~各家の特色を反映 男性の装い~
『真田丸』の風俗考証を担当していただいている立正大学文学部史学科教授・佐多芳彦先生にお話を伺うシリーズ、第2回。今回は、男性の衣裳の特徴についてお聞きしました。
Q.豊臣は色も柄も華やかですが、理由があるのですか?
豊臣の面々は皆、当時の高級品である絹製品を着ているので、見た目にも派手です。絹は、麻などに比べ発色が良いため、明るく華やかな色が出せるのです。
片桐且元は地味ですが、石田三成や大谷吉継などと同様に、それぞれ個性に合わせた最新最高の格好をしています。こういった豪華な服を当たり前に身につけることで、富や権威が集中していることを示しています。
ただ、加藤清正だけは例外で、絹ではなく麻製の肩衣(かたぎぬ)です。幼少時代から秀吉に仕え、苦労した時代の秀吉を知っているという経歴を踏まえ、こういった衣裳になったようです。他の人たちと対照的なクラシックな服装に加え、茶せん髷(まげ)にヒゲという髪型が野趣をさらに感じさせます。
Q.徳川は、堅実でニュートラルな印象を受けますが?
地方の国衆たちのクラシックな姿と、中央の最先端の出立(いでたち)との中間にあるのが、徳川の装いです。トップである家康は権威付けのために上等なものになっていますが、その家臣である本多正信は、京や大坂の流行よりも地味目な染めの絹製品を着ています。
それにしても、本多忠勝の髷(まげ)はすごいですね(笑)! 肩からかけた数珠姿の真偽ですが、指揮官ですし、目立つためには必要性があったのかもしれません。甲冑(かっちゅう)に数珠という姿は肖像画に描かれていることもあり、これを絵空事と片付けるわけにはいかないでしょう。
肖像画には生前描かれた寿像(じゅぞう)と、死後に供養のために描かれた遺像(いぞう)という2種類があります。全体的に遺像が多いのですが、これには数珠や経典を持たせたりします。大抵、亡くなった方が社会的に盛んだった時期の姿が描かれるのですが、ここに当時と全く違ったものを描き足すとは考えにくい。だから、忠勝が実際にあの大きな数珠を持っていた可能性は大きいのです。
織田政権の一角であった徳川は中央の文化に触れる機会もあり、当然、最先端のものを取り入れていったでしょうが、流行の広がりには地理的な時間差があったと思うので、それを表現しています。
それにしても、本多忠勝の髷(まげ)はすごいですね(笑)! 肩からかけた数珠姿の真偽ですが、指揮官ですし、目立つためには必要性があったのかもしれません。甲冑(かっちゅう)に数珠という姿は肖像画に描かれていることもあり、これを絵空事と片付けるわけにはいかないでしょう。
肖像画には生前描かれた寿像(じゅぞう)と、死後に供養のために描かれた遺像(いぞう)という2種類があります。全体的に遺像が多いのですが、これには数珠や経典を持たせたりします。大抵、亡くなった方が社会的に盛んだった時期の姿が描かれるのですが、ここに当時と全く違ったものを描き足すとは考えにくい。だから、忠勝が実際にあの大きな数珠を持っていた可能性は大きいのです。
Q.北条氏政は他の戦国大名と違った印象を受けるのですが?
氏政は羽織を着ています。これは実権を息子に譲った隠居の身だからです。裾を袴に入れる肩衣と違い、羽織は上から羽織るものです。羽織は裕福な商人が着たりと、肩衣よりもカジュアルなもので、当時は胴服(どうふく)と呼んでいました。
小田原を中心に東国を支配していた北条は、真田や徳川とは立場の異なる存在です。財政的に豊かなため、『真田丸』の氏政は文化に造詣が深い人であることがふん装から伝わってきます。都のテイストを取り入れた品のいい羽織は、とても氏政らしいと思います。