http://mubou.seesaa.net/article/438251943.html
http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160527/1464310800
http://zaikabou.hatenablog.com/entry/20050606/1118050389
このへんをつらつらと読んでいた。
いや、自分でそういう内容を書いてたらふと気になったもんで。
別にどの意見に賛成とか反対とかないんですけど、ただ思うのは「その人にしか書けない」って技術的にはべらぼうに難しいものなんじゃないかってことなんですよね。
じゃあ技術的にどんなもんが「その人にしか書けない」なのかって考えてみる。
まず自分の生活とか日常に対する客観性。これがないと始まらないです。なんらかの点で「書く価値」って必要なんですよ。人の生活にはたいてい笑いってもんがあふれてたりあふれてなかったりするんですが、まあ日々の生活のなかで「おもしろい」と思うことがまったくないって状態も逆に考えづらい。毎日あるわけではないにせよ。でも、たとえば自分の子供が運動会で一等賞取ったとかはネタにならない。だれがどう書いてもおもしろく書くのは難しい。どこにでもあることだから。でもその人にとっては特殊なイベントだったわけですよ。
そんで、その人が、自宅の駐車場から家の玄関をくぐるまでのあいだにイノシシがいたとする。しかしその家のあるあたりはものすごい田舎だったりして、イノシシがいることはそんなに珍しいことではない。
この場合「書かれるべきこと」はあきらかにイノシシのほうなんですけど、その人のなかでそのちょっとした事件が「あたりまえ」に分類されてしまっている場合、これ書かれないですね。
だからまずは書かれるべき題材を選ぶ段階で「自分の見聞きした範囲のなかで、なにがニュースバリューがあるのか」ということを判断する能力が必要となってくる。
次に表現技術の問題です。
仮にイノシシの存在に気づいて、それが「ちょっとした」事件であると理解しても、画像と「イノシシがw」というテキストだけではどうにもならない。それをおもしろくするためにはなんらかの技術が必要となります。多くの場合テキストでしょうし、画像であってもそれなりの技術が必要となります。
ただそれでも、人の生活のなかにはいろんな珍しいことが起こります。何千人、何万人と人間がいれば事件性の高いものに出くわす人もいるでしょう。じゃ、それどういうところで発表されてるかっていえば、完全にツイッターだったり、あるいはLINEで身内で消費されるだけです。そして、そういうやりかたで充分なはずなんです。そしてそういうおもしろ事件だったり猫がなんかやらかしたっていうのは、現実にツイッター上でRTでいくらでも回ってくる。ちょっと分量が増えればまとめだってある。
早い話が、ブログってメディアは多くの人にとって「効率が悪い」んですよ。俺は、人が外部に向けてなにごとかを発信するのって「その場で共有されなかったから」だと思ってます。ニュースバリューが上がればより多くの人に共有してもらいたい。その場合、その人が感じた「共有してほしい」の範囲が大きくなってるだけです。「これ、おもしろいでしょ?」ということなんですけども、その手段としてブログなんてものを使う必要は別にないということです。もっともっと効率のいい手段、いまの時代いくらでもあるんですから。
ちなみに「その人にしか書けない」ということでは、その人独自の視点によって切り取られた世界というものがあります。でも、これこそはもっともハードルが高い。文章化なんて死ぬほどめんどくさい作業じゃないですか。そんな手段を使ってまで「共有されたい」と願うには、相当の鬱屈が必要です。あるいは、俺はこっちのパターンですけど「文章化の敷居が異常に低い」ということです。これは正直にいうと、書くという技術をなんらかの理由で身につけてしまった特殊な人間で、こういう人間っていつの時代も一定の比率でしか存在しないはずです。
俺、思うんですよね。俺自身が「呼吸でもするように」書くタイプの人間なんですけども、同時に俺には野心みたいなものがあまりない。ただ膨大な量の「書きたい」という欲求を持っていて、それにしたがって行動していただけです。でもそんな人間でも鍵かけて引きこもったツイッターのアカウントでも充分に満足できるんですよ。ちょっと書きたくなれば外部ツールあるわけですし。じゃあそこを乗り越えていくものがあるとしたらなんなのか、それは野心という名の強い承認欲求だけでしょう。それが「書く」という行為と直結している人は幸いというほかありません。
じゃあそうじゃない人はどうしたらいいのかっていったら、もうテンプレにでも頼るほかありませんわね。ブログという、この死ぬほどハードルの高いツールを使いこなすための欲望の源泉って、野心しかないと思ってます。だって、もっと簡単な方法いくらでもあるんですもん。
同時に、ブログってのは読む人の技術も必要とします。「その人にしか書けない」を読み取るためには、それ相応の訓練が必要だということです。
そんでなー、これはまた別の話題だからそのうち書くかもしれないけど、俺、いまの時代の病って「共感」だと思っていて、特にネットがこれほどまでに普及してしまった現代では、必要とされているのは「共感のための道具」だと思ってます。そう考えると「その人にしか書けない」ってむしろ邪魔な要素じゃないかと思う。毒にも薬にもならない筋トレに関するエントリに並ぶ共感ブコメ。これって互助会なりなんなりの文脈でとらえられることも多いですけど、実際には需要あるんじゃないかとも思っちゃうんですよね。つまり「毒にも薬にもならないけど、なんかよさげなことが書いてある」ブログに「共感した」というコメントをつけることで得られる参加意識のようなもの。「免罪符」って言葉が浮かびましたけど、実際は免罪符なのか免許なのかよくわからんですが、とにかくそういうなんらかの機能を持っていて、需要があるのではないか。実際はわかんないですけどね。
というわけで、俺の結論としては「その人にしか書けない」は、個人に強度にひも付けされているツイッターなりLINEなりってものがあるでしょうよと。そこからはみ出る「なにか」を持っている人だけがブログなんてものに向かうのだろう。そしてその「なにか」とは多くの場合、実績をともなわないただの野心であることが多い、と。
じゃあおまえはブログってもんはもうおしまいだと思ってるのか、どうしようもないテンプレに汚染されてもうおもしろいものは出てこないと考えてるのかというと、ここに関してはもう「楽観してる」としか言いようがないです。
俺は子供のころからフィクションと呼ばれるものが大好きでした。小説から始まって、マンガ、長じてはエロゲ、そしてラノベやらなんやらを湯水のごとく消費してきました。そして「もうこれ以上おもしろいものは出てこないのではないか」という危惧を持ったことは何度でもある。けどそんな危惧は常に現実の前に払拭されてきました。もちろんメディアは変わります。一時期あれほど「わけのわからない」才能の宝庫だったエロゲは、商品としての完成度を上げていって、いまではそうした才能に事故のように出くわすことは多くはないです。かわりに多彩なラノベが登場してきて、その質や量、幅といったものはたとえば20年前とは比較にならないです。そのラノベも「本当に力がある作品が見えてきづらい」みたいな状況になったところで、なろうなんていうそれこそ「わけのわからないもの」の採掘場が登場してきたわけじゃないですか。
俺は結局、いつの時代でも「おもしろいもの」を作れるのは少数の人間だけで、その才能がどこに集結するかだけの問題だと思ってます。たぶん、それがブログだった時代もあったというだけです。今後もそうであるかどうかはわかりません。少なくとも現代ではトゥギャッターとかのほうがおもしろいものは可視化されやすいと俺は思ってる。
じゃあブログってのものは死んだのかっていうと、決してそうではないと思う。文章ってツールはしぶといんですよ。いま「なにか長文をもちいてなにかを表現したい」と思って、それが小説の形式でなければやっぱりブログです。おもしろいものは結局生き残ります。多分にさまざまな犠牲を払いながら。
でも、それでもおもしろいものは残ります。
俺自身は、自分が文章を公表できる場所がありゃどこでもかまやしませんので、別にブログという形式にこだわる理由はまったくないです。ただ、これが楽だから使ってます。別のどこかではやはりだれかがそうしているかもしれない。
ネットがこれだけ大衆化した時点で、情報はもう濁流です。それはもう、そういうものでしかない。俺はその濁流のなかでなにごとかを発言しようとするだけ。逆に濁流のなかから必死になって魚を釣ろうとする人もいるのかもしれないです。
最終的には「おまえはなにものなのか」という話です。俺は書く人です。なので、周囲の状況がどうあれ、書きたいときには書きます。それ以外にどういう手段も持たない。別の人は読む人です。そうやってさまざまな人が、濁流のなかに手つっこんで、あれこれやるんです。濁流は役に立たないです。でもそれは「すべて」です。
で、あなたはなにができますか?