長い小説よりも短い詩の方が物事の本質をよく説明していることがある。日本の詩人、栗原貞子が1976年に書いた詩『ヒロシマというとき』もそうだ。「〈ヒロシマ〉というとき/〈ああ ヒロシマ〉と/やさしくこたえてくれるだろうか/〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉/〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉/(中略)/ 〈ヒロシマ〉といえば/血と炎のこだまが 返って来るのだ」。従軍慰安婦問題が明らかになった20年後だったら、作者は「〈ヒロシマ〉といえば〈慰安婦〉」という句もどこかに書いていただろう。作者は遠回しにはせずにこの詩を締めくくる。「やさしいこたえが/かえって来るためには/わたしたちは/わたしたちの汚れた手を/きよめねばならない」
ケリー米国務長官が広島を訪問した時ですら、まさかと思った。「日本は『汚れた手』を清めていない。だから米大統領まで行くことはないだろう」。ところが、期待とは裏腹にオバマ大統領は広島に行った。「原爆ドーム」を背景に、安倍首相の肩をたたく姿、白髪の被爆者と抱擁する姿は、原爆が引き起こしたキノコ雲の写真と同じくらい象徴的だ。 「71年前、晴天の朝、空から死が降ってきた」という演説内容、そう言った大統領を強く責め立てない米国内の世論にも驚いた。
私たち韓国人は複雑な思いで広島を見た。韓国ならではの複雑な歴史を通して現実を解釈したからだ。米国の原爆で韓国は植民地支配から解放された。米大統領が広島を訪問すれば日本の戦争責任と植民地支配の責任が薄らぐ可能性がある。だから反対し、懸念してきた。だが、その思い通りにはならなかった。すると今度は反対側の歴史を持ち出した。米国の原爆により数万人の韓国人が命を落とした。韓国は被害国だ。だから米大統領が広島に行くなら、韓国人原爆犠牲者慰霊碑にも行かなければならない、という具合にだ。