「反日根拠地」の掃討作戦

―百団大戦と根拠地攻撃―
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     1    わが国の教科書記述から

 「三光作戦(政策)」として最初に顔を出すのが、日本軍による抗日根拠地への掃討作戦でしょう。わが国の歴史教科書をのぞいて見れば、このことは簡単に確認できます。

〈 中国共産党の指導する軍民の抵抗に悩まされた日本軍は、
1940〜43年にかけて、華北の抗日根拠地に対する攻撃のなかで、
「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」 いわゆる 「三光作戦」をおこなった。 〉
― 実教出版、「高校日本史」 ―

 また、1998年春から使用された中学社会科(歴史分野) の例では、

  〈 日本軍は、ナンキン占領後から翌年2月半ばまでに、
女性・子ども・捕虜をふくむ少なくとも15万人から20万人ともいわれる中国人を虐殺した。
また、日本軍は、共産ゲリラ勢力の強い華北の村々で、1940年ごろ
「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」三光作戦をおこない、民衆におそれられた。
こうした事実は日本国民に知らされなかった。 〉( 日本書籍 )

 南京事件の犠牲者が「少なくとも15万人〜20万人」というのは、教科書にあるまじき一方的な記述です。それに「三光作戦」が加わります。しかも後者の中学社会科の記述からは、三光作戦は「村民」をも対象にした見さかいのないものと受け取れる表現になっています。
 こんな教科書を使って教育を受けるのですから、たまったものではありません。日本人の歴史観は中学生の頃からこのように叩き込まれたのですから、歴史観ひいては国家観がおかしくなって当然でしょう。
  ( 注 ) 日本書籍の2005年以降に使用される中学社会科の記述は、この項の終わりに記述してあります。双方を比較するとなかなか興味深いことがわかります。

 上の2例だけからも分かりますが、抗日勢力に対する掃討作戦を「三光作戦」と呼んでいるのは間違いないでしょう。
 2つの教科書の「作戦時期」がこのように大幅に違うこと自体、「三光作戦」なるものが、いかにあやふやなものか を如実に示していると思うのですが、わが国の教科書にたずさわる専門家(歴史家など)は、大して気にしていないようです。
 また、“ いわゆる「三光作戦」 ” などと、ぼかした言い方をしています。おそらく執筆者自身が確たる自信がないことの現われでしょう。
 また、中国が非難する日本軍の「三光政策」は、「殺 光」 に重点がおかれ、したがって、「殺光」が最初で、次いで「焼光」、「奪光」となるのではありませんか。それが、「焼光」を初めにもってくるというのは、小手先が過ぎるのではないでしょうか。いや、自信がないから、このように腰が引けた記述になっているのだと、私は思っています。
 もっとも、日本軍叩きが最大の目的ですから、「史実」かどうかなど、2次的問題なのかもしれませんが。
 とにかく、この項では「三光作戦」の筆頭格、「抗日根拠地に対する掃討作戦」について、検討します。

     2    毛沢東のいう「三光政策」

 まず、中国がどう言っているのか見ることにします。なにせ、中国のいうことに追随するのがわれらがメディア、学者らの慣習になっていますので。
 代表的なのは、1944(昭和19)年4月、延安の高級幹部会議で毛 沢東 が行なった「学習と時局」でしょう。
 毛沢東は、「抗日の時期におけるわが党の発展は3つの段階に分けられる」とし、1937(昭和12)年〜1940までの第1段階につづけて、以下のように述べています。

 〈 第2段階は1941年と1942年である。
日本帝国主義者は反英反米戦争を準備し遂行するために、彼らが武漢陥落のあと、
既に改めた方針、つまり国民党攻撃を主としたものから共産党攻撃を主にしたものに改めたその方針を、
より一層強化し、その主力を共産党の指導するすべての根拠地の周囲に集中し、
連続的な「掃蕩」戦争、残忍な「三光」政策を行ないわが党に打撃を加えることに重きをおいた。
そのため、わが党は1941年と1942年の2ヵ年の間、きわめて困難な地位に立たされた。 〉

 1941、42年の2ヵ年間というのは、前年の「百団大戦」 を起点とする日本軍との攻防を指したものでしょう。
 そこで、百団大戦の説明に入るのが順序ですが、その前に、この作戦を指揮した彭 徳懐 (ほう とっかい。左写真)は次のように述べ、百団大戦より前に、日本軍が「三光政策」を実行していたとしています。

  〈 この殺光、焼光、搶光 ― 殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす ― という三光政策は
日本軍が1939年の夏にもちだしてきたものである。 〉
― 『彭徳懐自述 』、サイマル出版会、1984年 ―

 具体的に、「1939年の夏」の作戦がどれを指しているかがわかりません。彭徳懐の記憶違いという話もあります。とにかく、「三光政策」といっても、人によって「いろいろと違いがありそう」 ということをご確認ください。

    (1)    百団大戦について
 「百団大戦」というのは、中国側の呼称で、「100個連隊による攻撃作戦」を意味するものだといいます。この作戦を中国は非常に高く位置づけています。もちろん、輝かしい勝利としての位置づけです。
 具体的には、1940(昭和15)年8月 、従来の中共軍のゲリラ作戦とは異なり、大兵力をもって鉄道、通信網、鉱山などの生産施設、あるいは日本軍を急襲した作戦をいいます。日本側から見た共産八路軍のこの攻撃は大別すると前後2度にわたりました。
    第1次攻撃 ・・・ 1940年 8月22日〜9月上旬
    第2次攻撃 ・・・  同 年  9月22日〜10月上旬

 まったく予期していなかった日本側は、各地で大きな損害を出しました。
 北支那方面軍は、「作戦記録」に次のように記しています。

〈 特に山西省 に於て其の勢熾烈にして、
石太線及北部同蒲線の警備隊を襲撃すると同時に、
鉄道、橋梁及通信施設等を爆破又は破壊し、 井けい炭坑等の設備を徹底的に毀損せり。
本奇襲は我軍の全く予期せざる所にして、其の損害も甚大にして且復旧に多大の日時と巨費を要せり。 〉


 日本軍でいえば、独立混成第4旅団 (司令部、陽泉)、第110師団 (司令部、石門)の損害がもっとも大きかったといいます(下写真、独立混成第4旅団守備の娘々関)。
 この攻撃が方面軍の方針変更、つまり共産軍の根拠地覆滅を促す誘引となったことは間違いないでしょう。
 中共側は次のように見ていました。

〈 (1940=昭和15年)8月、百団大戦では
第120師、山西新軍および地方武装勢力の全力をあげて参戦し、
太原(たいげん) 、・・・ 大同に進入し、
50日間に316回の戦闘を交え、敵に甚大なる損害を与えた。
敵は報復のため急きょ、2万余の兵力をもって、冬季大掃蕩を発動し、
晋西北に対し残酷な「三光政策」を行なった。
わが軍は35日間、300余回の戦闘を交え、遂に敵の掃蕩を粉砕した。 〉
― 人民出版社『抗日戦争時期における解放区概況』、『北支の治安戦1』より ―

 また、次の記述もあります。 

〈 更に本作戦(注、百団大戦)では戦闘が激烈をきわめ、わが損害も甚大であったが、
敵の死傷は我に数倍し、 敵の心胆を寒からしめた。 〉

 日本側の人的損害が中共側の数倍に達したというのですから、「百団大戦」は八路軍が日本軍に行なった「殺しつくす」作戦だった、と言いたくもなります。
 当然のことながら、この2次にわたる攻撃に対応、日本軍は2期わたって反撃を開始しました。
   第1次反撃 ・・・ 第1期晋中作戦  1940(昭和15)年 9月 1日 〜 9月18日  (18日間)
   第2次反撃 ・・・ 第2期晋中作戦    〃    〃   10月11日〜12月 4日 (約50日間)
 この後、日本軍は中共軍の根拠地を覆滅する掃討作戦に力点をおくことになります。

    (2)   根拠地攻撃の実態は?
 さて、この2期にわたる日本軍の反撃とこれにつづく根拠地攻撃が「三光政策」だったというのですが、実態はどうだったのでしょうか。

    @    片山中将の「回想」
 独立混成第4旅団長・片山 省太郎中将 の「回想」に次のように記されています。独混4旅は「百団大戦」でもっとも大きな損害(人的、物的)を出した部隊です。また、第1期、第2期と2度にわたる晋中作戦に主力部隊として参戦しました。

 〈 住民に対する八路軍の工作が浸透しており、部落は文字どおり「空室清野」
住民はほとんど逃避して姿を見せず、積極的に八路軍側に協力していたようである。
 これがため作戦間の日本側の動向は、微細にわたり、八路軍側に筒抜け であったのに、
日本側には八路軍の情報が皆目不明 であった。
 しかも八路軍の動向は数日以上、同一地点に止まるようなことはなく、
終始変転自在に行動し、険峻な山嶽地帯における遊撃行動に卓越していた。
これに反し日本軍の行動は徒歩部隊とはいえ、駄馬による行李輜重を随伴し、部隊及び個人の装備の過重で、
猿のように軽快な八路軍に比べて鈍重であった。
従って、いかに八路軍の補足追及に努力しても、その成果は大したことがなかった 。 〉

 日本軍の動向は、「八路軍側に筒抜け」なのに、逆に「八路軍の情報が皆目不明」で日本軍が翻弄されていること。出動先に着いたところで、部落は「空室清野」でもぬけの殻。また、日本軍は「猿のように軽快な八路軍に比べて鈍重」 だから、八路軍を追及しても「成果は大したことがなかった」 というのです。
 この記述、鈴木 啓久中将の「回想」、つまり日本軍の攻撃のほとんどが 「空 撃」 であったとする記述と酷似していると思いませんか。
 また、興隆県の「無住地帯」で登場する部隊(240連隊第1大隊)の将兵からから聞き取ったことと、ほとんど差は見られません。八路軍は地理に知悉していて神出鬼没、日本軍が追いつける相手ではなかったというのです。ここでも片山中将の「回想」と酷似しています。

    A    ある「老兵」の投書から
 独混4旅のある兵士(匿 名)は、「私はその作戦に参加した老兵です」として、月刊誌「正論」に次のように投稿しています。私は他の兵からこの投稿者の実名を知りました。
 〈 ・・あれは共産八路軍が百団攻勢ということで起こした作戦です。
石家荘から太原までいわゆる石太線をメチャクチャにして沿線各駅を襲い、そこに居た小警備隊と在住の日本人を虐殺し、駅舎は元より鉄道線までバラバラにした事件です。
 私はその時分、他の地区で討伐作戦を行っていて無電でその事件を知りました。部隊は軍の命令で急きょ反転して現地に急行したのですが、物凄いほどの八路軍の兵隊で、その中に付近の住民も加わっていたそうです。目を覆うような惨状で、我々も怒り心頭に発するといった感じでした。
 それから掃討作戦に入ったのですが、その後の行動が三光作戦の虐殺ということでしょう。しかし、私たちが虐殺をやろうにも行く先々、どこの集落に行っても無住で、住民は皆逃げていて一人もいませんでした。
 他の部隊はどうか知りませんが、日本人の受けた虐殺の方がずっと多かったのではないかと思います。 ・・・ 〉
 とし、さらに、

〈 事の真相を知らぬ世代の人たちが中国人の言っていることを真に受けて、
日本が悪い悪いと謝罪しているとどうなるでしょう。
ますます彼等は増長して、いずれ日本は彼等に侵略される時が来るのではないでしょうか 〉

 と、この「老兵」は憂慮しています。この憂慮、多くの点で私も共有しますし、憂慮する方向に進みつつあるのではないでしょうか。
 片山中将や「老兵」の語るような、つまり日本軍が共産軍に翻弄される「戦闘実態」はしばしば耳にするところで、決して例外的なケースではないことです。

    B    「三光作戦」の証拠発見!
 もちろん戦争ですから、ある局面をとれば、悲惨な、また残虐な場面も事実起こったであろうことくらいは想像がつきます。これは古今東西、世界中の戦争、紛争について回るのが現実だからです。
 「百団大戦」で最大の被害を出した独混4旅の「第一期晋中作戦闘詳報」 が発見されると、これが「三光作戦」の実態とばかりに日本の学者は飛びつきました。
 というのは、とくにこのなかの別紙「第一期晋中作戦復行実施要領」に、「二 燼滅目標 及方法 」という6項目の記述があって(左写真)、その中に、

     〈  1、 敵及土民を仮装する敵     
     2、 敵性ありと認める住民中、15歳以上、60歳迄の男子  殺 戮  〉

 などとあったからです。
 「殺戮」という言葉に驚くのはわからないでもありませんが、注意して読めば、相手は「敵」「敵性ありと認める住民」という条件がついていますし、女、子どもを除外しているなど無差別殺害になっていません。
 また、15歳以上ともなれば当時、決して子供とはいえず、武器を持てば日本兵にとって厄介な戦闘員になる可能性は十分に持っていたのです。子供と思って近づくといきなり発砲をうけ、死傷したという話は結構、つたわっています。

〈 八路軍の抗戦意識は甚だ旺盛であり、共産地区の住民も女、子供が手榴弾を、
「ざる」に入れて運搬の手伝いをするなど民衆総がかりで八路軍に協力した。〉
 ・・・ 朝枝・第1軍参謀の「回想」より

 という現実がある以上、これをもって、「殺 光 = 住民を殺しつくす」などと一足飛びに結論づけることにはなりません。ましてこの作戦中、部落を襲うなどし、非戦闘員を大量殺害したという事実は確認されていないのですから。

    (3)    晋中作戦の戦果は
 晋中作戦の参加部隊は第1期が、独立混成第4旅団(4ヵ大隊)および独立混成第9旅団(3ヵ大隊)で、第2期は1期に参加した独混4旅と独混16旅団および第36師団でした。
 2期わたる作戦の戦果は下表のとおりです。ただし、第1期における独混9旅の戦果は、大分前の話ですが、防衛省の戦史部においてコピーを入手する際、私の指定もれだったらしく、抜け落ちていました。このため、掲載できませんでした。
 ですが、この表からも2次にわたる晋中作戦は、十分に武装した相手との戦いであったことがうかがわれます。なお、出典は「第1期晋中作戦戦闘詳報」、「第1軍作戦経過概要」(第1軍参謀本部」です。


晋 中 作 戦 戦 果 一 覧

作 戦 名 部 隊 名 敵 兵 力 遺 棄 死 体  俘  虜 鹵  獲  品
小 銃 重機関銃他 その他
第1期
晋中作戦
(9月1日〜18)
独立混成
第4旅団
1,840 227374手榴弾817ダイナマイト225K
黒色火薬400K
電線5千米
第2期
晋中作戦
(10月11日
〜12月4日)
独立混成
第4旅団
18,6501,211 184512
(自動小銃
13含む)
重 機 4
迫撃砲1
独立混成
第16旅団
25010
第36師団7,38028464 735
重 機 4
 合  計3,335 4851,623
(自動小銃13)
重 機8
迫撃砲1


   この戦果を見れば、中国の百団大戦に対する日本軍の反撃が、言われるような「住民皆殺し作戦」などではなく、武装した部隊の通常の戦闘であり、「三光政策」だの「三光作戦」だのと呼ぶようなものだったとは、とうてい読み取れません。

     2    国府軍の「三光政策」

 1931(昭和6)年11月、江西・福建の2省の境、瑞金に中華ソビエト政府 (主席・毛沢東)が成立します。以降、蒋介石は瑞金のソビエト地区を占領するため、数次にわたって攻撃しますが占領することはできませんでした。
 1933年10月、封鎖線を敷いて1歩1歩進攻する蒋介石軍の作戦に対して、後方かく乱、輸送線の破壊という共産軍のゲリラ戦術が功を奏せず、大打撃を被ってしまいます。蒋介石軍から見た「第5次掃共戦」の勝利というわけです。これ以降、共産軍の撤退、いわゆる長 征 が始まります。
 この、「掃共戦」を指して、中共は「三光政策」と呼び、非難しているのです。
 京都大学名誉教授であった貝塚 茂樹 は、自著『毛沢東伝』(岩波新書、1956年)のなかで、朱 徳 の考えとして次のように記しています。

 〈 いかに(外国人顧問が)有能であっても、外国人による軍隊の指揮は、異国人であるがため、
軍民に対する同情を欠如しているので、敵味方を問わず、
人命を無視した残酷な極端な作戦が強行される傾向がある。
もちろんこの反面には思い切った処置を下しうる利点が存在するけれども、
このような非人道的作戦は、戦争の大局からみると、重大な損害を味方にあたえずにはおかない。
ゼークトにより蒋介石軍がとった、ソヴェート地区の壮丁をみなごろしにする殺光、住家を焼きつくす焼光、
食料を略奪しつくす槍光のいわゆる三光政策は、この例である。 〉

 重要なことは、日本軍がとったという「三光政策」より以前に、国府軍の「三光政策」が非難されていることです。ということは、「三光政策」は日本軍の作戦に特定されたのものではなく、相手を非難するさいに恣意的に使うものだという疑いがでてきます。そして、この疑いが確からしいということが、次の項が証明していると思います。
 なお、異国人が指揮したゆえ云々というのは、台湾での2・28事件 を考えたとき、素直に頷くわけにはいきません。

     3    文化大革命でも三光政策が

 次に、「三光政策」という相手を非難する言葉が、こんなところにも手軽に使用されているという例をあげましょう。
ここにも「三光政策」が  1987(昭和62)年9月、PHP研究所より 『中国文化大革命 』 という本が発刊されました。著者は厳 家其・高 皐という中国人の共著で、上下2巻の興味深い本です(左写真、上巻)。のちに、岩波から文庫本となっていたと思いますので、目にする機会はあると思います。
 なお、厳 家其は中国社会科学院政治研究所長を歴任、アメリカに亡命しています。
 上巻の副題は「毛沢東と林彪」となっているように、2人を軸に文化大革命(1966〜1976)の内情が記されていますが、このなかに、次のように書かれたヵ所がありますので、引用します。

 〈 彼ら(注・林彪一派)は軍内部において自己と異見を異なる幹部に対して、
「三光政策」(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす政策)に近い中傷迫害を実行した。
葉 剣英、・・、彭 徳懐ら高級幹部は
彼らの打撃からのがれ出ることは不可能に近かった。 〉


 ここに名のあがった彭 徳懐は、「百団大戦」を指揮した人物です。彭は文革中に失脚(左上写真)、失意のうちに世を去りました(後に名誉回復)。
 こうなると、「三光政策」 なんて、相手を非難するさいに気軽に使う形容、ということになりそうです。それをご丁寧にも日本の学者先生が「三光作戦」 と言い換えて、さもさも日本軍の作戦であったかのように、教科書や百科事典などに載せて非難、断罪する、正気とは思えません。




   

 2006(平成18)年春から使用される中学社会科(歴史的分野)で、「三光作戦」の記述のある教科書は、日本書籍新社 の一社だけです。
 ご案内のように、日本書籍新社の前身は「日本書籍」ですので、事実上、同一出版社の教科書というわけです。最近まで4社が記述していましたが、ようやく1社に減少しました。もう一息でしょう。もっとも、高校用はまだまだですが。
 「三光作戦」は本文ではなく 、「欄外注」 に以下のように記してあります。

  〈 日本軍は、1940年ころから華北の抗日根拠地をつぶすための軍事行動をおこなった。
中国はこれを、「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」三光作戦として非難した。〉

 冒頭に紹介した教科書(1998年以降のもの)と比べると、内容が大幅に後退していることが読みとれます。その最大のものは、「三光作戦」は日本軍の作戦と明記せず、中国側がそう言っているという記述になっている点でしょう。
 ですから、「こうした事実は日本国民に知らされなかった」 という記述は成立するわけがありませんから、削除せざるを得なかったわけです。こんないい加減なものが、さもさも「史 実」 であるかのように、今日まで書きつづけていたのです。そして、まだ「三光作戦」にしがみついているのですから、この1点だけでこの教科書は失格と思います。
 もっとも、このように後退した記述になっていても、実質は大して変わらないのかもしれません。なにせ、教える内容は教師しだいだからです。




   ( お 断 り )

 「井けい炭坑」の「けい」の字は、「こざと偏」の漢字ですが、ひら仮名表示にしてあります。


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