2016年5月末、「子どもに『置いていくよ』と行っている母親に対し、その子どもを連れ去る真似をしてみせる」という旨のツイートが話題となった。これは「犯罪(予備軍・未遂)に対する一般市民による懲らしめ行為」とも捉えられる。こうした行為の是否と、犯罪抑止のためのよりよい方策について考えてみたい。
子どもに「置いていくよ」と言っている母親に対し、その子どもを連れ去る真似をしてみせる人がいる
2016年5月30日、某広告代理店社員の男性がTwitterで「母親が子どもに『置いていくよ!』などと言って子どもから離れようとしている場面を見ると、子どもを抱き上げて連れ去る真似をしてみせる。いいことをしていると考えている」という主旨のツイートを行ない、賛否ともども話題になっている。
個人的にはこれはタイミング的に、父親が「しつけとして山中に置き去りにした息子がいなくなった」としている北海道の事件の報道(2016年5月29日)を受けての、「たとえしつけが理由であっても子どもを置き去りにするのは罪、責めるべき」ということを強調しようとしたツイートなのではと思っている。
ツイートが収録されているまとめはこちら↓。
※どちらかというと彼の行動を支持する旨のまとめなので、読んで辛くなりそうな人には非推奨
「母さん置いてくよ」を「いい所(警察)に行こう」で成敗したおじさん - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/981317
私には彼の行動はまったく支持できないし、フェミニズムの観点からいろいろ言いたいことはあるのだがここでは割愛する。
この話の根底を流れているのは、「罪を犯した・犯しそうな人を個人が責めることは、犯罪抑止のために有効な策であるか」「有効でないのであれば、より有効な策は何であるか」ということなのではないかと思う。以下、このテーマについて考えていきたい。
犯罪抑止のために最も有効な市民のありかたとは
「虐待、暴力、殺人、窃盗などは犯罪であり、絶対にいけないこと」というのはそもそもの大前提
心身の虐待や暴力、殺人、窃盗、違法薬物の使用などは犯罪であり、絶対にいけないことだ。それは論じるまでもなく大前提である。
しかし、こうした犯罪の「犯罪者」や「犯罪者予備軍」に対して、「お前のやっている・やろうとしているのは犯罪だ。お前は罪を犯しているんだ!」と罪の意識や罰を与えるだけのアプローチは、果たして犯罪抑止のために最も有効な策なのだろうか。
罪の意識や罰を与えることが有効に働くのは限られたケースでは
もちろん、単に無知であったり、罪の意識が軽いことによって軽犯罪を行なったりするタイプの犯罪者・犯罪者予備軍はいるだろう。こういうタイプにとっては確かに、罪の意識を与えたり、罰を与えることが有効に働きそうだ。その意味では、厳罰化も無駄な試みではないと思う。
しかし、犯罪者・犯罪者予備軍の中には、それが罪であることをじゅうじゅうわかっており、それに手を染めたくないと強く願いながら、それでも罪に追い込まれてしまうタイプもいるだろう。こういったタイプには、上記のやりかたは有効でないばかりか、さらに彼らを追い詰め、犯罪へと追い込んでしまう可能性さえあると思う。
また、自殺願望を持ちながら自分の力で自殺する勇気が持てず、「死刑にしてもらいたい」と願ってわざわざ殺人などを行なう破滅的なタイプもいるだろう。あるいは、貧困に苦しんでおり、職を得たり生活保護を受けたりするよりも軽犯罪を繰り返して実刑を受け、刑務所に入っていたほうが確実に食い扶持が得られるという理由で犯罪を行なうタイプもいるかもしれない。こういったタイプにとっては、厳罰化が逆に犯罪への誘因になりえるかもしれない。
以上の理由から、罪の意識や罰を与えることが有効に働くのは限られたケースではないかと私は考える。
彼らは私だったかもしれない
私は、彼ら「犯罪者」たちと自分がまったく異質の存在であり、彼らが極悪非道で血も涙もない人非人だ、などとはまったく思わない。彼らは私かもしれなかったのだ。
私はブログでもTwitterでも繰り返し公言しているが、実の母親を殺すかもしれなかった。心身ギリギリのところで必死に耐えていたが、このままでは私の心が壊れるか、母を殺すか、母に殺されるか、母を殺して自分も死ぬか、の結果しかないと思い詰めた。結局実家から逃げ出すことでなんとか解決をみたのだった。
経緯の詳細については以下の記事に書いている。
[ナラティブその2]実母に殺意を抱いた記憶
http://decinormal.com/2015/09/10/daughter_of_mother/
私が犯罪者にならなかったのは、「運が良かった」から
私は今、殺人を犯すことも自殺することもなく、こうして立ち直って幸せな生活を送っている。
しかしこんな日々があるのも、あのとき本当に幸運にも、逃げる先、助けてくれる人があったからだ。これらがなければ、私は本当に犯罪者になるか死ぬか、心神喪失に陥っていたに違いないと思う。
あなたは、いま紹介した記事にあるような環境がたとえばあと10年や20年、自分に降りかかりつづけ、なんの助けも来なかったとして、誰も殺さず、かつ心身まともに保って生きていられる自信が持てるだろうか? 私は持てない。
自分が誰かを傷つけてしまうかもしれない恐怖、罪を犯してしまうかもしれない恐怖にさいなまれたことのない人は、世の中にたくさんいるのかもしれない。そういう人の中には、「それは自分が正しい立派な人であるからで、自分の自助努力でもって犯罪を避けられているのだ」と思っている人もいるのだろう。
しかし、それは本当は勘違いなのだ。Aさんが誰も傷つけず、罪に手も染めずにいられるのは、Aさんがいままで、そうせずとも生きられる幸運に恵まれ続けてきたからなのだ。少なくとも私はそう思っている。
法の専門家が必要である理由
法律というと「絶対的なもの」とイメージしている人が多いかもしれない。「法律はぜったい守らなきゃいけないし、逆に法律に触れなければ何をしてもいい」といった感じに思ってる人もいそうだ。しかし、ほんとうは法律というのは不完全で相対的なもので、もっと柔軟に運用されている規律なのだ。
考えてみてほしい。法律を作っているのも(専門家とはいえ)人間だ。そして、完全な人間などというものはいない。しかも、時代はその法律制定当初から常に移り変わっていくし、社会を構成している人間たちは、ひとりひとりがみんな違う人間で、生きている環境も違う。すべての市民を杓子定規にひとつの法律で裁くなんてことはできないのだ。
そういう現実の中で、できるだけフェアかつ現実に沿った判断ができるように、人が理不尽な法でもって理不尽な形で裁かれたりすることのないように、三権分立という三つ巴の監視制度がある。そして三権のうちの司法裁判において、法律の専門家たちが一生懸命議論しながら、個別のケースについて現行の法律をどう解釈して適用していくかを決めていくのだ。
そして、「ものを盗んではいけないと法律で決まっているが、この人に関しては事情を考えると罪を100%問うのはかわいそうだよね」と、情状酌量がなされたりする。以下は最近のイタリアの最高裁のケースだ。
「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」イタリア最高裁の判決とは
http://www.huffingtonpost.jp/2016/05/11/stealing-small-amounts-of-food-when-in-need-is-not-a-crime_n_9900552.html
法というのは罪を裁くものでもあるが、法社会学的な捉え方によれば、その成立の根本的経緯は「市民の権利保護」にあるらしい。だから裁判では、原告にも被告にもフェアになるように、原告であろうが被告であろうがその人権が侵害されないように、過不足ない罪状を厳密に定めなければいけない。この作業には法に関する緻密な専門知識と、高い倫理観が必要だ。これが、弁護士や裁判官などの法曹が必要である理由だ。
「万人による万人に対する私刑」が支配する世の中を望むのか?
法で人を裁くのには法の専門家が必要であることはわかっていただけただろうか。
だから、一般市民が「○○はいけないこと→だから○○をした人は100%責めるべき」のように、罪と罰を直結させてしまう考え方をすることはとても危険なのだ。
厳密にいえば、そう考えることはかまわない。しかし、その考えのもと、誰かに対して「私刑を下す」ような行動に出てしまうのは非常に危険だ。この行動様式がよしとされて普及してしまうと、法の専門家が世の中に必要ないことになる。万人が万人に対して私刑を下すことがまかり通るようになってしまうのだ。
中世では、魔女裁判で罪のない(少なくとも、なかったかもしれない)女性たちが大量に殺された。「○○はいけない→ ○○をした人は100%責めるべき」「だから私が懲らしめてもいい。私刑を下してもいい」皆がこうした考え方でいると、世の中は中世に戻ってしまいかねない。
そんな世の中でいいのだろうか? そんな世界を、ほんとうに望む人がいるのだろうか? 少なくとも私は、「万人による万人に対する私刑」に支配される世の中は望まない。
他者を私刑でもって裁くなら、またあなた自身も私刑でもって裁かれる世の中がやってくる
罪を犯した誰かをその背景に寄り添わず責め立てることは、自分が正しい人になったような気がしてで気持ちいいかもしれない。しかし、そういう空気が広がっていけば、いつか自分で自分の首を締めることになる可能性がある。
あなたが苦しんでいるときに、誰かから「お前は罪人だ」と責め立てられ、私刑を下されるようになるかもしれない。あるいは、あなたは何も悪いことはしていないのに、冤罪でもって罪人に仕立て上げられ、罰を下されようになるかもしれない。皆が誰かを私刑でもって裁きつづけたら、そんな世の中がやってくるのだ。
それでもいい、それこそ正しい世の中だ、とあなたが言うならしかたがない。しかし、あなたはいざ逆に責め立てられる立場になったとき、そして世の中で誰ひとりあなたを庇ってくれる人がいなくなったとき、心身をまともに保って生きていられるだろうか? 私は人間はそんなに強い生き物ではないと思うし、少なくとも私はそんな自信はない。
犯罪抑止のためのより効果的な方策 ―裁くことは専門家に任せて
では、あなたが、子どもに対して「置いていくよ!」と言っている母親を見かけ、これに問題を感じ、虐待などの犯罪案件なのではないかと思ったら、どうしたらいいのだろうか。
まずは、自分の判断にまかせてその母親に私刑めいたことを行なうことは控えてほしい。理由は上に述べたとおりだ。
そして代わりにすると良いだろうと私が思うことは以下の3つだ。
- なぜ「絶対にいけないこと」をしてしまっているのか想像してみる
- 自分の対処によって事態が改善できないか考えてみる
- それでも改善が見込めそうにないなら専門機関に通報する
これらについて以下に詳細に解説する。
1.なぜ「絶対にいけないこと」をしてしまっているのか想像してみる
母親がどういった背景で子どもに「置いていくよ!」と言うに至ったかを想像してみる。「子どもの置き去りは虐待であり犯罪である、絶対にしてはいけないことだ」という義憤が邪魔するかもしれないが、どうか、「なぜこの母親は、その『絶対にしてはいけないこと』をしてしまうに至ったのか」を、想像力を総動員して考えてみてほしい。
好きこのんで人、それも頑是なき子どもを傷つけ、犯罪を犯そうなどという人は、それほど多くないのではないだろうか。母親の様子をよく見てみてほしい。血も涙もない冷たい人非人の表情をしているだろうか? 今にも泣き出しそうな、困りきった、切羽詰まった表情をしていたりしないだろうか? 髪を振り乱して、化粧はほとんどしていなくて、服はよれよれで、山ほど荷物を抱えていたりしないだろうか? いまは何時だろうか? 夕飯の時間にかかるような時間ではないだろうか?
このあたりを想像してもらうためには、このブログが参考になるかもしれない。生半可な言葉ではコントロールのきかない子どもに困り果て、追い詰められて最後の最後に、よくないとわかっていてつい「置いていくよ」を使ってしまう母親の気持ちが切々と語られている。
「悪い親」を懲らしめるのは、気持ちがいいですか? - ひびわれたまご
http://shinoegg.hatenablog.com/entry/2016/05/31/100503
2.自分の対処によって事態が改善できないか考えてみる
うまく母親の背景が想像できたら、自分が何か働きかけをすることで事態が改善しないか考えてみてほしい。困っていることが原因だと思われたら「何かお困りですか?」と母親に声をかけてみて、彼女が「実は…」と語るのを待ってみてもいいかもしれないし、子どもに「ほら、ママあそこで待ってるよ! ママのところに行こう?」などと言ってみるのもいいかもしれない。
(母子ともに精神的に余裕のなくなっているときだろうから、これらのアプローチが成功するとは限らないし、場合によってはあなたが声かけ不審者として通報されてしまうリスクもあるのが残念だが)。
3.それでも改善が見込めそうにないなら専門機関に通報する
上の2つを試みてみて、それでも事態が深刻そうで本格的に虐待・犯罪事案だと思ったときは、専門家に任せてほしい。つまり、児童相談所や警察に通報するということだ。
あなた自身が母親を裁くことは避けてほしい。あなたは(多くの場合)法についても児童虐待についても十分な専門知識がなく、資格もない素人であり、その母親の背景について普段から知っているわけでもない赤の他人である。
あなたが仮に法の専門家や、児童虐待についての専門家であっても、一人で判断することは危険だから、一人で対応することは避け、チーム間で共有してケースに当たるべきだと思う。
子どもを置き去りにしようとしている(またはそのふりをしている)母親のケースについて解説してみたが、たとえば、違法薬物で逮捕された著名人に対する対応策も基本的に同じものが必要だと思う。
1.「絶対に手を出してはいけない」違法薬物に手を出してしまった背景を想像してみる
最近(2016年現在)も、元プロスポーツ選手が違法薬物で逮捕されたばかりで、この人に関しては、完璧で強くあらねばならないプレッシャーや孤独が大きな背景のひとつだったとも言われている。
2.自分の対処によって事態が改善できないか考えてみる
この人を違法薬物の使用に追い込んだきっかけの大きなものがプレッシャーや孤独であるなら、この人に対し多くの人が受容的な態度をとり、完璧で強くあれというようなプレッシャーを与えず、孤独感にさいなまれないように心がけることが、結局はより効果的な再犯防止策となるのではないだろうか。
3.それでも再犯してしまったら、専門家による裁きのもと過不足なく罪を償ってもらう
違法薬物の使用は基本的に再犯率がとても高いと言われている。そのときはそのときで、専門家の裁きのもと罪を償ってもらえばいいのだ。あなたがこの人について感想を持つのは自由だが、あなたがこの人を裁く必要はないし、裁いていいだけの法的な権利もない(あなたが法的な被害者であれば、法に訴える権利はある)。
すべての人の人権が守られる社会を
以上、犯罪抑止のためのより有効と思われる方策について考えてみた。
犯罪の被害者であろうが加害者であろうが、その他の人であろうが、みな同じ人間だ。理不尽に苦しめられたり、なにかを奪われたりすることがあっていいとは思わない。
全ての人の人権が過不足なく守られますように。