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【コラム】

筆洗

 消えてしまった自転車について空想している。いったい、誰が盗んだんだろう。赤と白で塗装されたぴかぴかの新車。一九五四年十月、ケンタッキー州のバザー会場でその自転車はこつぜんと消えた▼十二歳の少年は泣いて、一人の警察官をつかまえ訴えた。「盗んだやつが誰だろうと、ぶちのめしてやるんだ」。警察官の助言はちょっと変わっていた。「いいか、ぶちのめす相手に立ち向かう前に、けんかの仕方を習っておいた方がいいぞ」▼この警察官からボクシングの手ほどきを受け、少年はやがて、ヘビー級王者に三度輝く「世界で最も偉大な男」となる。三日亡くなったムハマド・アリさん。七十四歳▼<自転車が盗まれ、オレはボクシングを始めたが、ボクシングこそオレがやらねばならぬ義務だと告げられている気がした>。後年の回想。だとすれば、自転車を盗んだ犯人は、ボクシングの神様か▼その変化に富んだ人生を思えば、「単独犯」ではないかもしれない。黒人差別解消を訴える公民権運動家としての素顔。「自分をニガー(黒んぼ)と呼ばない人たちとは戦えない」。ベトナム戦争への徴兵を拒否した過去もある。どうやら平等や反戦を世界に広げる神様も自転車隠しを手伝った。難病と闘う勇気を、人間に教える神様もきっと協力していただろう▼さらばアリ。あの自転車はもう返してもらっただろうか。

 

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