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新宿メロドラマ

安っぽいヒューマニズムは要らない。高いのを持ってこい。

爆発する俺のノワール。海を渡るハードカレンシーはふたたびネットに戻る夢を見るか。

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とんでもない事件が起きたので、昨夜から激しく妄想を繰り広げている。

以下、このエントリはすべて僕の妄想であり、僕には事件を批評しようというつもりも、犯人を推定しようというつもりも、事件を肯定したり賛美したりしようというつもりもないことを念のため、あらかじめおことわりしておく。

当然、事実関係についてもなんら保証をしない。これは個人のブログに書き付けられたフィクションだ。

 

事件のあらましはこう。

全国17都府県のコンビニの現金自動預け払い機(ATM)約1400台で今月15日、偽造クレジットカードとみられるカードが一斉に使用され、総額約14億4000万円が不正に引き出されていたことが捜査関係者への取材でわかった。

 約2時間半の間に、100人以上の犯人グループが各地で引き出したとみられる。南アフリカの銀行から流出したカード情報が使用されており、警察当局は背後に国際犯罪組織が関与しているとみて、海外の捜査機関と連携して捜査を進める。

 捜査関係者によると、不正に現金が引き出されたのは、東京、神奈川、愛知、大阪、福岡など17都府県のコンビニに設置されたATM。日曜日だった15日の午前5時過ぎから8時前までの約2時間半の間に、計14億4000万円が引き出された。

コンビニで14億不正引き出し…17都府県一斉 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

当初は、人手にまかせたつまらん「叩き」だがシンプルな手法にもかかわらず14億円あまりという収穫に首謀者のカタルシスはさぞや大きかろうと想像するにとどまっていた。

だが事件の翌日、南アフリカの銀行が「流出したクレジットカード情報が使われ、被害を受けた」と届け出た。

この銀行が主張する被害額は21億円相当だという。

 

つまりこの事件は、南アフリカの銀行が発行するクレジットカードの情報が盗み出され、それをもとに偽造されたクレジットカードを使って100人以上の下手人が日本のコンビニATMから現金を引き出したという、押しも押されぬ「国際金融犯罪」だ。

引き出された現金はコンビニに設置されたATMに収納されていたものだが、これはクレジットカードの与信に対して払い出されたものなので、被害者は与信を行っている南アフリカの銀行だということになる。

この銀行は、ATMを運営する日本の銀行ないし取引を取り持つ機関に対して、払い出された紙幣相当の金額を決済しなければならない。

 

本件に触れて爆発した僕のノワールに対するロマンチシズムは、おおむね以下のようなところに端を発する。

  • 国際金融犯罪といっても、タックスヘイブンをめぐる租税回避などホワイトカラーの犯罪とは異なり、「詐取」をめぐるガチの犯罪、アンダーグラウンドの住人による犯罪であるということ。

  • 情報技術の発達により、情報がカネになり、カネが情報になった世界において、情報の詐取がカネの詐取につながるという非常に現代的、あえていえば近未来的だとすらいえる犯罪であること。

  • つまり100人以上の実行犯がATMを叩くという、一見暴力的な現象にもかかわらず、この犯罪が非常に知的な人物によって計画されたことがうかがわれること。

  • さらに、100人以上の実行犯に2時間半という限られた時間で、しかも17都府県という分散したロケーションで同時に現金を引き出させ、(おそらく)それを回収するという高度に組織化された犯罪を指揮する能力のある人物の存在がうかがわれること。

こういったところだ。

 

さらに、国際金融犯罪だということがはっきりした時点で、本件の首謀者、あるいはこの犯罪をファイナンスした、いわゆる「金主」は日本人ではなく国際犯罪のプロフェッショナルである外国人ではないかという直観も同時に得る。

なぜならば、この人物が日本人ではなかったとしても、現金詐取の舞台に日本を選んだことにはそれなりの必然性があると考えることができるからだ。

 

その理由は以下の通り。

  • 日本は依然として現金社会であり、街のそこここにATMが設置されていること。
    特にコンビニのATMを勘定に入れれば、1人あたりが短時間の間に複数のATMを利用して現金を引き出すことがいとも容易な環境だということ。

  • 特殊詐欺、いわゆる「振り込め詐欺」が横行し、その世界ではATMから現金を引き出す「出し子」のリクルートが容易に、安価に、大規模に、組織的に行われ、出し子からの現金回収がセキュアにできる仕組みが確立されていると想像できること。

  • ATMから引き出される現金が、米ドル、ユーロおよび英ポンドとならび国際決済が可能な「ハードカレンシー」たる日本円であること。

このようなところだ。

 

本件で使用されたのはクレジットカードであるから、海外のATMで利用可能なキャッシングの限度額は一日当たり日本円で数万円程度ではないかと考えられる。

つまり本件犯罪のマニュアルには、

「1台あたり、何枚のクレジットカードを利用して、それぞれ限度額いっぱいのキャッシングを行う。それが終わったら次のATMへ移動して同じ事を繰り返す。2時間半の間に預かったすべてのクレジットカードでキャッシングを完了したら指定の場所で現金を引き渡す」

というようなことが記されていたはずだ。

このためには、短時間で移動可能な限られた範囲内に相当数のATMがなければならない。

云うまでもなく、日本はこうした活動にはうってつけだ。

 

次に「出し子」の問題がある。

特殊詐欺においては、被害者から振り込まれた現金を口座から引き出すポイントに最大の逮捕リスク(チャンス)がある。

日本では、多重債務者を中心にこうしたリスクの引き受け手、逮捕されても何も知らず、組織については何も話せないが、逮捕さえされなければ回収した現金を忠実に組織へ届けるタイプの「実行犯」が大量に存在すると考えられている。

無数のATMに加え、ここから現金を引き出すことに慣れた人材と組織が存在することを知れば、たとえ日本人でなくとも現金詐取の舞台に日本を選んだことはそれほど不思議でない。

 

最後に通貨の問題がある。

おそらくどんな犯罪もそうなのだが、最後のポイントはゲットした現ナマの処分だ。

特に今回の場合には14億円とも21億円ともいわれる大量の日本円が実行犯の手にわたる。

カネは飾っていてもおいしくない(多少、楽しいが)ので、このカネはどうにか洗って表のカネにしなければならない。

いわゆるマネーロンダリングだ。

これほどの、斬新で大きな仕事だから、おそらく「その世界」では誰が手がけた、かかわったというような話は真偽を混然としながらもすでに流れているのだろうと想像している。

さらにいえば、クリーンだと考えられている「出し子」とて100人以上という規模だ。

いずれどこからどのように捜査の手が伸びても不思議はない。

最終的に「収益」を受けとる金主が海外にいればなおのことだが、いずれにせよ回収された現金は早急に国外へ逃がさなければならないと考えるのが自然だろう。

 

浅学のわたくしに思いつくのは、だいたい以下のような手法。

  • 国内の債権と、海外の債務を相殺するかたちで決済してしまう。
    ちょっと想像しにくいのだが、たとえば犯罪組織同士、またはフロント企業同士などの間で国際取引が存在する場合、その支払いにかかる債権債務と今回の「収益金」とを相殺してしまうという手法。
    現金は動かないので、海外側はかなりセキュアだ。
    ただし国内の組織は現金を抱え込むので、足が付いた場合にはこの現金を司直の手で回収されてしまう怖れがある。
    また、火器にせよ薬物にせよ、違法な物件は輸出するより輸入する方が多そうな日本の犯罪組織が海外に債権をもっているという状況は、カタギの僕には簡単に想像できない。

  • 国際取引を偽装して送金してしまう。
    フロント企業などを使って、海外から何かを輸入したという国際取引を偽装する。
    この支払い名目で、本件「収益金」を海外へ送金するという手法。
    何を輸入するかにもよるが、国内の企業にはこの支払いの多くを損金化して巨額の損失、つまり節税効果を得るというメリットもあるだろう。
    海外でこれを受け取る側については、「海外(域外)からの所得は非課税」という、いわゆるオフショア税制が敷かれている国・地域なら、受け取った支払いに課税されるコストもない。
    ただしこの場合にも、14億円なり21億円なりという巨額の現金が国内に滞留することになる。

  • 現金を直接海外へ持ち出してしまう
    このとき、ATMから出てくるのが日本円だというのが効く。
    先に述べたように、日本円は「ハードカレンシー」と呼ばれ、米ドル・ユーロおよび英ポンドとならび、国際決済に使用される数少ない通貨のひとつだ。
    これはどういうことかというと、たとえば香港の銀行で日本円の口座を開くと、持ち込んだ日本円のキャッシュをそのまま入金可能だということだ。
    持ち出す手段は、おそらく船がベストなのではないかと思う。

国内に現金を残さず回収を妨げるという手法は、ヤミ金で摘発された山口組系暴力団・五菱会が大々的に用いたことでみなさんの記憶に残っているかもしれない。

五菱会が「収益金」を海外へ逃がす手法は、橘玲「マネーロンダリング入門」で解説しているが、すでに使えない。利用された金融商品自体がすでに廃止されて存在しないからだ。

今回はワンショットであるということもあり、僕はあえて、この現金は物理的に香港へ運ばれると考えたい。

日本では現金百万円以上、またはその等価物を国外へ持ち出すにあたり、税関への申告が義務づけられている。

だが香港では、現金の持ち込み、持ち出しともに制限がなく、もちろん申告の必要もない。

当然、テロ資金や租税回避にからみ、マネーロンダリングには厳しい目が注がれる昨今だ。

香港の銀行にも、持ち込まれた現金に対してそのソースを質すコンプライアンス上の義務はある。

だが香港に現金が現れること自体について、香港法がこれを禁じていないことには間違いがない。

「この現金のソースはなんですか?」

「日本から持ってきた貯金です」

「あ、そうですか」

というやりとりで銀行が入庫を受け容れても、香港法には抵触しないはずだと思う。

これを日本で申告したかどうかは日本の問題だからだ。

こうやってもう一度現金を情報に変えてしまえば、世界の果てまではたったワン・クリック・アウェイだ。

 

さて、この事件が今後どのように明らかにされるかだが、僕はあまり期待できないのではないかと思う。

前掲の「マネーロンダリング入門」では、大規模な資金流出を起こしたカシオが気合いの裁判でカネの流れを解き明かし、国際金融犯罪の名うてのプレイヤーとその手法を描き出すことに成功するのだが、今回の事件は果たしてそこまで行き着くか。

大がかりな割に「アガリ」が少なく、予行演習に過ぎないのではないかというコメントもFacebookでは受けた。

すでに100人以上を動員しているので、物理的な限界からこのぐらいの金額が上限ではないかという気もする。

だが、今度はまたちょっと違う変化球がくるのかもしれない。

もし、しばらく経って何も明らかにならないようなら、小説にでもしたいぐらいだ。

もちろん、橘玲先生が先にやらなければだけど。

振り込め犯罪結社 200億円詐欺市場に生きる人々

振り込め犯罪結社 200億円詐欺市場に生きる人々

 

 

俺たちには、働くしかないということ。

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三十代もなかばを過ぎた人間が、やりがいだけに駆られて仕事をするなどというのは無上の贅沢というほかない。

カネも家族も、社会的意義も信仰も一切関係のない仕事に取り組んで一ヶ月になる。知人からの連絡は絶えた。

だが、遠足前症候群とならび試験前症候群はいくつになっても収まらないもので、そんな仕事をしながらでもときに気はそぞろになって普段はあれほど嫌なブログを書きたくなったりする。

ところで「大人の症候群」としてはビジネスクラス症候群もわりと危険で、僕はこれを直すのに二年ぐらいかかった。成田 - ホーチミンシティの六時間をビジネスクラスで往復していた当時の自分をみかけたら、情けなくて死んでしまうと思う。

 

この気持ちに片を付けるだけのために、一本エントリを書こうと思った。

「三十分で片を付けてやる」

その言葉が僕に、働く理由というやつを思い出させる。

 

大学の卒業が迫ったとき、僕にはやりたいことがなかった。

正確にはむしろ、人生やりたいことが多すぎて仕事をしているような時間はないという確信があったというべきで、これはつまりひらたく云えば「働きたくないでござる」という例のやつにほかならない。

 

もしどうしても仕事をひとつ選ばなければならないとして、その代わり何を選んでもいいとしたら何をするか。

就活生が血眼でやるという「自己分析」を、例によって勘違いした僕は進まないエントリーシートを前に、毎夜そういうことを考えていた。

ある日、ひとつだけ胸に迫る仕事が見付かった。

空母に乗艦する艦載機のメカニック」

作戦行動中の機動部隊を指揮する空母に被弾した艦載機が煙をあげながら帰ってくる。

消火器があげる煙のなかを駆け寄ると、思いのほか被害は小さかった。交換すれば、飛べる。

ラダーを降りたパイロットがヘルメットを脱ぎ捨てながら云う。

「三十分でこいつを空へあげてくれ」

クランクを力一杯回しながら、僕はそちらへ叫ぶ。

「二十分で飛ばしてみせますよ!」

 

二十一世紀はインターネットが爆発した轟音のなかで幕を開けた。

東京という世界の田舎はいつものように、床屋へ列をなしてザンギリ頭を求める企業でいっぱいだ。

ネット回線が切れれば一円たりとも商売にならない職場にもかかわらず、ダイヤルアップとADSLを区別できる人間は僕ひとりというのが、僕が流れ着いたバイト先だった。

「バカでも分かるネットワーク」みたいな本を書店で求め、暇な職場で読んでいるうちに周囲とのリテラシの差はますます開いていき、気が付くと一ヶ月に四百時間働くネットワーク管理者になっていた。

専用空調のガンガン効いたフロアで夏場からコートを着込んでサーバの保守をしていると、時給千二百円の僕の月収は単純な計算のうちに五十万円を超え、いつしか借金が消えていた。

 

「はっきり云って、やりがいなんか、くそくらえだ」

 

どこへ行くのかも分からず、ともすれば轟沈の危険の方が高かったあの職場に乗艦していたあいだ、夢に見たメカニックを演じるような高揚感がなかったといえば嘘になる。

また、働けば働くだけ見返りがあるなどという連勤術も産業自体に異常な活性があって初めてのことだというのは、凋落もエンディングが近い日本の家電メーカーをリストラされる中高年の無防備な生活設計をみるまでもない。

だがいまでも云ってしまうのだ。

何がしたいのかわからない、やりたいことが見付からないという人に出会うと。

働け。

これは自分の本当にやりたいことではないという気持ちを深く抱きしめたまま、黙って本気で働き続けろ。

その先に何があるにせよ、ないにせよ。

それ以外に道はないのだから。

 

では、仕事をします。

退職してトクする失業生活バイブル

退職してトクする失業生活バイブル

 

 

すべての昼と夜と、ジェフの見た夢。

今回もホーチミンシティ・東京出張が終わる。

前回はいろいろと思うところもあるタイミングだったため、東京では宿をとった歌舞伎町への思いがたぎり、某腐れSNSで昔語りを延々と連投した。

恥ずかしいのは恥ずかしいが、もう許されていい歳だと思う。

 

もし歌舞伎町という街がなかりせば、いまの僕らもいないであろう。

「僕ら」というのはあの頃一緒に仕事していた若者達のなれの果てだ。

まるでこのまますべての昼と夜を征服できると信じていたかのような、まじめで無謀な一群のサラリーマンたち。

そしてもしかしたら、あの頃僕らは本当にいくつかの昼と夜を自分のものにしたのかもしれない。

 

歌舞伎町の老舗居酒屋「囲炉端」は閉店したままだ。

「お前たちがいままでに囲炉端で払ったカネをすべて足せば囲炉端が買えていたであろう」

と云ったひとがいて笑ったが、実際には買ってリノベーションまでできたと思う。

マスターのナカちゃんが自宅の風呂で脳溢血を起こして死んだとき、僕たちは囲炉端の経営権を取得しておくべきだったのだ。

供養にもなっただろう。

 

いまはどうだか知らないが、当時の歌舞伎町というのは道ばたにヒリヒリするような物語が転がっている街だったと思う。

なかにはもう息をしていないものも少なくなかったが、多くはまだ生きていて、必死に取って食うものを探していた。

そうした物語たちはみなスーツやドレスで着飾って、そして恐ろしく魅力的だった。

近付いた者を飲み込もうと待ち構えている、その様子すらも。

いま思えばわりかし危険な遊びをしていたのだろう。

無傷とは云わないが致命傷を負わなかったのは僥倖だった。

 

飲み慣れたオヤジのエピソードとして僕のランキング一位に輝いているのは、カードが限度額に達して使えなくなっていたためキャバクラで免許証のコピーをとられ、「明日払いにきてください」と云われて店を出たあと、その免許証をもって次の店に飲み行ったひと。

「これでも飲めるんだ・・・」とつぶやいていたという。

実にいい話だ。

 

当時の経費申請は完全なザルで、キャバクラの領収書を週に八枚出しているやつもいた。

あまりにも経費が出ていくので、社長が「『税金で持ってかれるぐらいなら使った方が得なんだ』と吹聴しているやつが、必ず社内にいる。見付け次第殺せ」と云っていた。

結局、税務調査で「この領収書の○○観光っていう会社ですけどね、社長。これは風俗店ですよ」と指摘を受けた社長が「さすがに勘弁してくれ」と云いだし、あるときからは厳しくなったというか、普通の会社並みにはなった。

 

経費問題でいうといまでも納得がいかないのは、関連会社でマッサージチェア(五十万円)を購入したバカ社長がおり、親会社の経理に蹴られた領収書がなぜか僕のところへ回ってきて、現金でその領収書を買い取らされた件だ。

カネはともかく、だったらマッサージチェアは俺のものだろうと思ったが、気がついたら他の人が使っていた。

 

僕は経費で酒を飲んだことがない。

そればかりかこのマッサージチェアみたいな事案で謎にカネを払うハメになることが多い立ち位置だったのだが、あとで聞くと周囲は僕がそれも経費で処理していると思い込んでいたらしいとわかり、激しくガッカリしたものだ。

カネの使い方は、ひとからの見られ方を意識して、という学びがあった。

 

「囲炉端へ集合→キャバクラ→キャバクラ→野郎寿司またはおかめ食堂→4時帰宅」というのが基本パターンの毎日で、そのあちこちで知り合いに会うという嘘みたいな街が歌舞伎町だった。

なおキャバクラをハシゴしているのは、当時は二十三時閉店の店と午前二時閉店の店があり、一軒目が閉まったら遅い方の店へ移動するからだ。

 

先日みたら、おかめ食堂も、もうなくなっていた。

明け方にオムライスとしじみの味噌汁を吸い込みながら「MONSTER」を読んでいたのを思い出す。

毎晩のようにくるわけだからすぐに読み終えそうなものだが、劇的に酔っているため昨夜どこまで読んだか忘れている。

帰る直前に少し酔いが醒めてくると、ようやく「あっ、これゆうべ読んだとこやんけ!」と気付くのだが、そこで帰ることになる。

こうして同じところを何回も読むので全部読み終わるのに三年ぐらいかかった。

 

云うまでもなく僕はキャバクラにドハマリしていたのだが、それでも一人で行くようなタイプではなかった。

必ず誰かを連れて行くのだが、結局そのひとと話し込んでしまうので「うでさん、何しにキャバクラ行ってるんですか。相手も女の子と話したいと思うんですよね。うでさんと話すんだったらキャバクラじゃなくてもいいし・・・」と注意されることが多かった。

まぁこれはいまもそうだ。最近はまず行かなくなったけど。

 

朝(というか昼)起きたときには布団のなかで(今日はキャバクラには行かないぞ・・・)と誓うのに、二十時になれば必ずどこかの店に入ってしまっているという、はっきり云って病人の生活だった。

二十時といえばキャバ嬢の出勤より早い。

僕が払うわけなので一緒に付き合ってくれる相手には困らなかったが、さすがに大晦日には誰もつかまらず、仕方なくひとりで行ったのを覚えている。元旦は店がやってなかった。

 

もちろんその時々で「本拠地」にしている店はあったが、特に指名のない店でフリーの娘を相手にしていい加減な話をするのも嫌いではなかったので、あえて指名をしないようにしている店も多かった。

こうした店では、自分とはまったく違うペルソナをいまにうまく語れるかというトレーニングを己に課していた。

一番好きだったのは、そして一番よく使ったのは「サーカスのプロモーターである俺」というペルソナ。

これはもちろん「何のお仕事されてるんですか?」がキャバクラでは定番のアイスブレイキングだからだ。

最初はラスベガスでシルク・ド・ソレイユを見たばかりだったので思いつくままに口から出任せを放ったのだが、そのうち徐々に自分がハマっていき、最終的にはきわめて精緻な物語ができあがっていた。

 

僕の母親はアメリカのミネソタ州へ留学しているときに日本人の父と出会い、僕を身ごもった。

父やドサ廻りの一座を手伝うサーカスのマネージャー。

アメリカ中を渡り歩く流れ者の一味だったから、母の両親はもちろん結婚に反対した。

だが、母は当時でアメリカへ留学して、サーカスのマネージャーと恋に落ちるような女性だ。

決心は固く、大学の卒業も待たずに僕と両親はサーカスと旅する暮らしを始めたのだった。

 

云うまでもなく、それは変わった暮らしだったが、それが変わっていることに気付くまでには時間がかかった。

一座に子どもは僕だけで、変わり者ばかりの一座は僕の大家族であり、生まれたときから世界のすべてだったからだ。

なにぶん子どもっぽい人も多かったからそこここで喧嘩は絶えることがなかったが、みんな僕にはよくしてくれたし、両親も幸せそうだったと思う。

 

どこまでご存じかは知らないが、この手の小さなサーカス団ではメンバーはしばしば入れ替わるものだ。

ひとつの街にしばらく滞在していると、ある日サーカスへ戻ってこない者がいる。

たいていは女(あるいは、男)ができたのだ。

そうすると父は困ったような顔ひとつせずに演目を入れ替えてその晩のショウに備える。

ただし、その街を出ようというときには少しだけ妙な間が生まれるのだった。

もう準備は整い、あとは三台のトレーラーとバスのエンジンをかけるだけという段になったとき、誰もがなにかに気を取られたふりをして、黙ってタバコを吸っているような時間。

彼が帰ってこないかと、待っているのだということは子どもの僕にもわかった。

 

僕は「恋」とはそういうものだと学んだ。

家族の誰かが恋をするたび、旅する仲間が入れ替わる。

恋をして、その街にとどまったひとがその後、どうなったのかは誰にも分からない。

サーカスを去ったひとのことを話さないのは、一座の暗黙のルールだった。

 

そしてある年の春、雪が溶けたばかりのミシガン州の湖畔の街で、僕は初恋を経験する。

サーカスがテントを張る裏手にあった、ささやかな遊具を備えた小さな公園に、毎日やってくるおしゃべりな女の子に僕は惹かれ、毎日早くから、ブランコを漕ぐフリをしながら彼女が現れるのを待つようになった。

 

彼女の家は公園の脇にあり、僕の父はそこへテントを構えるにあたって彼女の両親と何事か相談をしていたようだった。

一度だけ、僕は父と一緒に彼女の家へ寄ったことがある。

映画にでも出てくるような、典型的なアメリカの一家が暮らす真っ白な家だった。

 

ある日、女の子は僕に、あなたの家はどこなのかと尋ねた。

僕は少し驚いて、そこに建っているテントを指さして見せた。

彼女はけげんな顔をしたが、礼儀正しかったからか何も云わなかった。

やがて日が暮れ、サーカスに人が集まり始める頃、彼女は僕を相手に話をするのをやめてブランコを降りると「また明日」と家に帰っていった。

次の日は、サーカスがこの街を発つ日だった。

朝早くテントは片付けられ、彼女が目を覚ました頃には、僕たちは跡形もなく消え去っているだろう。

だけど僕はそれを彼女に伝える術を知らなかった。

僕たちは、あまりにも違いすぎたからだ。

「また明日」と彼女に応えたとき、胸のなかで何かが身震いしたのがわかった。

 

サーカスでは、誰かに何かがあればすぐにみんなが気が付いた。

だから僕に何かがあったのだということは、両親にだってすぐに分かったことだろう。

それがきっかけになったのかどうかは分からない。

だがその年の夏が去る頃、僕たち家族の長い旅は終わる。

西海岸の海辺の街で母が云った。

「あなたは学校へ行くのよ」と。

 

「学校へ行く」というのは、母が僕を日本へ連れ帰り、そこの小学校へ通わせるということだった。

サーカスも、長い移動も、たまに連れて行ってもらえるダイナーの朝食もない生活を想像するのは、はっきり云って僕には不可能だった。

そして何よりも父と別れて暮らすということを想像するのが。

僕の手を引いて十年ぶりに日本へ帰った母は実家に近い関西の田舎町で僕を育て、僕はみんなと同じように学校へ通った。

なにぶん子どものことだ。サーカスの暮らしはすぐに過去になった。

 

僕の知る限り、帰国して以来、母は一度も父に会っていない。

聞いたわけではないが、おそらく離婚をしたとかいうことではないのだと思う。

僕が東京の大学を卒業し、就職を諦めて父のところを訪ねてみたいと云い出したとき、母は黙って父の居所を教えてくれたからだ。

父と、それからサーカスのいるところを。

 

十六年だ!

身も心も日本人の僕に、抱きしめてきた父親の歓迎はむずがゆいものだった。

サーカスにわずかでもおぼえのあるメンバーはひとりも残っておらず、小さな頃から母に一座の話を聞かされ楽しみにしていた僕は少なからずがっかりした。

思いがけず再会することができたのは、年老いた象のトーマスだけだ。

 

僕はもう大人だったから、昔のように可愛がられることはもちろんなかった。

それはとりもなおさず、僕もある種のメンバーとして一座に迎えられたということだ。

それは誰かと少し仲良くなって、他の誰かとは少し険悪になるということだった。

なかでもひどかったのはナイフ投げの若い男で、それは僕が日本語を教えていた曲乗りの女の子に彼が惚れていたからだ。

何度かひやりとすることもあったが、父は何も云わず、知らないふりをしていた。

逆によくしてくれたのはコックのジェフという男で、それは一座のなかでもステージにあがることのないのが彼と僕だけだったからだ。

まもなくジェフを手伝ってみんなの食事を作り、トーマスの世話をするのが一座での僕の仕事になる。

 

サーカスの男達には怪しげな自慢話が多かった。

ジェフのそれは若い頃に貨物船へ乗り込んで飛び回った世界の国々の話。

上海、トーキョー、タンジール、ボンベイ

食後にジェフが僕を相手に話す思い出話はどれも痛快で、胸が躍るようだった。

海外のことをまったく知らないみんなも周りでよく聴いていた。

つまらなそうに爪を磨いているナイフ投げですら耳はこちらに向けていたぐらいだ。

 

僕がサーカスへ戻ってから二年が経った頃、トーマスが死んだ。

何歳だったのかは誰にも分からない。

象遣いの小男は悲しんだ。

ささやかなお葬式をやり、保健局のトラックがトーマスの亡骸を運んでいったあと、僕とジェフを相手に象遣いは深夜まで泣きながら酒を飲み、酔い潰れて寝た。

象遣いが寝た頃には僕もジェフもずいぶん酔っていたが、不思議と高ぶる気持ちがあって寝られそうになかった。

飲み直そうかと声を掛けたが、テーブルの向こうでジェフは、テントの隙間から外の暗がりへ目をやったまま返事をしなかった。

象遣いのヤツ、いつもはジェフの話が大好きでおおはしゃぎする陽気な男なのになと、また一人で飲み始めた僕が云うと、今度はジェフがこちらを向いた。

 

妙に醒めた空気になった。

僕が黙っているとジェフは、俺はアメリカから一歩も外に出たことがないとポツリと云った。

僕は驚いてひっくり返りそうになった。

アヘンの煙が立ちこめる上海の暗い路地裏やタンジールのバザールで繰り広げられた逃走劇は、アカサカのホテルでベースを弾いたご機嫌な夜は、マヨルカで彼を待つ人妻は、いったいどこへ?

 

つまるところ、ジェフも立派なサーカス芸人だったわけだ。

僕を相手に夜な夜な語った話のすべては彼の大ボラであり、美しい夢だったのだ。

お前は日本にいたんだろう、と重苦しい調子でジェフは云った。

日本へ帰れ。

旅するサーカスは、結局どこへも行きはしない。

サーカスは閉じられたサークルを回り続けるだけで、どこへも行けはしないのだからと。

 

翌朝になると、ジェフは姿を消していた。

今回はさすがの父も頭を抱えているようだった。

サーカスにコックの代わりはいないからだ。

僕がやろう、と僕は名乗り出た。

トーマスの世話がなくなって、時間はできるだろう。

それから、僕は父に云った。一座を連れて、日本へ行こうと。

 

父と団長の話し合いはすぐについた。

もともとこの二人はあまり深刻になるタイプではない。

要するに、問題はカネだ。

学生時代にイベントの催行会社でアルバイトをしていた僕は、そこから社員になれと誘われた経緯もあって、興行の世界にツテがないわけではない。

しばらくして一座が新しいコックを見付けると、僕は一人日本へ戻ることになった。

 

云うまでもなく、ことは簡単ではなかった。

しかしこちらはもともとがドサ廻りの一座だ。

たいしたおカネが必要なわけではないという強みはある。

東京では門前払いだったものの、地方には脈があった。

寂れた遊園地や一夜限りの夏祭、小学校のイベントごとなんかをとりまとめた日程は全国を移動する長大なものになった。

 

二ヶ月にわたるツアーがいかに大変なものだったかに時間を費やすのはやめよう。

二度とくるなよと警察から釘を刺されたところもひとつやふたつではない。

そうでなくても、個人でだってもう泊めてくれない出入禁止の宿も全国に、無数にある。

まぁ要するに、こうしたトラブルにまつわるあれこれが、僕の仕事になったわけだ。

 

父の一座がアメリカへ帰ったあと、僕は東京に残って自分一人の会社を立ち上げた。

いろいろなことがあったが、生まれ育った日本でサーカスの一座と旅する生活には、どうにも心惹かれるものがあったから、もう少し「夢の続き」をみたいという思いがあったのだ。

食っていくためには色んなことに手を出したが、やがて少しずつ海外から連絡が入るようになった。

はじめは父から話を聞いたというアメリカの小さなサーカス団から、それからヨーロッパのジプシーの流れをくむような旅の一座や、東欧の少し大きなサーカスまで。

彼らのためにツアーを組み、束の間一緒に旅をするのが僕の仕事だ。

 

こんな話を短くても一時間あまりにわたって聞かされるのだから、女の子たちはカネに見合った仕事をしていたといえる。

ただ、これだけの話をするためにはフリーで入っても彼女たちを場内指名しないといけないわけだが、この手の店に指名で戻ることはまずなかった。

 

しかし「夕方からのお友達」と過ごした時間の多くは忘れてしまった。

だけどそれがいまの僕に強く影響しているのは疑いようもない。

もし僕に絵が描けるなら、ドガかロートレックのようにあの頃の夜を描きつけたろうけれども、残念ながらそれはかなわない。

だからこうして少しだけ、当時のことをつぶやいてみたかったというだけのエントリだ。

「統合失調症の石田(仮名)」について。

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僕は健常者も障がい者も、法定の話を離れれば、部分的に相対的な存在でしかないと考えているが、だからといってもちろん僕が自分のことを「どっちかといえば障がい者みたいなもんだ」などということは許されない。
相対的にいって、充分に恵まれた心身の状態を維持しているからだ。
僕の抱える問題があったとしても、それは一般に「性格」の問題でしかない。
だけどそれでも、僕がその性格の問題を乗り越えて(あるいは回避して)人並みに生きてこられたのは、やはり多くの幸運な出会いがあったからだと感謝しない日はない。
これは本当だ。
 
それは、多くの人が暮らす社会のなかではいつまでたっても「幸運」でしかないのかもしれない。
であればせめて、より多くの人が幸運にめぐりあわせるよう祈り、その一助となる以外に、僕が自分のここまでの人生を肯定する術はないというのが正直な思いだ。
 
だがそのためにも無理はできないし、してはいけないのだろう。
だからこそ、無理をしなくていいぐらい、自分の能う限り強くなる必要があるというのが、ひとつの指針にはなっている。
 
二十代の終わり頃から、「四十歳になったら働き方を変えたい」と思いながら仕事をしてきた。
企業を経営する目的と、自分の人生を肯定していたいという思いをひとつにできるような、そういう仕事がしたい。
たまたまつかんだ儲かる仕事を正当化するために社是や理想を掲げるような生き方は、そもそも僕とは無縁だ。
だから、いま僕が経営する会社には社是も理想もない。
それは僕が生きていくためにやっている仕事であって、その仕事のために生きているのではないという証明でもある。
 
そもそも会社なんか、人の生き死にには本質的な関わりがない。
「カネさえあれば誰も会社員なんかやらない」という言葉に頷けるとすれば、それが証拠だ。
だから歴史的な役目を終え、社会的に不要になれば、会社なんか必死になって救済する必要などないというのが僕の立場だ。
ただ、もし本当に救済されるべき、生き残るべき会社があるのだとすれば、大切なのはきっと会社そのものではなく、その会社が存続すべき「目的」の方なのだろう。
そういったホンモノの「目的」を、僕が仕事をすべき本当の理由を、見付けなければならない時まであと一年と三ヶ月。
もっともっと、いろんな人に出会って少しの時間をいただきたいです。
 
統合失調症の石田(仮名)」は少し前に書かれたエントリですが、匿名ブログであるにもかかわらず「石田(仮名)」とした投稿者の思いを汲むつもりで、石田さんの幸せを祈ります。

いまからお前の生存戦略を告げる。

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「社会はどのようにして若者を洗脳するのでしょうか?」

         ー 日本の場合は給料を低く抑えることで。

                         ask.fm

説明が足らなかった。

 

日本の社会が若者の給料を低く抑える狙いは主にふたつあるとにらんでいる。

 

ひとつは、若いうちに充分な対価を与えないことで、「俺は損をしている。いつかそれを取り返さなければならない」という思いを抱くようになった若者は早々に飛び出していくことをしなくなる。

社会(もちろん「会社」と読み替えてもいいが)に「貸し」があるならば、それを回収するためには、ここで頑張って十二分に対価を得られるようにならなければ損だ。

ここを飛び出せば社会に対する不良債権は流れてしまう。

 

「埋没費用」(サンク・コスト)が人間の心理におよぼす影響は、このように経営者ならずともよく理解しておくことが大切だ。

「いまここでやめると返ってこないコスト」は常に存在する。

だがそれは往々にして、「このまま続けても、どうせ返ってこないコスト」だったりする。

これを回収することを念頭に置いていると、ひとも企業も判断を誤ることが多い。

ときとしてその導く結果は致命的だ。

焦げた事業というのは要するに巨額の埋没費用でたたり神になった乙事主様みたいなものであって、本来これは始末するしかない。

だがひとというのはこれに「鎮まりたまえー!鎮まりたまえー!」などと叫び続けてさらに費用と時間を投下する。

あらたな世界のあらたな社会でやり直すあらたな自分に投下すれば、綺麗なキャッシュフローを生んだ可能性もある費用と時間とを、だ。

「若い内に支払われなかった対価」は、若者にとり埋没費用の重量をもって彼らを社会に(またはしつこいようだが会社に)引き留める効果をもっている。

 

日本の社会が若者に充分な対価を支払わないのにはもうひとつ狙いがある。

それが彼らの自尊心を傷つけ、多くの場合完全に剥奪するのに優れた手段だからだ。

*     *     *     *     *

「生存、戦略ーッ」

しばしば唐突に私が叫ぶこのセリフは、アニメ「輪るピングドラム」(マワル・ピングドラム)の決めぜりふである。

2010年代では歴史的な名作だったと私が謳ってはばからないこの物語は、親から「愛している」と云われたことがないために、何者にもなれず社会をさまよう若者たちをめぐる狂騒曲だった。

無条件に愛されることを知らず育ったひとは、自分を愛する術を知らず、自尊心を喪失している。

ピングドラム」ではこうした「きっと何者にもなれない」人々が、16年前に地下鉄丸ノ内線で起きたテロの犠牲者となって消えた少女・荻野目桃果が自分たちのなかに残した甘美な承認から離れることができず、過去を生き続けているところから始まる。

自尊心を獲得できず、「何者にもなれない」と思い込んだ子どもたちのエゴがシュレッダーで裁断されていく屠殺場「こどもブロイラー」へ運ばれた幼い日のヒロイン・陽毬(ヒマリ)が、のちに兄となる晶馬(ショウマ)に救い出されるシーンで、毎回必ず泣く。DVDをそこだけ再生しても泣く。

 

「運命の果実を、一緒に食べよう」

「選んでくれて、ありがとう」

 

・・・・・・・・・・。

 

失礼。

不治の病でついに命の火が尽きた陽毬に憑依し、冠葉(カンバ)と晶馬の双子の兄に「妹の命を救いたければピングドラムを手に入れるのだ」と命じる高飛車なプリンセスは何者か、そして「ピングドラム」とは。

私はネタバレを悪いことだと思っていないので云ってしまえば、ピングドラムとは「誰かに愛されること」に他ならず、「運命の果実を、一緒に食べよう」という魔法の言葉はその象徴だ。

長い物語の果て、これも失われた桃果に心を奪われたままの妹・荻野目苹果(リンゴ)はストーキング対象だった晶馬から「愛してる」という言葉だけを手に入れ、しかしそれによってついに「運命の乗り換え」は果たされる。

それは姉の遺志を継ぎ、登場人物たちに「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉を思い出させた苹果に与えられたたったひとつの報償だった。

悲しいが、長い人生を生きていくにはそれで充分だろう。

これ以上は、哀しすぎて語れない。

*     *     *     *     *

かように、人にとって自尊心というのは生きていくうえで掛け替えのないものだ。

わからない人には、それは水や空気ほども不可欠なのだとお伝えしておこう。

だから、自尊心を傷つけられ、奪われた人は、それを何かで代用しようと手を伸ばす。

社会はその手にしっかりと握らせるだろう。

「みんな」にとって都合のいいルールを受け容れるのと引き替えに与えられる「承認」を。

自尊心を剥奪された若者は、こうして社会の下賜する承認を、自己承認と引き替えてしまう。

若きファウストがその後、命のつきるまえにこの取引の本質に気付くことはあまりない。

僕の社会(つまり…)に対する憎悪の根源はここにある。

だから。

 

いまからお前たちに、生存戦略を告げる。

お前たちの若さを誰にも差し出てはいけない。

お前は、お前自身を承認しなければならない。

暗くて長いトンネルは苦しく孤独な旅路になるかもしれない。

だが永遠に続く無明の闇に比べればどうということはない。

何者にもなれない人間なんて、きっといないのだから。

 

俺はいまからおとなブロイラーへ行く。

 

これはヘッドンホホの宣伝です。

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さて、7泊9日の東京 - ホーチミンシティ出張を終えてボストンに戻った。
前回3月の出張では、8泊11日という完全に日数と泊数の帳尻があわない日程を組んで、終盤香港あたりで蒸発してしまいそうになったため、今回はより短い日程とはいえレッドアイを避け、宿泊だけはきっちり押さえた。

たまにおっさんが
「若い内は体力が勝負だから多少無理を利かせても仕事になるけど、歳をとると仕事の性質が変わるから、しっかり休養をとりながら仕事をしないと役目を果たせない」
というようなことを口走ることがある。
だがこれはただの云い訳であって、おっさんだって体力が許せばもっと時間を有効に使うべきなのは当然の話だ。
*     *     *     *     *
ところで「たまにおっさんが」と云ったのは、実は以前一緒に仕事していた人物のことをはっきり仮想敵にして話している。
このおっさんとはいろいろあったが、一番記憶に残っているのは、
「キミは何のためにこの会社で働くことにしたのかね」
と尋ねられ、
「この会社が思いがけず成長をとげるのか、あるいは想像通りつぶれてなくなるのか、その行く末に興味があるからですね。クビにならない限りは見届けるつもりです」
と答えて、
「ところで、おっさんは(実際には名前で呼んだ)いつまでここで働くつもりなんですか」
と訊き返したら、
「僕はね…家が建つまで」
と満面の笑みで返されたことだ。
「あいつ、なんかおかしいですよ!」と騒ぎ立てたのだが、どうにもならなかった。
おっさんが巨額の損失をもたらすのは、それからまだ5年後のことだ。
その頃ちょうど30歳に近づいていた僕は、そろそろ一種の勘が自分にも備わってきたことを確信し始め、以降徐々に自分の感覚に信頼をおいて仕事をするようになる。
僕の「仕事人生」にささやかな夢があるとすれば、それは自分の言動が若いひとたちに不穏な違和感をもたらすようになるまえに、彼らの前から姿を消すことだ。
*     *     *     *     *
今回の出張は、ボストンの家を出てから戻るまで、しめて242時間だったといま電卓が云った。
その間、フライトに費やされたのがおよそ42時間。
全日程の17.4%という時間が円環の理に導かれて消えた勘定だ。
 
なかでも初体験になったボストン - 香港の15時間50分のダイレクト・フライトは衝撃だった。
何が衝撃と云って、客がほぼ貨物扱いされていること。
往路は深夜発とはいえ、その長時間ならもうちょっと何かあるだろうと思ったのだが、飛んでから降りるまで、ほぼ消灯で客はひたすら眠らされていた。
優に10時間以上。
UNOもカラオケ大会もなかった。
コールドスリープかよ、「2001年宇宙の旅」かよ、とも思ったが、手法としてはまぁ、まさにそういうことだ。
 
エコノミークラスとはいえサービスもほとんどなかった。
2回だけ提供された僕たちのエサをご覧いただこう。まず離陸直後から。

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今日びは宇宙飛行士でももう少しいいものを食べている。
しかも宇宙飛行士は職員かもしれんが、こっちは客だぞ、センはどこだ!センを出せ!という話。
 
それから12時間が経ってようやく、2回目に供されたのがこちら。

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ムショかよwwwww
 
以上、キャセイ・パセティック航空のボストン - 香港便のハダカの姿をお届けした。
ただし私の経験上、いちばんひどかった機内食は今はなきノースウエストの001便で、こちらはしかもビジネスクラスだった。
過去のエントリーにてご紹介している。
まずはこの、完全にメーターが振り切れたタイトルをご覧いただきたい。

前置きが本体化してしまうのが弊ブログのお家芸であることを、愛読者の皆さんならよくご存じだし、快くお許しいただけるものと思うが、ここからが本論だ。

私は前回、ボストンへくるANAの機上で念願のQC20を求めた。

BOSE社が出している、最新型の「ノイズキャンセリングイヤホン クワイエット・コンフォート20」のことだ。

高級ヘッドンホホポチったったwwwそして届いたったったたwwwwwwwwww - Sound Field ~オーディオのまとめ~

2ちゃんねるという情報ソースでもよく話題になっているが、ここのところ身の回りの経営者にも大変好評で、もうここまできたら試してみるしかないと思っていた。

結果はもう、圧倒的だ。

ご存じの通り飛行機のなかというのは不断に「グワァー」という音がしているわけで、これが止まると飛行機は墜ちるのだが(墜ちないこともある。例はWikipediaの「ギムリグライダー」の項を参照されたい)、QC20のノイズキャンセリング部についたスイッチをオンにすると、突然この轟音は消え去り、あたりは新幹線の車内のように静まりかえる。

新幹線の、なかだ。

音楽を聴くにせよ、iPhone側のボリュームは最小にしていても快適に聴こえる。

だから単に静かだというだけにとどまらず、耳にもいい。

あるいは邪魔であれば音楽は切っておいてもかまわない。

騒音の浄化された世界で、相対性理論の「アワーミュージック」に包まれ、私は、数年ぶりに、機内で眠りに落ちた。

 

アクティブ・ヘッドホンだから事前に充電が必要だが、フル充電で17時間ぐらいは使えた。

これはホーチミンシティを発つときに電源を入れると、乗り継ぎ便がシカゴの上空に達した頃にようやく切れるという見事な持久力だ。

しかも付属の充電ケーブルにACアダプタを接続してやれば、機内の給電ソケットからふたたび充電しながら使用を継続できる。心配にはおよばない。

唯一の難点は耳の中にいれる樹脂製のパッド部分が大きすぎることで、L/M/Sが最初からついているものの、Sを使っても私の耳でギリギリきついという印象。

どれだけきっちりフィットするかが静音効果に大きく影響するから、ここだけは購入前にご注意いただきたい。できないと思うけど。

 

で、結論としては行きも帰りもわりと機内で寝られたので、翌日の今朝から元気に仕事してますということだ。

もうこれぐらいで赦しておいてほしい。

 

ボンネットを開けて煙を吐き出していたベンツの、あのときとそれから。

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「号泣マシーン」という、いい加減なバンドがあった。

曲を作っていたのは、僕。

僕はギターの練習をするのが嫌いなので、ほぼ全曲がスリー・コードの進行で、たまに最初から最後まで全部Aしかないというような曲まであった。

それは曲なのか、という問いを退けるのは難しい。

 

僕が二十代のはじめから長く仕えた社長のセックス・フレンドは、社長から寝物語に「号泣マシーン」という名前のバンドがあることを聞かされ、涙を流して笑ったあと、「CDがあれば、いくら払ってでも聴いてみたい」と云ったそうだが、音源はなかったし、いまもない。

僕たちの音楽は、“ライブ”だったからだ。

などと格好のいいことを云ってみたいが、もちろん本当の理由はバンド自体あまりちゃんと練習しないので録音に耐えなかったからだ。

ただ、社長から「CD作れば1枚は売れるぞ」と云われて普通に嬉しかったのを覚えている。

こういう志の低さが僕の、完成度の低い人生をドライブする根本原理だ。

 

僕がいちばん思い入れのあったのは「マリア03地域」という曲で、これは03で始まる東京の一般回線のテレクラで「マリア」という女にハマり、「今度会って素敵なダンスを教えてもらう約束なんだ」とうわごとを繰り返す男の唄だった。

いまでも自分のメールアドレスにしているぐらい、いい曲だったという自信がある。

 

だが、オーディエンスからのウケがいちばん良かったのは「ベンツ」という曲で、結局はこれが号泣マシーンの代表曲であり、短いバンド生命最後の曲になった。

ひどいタイトルだ。

 

大学の後輩だったギタリストの男は気が弱かった。

ある日、夜中にコンビニへ行ったら買い物をしている間に停めてあった彼の自転車が転倒し、そばに停車していたヤクザのベンツにぶつかり、ドアがへこんだ。

助手席に情婦を搭載しているときのヤクザほど面倒なものはない。

修理代については追って連絡すると云われ、免許証だか学生証だかを没収された彼は泣きながら家に帰り、震える手で遅くまでひとりウイスキーを呷ったが、眠気はなかなか訪れなかった。

おかげで彼は翌日、僕との約束をまるごとすっぽかす。

 

その約束というのはそもそも彼に頼まれたもので、僕には何のギリもないイベントに参加するというものだった。

待ち合わせに来ないばかりか何度電話しても彼が出ないので、やむなく僕はひとりでカネを払ってイベントへの参加を済ませ、わけのわからない体験をして、中野へ帰った。

サンモールがブロードウェイへ続くあたりで、ようやく彼から電話があった。

「すみません…いま起きました」

何事かをすでに覚悟した声で彼はささやくように云った。

いまもそうだが、こういう目に遭わされたときの僕は甘くない。

とにかく今から鮨をとるからうちへ来い、と僕は云った。

「はい…申し訳ありませんでした…」

彼がやってくると、僕はおもむろに鮨屋へ電話をかけ、二人しかいないのに四人前の鮨をとった。彼は黙って聞いていた。

鮨が届くまでのあいだ、そこへ正座した彼はぽつり、ぽつりと昨夜あったことを僕に話した。

「これが、今朝起きられなかった理由です」

「…そうか」

さすがの僕も同情しかけたときにようやく鮨が届き、彼が支払いをした。

「まぁ、鮨でも食えよ」と僕がすすめると、いただきます、と彼は云って鮨を口に入れ、瞳をとじて、あぁ、おいしい…とつぶやいた。

医者と弁護士には友達を作っておけと昔から云うようだが、たしかに弁護士を知っているとたいていの問題は大事にいたらず解決するというのが僕の経験の告げるところだ。

ただし当時の僕らにはもちろん弁護士の知人などいるわけもないから、ヤクザや空手家の先輩、巨額の借金や就職の不安から身を守る術はひとつしかなかった。

ロックンロールだ。

昨夜、用意していた新曲があった。

僕が「マーガレット」と名付けた七八年生まれのギターを彼に渡して、MTRのスイッチを入れると彼は万感の思いを込めて、リフをかき鳴らした。

いやに長いギターソロのあとで三分五秒の曲が終わって僕がMTRを止めると、彼は力尽きたようにギターをパタリと膝のうえに落とした。

「できたね」曲ができた、という判断が、僕はいつも早い。

「できましたね」彼はうつむいたまま云う。

「タイトル、どうする」

長いため息のあとで、彼は云った。

「…『ベンツ』でお願いします」

 

こうしてできたのが「ベンツ」だ。

詞は何を云っているのかわからないので、ここでは紹介しない。

この話で僕がいちばん気に入っているのは、後日彼のところへ届いた請求書がたったの七万円だったというところだ。

彼は七万円と四人前の鮨を失い、僕は新曲のタイトルを手に入れた。

結局のところ、若者を根本的に傷つけることなど誰にもできないということなのだろう。

なぜ、メルセデス・ベンツは選ばれるのか?

なぜ、メルセデス・ベンツは選ばれるのか?