
次にこの千田捏造説が復活するのが2002年、中川八洋氏が『歴史を偽造する韓国』の中で千田の批判を展開する。最後の一部のみここで引用し、内容は別に載せた。加藤氏の論文と似たりよったりなので、読んで頂かなくても構わないと思う。関特演時に連行された女性達が、戦地に到着したのが、10月頃だと判明しているので、それだけで半分近くが意味をなさなくなる文章である。全文、掲載しているサイトがあり、コピペすればいいだけなので貼り付けたと言うだけ。一応、こまごまと反論は、今後機会を見て書くつもりであるが、中川氏をよく知らないと言う方は、まだご活躍のようなので、検索して頂ければゲンナリするサイトにすぐ辿りつける。ご参考まで。
———————————————
千田夏光が明らかにしなければならない事項が、このほか三つある。第一は、本当に原善四郎にインタビューしたのか。インタビューの録音テープは存在するのか。第二は、「父(面長)」を語った韓国人(正編の111頁)は本当に実在するのか。第三は、これだけの虚偽創作は、個人で発案したのか、それとも背後の組織の命令によるのか。
出典:中川八洋『歴史を偽造する韓国』 徳間書店(2002)
———————————————
「それとも背後の組織の命令によるのか」と言うところなど、妄想がスパークしていると言う感じだが、ここでもまだ、「千田にインタビューしたのか」と、疑問形で、中川氏はインタビューが千田の捏造であるとは、断定はしていない。加藤、中川でないとすれば、デマの出所として考えられるのは、水間政憲氏とか、福島瑞穂氏の電話捏造事件の前科のある桜井よしこ氏、西岡力氏くらいだろうか。以下は、手元にあった2007年に出た西岡力氏の文庫本の文章である。西岡氏は、千田の原氏へのインタビューを長々と引用した後、このように記述する。
———————————————
このやりとりを読むと、関東軍が朝鮮総督府を使い慰安婦を調達したことは間違いないように錯覚してしまう。しかし、調べていくと、この記述は疑問が多い。千田は原参謀に会わずに、このやりとりを書いたのではないかという疑いがある。歴史教科書研究家の上杉千年氏の論文「『従軍慰安婦を切るーまぼろしの関特演従軍慰安婦二万人徴募要請(月曜評論平成四年九月二十八日号・その要旨が同氏検証従軍慰安婦」・一九九三年に収録されている)や現代史研究家である加藤正夫氏の調査によって、この原参謀証言も、以下のごとく信じるに足らないものであることが判明した。
加藤氏は「文藝春秋」に載った西岡論文を読み、九二年春頃、当時、私が編集長をしていた「現代コリア」編集部にやってきた。戦前生まれの加藤氏は堰を切ったように、慰安婦の軍による強制連行などなかったと語りはじめた。それから何回かお会いしてお話しする中で、原参謀の証言の疑問点を調査することに力を注ぐようになった。
なお秦郁彦は前掲著書「慰安婦と戦場の性」の中で、原参謀の助手役であったという村上貞夫曹長の1975年手記や元憲兵らの証言をもとに、関特演を機に満州でも軍専用の慰安所が開設されたが、朝鮮から楼主に連れられて朝鮮人慰安婦がやってきたのであって、権力による強制連行ではないと見ている。(P83~84)
出典:よくわかる慰安婦問題 /西岡力 (2007)
———————————————
加藤氏の論文が、どういう経緯で出来上がったか、よく分かるというものだ。加藤氏は現代史研究家というが、ネットで検索しても、どういう経歴を持つ人なのか、皆目分からなかったが、なんのことはない、単なる西岡氏の知り合いである。当時、千田が「参謀三課」と書いたことは、原氏の周囲には広く知られていたはずである。加藤氏がわざわざ防衛庁まで原氏の経歴を調べにいって見つけたと言うより、ウワサの確認の役回りを引き受けたということだろう。中川八洋氏の主張と加藤氏の主張の内容も似たり寄ったりなので、実質は中川氏とも親しい西岡氏との合作ということか。だが、西岡氏もここでは「疑いがある」「信じるに足らないものであることが判明した」といった程度の書き方である。
ウィキペディアに書かれたような千田インタビュー捏造確定説は誰が言い始めたのだろうか。ということでネット検索してみたらすぐに引っ掛かった。
これは決定的な証拠だろう。デマの出所は西岡力氏だ(例によって)。「よくわかる慰安婦問題」は下記で引用した本の後に出たものだが、「疑いがある」というようにトーンダウンしているのは、さすがにやばいと思ったのだろう。いや、盟友の秦郁彦氏の本を改めて読んで、断定はマズイと思ったのかもしれない。けど、もう広まっちゃてるからね。どっちみちヤバヤバと思いますよ。
———————————————
「従軍慰安婦は日本軍に連行された」と言われたら 西岡力
Q:強制連行をしたという人の証言がありますが?
A:連行した側の証言には、済州島で日本軍と一緒に女性狩りを行ったとする吉 田清治証言と千田夏光氏が著書『従軍慰安婦』の中で書いた関東軍参謀・故・
原善四郎証言がある。吉田証言は秦郁彦教授の平成四年の現地調査によって信憑性がないことが暴露されたが、その前に平成元年8月14日付の済州新聞は次のようにでたらめだと断言していた。「(吉田の)本に記述されている、城山浦の 貝ボタン工場で15?16人を強制徴収したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏付け証言する人はほとんどいない。島民たちはでたらめだと一蹴しており、この記録に対する一層の疑問を投げかけている。城山里の住人のチョン・オクタンさん(85歳)は「そんなことはなかった。250余世帯 しかない村で15人も徴用していったならば大事件だが(略)当時そんなことはなかった」と断言した」。なお、朝日新聞は昭和57年9月2日、平成4年1月 23日、同5月24日に吉田証言を詐しく伝えながら、いまだに訂正記事を出していない。テレビ朝日「朝まで生テレビ」平成5年9月の番組で吉田証言を詳しく伝え、いまだに訂正をしていない。
原参謀証言についても、千田氏は本の中では生前の原参謀に面会して「慰安婦を8000人連行した」ときいたと書いているが、現代史研究家加藤正夫氏が千田氏に原参謀の経歴などの誤りを問いただすと、実際は原参謀に面会してはいない、別の書物の記述をもとにあたかも自分が面会したかのような嘘を書いたと認め た。千田氏が参考にしたという書物にも、原参謀自身の証言は出ておらず、何の根拠もなく原参謀が慰安婦を連行したと書いているだけで史料価値はゼロだ。
出典(といってもコピペだが):「従軍慰安婦は日本軍に連行された」と言われたら 西岡力『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』(文春新書)(2006)
うーん、すごいなこりゃ。島田俊彦氏までインチキ学者扱いである。参考までに、島田俊彦氏はこういう学者です。まあ、私はヘタレだから、誰かさんのように訴えられたらイヤなので、「捏造」とはクチが裂けても言いませんがね(‘ω’)ノ。
千田夏光が原善四郎氏とのインタビューを捏造したと言うデマの出所を検証してみる
なぜ加藤正夫=西岡力氏は、原善四郎氏が関東軍第三課に在籍していた事実を隠した論文を書いたのか
中川八洋氏による「関特演時の慰安婦動員」は大ウソと言う主張に反駁する
伊藤桂一「気高き慰安婦たち」にみる関特演時の慰安婦「調達」
秦郁彦氏による関特演時の「慰安婦」動員の証明
平成史の謎「村上元曹長の手記」
旧朝鮮銀行(現あおぞら銀行)の金庫に眠る徴発資料