”ゆとり教育”を考えていて、”がんばっていきまっしょい”までいろいろと考えた
”ゆとり教育”が否定されとって、”ゆとり世代”が苦境に立っとるらしい。
否定されるゆとり世代「勝手に作ったんだから責任とって」 2016年05月29日 12:50 週刊女性PRIME
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=4016317&media_id=235
じゃあ”ゆとり世代”ってどの世代やねん?
って調べたら、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%86%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%95%99%E8%82%B2
”ゆとり教育と脱ゆとり教育受ける年代の変化”の表でもわかるとおり、AKBのメンバーは全員”ゆとり世代”ということになってまう。
伊達娘もかなりゆとり世代の中心やけど、1995年生まれ、というとゆかるんあたりがいっちゃんゆとりの中心になる。
けど、別に考え方がおかしいかというとそうでもない。
だいたい、”PISA、TIMSSの結果早見表”で点数が下がっとるのが、”ゆとり教育”の廃止の根拠となっとるらしいけど、そら授業時間数減らして覚えること減らしとるんやから、特定の教科が下がってまうのはアタリマエ。
だってそもそも、特定の教科ではなく、総合的な考え方をつけるためには、生徒に授業で詰め込み教育したらアカン、というのが根本にあったんやろ?
なんでそれが詰め込み教育に戻ってもたのか、のほうが問題や。
それでチェックしたら、上のWikipediaに
”国営企業の民営化を推し進めた第2次中曽根内閣の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で、「公教育の民営化」という意味合いの中で導入することでゆとり教育への流れを確立した[7]。”
とあって、”ゆとり教育”は総合的に考えられる子供を作るためではなくて、”国営企業の民営化”という、国鉄→JR、という民営化と同じ流れを、中曽根内閣が教育でも実現したという面のほうが強いみたい。
男女の雇用機会均等だって、女性の権利確立ということよりも、当時男女間の賃金差が激しかったことにかこつけて、女性の賃金に男性を下げる効果のほうが高かったことに注意せなアカン。
そうやって、日本政府とか、目先のことでいうと舛添みたいなヤツが、同じGDPの中でどうやったら自分の利益が増えるか?を考えて、
「自分が株とかに投資しても、それは一旦儲かるかも知れんけど損するかも知れん、継続的に儲けるには、やはり儲ける仕組みを作らなアカン」
と考えて、低賃金で労働させられる仕組みを作ってきたことを考えなアカン。
私は、日立製作所にいるときから、主任技師とかそれ以上とか、みんな、自分の目先の問題を誰かに振って、それを解決したことにしてまうことにものすごく違和感があった。
慶応ボーイの恐らく三田会の、インテリボンボン長井聡なんか、めっちゃええたとえやわなあ。
アイツ私に向かって、
「私たちは、誰かに仕事を振るのが仕事」
とか言うてきた。
誰かに仕事を振るのではなくて、自分で責任を取るのが仕事やろが、と私は考えて、3年目くらいやったけど徹底抗戦したら、インテリボンボン長井聡は私を徹底的にイジメてきた。
それがインテリのやりかたや。
それで、そのインテリで、確か湯布院映画祭で「がんばっていきまっしょい」を褒めたのが、当時文部官僚の広報で”ゆとり教育”を推し進めた寺脇研や。
寺脇研
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%84%87%E7%A0%94
「がんばっていきまっしょい」を褒めとったことだけは、強烈に覚えとる。
けど、いま改めて考えるに、書泉はグランデ・・・、もとい所詮は官僚、”ゆとり教育”を推し進めた責任は取ってない。
”ゆとり教育”を推し進めたこと自体は、私は悪くないと思う。
けれども、それが学校の民営化を推進することとなり、”ゆとり教育”を止めることになったことに及んで、寺脇研は、自分がどこで誤ったかの総括をしてない。
やっぱ、自分がどこで誤り、生徒だけでなく学校の先生までをも窮地に追い込んでしまった(個人的には威張りくさっていた学校の先生の責任も問いたいとこやけれども)かを、ちゃんと捉え直さな、自分の哲学的に破綻してまうんちゃうかと思う。
そこで、①自分の哲学 と、②日本政府に迎合すること と、2つの選択になるんやけど、寺脇研は官僚やから、自分の根底からの主張ではなく、②日本政府に迎合すること を選んでまうんやろ。
②を選んでまうところが、寺脇研も主体性のある労働者ではなく、評論家であると思うてまう。
寺脇研が”がんばっていきまっしょい”を褒めたというのは、さすがに私は記録に留めてはいないけれども、後々になってブログで書いとるヒトもおる。
私の中の見えない炎
おれたちの青春も捨てたものじゃないぞ まあまあだよ サティス ファクトリー 2014-08-23 女性万歳・磯村一路
http://ayamekareihikagami.hateblo.jp/entry/2014/08/23/104306
私、”がんばっていきまっしょい”でひとつ不満なのは、コレが作られたのは1997年や。公開は翌年やけど。
ならば、もうブルマなんてブルセラ以降やから廃れとるねん。
なのになんでブルセラの”ブル”そのものであるブルマを、田中麗奈ら女の子たちに履かせたのか?
1970年代の物語だから、というのはカンタンやけど、別に1997年の物語としてもよかったわなあ?
もちろん、原作が1970年代をモチーフにしとる、という言い訳も成り立つやろ。
けど、現代人に対して訴えたいならば、過去のおとぎ話にしてまうよりも、1997年の物語としたほうが、観客にはよりリアリティを持って受け入れられたはずやわなあ?
そう考えるとやはり、ロマンポルノを長く撮ってきたらしい磯村一路監督の、スケベ心が見える感じがする。
そのあたりがどうしても、私には受け入れられん。
いやもちろん、私はオトコ、という以前にオスとして、スケベ心はあるし、あって当然と思う。
けれども、自分にスケベ心があることと、まだ18歳に満たない者を含む女性に対して、オトコのスケベ心を満たすような格好をさせるかどうかというのは、ものすごい違いがある。
ココはおかしなところと指摘しておく。
寺脇研も、文部官僚=公僕やったんやから、そんな観点から主張できて当然やったんやけど、それをしてない・・・・もしかしたら考えも及ばんかったのかも知れん、そんなところに、私は日本政府の限界を感じるねん。
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