先月の長期休暇中、大学時代の友人で唯一未婚だった男性の結婚式に出席した。
ひと回り歳の離れた新郎新婦の披露宴。今までの経緯を思うと実に感慨深く、感動的な式だった。
新郎は知り合ってからずっと浮ついた話とは縁のない人物で、そのことについてよく仲間内でからかわれていた。
30歳になるまでずっと職を転々としていて、その歳を過ぎてから一人発起してとある資格を取り、今はその資格で独立までした。
新婦となる女性も、仕事の関係で知り合った人物だそうで、人生初の彼女と見事ゴールインしたというわけだ。
そして、まだ外見的には目立っていなかったが、彼女の胎内には子が宿っていて、まもなく彼も人の親となる。
式の最中、感動的な雰囲気に飲まれながらも、自分はどこか醒めた目で新郎を眺めていた。
三十路過ぎまで彼女なし。典型的な中年童貞。親不孝者。孤独死、待ったなし。
そんなレッテルでからかわれていた彼も、年内には子育てに悪戦苦闘する幸せな父親になる。
生物学的に言って、彼が繁殖に成功した個体であることは疑いようもない。
そう、恋愛については、しばしば生物学のレトリックで語られることがある。愛される個体は生物としての成功者であり、愛されない個体は淘汰される失敗作だ。
しかし、どうだろう。たとえ数多くの縁に恵まれなくとも、たった一人のパートナーと出会い、愛し合い、子をなすことができれば、それだけで次代を残すには十分なのだ。
たくさんの異性と出会い、いかに情熱的な恋愛遍歴を謳歌したとしても、子がいなければ遺伝子は受け継がれない。
そもそも、避妊を前提としたセックスを楽しんでいる時点で、それは生物学的なレトリックに似つかわしくない営みなのだろうか。
新郎は異性を知らないことを滑稽なほど恥じていた。自己嫌悪の塊のようだった。だが、彼は生物学的に言って敗者なのだろうか。
私はそうは思わない。今ではまったく思わない。彼は十分に勝者だ。その勝敗の差は極めて僅かな違いだとしても、完全な勝者なのだ。
他方、私は式の最中ずっと、薄っすらとした敗北感に浸っていた。私は淘汰される側なのではないか、と。
思春期のころから人並み以上に恋に溺れ、結婚を二度もしたにも関わらず、遺伝による不妊体質のせいで未だに子がない。
客観的にいえば、私は多くの出会いに恵まれていたし、異性と心を通わせる能力は人並み以上にあった(と思う)。
だが、その愛と経験を次代に繋ぐ望みはほとんどない。
20代の頃、私はこの新郎をはっきりと軽蔑していた。酔った勢いで説教したことすらある。
だが、むしろそんな自分こそ軽蔑されるべきだったかもしれない。その頃の自分は、人生の中にある不可抗力を認められないほど、若く未熟だったのだ。
事実、彼は灰色の青春を送ってきたのだろう。しかし、今やこうして命を次代に繋ぐ確かな手触りがあり、淘汰の網から逃れつつある。
ダーウィンが提唱した性選択による種の淘汰。その抗いようもない波を、彼は上手く乗りこなしたのだ。
ああ、そうか。自分は人生に幻滅しているんだな。
そう気づき、心がざわめき、自然と涙がこぼれた。大人げない自己憐憫に過ぎないというのに、皮肉にも式に感動をしているように見えただろうか。
私は、私という遺伝子の乗り物は、性淘汰という人智を超えた力に圧倒され、圧迫され、もはや息もできない。