こんにちは、NAEです。
突然ですが、りんご、おいしいですよね。ぼくも先日丸かじりで食べました。特に珍しくもない日々の一コマです。
にも関わらず、なぜか感動を覚えるほどフレッシュな気分になりました。一体なにが起こったのか。それはなぜか。カラクリを追ってみると、いきすぎたミニマリズムのリスクが見え隠れしてきました。
今回はそんなお話。
体験の違いでは説明できない感動
りんごはそこそこの頻度で食べていました。楽天で箱買いしたため早く食べないと悪くなってしまう、という事情もあり、およそ2日に1個のペースで食べていたかと思います。
そのため、りんごの味や食べることそのものが何か特別だったわけではありません。
ただ1つ違っていたのは、「久しぶりに丸かじり」で食べたこと。
それまでは、嫁さんが皮を剥いてくれたものを食べていました。しかしその日はたまたま時間がなく、取り急ぎ丸かじりで済ませようとしたところ「ピャー!!」という感じ。
ただし「丸かじり」という体験は特に珍しいものではないし、過去に何度もやっています。なにより、ぼくの感じたフレッシュ感はただの「久しぶり」だけでは説明ができないものでした。
そこでさらに深堀りして考えてみたところ、驚きの事実に気づきました。
皮つきりんごを食べ物と認識していなかった
りんごというものに対する認識が歪んでいたのです。
長い間皮のむかれたりんごばかりを食べ続いた結果、「りんごとは、皮をむいた状態のものである」という認識(固定観念)ができ上がっていました。
極端にいうと、皮をむく前の赤いりんごをそもそも食べ物として認識していなかったのです。
- これはりんごと呼ばれるモノである
- 食べるとこのような味がするモノである
という事実を頭では理解できても、
- 美味しそうだなあ食べたいなあ
と思えなくなっていました。皮つきのりんごに対して不感症になっていた、とも言えます。
つまり、今回味わったフレッシュな感動は全く未知の新体験をしたことと同等のレベルであった、というのが真因だったというわけです。
原因はいきすぎたミニマル思考
さて、なぜそうなったか。
ぼくはものごとをできる限りシンプルに保ちたいと日々思っています。
無駄なことはしたくないし、考えるべきことは可能な限り減らしておきたい。こだわりのないものは極力シンプル化、ショートカットし、頭の中を軽く保っておきたい。
皮つきのりんごについて何かを考え、感じる必要がないのであれば、それは捨ててもいいものだ。皮つきのりんごが食べ物だという認識が日々の暮らしに役に立たないなら、それすら断捨離してしまえ。
そうして認識や感じとる力を削いでいった結果、不感症になっていった、というわけです。
これは極端な例かもしれません。が、実際にぼくに起こったことです。ミニマリズムがいきすぎると不感症を起こしかねないよ、ということを伝えたかったのです。
まとめ:リスクにも目を向けよう
過去したことのあることの再体験を含め、何気ない日々のできごとに感動しながら心豊かな生活を送る。ミニマリストでいることのメリットの1つではあります。
一方、ミニマリズムには認識や価値観の切り落としや固定化という側面もあるように思います。極め過ぎるといわゆる頭が固い状態に陥り、不感症であったり、本来楽しめるものが楽しめなくなるリスクがあるのではないでしょうか。
大事なのはこういったリスクを理解した上で、何のためにミニマリストをしているのかを忘れないことかなあと思います。
モノを減らし、心と頭が軽くなった自分になったとして、結局なにがしたいんでしたっけ?
今回は以上です。