僕の友達は、もう20歳にもなる老猫を飼っていたんだ。その猫は、毛もバサバサで体もボロボロ。歩くのもヨタ付くくらいで、目も良く見えていない様子だった。
しかし、それでも夜になると、飼い主である友人の枕元に訪れ、「お布団に入れてください」とせがむような猫であった。
その猫がある日目を覚ましたかと思うと、か細い声で精一杯に友人を呼んだ。
どうしたのかと慌てた友人に、猫は力一杯のジャンプでひざの上に乗り、抱っこをせがんだ。
そのとき友人は悟った。これが猫との最後の別れとなるだろうことを。
友人は、猫を優しく抱きしめると、腕の中で丸くなる猫の動画をスマートフォンのカメラで撮影した。
力いっぱいに尻尾を振る猫。しかし、その力もだんだんと弱まっていき――
しばらくすると、ついに猫は動かなくなった。急速に失われていく猫のぬくもり。
――友人の猫は、友人より一足先に遠い国へと旅立っていった。
友人は一日中泣いた。次の日も泣いた。食事ものどを通らなくなった。
そして数日が経ち、猫もペット葬にて弔いが完了し、骨壷だけになったかつての家族を見て友人は思った。
「自分の手元には、猫が生きたという証たる映像がある。これを忘れない限り、猫は誰かの中でずっと生き続ける」と。
友人はyoutubeに動画を投稿した。悲しみを癒すためではない。悲しみを共有する為でもない。
「猫が生きていた」ことを世界中の誰かに記憶してもらうためだった。
動画の再生回数は100万回に達した。世界で百万人もの人が、友人の猫の動画を見たのである。
即ち。友人の猫はそれぞれの人の中で、百万回生きた。
「百万回いきたねこ」というのは、このような現代のエピソードを基に作られた絵本である。
猫を飼ったことのある人には角度とかもあいまって結構涙腺に来るといわれている。
「不死」ということは、必ずしも死なないことを意味しない。本論のような「記憶から消えない」ことも、また不死の一種と捕らえることは出来ないだろうか?
活劇作品でよくある、「不死を殺す」と言う描写。 どんな存在であれ死ぬ以上、相手は不死でないのだけれど、「不死ではない」という正攻法に行かず、「不死を殺す」というレトリッ...
基本不死だけど弱点はこれな、みたいなの後出しでやらないならいいと思う
殺し続ければ死ぬ不死ってのは、普通の状態では生の力が死を上回っているだけで、不死ではないし 物事の位相を変えれば不死でなくなるってのも、その瞬間に不死ではなくなっていて ...
増田は「百万回いきたねこ」を知らないのかな? 僕の友達は、もう20歳にもなる老猫を飼っていたんだ。その猫は、毛もバサバサで体もボロボロ。歩くのもヨタ付くくらいで、目も良...
それってただの揚げ足取りやん 不死とは世間一般的な事故や加齢にともなうダメージでは死なない状態を指してるだけで この弱点だけは死ぬという例外規定が先に提示されてるなら不死...
そうは言うけどペルシャ人だって生身の人間のくせに不死隊名乗ってましたし
あれは「生の力が死を上回っているだけ」のパターンだろ。
カーズ「せやな」
他にも、冷凍やら封印やら、不死封じはいろいろとあるな。