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あらすじ
東窪公志。1980年生まれ。六本木生まれ六本木育ち。森ビルでなんだか創業期からヒルズとか作って取締役やってたグレートっぽい父が幼少期に交通事故に。禁治産者として療養中それを見ながら母に片親として育てられて育った。
10個くらいの領域で天才と呼ばれてきて、それを実際にみてきた人に全能といわれて、それは言い過ぎと思いつつ、「誰も真似できない、いろいろを一つにつなげて何かを作り出す人」になることに目覚めました。
8-12歳 サッカーと算数で天才っていわてみた
最初のエピソードは、中学受験時、塾の算数の授業で「3秒で解けたらかえっていいよ」と教師が冗談でカウントをはじめた際に3秒で解いて騒然としたこと。誰の顔み見ないで教室を飛び出しました。選ばれたものの恍惚と不安っていうやつですね。たぶんその問題を、解ける人はいたと思うけど、速さなんでしょうね。算数系のエピソードでは、足し算もろくに習ってない7歳のときに格子模様をみてかけ算で穴の数を数えたのを見て母が驚嘆したといったものなどがあります。中学のころには、微分を習った時に、独立で、積分を編み出したりしています。
またこのころ地元港区のサッカーチームでスターで、チームの一番偉いコーチにお前は天才だから絶対将来なにかになるとほめられました。この年齢で二つのジャンルで天才だ天才だ言われたので、うぬぼれたんじゃないかと思います。
5-10歳 死のとなりで愛 父の交通事故と母の孤独というか苦労と母子の愛を知って育ったことが大きな影響を受けました。愛とかそういうこと平気で書くような29歳に育ちました。あらゆることにおおむね深く感謝しています。平然と愛のような言葉を使って文章を展開することがありますが一つ一つがあなたの知っている通りの使っても使っても減ってない愛です。どうしてでしょうね。その一方で惜しみなく奪うのは。
父は自分に外見や、能力的ににているようで、障害者として、記憶喪失や知的障害を持つ人格に豹変した彼との対話の経験は、おそらくとても内省的で、思想や思考を深くしていく傾向を僕に与えましたが、一方で、経済的な出来事として、母が自分たちを育てるために働いている、という意識、母の人生を台無しにして育ててもらっているという感覚が、いかんともしがたい強度で、努力と忍耐、冷静さといった、天才に備わると最強の因子を、僕に浴びせたと思います。なかなかに偉大な母を持つと大変です。幼くして、不思議な感が方として、たとえば、その加害者を、少なくとも、簡単に呪う気にはなれなかった。母にそれを許そうとする愛すらあったから。
14-16歳 前代未聞にサッカー部部長を辞退してやめてクラブにいく。全国レベルの天才たちにフルボッコにされることと、点の意識
中学ではサッカー部の学年キャプテン−>中学部のキャプテン。ただし高校では部長になるはずのこのコースを蹴ってしまってクラブチームへ。クラブの全国に出ているチームに移籍しました。緒戦などで当時の優勝チームエスパルスユースと戦ってオトナとコドモの試合のような惨敗。才能だけでなく、身長や走力、体力、恵まれた切磋琢磨の環境といった全てを持つ、100万人から10人しか選ばれないような天才たちにコテンパンにされた貴重な経験になりました。ここからは、いろんなことを学びました。圧倒的な情報量だった。僕は才能型のプレーヤーでした。サッカーのセンスだけなら万に一人くらいのものがあると思う。華のある、誰も思いつかないリズムというか発想を流れの中で思いついて実行して玄人じゃないとわからないタイプではない、素人にも天才だとわかるタイプのプレーヤーでした。今でもフットサルとかやると、3試合くらいやればみんなが目を見張ります。5試合くらいやると、一回くらい、みんなが騒ぐような、天才的なプレーをします。首だけでフェイントして、見てる人から試合の全員が気づかないうちにゴールにボールはいってる、といった漫画みたいなこと。僕もときどき捏造された記憶じゃないかっておもうけど、ドリブルで全員抜いてゴールとか、中学校のときの副キャプテンのやつとかが証人で、会うたびにそのことについて言われる。
それでも、僕ではだめでした。体がついていかなかった。僕と同じくらいの、天才っていわれるやつ人、20人に一人の身長、100人に一人の足の速さ、清水や一流の選手のいるクラブチームといった恵まれた環境といったものをすべてもってないと、本当の一流の成績を残すところに行き着くことはできないみたいです。東大に主席で入るよりはるかに難しいことです。そういう数式です。でもこうした構造について実体験をしたことはとてもよいことだった。これはとても一般的な構造だからです。なによりも、ものすごくレベルの高いやり取りをする経験になった。 そしてなにより、「個別領域では僕は本当に偉大な成績は残せないかもしれないね」という強い印象を受けました。それと同時に、すでに芽生え始めていたいろいろなほかの能力が、それでもなにか自分は特殊なものがあるみたいだ。という感覚と、周囲のそれへの強い興味を知っていました。 それと、「こんなに天才だとかいっちゃってよかったんだっけ。」と、プレーをはじめるまでは感じることが面白い。やってみると嘘みたいに体が動く。自分の体の運用能力が人並み外れていることを、十分中から観察できる能力が備わっていることはとても便利でした。「系」という難しい考え方についてよく学者とかが話しているのを聞くと思いますが、人間の体なんかが典型的な「系」の一例だったりする、その「系」のうち、飛び抜けて優れた系を持っていて、それが、効果を発揮するときの驚異的な出来事が、どのように一つ一つ実現されているか、ほどいて観察することができる。
10-18 サブカルチャーの望んでもない英才教育のこと。
サッカーばっかやっていたはずが、この頃から、文化的にも「いろいろ」になっていきました。当時はまだ気づいていなかったこととして、都心のど真ん中に生まれ育ったことによるのか、早熟でカルチャーな風に育ったかもしれません。最寄りの本屋はABC。ジャンプもそこで買いました。最寄りの映画館はシネヴィヴァント。家の隣はテレビ朝日。最寄りのCD屋はwaveというエッジの効いたCD屋でした。(『明日六本木に帰る』)。サッカークラブの友人たちはマガジンとサンデーを読んでいるそばで、快楽殺人犯の心理分析についてのフロイトの詩のようなもの、を呼んでいたりしました。さらには、秋葉原でオタクなパソコンパーツをあさること、サッカーでスターのプレーをすること、デレクジャーマンの映画を耽溺することを平行に行うコンピュータでした。この頃から国語教師はお前はいったい将来なにになるんだろうなと言っていました。僕はいまだにわかりません。まさかプログラマーになるとは思わなかったけど。
14-16 コンピュータとの接触 14歳でPCを手にしました。basicを最初にかいたのもこの頃です。プログラミングより、midiに先にはまりました。音楽の興味があったので。
15- 25 作曲で天才と呼ばれることと、N化。あれ俺って全能系?の話
なぜか自分で音楽を作ろうと思った。作品を作るのは15歳。beckとかに強く影響されて、独特な雰囲気と評されつつも、すでにこの頃に、メロディは天才って周りに言われていました。耳に残る。口をつく。と。この三つ目に気づいた才能に、一番びっくりしました。 学ぶ能力、解釈する頭のよさがよければ面白い随筆文章は書けると当時から知っていた。それもできて、国語教師はだからこそほかも「いろいろ」であることを褒めていた。音楽作りで「随筆」に似ているところとして、解釈をする頭があれば、音楽の構成や、音作り、というところで、特徴的な音楽づくりをすることはできる。現代音楽とか利口な人の音楽がそう。それはそれでさらに極めるのは当然天才が必要だとおもうから、それらを貶めるつもりはないが、一方で、メロディを書くことは天性の運動神経、あるいは頭の回転の瞬間的な最大速度がものをいうよう。自分にはそれがあって、この発露だと感じた。自分が「いろいろ」という全能的な方向にいくかもなという意識がありました。秀才的解析があっても実際に作ることの適わないことを、自分はそのどちらもできることが武器になる。という感覚はありました。 これがないとN化して、それがもう一度つながっていくときに、うまくつなげないだろう。とも思い始めています。それを訓練しなくてはいけない。だから、自分の体がほっといても自動的にやってしまう、他人に、すごい、と言われることを、よくよく観察し、言葉で説明し、それを貯めていく。これものちに語ることになる、Connecting the Dotsの秘密です。
18-19 英語でも天才といわれたことと、世界史でも天才といわれたことと、仕組みへの注意
大学受験期は一人勝ちでした。遊びながらも東大も京大も慶應も全部絶対受かるなっていう成績になっていました。バイトもしていました。この頃にバンクーバーに小さくホームステイをしています。英語は3ヶ月で偏差値が30のび、駿台の統一模試で全国同率1位を取りました。 次のエピソード。塾はほぼいっていませんが、3回だけでた夏休みの講習で名物教師に1回目の授業で、天才扱いされた。2回目の授業の合間に「どうやってんの」と言われて方法説明してついでにその基礎となった参照した知識を説明すると本当に「人生であったなかで一番の天才だな。」いわれました。そういわれたことが10回くらいあります。「君みたいなのはどこに進学するつもりなの。海外の受験もあるんじゃないか」といわれて、「SFCか、芸大を。まあでも、どちらでもいいんです。もう受験はいいんです。」といったら、名前を覚えておくので教えてくれといわれました。
ちなみに、僕は記憶力がとりたてて人より優れているわけではありません。この教師は世界史の人でした。世界史は「記憶もの」で、ある意味では、天才的な人でなくても、努力をすれば東大とかに入れる道、というところで、「頭の良さと勉強ができるかは関係がない」といったお話の題材にされるような類の学問です。でもそんな授業で、僕がそれほど天才って思われる理由はちょっと特殊な事情からです。 ちょっと難しい話が出ますが、これらのやり方は、ソシュール哲学だとかと、脳の仕組みとかについての、早い段階からの興味から出てきていました。僕はね、不老不死に興味があったのです。父親が、死にかけていて、生きていたからかもしれません。よく記憶する方法は、筋肉を鍛える方法と似ているのですが、そうしたことを、サッカーを通じて知っていたことは、典型的に「Connecting the Dots」です。そこに、ソシュールの知識が加わって、すごく王道的であるけど、ちょっとだけ特殊な、誰もがきちんとうまくやればものすごい成果を上げられるだろう方法、というより「仕組み」を考えだして、それを自分に対して適用する、といったような、昨今でいえば「ライフハック」とかもいわれてたりする、できるビジネスマンの仕事の仕方、をやってたみたいです。
記憶ものは退屈でした。算数・数学で天才と言われた過去があり、成績もよかった僕が、明らかに嫌いな記憶物ばかりの文系に転向するときには、国語教師が僕の小説を読んで、文系に転向することを僕に説得し、親にまで説得し、お前は小説家になるんだ、といって、実現されたというエピソードがあります。記憶物が面倒くさく感じたことと、数理と哲学の間の深いところへ入りたい意欲と、死や生についての強い興味からくる脳化学、記憶の転送といったちょっと危険なにおいのする科学の厳密な実装方法についての興味からこの方法が編み出されたみたいです。こうして見返してみるといろんなことがつながり合っているものですね。そしてコントロールはとても難しい。
でも僕が取り組むのはこうした複雑だけれどもそれだけに、誰にも真似できない、いろんなものの接続です。 たぶん18歳で、帰国子女でもなく、そんなに時間をかけたわけでもない人が、英語が実用的に話せるようになっているということは、100万に一人もいないことだと思うんだけど、これができていたのも、多少はなにか生まれ持ったものの成せる技かもしれないし、こうした魔法の「仕組み」の成果もしれない。
15-18 小説を書いてしまったことと、これでもまた天才といわれたこと
15-18歳くらいにかけて、物語を書く、ということをやってみました。ストーリーテリングと文章を書くということには異なる才能が必要です。これはメロディにとても似ている。キャラクターとプロットと、比喩や文章の刺激で織りなしていくのはそれをするだけでも才能が必要です。 先立って、随筆的な文章を、書いていた。その内容は国語教師が驚いて文転を親に説得する程度のものだったようだけど、ストーリーを書くということはまた別のことでした。詩的連想とその間隙、物語のプロットとを重ねるような構造について実験をよくし始めたのもこのころです。早熟だと思います。ある意味ではこのころから成長していないかもしれない。多分これだけの文章の才能があれば、これだけに頼って生きようとすらしたと思う程度には、人からもすごく褒められてきた。自分でもかけるうちに書きたいという強い欲求があるし、今ならものすごく面白い小説や、軽さの反対側にあるなにかを抉り取る物語がきっとかける感覚もあります。でもいろいろ僕はできすぎた。自分に今物語りを書かせないでいる神はいったい僕になにを望んでるのかというと、多分なににもなにものぞんでいないでしょう。 でもこれもまた「Connecting the Dots」の一つの重要なヒントなのです。
その一つの例は、「ストーリーテラー」という、プログラミングという、理系っぽい、IT技術の中心にあるものと、物語という、文系の人が携わっているはずのものをはるかまたぎわたり、大変大きな領域横断をしつつ、さらに、マーケティング・商品設計性の観点を美しく含めた、ツールの形で結実してもいます。 そしてまた、伏線の筋を立て、比喩でかっ飛ばしながら、それらの繋がりを運用していき、もともとは、たったの数文字から成り立っているはずの言葉たちという点を、一つの、切り刻むことのできない、物語に、つなげていくということの、もっとも古くて偉大な方法が、物語を書くということです。これは僕が、現実という筋を、にてどのように編みこむ際に、よくよく参照するべきです。 そしてそれができるようになったときに、僕は翻って言葉による物語をどのように書くか? そしてまた、新しい物語の形態を、プログラミングと「自動リンク」などによる「ヒント」あるいは「隠喩」や「連想」の方法とあわせてどのように創り上げるか。これは僕にしかできない仕事だと思っています。
14-18 ファッション
14-17歳ではバイトしたお金をほとんど服についやしていたりしました。代官山表参道原宿恵比寿中目黒の店をほぼ全て覚えていました。当時はオシャレキャラだったんだけど、姉が武蔵野美術大学でファッション課にはいった辺りから作る側に興味が移り、むしろ着飾ることに興味が薄れていきました。大学に入ると友人たちがオシャレデビューするかのようになっていったんを見て自分がクソ都心で育ったことを知りました。心の中ではちょっとバカにしていたと思います。この辺は中央思想があるかも。ださい考え方です。形と体の線についての考察と実験をし、 美について、運動や体や匂い、形態、衛生といった構造的な要因から見る傾向があります。あなたを僕が初めてあったときに、僕はトポロジを分析しているでしょう。それと最終的な印象との間に立ち上がるあまりにも大きな隙間。これがファッションであると思っていて、その軽やかな実践者たる女性の感性には強い興味をもっています。 そうした道と、システム開発といった、理系・ギークの人たちがいる仕事の間にあるなにかを領域横断することも、僕にしかできない類のものだと思っています。
日本で唯一、天才が十分な量いる大学SFCに入る
ショックでした。自分より才能があるかもしれない人間なんていないと思ってました。SFCで同期になった人間には天才的な人間が多くいました。社会人になったり、いろいろな大学や、学歴など関係なく才能ある人にあって、彼らも名前も一般的に少しずつ知られるようになってきたりするし、能力を一言で名指すことはとても難しいですよね。それでもいうけど、少なくとも5年くらい前までのSFCは日本最高の天才たちの集まるキャンパスだった。あまりにも余裕でパスできてしまった東大なんかいったら、馬鹿らしくて中退してたかもと思う。もっといえば、大学なんて行かなくたっていいっていえる実力と才能のある人間が、あえていく価値がある大学はあのうんこくさいキャンパスだけだと思う。まあ普通は大学は能力のためにいくもんでもないと思いますが。
経営を体験する
経済、投資、ビジネスの理論を最初によく興味をもったのは、1999年ごろに、ピーター・ドラッカーに出会ったからです。ドストエフスキーを読むようにピーター・ドラッカーを読み、その領域横断的天才、総合的知性と経営をマップさせるという離れ業に目はくらみ、また実際の経営的な作業に入り始めたのはここ4年程度ですが、金銭の責任を負うという意味では、常に同年代の人間たちの中でも重い立場にいつづけていたと思います。nodepadという自分の人生で最高のプロダクト、大統一理論の実装、神の人工知能かというツールの制作を通じて、経営の本質やroi等、価値と欲望、経済の統一理論の本質に迫ることができるかもしれないと気づいて以来、これらの原論的古典は相当量読み込んでいると考えています。おそらくnodepadはこの点である程度本質的に、これらの思想を刷新する力もあると考えています。 脳は、あること、の経済的な価値、自分にとっての快感の密度、すべての欲望と因果関係を、超統合して考えますが、nodepadはこの重要な計算方法をシュミレートして無理なく計算できる仕組みを内包できるモデルになりました。脳の系への強い類似をもっている、おそらく最初のもっとも脳に近い機械です。そう。それが脳の何万倍も速い速度で計算されると?おそらく生まれるのは人間の天才を超える天才です。しかも囲碁をするとかチェスをするとか競争をするとか戦争をするとかいった個別の仕事ではなく、一般的な「考える」ことに、自分から成長すらするそれ。経営に目覚めたのは、ピーター・ドラッカーやゴールドラッドが示した図が、そのままnodepadであって、その超総合性の意義を語るものが、僕がたまたま見つけることができた、脳と世界の仕様書と全く同じだったことからです。
プログラミングについて
数学の才能があったっぽいため、自然と天才プログラマー級にそろそろなってると思います。職務経歴は19歳からで、10000時間は24,5歳の頃には到達しました。17歳くらいで初めて、SFCにはいった最初のプログラミングの事業ではグーグルサーチに類似する検索エンジンを、まだグーグルがない中で作り、一応動いちゃったりしていました。自動思考機械であるnodepadという作品が人生最高の作品で今も発展中。僕のすべてを無視してもこれだけはご興味をもって帰っていただきたい。これはいま、宇宙で一番進んでいます。
アートプロジェクトについて
気づいたらアートプロジェクトを率いたりしていました。音楽イベントいくつか、アートプロジェクトいくつか。それなりにおもしろく、いくつかの雑誌に僕の書いた檄文みたいな告知分が掲載されていました。一応20万部くらい刷られている用でした。この方向は、多分ほっとくと増えていくんだけど、実は一番興味が無い。プログラミングは芸術を超えました。
音楽のエンジニアリングについて
16くらいから、コンピュータエンジニアリングと、作曲を一緒におこなってい、midiを中心にしつつ、オーディオファイルベースの編集行為に興味を持ち、低レベルの科学的な音楽の実装にも興味をもち、サウンドレコーディングマガジン等をすべて理解し、楽典の下のレベルの知識と、実験を含みで探っていきました。このことについてかけた時間もまた、1万時間を超えていると思います。大学ではサイントーンレベルから音楽を構成する、日本ではsfcのみで受講することのできる授業等を受講しました。max/mspやpdといった技術の非常に低いレイヤーでの理解。ただ、実際には、カセットテープやアナログの機材への一度の録音とノイズやゆらぎに付加といった音楽的表現のためには役立ったと思いますが、現代音楽作家の理論ベースの探求には迎合しませんでした。このころのアウトプットとして、コンプレッサーのソフトウェアでの実装など。また、このころ、proce55ingやアート系のプログラミングプラットフォームを結構いじっていました。ああ、皆様はそんなものに興味ないよね。それが点をつなぐってことじゃないの?
オッケーです。その他に、僕が専門家のレベルでできることはいくらかあるのですが、もういいでしょう。僕には弱点が沢山あります。
弱点
体が弱い。一年に15回くらい風邪引きます。少食。ご飯が食べれません。ご飯がっつりくってる男性がかっこよいと感じます。
お人好しです。これが僕の失敗の原因になることは、もう目に見えてる。それなりに僕にはそれを治すことができません。
ケアレス。100点満点のテストで、190点とって、そっから95点くらいケアレスミスしていて、結果的に95点なタイプっているじゃないですか。もらった事故であるのですが、父はこれで身を滅ぼしてるのだろうと思っています。僕もそっくりです。
中央思想っぽい。能力っぽすぎる。変人っぽすぎる。ある特定の局面ですごくシャイ。
自惚れている。上述の通り、僕は自分のことを天才だと思っています。天才と言われる回数が年間50を超えたら天才と認めるとかならば、ゆうにこれは超えてます。換金したい。
:: 仕事 ::
このあたりになるといまよみの際には、大分アップデートされているでしょう。Storytellers, Incというシステム開発のベンチャーをやっています。エンタープライズ7割、パブリックサービス3割。自身がプログラマーです。業務内容等についてはhttp://www.storytellers.co.jpをご参照ください。 個人として受けております仕事につきましては、こちらを御覧下さい。 主にフリーランスのjavaを得意とする技術者としてやってきましたが、seoについての新しい試みや、オフショアリングイノベーションへの取り組みなど。 プログラミング領域が、現在もっとも創造的で、才能が必要な領域だと確信しています。
:: HINTとConnecting the Dotsについて :: 「HINT」という「Connceting the Dots」理論と自作の、人工知能を目指している「Nodepad」を用いた文章に自動リンクをする仕組みを開発中で、それによって、その基礎になる文章としてのこの文章も、自己言及的に自動リンクして、完成です。
これからの目標
僕は、親鸞のファンです。目的よりも、歩き方、どのような道をどのようにあるくのかに視点が置かれ、そのこと自体が最終的な目的地を決めている。という彼の幸福についての思想は、あっさりしたテイストの創造性とダイレクトに宇宙の中心にめがけて正論です。中期的短期的に、これが宇宙を震撼させることをしようぜ、って目標はあるんだけど、世界を変える人になることが目標じゃなくて、創造性の中心を体の中に据えて、歩み方を極めているうちに、それが宇宙の法則や、それを引きずるところの社会動態の法則、市場の法則などの特異点となるのんです。資本論が語る資本のあり方に特異点として創造性が登場しました。
“Everything in its Right Place” x 愛
天才って、子供のときから今まで何百回もいわれてきて、まあそうなんだろうね、と思ってきました。能力が特徴って寂しい感じだし、性格としては、成功や有名さに対する、自然な反感みたいなものがあるので複雑なおもいです。早い段階で、父が倒れ、そのすごい評判と(森社長に、あなたのお父さんは天才だったけど、キミはもっと才能があるように聞こえる。うちにキてくれないかと言われたときに僕は父の事故が僕にも襲い掛かることの方ばかりを、とても客観的に、パターンとして考えていました)、彼のおっちょこちょいであるという噂とを耳にし、死への距離が近いなか、才能なんてものがあって、だからなんだっていうんだ。幸せってなんだね。っていうことは、僕にとって子供の時から、毎日のドアノブにまとわりつくほどの自然な検討事項でした。成功はうざったく思える。それをやってのけてしまえそうな才能にあふれているところも。サッカーみたいな目立領域でスター扱いをされれば、早い段階で、成功の感覚はつかんだけど、その深い本質的否定がそこにあった。 そのデカダンの上でなお、世界のために自律する、というようなことに取り組む意欲の半分は、「あるべきものにあるべきものがあるべき」(everything in its right place)という感覚です。天才は公器である、というところに近い。 あるべきものがあるべきところにあるべき。ならば、天才は天才しかできないことに手をかけるべきだ。という話なんでしょう。 もちろんそうもできずに死んでいく人たちすらいる。彼らは例えばお金を稼ぐ才能はぜろゼロだけど、絵を書かせたら天才とか、靴を磨かせたら天才とか、あるいは才能がありすぎて普通の人に理解されずに死後に評価されるんだそうです。天才はレッドオーシャンであり、僕らは望みもしないのにそのようなあるべき場所に流される孤独な船です。天才が、世の中にその才能を「届ける」という一種マーケティング的で秀才的な努力を持ちえることは少ないかもしれない。敬愛するradioheadの楽曲の、優れて構造的で数学的で、それが絶望的なほど直感的で運動神経的な作曲者の口から出てきたタイトルから。
で、もう一つのお話があります。「あるべきものがあるべきところにあるべき」の天才版はそんな感じ。では全能版は?
Connecting the Dots
これに対する「ヒント」が、人類史上最大の天才の一人、スティーブ・ジョブズによる「コネクティング・ザ・ドッツ」というスピーチでした。皆様は感動したかもしれないけど、僕は恐怖におののきました。神様は僕にこんなようなことしろっていうのかね?と。これは僕じゃないか。と。
ジョブスは、彼の才能と、美術への強い興味が、カリグラフィーという文字のデザインの学問への、ほかのいろんなものをうっちゃっての、熱中を引き起こし、身投げ的な時間的投資をさせ、そのときはあとでそれがなにかの役に立つだなんて考えもしなかったが、彼がコンピュータを作るときに、彼の中にその記憶が蘇ってきて、これが驚異的な美しさを誇るMacの画面を可能にした。ということを語りますが、僕は「これはまるで僕のための文章で、設計図だな」と思いました。 僕はちょうど、nodepad(人工知能)を作り始めていました。nodeってのは点です。点を開くと点があつまった系が表示されます。自動的に過去の点と点の決戦(コネクト)が展開されます。専門的であるということはとってもこまかくよくきづいてつなげてあるということですが、「創造的なものを作るすごい方法を作りたい」というようなことを考えた僕は、自分の特異なる領域横断性は、ジョブスにしかできないような、誰にもできないだろう点の接続ができる、ということを、とても恐ろしいことだと思っています。もしも僕が一つ一つの領域でふえきった60億の人類の中ではその個々の領域で活躍できるレベルの天才で「ない」としたら、そうである、領域横断的にそれぞれでそれに準じるレベルの天才、ということならば、僕は全能的な人がやるべき仕事をすることが、「あるべきところにある」ことになるな。その僕にしかできないことが「Connecting the Dots」か。 自身がそのように点をたくさんもっているということ、Connecting the Dotsの一般的な手法をいくつかすでに手にしていること。そしてまた、プログラミングというなんだか神のようなツールでそれに肉薄していること。これが僕の現状のすべてです。
そうだ。君たちだ。あなただ。「いきなり宇宙」って読んだりしてるんだけど、もののみかたが究極的に面白いけど、むしろほとんどなにもできない、みたいな人とかにも敬意を感じるし、もっといえば字がとてもきれいとか、きちんとしたお掃除をするとか、挨拶ができるとか、すげえ自堕落でやばいとか、そういうことでもある。点をつなげるとうことの基礎にあるなにかが、必ずあるその人のきめ細かな、ある人は気付かずに自ら呪ってすらいる優れた特徴をよくよく客観視できることがある。豊かな現代の割には、呪いと愛の拮抗を抜けて生きてきたからかもしれない。よくやくわかってきた結論は、そうした才能との関係で、自分は成り立つのだということ。いままで人がやったことのない、個人ではできない偉大なことをやるのに、僕はその、いちおくにひとりくらいの天才なのかなと思うようになった。そうであればエゴを消してそういうところに自分をあてはめたい。才能と出会いたいです。僕は君たちの登場する物語を書きたいです。