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No title
猪野様は「特攻」の記事を何度もアップされていますが、ほぼ同じ内容を繰り返しておられるだけで読み手としてはいささか食傷気味です。ひょっとして猪野様ご自身も食傷気味なのではありませんか?
私も何度か意見を述べましたが、基本的には記事の内容に同感ではあります。
が、特攻隊として戦死した若者たちの心情についてもう少し踏み込んだ内容があっても良いと思います。
確かに、特攻は本質的には「強要された死」であり、特攻を拒否するなどとても出来ない空気もあったのでしょう。民主主義もありませんでしたし。
しかし、特攻隊の兵士の中には「日本の為になるならば」と信じ、純粋な使命感から志願した若者たちも少なからずいたと思います。たとえ、それが当時の偏狭な軍隊教育による強い影響(洗脳に近い)があったとしてもです。
人間は誰でも時代の制約からは逃れられないのですから。
そうした若者たちの損得を越えた「無私の精神」(古い言い方をすれば滅私奉公的精神・任侠の精神)に崇高さを見、非常な感銘を受ける日本人が少なからずいても不思議ではないと思います。。
それまでを「特攻の美化だ!」の一言でバッサリと切って捨て、否定するとすれば、それは如何なものかと思います。
投稿欄で猪野様に反発を感じたり批判があるのは、この辺りにもあるのでは?
ただし、無私の精神も滅私奉公も、なるべくなら国民の自由と権利を制限したい国家にとってはまことに都合の良いものでもあります。利用・悪用される危険性を秘めています。
企業においても、愛社精神とか滅私奉公の精神を称える経営者がいますが、ややもすれば、社員を安給料でこき使ったり、違法なサービス残業の「言い訳(欺瞞ですが)」に利用される危険性があります。
つまり、「無私の精神」を称賛するのは、諸刃の刃だと思います。
なお、特攻隊の無私の精神を称えるのであれば、「イスラムの聖戦」と信じて自爆したテロリストの精神も称えなければ矛盾していると思います。
私も何度か意見を述べましたが、基本的には記事の内容に同感ではあります。
が、特攻隊として戦死した若者たちの心情についてもう少し踏み込んだ内容があっても良いと思います。
確かに、特攻は本質的には「強要された死」であり、特攻を拒否するなどとても出来ない空気もあったのでしょう。民主主義もありませんでしたし。
しかし、特攻隊の兵士の中には「日本の為になるならば」と信じ、純粋な使命感から志願した若者たちも少なからずいたと思います。たとえ、それが当時の偏狭な軍隊教育による強い影響(洗脳に近い)があったとしてもです。
人間は誰でも時代の制約からは逃れられないのですから。
そうした若者たちの損得を越えた「無私の精神」(古い言い方をすれば滅私奉公的精神・任侠の精神)に崇高さを見、非常な感銘を受ける日本人が少なからずいても不思議ではないと思います。。
それまでを「特攻の美化だ!」の一言でバッサリと切って捨て、否定するとすれば、それは如何なものかと思います。
投稿欄で猪野様に反発を感じたり批判があるのは、この辺りにもあるのでは?
ただし、無私の精神も滅私奉公も、なるべくなら国民の自由と権利を制限したい国家にとってはまことに都合の良いものでもあります。利用・悪用される危険性を秘めています。
企業においても、愛社精神とか滅私奉公の精神を称える経営者がいますが、ややもすれば、社員を安給料でこき使ったり、違法なサービス残業の「言い訳(欺瞞ですが)」に利用される危険性があります。
つまり、「無私の精神」を称賛するのは、諸刃の刃だと思います。
なお、特攻隊の無私の精神を称えるのであれば、「イスラムの聖戦」と信じて自爆したテロリストの精神も称えなければ矛盾していると思います。
No title
人の生き死にについて簡単に「犬死」「無駄死」とレッテルを貼るのはどうかと。まさか依頼者の方をもそういう目で見ているわけではありませんよね?というかそこで「職業とは別」という目があるのがすごいな……。
いくら先生が否定しようと、(私を含め)今の人達はその人達の生き方の上に自分の生活を持っている。それを「犬死」で片付けられるのはたまったものではありません(先生が宇宙人だとか何もないところに一人で突然発生したというのなら話は別ですが)。
岩田氏の記事も読みましたが、そこまで嫌悪するような戦争礼賛というわけではなかったです(これは個人個人かもしれませんが)。
とりあえず「一つの思想が違えば全部否定」「現状を肯定したらみんなネトウヨ」はやめませんか。
いくら先生が否定しようと、(私を含め)今の人達はその人達の生き方の上に自分の生活を持っている。それを「犬死」で片付けられるのはたまったものではありません(先生が宇宙人だとか何もないところに一人で突然発生したというのなら話は別ですが)。
岩田氏の記事も読みましたが、そこまで嫌悪するような戦争礼賛というわけではなかったです(これは個人個人かもしれませんが)。
とりあえず「一つの思想が違えば全部否定」「現状を肯定したらみんなネトウヨ」はやめませんか。
No title
もはや「自分が犬死にと言ってるんだから、犬死にに決まっている」という論理ですね。
相変わらず俺の意見に反対する奴はみんな敵、と高圧的な文章です。
猪野さん、あなたのおかげで地球が回っているわけではありませんよ。
相変わらず俺の意見に反対する奴はみんな敵、と高圧的な文章です。
猪野さん、あなたのおかげで地球が回っているわけではありませんよ。
No title
「犬死」「無駄死」。ブログ主に全く同感です。これは亡くなった人に対してではなく、死を強要したものに対する怒りですね。「カミカゼ」「英霊」。これも戦争責任をそらすためのイヤな言葉です。これを使いたがるものほど死者を冒涜するものはないと思う。
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No title
結局、特攻隊員が無駄死にだとすると、特攻させた軍指導者が無能と誹りを受けるから、美化したいだけなんだよ。特攻隊員の死を悼むのではなく、単に当時の政府、軍指導者の面子を守りたいだけの気がする。
No title
確かに最近、特攻に関するものが多いなと思っています。
ブロゴスを見ていると、特攻を美化する人たちがあまりに多く、ついつい特攻を題材にしていました。
他の分野でも書きます。
それにしても、未だに特攻を美化したり、犬死だったことを認めたがらない人たちが少なくないことに驚かされます。
ブロゴスを見ていると、特攻を美化する人たちがあまりに多く、ついつい特攻を題材にしていました。
他の分野でも書きます。
それにしても、未だに特攻を美化したり、犬死だったことを認めたがらない人たちが少なくないことに驚かされます。
No title
特攻隊の方たちが後世の人たちから自分の死は犬死だったと言われていることを知ったらどんな思いをするでしょう。
たとえ特攻隊を生み出した者たちを批判するためであったとしても
後世の人たちから自分の死をそう言われるとは想像もつかなかったでしょう。
それこそ本当に犬死です。
どうせ逃げられないのならせめてこれから行なうことが後世の人になにか意味あるものであってほしい、
と切に願って飛び立ったのではないでしょうか。
懸命になって自分の死にがいを模索していたのではないでしょうか。
こういう感覚も美化にはいるのでしょうか。
犬死と簡単に言い切ってしまうその感性は一体どこから来るのかわかりません。
たとえ特攻隊を生み出した者たちを批判するためであったとしても
後世の人たちから自分の死をそう言われるとは想像もつかなかったでしょう。
それこそ本当に犬死です。
どうせ逃げられないのならせめてこれから行なうことが後世の人になにか意味あるものであってほしい、
と切に願って飛び立ったのではないでしょうか。
懸命になって自分の死にがいを模索していたのではないでしょうか。
こういう感覚も美化にはいるのでしょうか。
犬死と簡単に言い切ってしまうその感性は一体どこから来るのかわかりません。
No title
>犬死だったことを認めたがらない
人の死を悼むことと、暴言で終わらせる表現をすることは全然違うと思うのです。
先生は同じことを言っているかもしれませんが、伝わっていない以上は「受け取り方の問題だ」と切り捨てる以前に何か考えることがあるのではないかと思います。
人の死を悼むことと、暴言で終わらせる表現をすることは全然違うと思うのです。
先生は同じことを言っているかもしれませんが、伝わっていない以上は「受け取り方の問題だ」と切り捨てる以前に何か考えることがあるのではないかと思います。
No title
1つ思ったことですが、
実際に特攻・戦争で亡くなった遺族の方にも、面と向かって同じ事が言えるんでしょうか?
「犬死」の一言で切り捨てるような発言はどうかと思います。
実際に特攻・戦争で亡くなった遺族の方にも、面と向かって同じ事が言えるんでしょうか?
「犬死」の一言で切り捨てるような発言はどうかと思います。
事の真偽と心情
ちょっと、事の真偽と、心情を混同している方がいるようです。
この自爆攻撃自体は、無駄な行為で、要らぬ犠牲だと、自分も思います。
ただ、この行為に、個人として価値を持って行った(と思わざるを得なかったと考えてますが)こととは同列に扱えないと思います。
まして、関係者に面と向かって事実を突きつけられるかって言うのは、別次元の話ですし、論理をすり替えて、心情的に相手を黙らせる手法ではと勘ぐりたくなります(大阪にいい事例がありますから)。
この自爆攻撃自体は、無駄な行為で、要らぬ犠牲だと、自分も思います。
ただ、この行為に、個人として価値を持って行った(と思わざるを得なかったと考えてますが)こととは同列に扱えないと思います。
まして、関係者に面と向かって事実を突きつけられるかって言うのは、別次元の話ですし、論理をすり替えて、心情的に相手を黙らせる手法ではと勘ぐりたくなります(大阪にいい事例がありますから)。
No title
極左思想家は信仰がないのは知っていたが、死者への礼節もないことが良く分かる名文でした。
No title
「無駄死に」「犬死に」という表現への反応や、ご遺族に同じことが言えるのかというコメントがいくつかあるのを見て―。
まず、関連の記事はあくまでも、社会への警鐘です。弔問時の文言の提案ではありません。
戦果(本気でおっしゃっているのか?)としての説明もあるようです。ご遺族にとっては、命を失った方は「作戦や戦果の一部の数字」ではなく、かけがえのない人だったわけです。発信された記事の主旨は「戦時下とはいえ、人の命が意思のない道具同然の扱いを受け、無駄に失われた」「そこに少しでも意味があったかのような情報操作・発信は危険極まりない」であると私は読み取っています。
こちらの先月の記事になりますが、「特攻による死の強要 家族のために死を選んだなどと冒涜も甚だしい これこそが特攻の犠牲の美化そのものだ」(2015/10/28 13:12)のコメント欄で、お父様が特攻隊員だったという方が、一連の記事に声援をおくっていらっしゃいます。
この方がブログ主さんに声援を送ることを躊躇なさるような時代に戻らぬよう、
このような情報が繰り返し発信されているのだと思います。
まず、関連の記事はあくまでも、社会への警鐘です。弔問時の文言の提案ではありません。
戦果(本気でおっしゃっているのか?)としての説明もあるようです。ご遺族にとっては、命を失った方は「作戦や戦果の一部の数字」ではなく、かけがえのない人だったわけです。発信された記事の主旨は「戦時下とはいえ、人の命が意思のない道具同然の扱いを受け、無駄に失われた」「そこに少しでも意味があったかのような情報操作・発信は危険極まりない」であると私は読み取っています。
こちらの先月の記事になりますが、「特攻による死の強要 家族のために死を選んだなどと冒涜も甚だしい これこそが特攻の犠牲の美化そのものだ」(2015/10/28 13:12)のコメント欄で、お父様が特攻隊員だったという方が、一連の記事に声援をおくっていらっしゃいます。
この方がブログ主さんに声援を送ることを躊躇なさるような時代に戻らぬよう、
このような情報が繰り返し発信されているのだと思います。
No title
>社会への警鐘です
本文からそんな都合の良い解釈は出来ません。
誰も猪野さんの過去記事までわざわざ斟酌して読んではいません。
この文は「挑発」であり「冒涜」であり、何よりもBLOGOSでのアクセス順位を上げるための「釣り」に過ぎません。
本文からそんな都合の良い解釈は出来ません。
誰も猪野さんの過去記事までわざわざ斟酌して読んではいません。
この文は「挑発」であり「冒涜」であり、何よりもBLOGOSでのアクセス順位を上げるための「釣り」に過ぎません。
岩田温は研究者にあらず
このエントリーは岩田温という自称「政治学者」への反論から始まっています。ブログ主さんは岩田温氏を反論に値する存在と認識されているようですが、わたしが見る限り、とても「政治学者」と言えるひとではないようです。
まず、「~学者」と自称するという点が怪しい。「自分は文学者です」、「自分は経済学者です」と普通は言いません。たとえ、日本学士院会員であっても、普通は「物書きです」、「経済学を研究しています」という程度です。
岩田氏の著書はほとんどが自費出版に近く、出版費用と原稿を送れば出版してくれる出版社から出ています。研究者の本当の資質は論文の質で判断できますが、この点でも、岩田氏が論文と称するもののほとんどが『激論ムック』(オークラ出版)に掲載されています。これらも原稿を送れば掲載される種類の書き物です。まともな「学者」なら、著書、論文に一点ぐらいは査読済みのものがあるものですが、それが全くありません。
また、政治学の研究者なら日本政治学会、日本史の研究者なら史学会のような日本学術会議の協力学術研究団体に所属して、そこで自分の研究成果を発信しますが、自称「政治学者」の岩田氏にはそのような成果もありません。おそらく(ほぼ間違いなく)研究者としての評価はゼロでしょう。同業者に認めてもらって初めて一人前の研究者と言えるのです。
わたしがそれを確信するのは、ブログ主さんも言及されている「本当にあの戦争には『大義』はなかったのか?」というブログの次の部分があまりにもお粗末で粗雑だからです―
「日本人を奴隷にしてはならないという豊臣秀吉の素朴な愛国心。何としても日本を植民地にしてはならないという熱烈たる気概に満ちた明治維新の志士たち。彼らの想いが積み重なって、積み重なって、現在の日本があります。」
ここで岩田氏は何を念頭に置いて、「秀吉の愛国心」と言っているのでしょうか。果たして秀吉が生きた時代の人達が「愛国心」という概念を持っていたのでしょうか。天下を取るために相争っていた武将たちが「国の意識(ナショナリズム)」を持っていたということを、わたしは寡聞にして知りません。秀吉が「朝鮮征伐」をしたときに、彼の部下たちは敵兵の耳を戦果として持ち帰り、その供養として、京都の豊国廟の前に「耳塚」が後に建てられました。これが彼の愛国心の帰結だとしたら、「同胞」として悲しい(秀吉の「朝鮮征伐」も、後の西郷隆盛の「征韓論」も、ふたりが封建主義者だったことをよく示しています。「封建主義は一所懸命」)
長くなりそうなので、この辺で止めますが、上のような粗雑な議論を平気で展開する岩田温は無視してください。肯定するにせよ、否定するにせよ、言及に値しません。
まず、「~学者」と自称するという点が怪しい。「自分は文学者です」、「自分は経済学者です」と普通は言いません。たとえ、日本学士院会員であっても、普通は「物書きです」、「経済学を研究しています」という程度です。
岩田氏の著書はほとんどが自費出版に近く、出版費用と原稿を送れば出版してくれる出版社から出ています。研究者の本当の資質は論文の質で判断できますが、この点でも、岩田氏が論文と称するもののほとんどが『激論ムック』(オークラ出版)に掲載されています。これらも原稿を送れば掲載される種類の書き物です。まともな「学者」なら、著書、論文に一点ぐらいは査読済みのものがあるものですが、それが全くありません。
また、政治学の研究者なら日本政治学会、日本史の研究者なら史学会のような日本学術会議の協力学術研究団体に所属して、そこで自分の研究成果を発信しますが、自称「政治学者」の岩田氏にはそのような成果もありません。おそらく(ほぼ間違いなく)研究者としての評価はゼロでしょう。同業者に認めてもらって初めて一人前の研究者と言えるのです。
わたしがそれを確信するのは、ブログ主さんも言及されている「本当にあの戦争には『大義』はなかったのか?」というブログの次の部分があまりにもお粗末で粗雑だからです―
「日本人を奴隷にしてはならないという豊臣秀吉の素朴な愛国心。何としても日本を植民地にしてはならないという熱烈たる気概に満ちた明治維新の志士たち。彼らの想いが積み重なって、積み重なって、現在の日本があります。」
ここで岩田氏は何を念頭に置いて、「秀吉の愛国心」と言っているのでしょうか。果たして秀吉が生きた時代の人達が「愛国心」という概念を持っていたのでしょうか。天下を取るために相争っていた武将たちが「国の意識(ナショナリズム)」を持っていたということを、わたしは寡聞にして知りません。秀吉が「朝鮮征伐」をしたときに、彼の部下たちは敵兵の耳を戦果として持ち帰り、その供養として、京都の豊国廟の前に「耳塚」が後に建てられました。これが彼の愛国心の帰結だとしたら、「同胞」として悲しい(秀吉の「朝鮮征伐」も、後の西郷隆盛の「征韓論」も、ふたりが封建主義者だったことをよく示しています。「封建主義は一所懸命」)
長くなりそうなので、この辺で止めますが、上のような粗雑な議論を平気で展開する岩田温は無視してください。肯定するにせよ、否定するにせよ、言及に値しません。
No title
私も、「遺族の前で…」はあまりにずれていると思いました。
それ自体がかなり挑発的なので、どうしようかなと思いましたが(また、特攻ネタかと言われそうですが)、すり替えの議論の定番でもありますので、改めて意見を述べてみようと思います。
岩田温氏は、自称政治学者なのでしょうね。
全く世間からは相手にされていないのですが、ウヨク受けするのか、ネット界で幅を利かせているので、そのようなものばかりを蔓延させてはならないので、一石を投じたいと思っています。
それ自体がかなり挑発的なので、どうしようかなと思いましたが(また、特攻ネタかと言われそうですが)、すり替えの議論の定番でもありますので、改めて意見を述べてみようと思います。
岩田温氏は、自称政治学者なのでしょうね。
全く世間からは相手にされていないのですが、ウヨク受けするのか、ネット界で幅を利かせているので、そのようなものばかりを蔓延させてはならないので、一石を投じたいと思っています。
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No title
反論できないことは論点のすり替えと言い逃れすりし、猪野の文は岩田以下だよ。
でもやはり、
遺族としては気分の悪くなる記事です。
No title
>事の真偽と、心情を混同している方がいるようです。
「心情的」ということは遺族を出現させたり英霊扱いしたりすることでしょう。
ではここでいう「事の真偽」とはどういうことでしょう。
合理的が欠けている、成果・実績があまりなかった、
というような客観性の強い表現をさすのでしょう。
では「犬死に」はどちらでしょう。
しかもこれは決していい言葉ではないですよね。
人間をわざわざ犬に例えてるのですから当然です。
更に言えば貶める言い方に近いです。
つまり犬死という表現もどっぷり心情的ではないですか?
そして敬う言葉ではなく貶める言葉として。
No title
>>特攻は犬死にです。同じようにガダルカナルやインパール、沖縄で死んでいった人たち、東京大空襲で死んでいった人たち、原爆で命を落とした人たち、中国で戦死した人たち、みんな犬死にです。
↑本当の言いたいことは記事の締めくくりのこれでしょ?? ブログ主様的には、特攻問題は実は一部に過ぎないはずです。
しかし、理屈は置いておいて、原爆の被害者まで「犬死に」という表現方法を用いるのは如何なものかなと。
まぁ、普通は、「あなたがたの死を「無駄」にしないためにも、反核・反戦運動をしていきます」。と、原爆の日にスピーチされているようになるはずだが。
試しに聞いてみたいけど、
フランスは戦争宣言しているけど、この前にテロで亡くなった人も「犬死に」ですかね??、又、WW2では米兵も勿論死んでますが、この方達はどうでしょう??
戦争に勝ったから米兵は「犬死に」ではないとは、まさか言わないとは思いますが。
何かブログ主様の話は、安倍首相の批判でもそうですが、「嫌いなものは嫌い」そこに理屈は無いといってるようにしか聞こえないのですが。
↑本当の言いたいことは記事の締めくくりのこれでしょ?? ブログ主様的には、特攻問題は実は一部に過ぎないはずです。
しかし、理屈は置いておいて、原爆の被害者まで「犬死に」という表現方法を用いるのは如何なものかなと。
まぁ、普通は、「あなたがたの死を「無駄」にしないためにも、反核・反戦運動をしていきます」。と、原爆の日にスピーチされているようになるはずだが。
試しに聞いてみたいけど、
フランスは戦争宣言しているけど、この前にテロで亡くなった人も「犬死に」ですかね??、又、WW2では米兵も勿論死んでますが、この方達はどうでしょう??
戦争に勝ったから米兵は「犬死に」ではないとは、まさか言わないとは思いますが。
何かブログ主様の話は、安倍首相の批判でもそうですが、「嫌いなものは嫌い」そこに理屈は無いといってるようにしか聞こえないのですが。
No title
(コメント)
>それにしても、未だに特攻を美化したり、
>犬死だったことを認めたがらない人たちが少なくないことに驚かされます。
この文章を読んで唖然としました。
猪野さん、あなたは心の奥底では「思想・価値観の多様性」を否定してるんですね。
まさしく「俺の考えがすべて正しい」という雰囲気が露骨に出ています。
「正しいはず」の考えが否定されまくっているわけですが、
猪野さんのこの論理展開では当然の結果です。
(コメント)
>岩田温氏は、自称政治学者なのでしょうね。
>全く世間からは相手にされていないのですが、ウヨク受けするのか、
>ネット界で幅を利かせているので、そのようなものばかりを
>蔓延させてはならないので、一石を投じたいと思っています。
では聞きます。
あなたは何なんですか?
自称・政治学者ですか?自称・政治家ですか?違うでしょう?
岩田氏にケンカを売る意味がどこにあるんですか?
あなたは私たちと同様、国民の一人ですよ。
敢えて聞きます。
このテーマにおいて、弁護士という肩書を特別視していませんか?
>それにしても、未だに特攻を美化したり、
>犬死だったことを認めたがらない人たちが少なくないことに驚かされます。
この文章を読んで唖然としました。
猪野さん、あなたは心の奥底では「思想・価値観の多様性」を否定してるんですね。
まさしく「俺の考えがすべて正しい」という雰囲気が露骨に出ています。
「正しいはず」の考えが否定されまくっているわけですが、
猪野さんのこの論理展開では当然の結果です。
(コメント)
>岩田温氏は、自称政治学者なのでしょうね。
>全く世間からは相手にされていないのですが、ウヨク受けするのか、
>ネット界で幅を利かせているので、そのようなものばかりを
>蔓延させてはならないので、一石を投じたいと思っています。
では聞きます。
あなたは何なんですか?
自称・政治学者ですか?自称・政治家ですか?違うでしょう?
岩田氏にケンカを売る意味がどこにあるんですか?
あなたは私たちと同様、国民の一人ですよ。
敢えて聞きます。
このテーマにおいて、弁護士という肩書を特別視していませんか?
そうそう
>弁護士という肩書を特別視していませんか?
もう約4万人も開業している自営業者なんですよ、たかが。
もう約4万人も開業している自営業者なんですよ、たかが。
美化は責任の所在を曖昧にする
「資格の難易度」というサイトによれば、弁護士(ブログ主さん)や公認会計士(イーグルさん)は超難関のSとされています。国家試験や資格試験と無縁だったわたしには、難易度にかかわらず国家試験や資格試験を突破して、「~士」(同じ資格試験でも合格すると「~師」が付く資格もあって、資格を付与する機関が異なっている)と名乗ることのできる資格を手に入れた人たちを尊敬します。
日本国あるいは地方自治体によってその資格を保証された人たちは「自称~」と呼ばれることはありません。ただし、痴漢行為で現行犯逮捕された男が、取り調べ中に「弁護士です」と言えば、「容疑者、自称弁護士誰それ」というふうに報道されますが。
一方で、国家試験や資格試験のハードルを越えなくてもよい「職」もあって、「~学者」はその類いです。岩田温氏は自分のブログに「政治学者」と書いているので、「自称政治学者」とわたしが最初書きました。清湘遊郎さんのブログ主さんに対する「自称・政治学者ですか?自称・政治家ですか?違うでしょう?」という問いかけは全くのピント外れ、議論の流れを無視しています。(わたしの書き込みを見てください。岩田氏の「論文」はCiNiiで検索できます。わたしも以前議論の流れを無視して、産経新聞購読者さんに失礼な書き込みをしました。)
「清湘」さんは、「岩田氏にケンカを売る意味がどこにあるんですか?」とも問うています。ブログ主さんは「ブロゴスを見ていると、特攻を美化する人たちがあまりに多く、ついつい特攻を題材にしていました」と書いています。岩田氏のブログはそういう考えであふれています。豊臣秀吉の愛国心もその延長にあるのですね。特攻を美化するのはよいことではないのです。なぜか?
「特攻隊をはじめ、多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と書き込んでいるひとにお尋ねしますが、先の大戦で日本の戦没者の60%強の140万人が餓死でした。こういうひとたちの死が、現在の平和にどのように寄与したのでしょうか。いうまでもありませんが、兵士は二十代、三十代の働き盛りです。この人たちがジャングルの中で、「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいている」状態で死を迎えないで、生きて故国に戻り、日本の復興に尽くしたら、戦後の日本はもっと素晴らしい歩みを遂げたのではありませんか。ルースやゲーリッグから三振を奪った沢村栄治が27歳で戦死 (実際はフィリピンへ向かう途中に輸送船が撃沈された)せず、生きていたら戦後のプロ野球はもっと活況を呈していたでしょう(戦前に活躍したプロ野球の選手80名ほどが戦死)。
特攻を美化すること、あるいは「多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と先の大戦を総括してしまうと、有為の人材となるはずだった百万以上の若者を餓死させた責任が曖昧になってしまうのです(実際そうなっています)。同じことが21世紀の日本で、東電福島原発事故で起きています。事故の責任が曖昧なままなのです。死者は語りもせず、生き返ることもありません。しかし、無念の思いを抱いて南洋のジャングルやビルマの熱帯雨林の中で死んでいった多くの若者の死を無駄にしないためには、「現在の平和は皆さんのおかげです」というきれい事で済ましてはいけないと思います。同じことがまた起こりかねませんから。
「死者に対する冒涜」という表現も書き込みに見られます。昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。賊軍の頭として戦いに敗れ、殺された平将門の首級は塩漬けにされて、京都まで送られ、四条通西洞院東入ルで晒されました。豊臣秀吉の甥、秀次も三条河原でさらし首になり、その子供たちと妻妾、眷属(総数30名)も三条河原で処刑され、墓も造られませんでした。岩田温氏は、そういう秀吉を愛国者として称えているのです(論拠を示していませんが)。
「HNを使用してください」さんの問いかけ、「尊いも尊く無いも特攻隊員本人に特攻すること以外にその時何ができたか?」は自分で調べてください。別のエントリーの書き込みで紹介した『日本海軍400時間の証言』(新潮社2014)だけでも読んでください。
日本国あるいは地方自治体によってその資格を保証された人たちは「自称~」と呼ばれることはありません。ただし、痴漢行為で現行犯逮捕された男が、取り調べ中に「弁護士です」と言えば、「容疑者、自称弁護士誰それ」というふうに報道されますが。
一方で、国家試験や資格試験のハードルを越えなくてもよい「職」もあって、「~学者」はその類いです。岩田温氏は自分のブログに「政治学者」と書いているので、「自称政治学者」とわたしが最初書きました。清湘遊郎さんのブログ主さんに対する「自称・政治学者ですか?自称・政治家ですか?違うでしょう?」という問いかけは全くのピント外れ、議論の流れを無視しています。(わたしの書き込みを見てください。岩田氏の「論文」はCiNiiで検索できます。わたしも以前議論の流れを無視して、産経新聞購読者さんに失礼な書き込みをしました。)
「清湘」さんは、「岩田氏にケンカを売る意味がどこにあるんですか?」とも問うています。ブログ主さんは「ブロゴスを見ていると、特攻を美化する人たちがあまりに多く、ついつい特攻を題材にしていました」と書いています。岩田氏のブログはそういう考えであふれています。豊臣秀吉の愛国心もその延長にあるのですね。特攻を美化するのはよいことではないのです。なぜか?
「特攻隊をはじめ、多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と書き込んでいるひとにお尋ねしますが、先の大戦で日本の戦没者の60%強の140万人が餓死でした。こういうひとたちの死が、現在の平和にどのように寄与したのでしょうか。いうまでもありませんが、兵士は二十代、三十代の働き盛りです。この人たちがジャングルの中で、「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいている」状態で死を迎えないで、生きて故国に戻り、日本の復興に尽くしたら、戦後の日本はもっと素晴らしい歩みを遂げたのではありませんか。ルースやゲーリッグから三振を奪った沢村栄治が27歳で戦死 (実際はフィリピンへ向かう途中に輸送船が撃沈された)せず、生きていたら戦後のプロ野球はもっと活況を呈していたでしょう(戦前に活躍したプロ野球の選手80名ほどが戦死)。
特攻を美化すること、あるいは「多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と先の大戦を総括してしまうと、有為の人材となるはずだった百万以上の若者を餓死させた責任が曖昧になってしまうのです(実際そうなっています)。同じことが21世紀の日本で、東電福島原発事故で起きています。事故の責任が曖昧なままなのです。死者は語りもせず、生き返ることもありません。しかし、無念の思いを抱いて南洋のジャングルやビルマの熱帯雨林の中で死んでいった多くの若者の死を無駄にしないためには、「現在の平和は皆さんのおかげです」というきれい事で済ましてはいけないと思います。同じことがまた起こりかねませんから。
「死者に対する冒涜」という表現も書き込みに見られます。昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。賊軍の頭として戦いに敗れ、殺された平将門の首級は塩漬けにされて、京都まで送られ、四条通西洞院東入ルで晒されました。豊臣秀吉の甥、秀次も三条河原でさらし首になり、その子供たちと妻妾、眷属(総数30名)も三条河原で処刑され、墓も造られませんでした。岩田温氏は、そういう秀吉を愛国者として称えているのです(論拠を示していませんが)。
「HNを使用してください」さんの問いかけ、「尊いも尊く無いも特攻隊員本人に特攻すること以外にその時何ができたか?」は自分で調べてください。別のエントリーの書き込みで紹介した『日本海軍400時間の証言』(新潮社2014)だけでも読んでください。
No title
>こういうひとたちの死が、現在の平和にどのように寄与したのでしょうか。
寄与したかどうか、などという問題ではなく、私は(誰であっても)「責任は追及してもいい、批判もしてもいい、しかし(人の人生を)裁いてはならない」と思っています。
(ただし現代における「法」は「法」です)
その当人にもし自分がなったら、あんなに自分が非難している人間と同じ行動をとらないとは絶対に言えない。
また、戦争での行いは、「じゃぁ(相手の国は)どうなんだ」と言えば堂々巡りになるでしょう。直接的であれ間接的であれ、手を血に染めなかった人など誰もいなかった、それを踏まえた上で「戦争を繰り返してはならない」のではないかと思います。
必要以上に死者を貶めてほしくはないです(親類が戦地で死んだのが確定している者として)
>昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした
まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので(それを言ったらもう歴史学者とかの出番)深くは言いませんが、逆に将門も道真も祭り上げられています(祟りがあったから手のひら返しという見方もありますが)。
秀吉の晩年の阿呆ぶりは確かに非人道的ですが、逆に「本当にあったのか?徳川家…話盛ってません?」という部分もないわけではありません。見ていない(真偽が分からない)以上は100%「お前が悪いんじゃぁぁぁ」と言うこともできないのではと思いますし、時代の価値観は多少なりとも考慮すべきだと思います。
誰を支持しているからこいつは100%非難していいというわけでもないでしょう。
なんだかとりとめなくなってきたので自分からは以上……。
寄与したかどうか、などという問題ではなく、私は(誰であっても)「責任は追及してもいい、批判もしてもいい、しかし(人の人生を)裁いてはならない」と思っています。
(ただし現代における「法」は「法」です)
その当人にもし自分がなったら、あんなに自分が非難している人間と同じ行動をとらないとは絶対に言えない。
また、戦争での行いは、「じゃぁ(相手の国は)どうなんだ」と言えば堂々巡りになるでしょう。直接的であれ間接的であれ、手を血に染めなかった人など誰もいなかった、それを踏まえた上で「戦争を繰り返してはならない」のではないかと思います。
必要以上に死者を貶めてほしくはないです(親類が戦地で死んだのが確定している者として)
>昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした
まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので(それを言ったらもう歴史学者とかの出番)深くは言いませんが、逆に将門も道真も祭り上げられています(祟りがあったから手のひら返しという見方もありますが)。
秀吉の晩年の阿呆ぶりは確かに非人道的ですが、逆に「本当にあったのか?徳川家…話盛ってません?」という部分もないわけではありません。見ていない(真偽が分からない)以上は100%「お前が悪いんじゃぁぁぁ」と言うこともできないのではと思いますし、時代の価値観は多少なりとも考慮すべきだと思います。
誰を支持しているからこいつは100%非難していいというわけでもないでしょう。
なんだかとりとめなくなってきたので自分からは以上……。
No title
>gobigred 様
>「資格の難易度」という~議論の流れを無視しています。
残念ながら議論の流れを無視しているのは貴方の方ですね。
私のコメントの趣旨は、
猪野さんが自称政治学者・岩田氏に対してウヨクの増長を嫌悪するあまり
穏やかじゃないことを企んでいることに対して、
政治学者ではなく弁護士である猪野さんが入れ込み過ぎていることを牽制したものです。
したがって、ここから以前の貴方のコメントは、私にとって何の価値もありません。
それと、私は特攻を美化してはいません。猪野さんがいくら力説しても過去は変わらないと言っているんです。
ということで、
>「特攻隊をはじめ、多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と~(戦前に活躍したプロ野球の選手80名ほどが戦死)。
これはただのタラレバ話。
日本は高度経済成長をしてきたのですから、
特攻の美化を否定するためにタラレバ話をするという論理展開の意味が分かりません。
まあもっと高度な成長はできた可能性はあるとは言っておきますが。
私はgobigredの言いたいことがわからないというつもりはありませんが、
正直言ってまともな反論を頂いた気がしていません。
>「資格の難易度」という~議論の流れを無視しています。
残念ながら議論の流れを無視しているのは貴方の方ですね。
私のコメントの趣旨は、
猪野さんが自称政治学者・岩田氏に対してウヨクの増長を嫌悪するあまり
穏やかじゃないことを企んでいることに対して、
政治学者ではなく弁護士である猪野さんが入れ込み過ぎていることを牽制したものです。
したがって、ここから以前の貴方のコメントは、私にとって何の価値もありません。
それと、私は特攻を美化してはいません。猪野さんがいくら力説しても過去は変わらないと言っているんです。
ということで、
>「特攻隊をはじめ、多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と~(戦前に活躍したプロ野球の選手80名ほどが戦死)。
これはただのタラレバ話。
日本は高度経済成長をしてきたのですから、
特攻の美化を否定するためにタラレバ話をするという論理展開の意味が分かりません。
まあもっと高度な成長はできた可能性はあるとは言っておきますが。
私はgobigredの言いたいことがわからないというつもりはありませんが、
正直言ってまともな反論を頂いた気がしていません。
No title
皆さん、色々と理屈をこねるのは勝手ですが忘れてはいませんか。
特攻隊は人間です。犬ではないのです。
美化とか英霊だとか議論が白熱してますが
「人間の死」を「犬の死」で表現することはどういうことなのか、
これが議論の核ではないでしょうか。
そしてこれは右翼左翼の問題ではないですよ。
どうして犬を使った表現でなければいけないのか。
ナゼ犬死の表現でいいと固執するのか、
「無駄な死」ではどうしてだめなのか。
犬死派はそれにちゃんと答えていないんですよ。
美化とか英霊だとかで誤魔化しているだけですよ。
イデオロギーの問題でもないです。
もっと単純に答えてください。
特攻隊は人間です。犬ではないのです。
美化とか英霊だとか議論が白熱してますが
「人間の死」を「犬の死」で表現することはどういうことなのか、
これが議論の核ではないでしょうか。
そしてこれは右翼左翼の問題ではないですよ。
どうして犬を使った表現でなければいけないのか。
ナゼ犬死の表現でいいと固執するのか、
「無駄な死」ではどうしてだめなのか。
犬死派はそれにちゃんと答えていないんですよ。
美化とか英霊だとかで誤魔化しているだけですよ。
イデオロギーの問題でもないです。
もっと単純に答えてください。
gobigredさん
>>昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。
非常に不愉快にさせる発言をしてますね。しかも、その例が、平将門の頃とか笑わせる。
一連の他の方の書き込みでも、特攻の意義ではなく、死者に対する冒涜は止めようとする流れですよ。気づいてないんですかね。
真反対なんじゃないですか。
非常に不愉快にさせる発言をしてますね。しかも、その例が、平将門の頃とか笑わせる。
一連の他の方の書き込みでも、特攻の意義ではなく、死者に対する冒涜は止めようとする流れですよ。気づいてないんですかね。
真反対なんじゃないですか。
No title
>ひまわり 様
落ち着いてコメントをよく見直してみてください。
「無駄死に」=「犬死に」という意味でエントリーやコメントが交わされていますよ。
落ち着いてコメントをよく見直してみてください。
「無駄死に」=「犬死に」という意味でエントリーやコメントが交わされていますよ。
反論にかえて
皆さんからわたしの書き込みにいくつか反論を頂戴した。わたしの読解力不足から意味を理解できない箇所もありました。またわたしの表現力の不足から、誤読ではないかと思われるものもありました。例えば、
「非常に不愉快にさせる発言をしてますね。しかも、その例が、平将門の頃とか笑わせる。 一連の他の方の書き込みでも、特攻の意義ではなく、死者に対する冒涜は止めようとする流れですよ。気づいてないんですかね。真反対なんじゃないですか。」
はその例。岩田温氏の「豊臣秀吉は愛国者」という考えを批判するためにわたしが書いた最後の段落(この結論部分を見ればそれは明白)を見事に誤読しておられるようだ。ブログ主さんの主張は「特攻の意義/意味」だと思いますが、私もその流れで書いています。「死者を冒涜しない」のは当たり前です。
先の書き込みでは、岩田氏などの大戦の「美化」が責任の所在を曖昧にする「効用」をもたらしかねないということを指摘しました。野村克也の著書、『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』、は野球と人生の「振り返り」の核心を突いていて、味読の価値がありますが、それと同じです。勝利や勝者にではなく、敗戦や敗者に学ぶことこそ大事で、それが歴史に学ぶということではないでしょうか。わたしがいちばん言いたかったことは、
特攻を美化すること、あるいは「多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と先の大戦を総括してしまうと、有為の人材となるはずだった百万以上の若者を餓死させた責任が曖昧になってしまうのです(実際そうなっています)。同じことが21世紀の日本で、東電福島原発事故で起きています。事故の責任が曖昧なままなのです。死者は語りもせず、生き返ることもありません。しかし、無念の思いを抱いて南洋のジャングルやビルマの熱帯雨林の中で死んでいった多くの若者の死を無駄にしないためには、「現在の平和は皆さんのおかげです」というきれい事で済ましてはいけないと思います。同じことがまた起こりかねませんから。
このパラグラフにおひとりも言及なさっていなかったのが、残念。
ひまわりさんは、
どうして犬を使った表現でなければいけないのか。
ナゼ犬死の表現でいいと固執するのか、
「無駄な死」ではどうしてだめなのか。
犬死派はそれにちゃんと答えていないんですよ。
と主張する前に、一度国語辞典をお引きになるとよい。「犬死に」=「結果として何の役にも立たない死に方。むだじに」(『集英社国語辞典』)とあります。夏目漱石、「抗夫」には「「たのむわ、兵隊さん。も少し向こうのほうへ逃げましょうよ。ここで犬死にしてはつまらない。逃げられるだけは逃げましょうよ」 という用例もあります。菊池寛や織田作之助など、普通に使っていますが、最近はあまり使わなくなっているようです。「犬死」を使うひとは「無駄死」と同義で、文学作品にそういう意味で使われていたと答えることでしょうね、犬好きには嬉しくないことですが。「犬死」=「死者を冒涜」は短絡的です。
「非常に不愉快にさせる発言をしてますね。しかも、その例が、平将門の頃とか笑わせる。 一連の他の方の書き込みでも、特攻の意義ではなく、死者に対する冒涜は止めようとする流れですよ。気づいてないんですかね。真反対なんじゃないですか。」
はその例。岩田温氏の「豊臣秀吉は愛国者」という考えを批判するためにわたしが書いた最後の段落(この結論部分を見ればそれは明白)を見事に誤読しておられるようだ。ブログ主さんの主張は「特攻の意義/意味」だと思いますが、私もその流れで書いています。「死者を冒涜しない」のは当たり前です。
先の書き込みでは、岩田氏などの大戦の「美化」が責任の所在を曖昧にする「効用」をもたらしかねないということを指摘しました。野村克也の著書、『勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし』、は野球と人生の「振り返り」の核心を突いていて、味読の価値がありますが、それと同じです。勝利や勝者にではなく、敗戦や敗者に学ぶことこそ大事で、それが歴史に学ぶということではないでしょうか。わたしがいちばん言いたかったことは、
特攻を美化すること、あるいは「多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と先の大戦を総括してしまうと、有為の人材となるはずだった百万以上の若者を餓死させた責任が曖昧になってしまうのです(実際そうなっています)。同じことが21世紀の日本で、東電福島原発事故で起きています。事故の責任が曖昧なままなのです。死者は語りもせず、生き返ることもありません。しかし、無念の思いを抱いて南洋のジャングルやビルマの熱帯雨林の中で死んでいった多くの若者の死を無駄にしないためには、「現在の平和は皆さんのおかげです」というきれい事で済ましてはいけないと思います。同じことがまた起こりかねませんから。
このパラグラフにおひとりも言及なさっていなかったのが、残念。
ひまわりさんは、
どうして犬を使った表現でなければいけないのか。
ナゼ犬死の表現でいいと固執するのか、
「無駄な死」ではどうしてだめなのか。
犬死派はそれにちゃんと答えていないんですよ。
と主張する前に、一度国語辞典をお引きになるとよい。「犬死に」=「結果として何の役にも立たない死に方。むだじに」(『集英社国語辞典』)とあります。夏目漱石、「抗夫」には「「たのむわ、兵隊さん。も少し向こうのほうへ逃げましょうよ。ここで犬死にしてはつまらない。逃げられるだけは逃げましょうよ」 という用例もあります。菊池寛や織田作之助など、普通に使っていますが、最近はあまり使わなくなっているようです。「犬死」を使うひとは「無駄死」と同義で、文学作品にそういう意味で使われていたと答えることでしょうね、犬好きには嬉しくないことですが。「犬死」=「死者を冒涜」は短絡的です。
No title
猪野様には今後も「犬死に」という言葉をお使い続けて欲しいです。
「犬死にとは死者に非礼だ、冒涜だ」などとギャースカ騒いでいる人達の言い掛かりに耳を傾ける必要はありません。
強い表現であればあるほど、先の大戦における日本の政府・軍部指導者たちの愚劣さが浮き彫りになります。
怒りの矛先は猪野様の「犬死に」の使用に向けるのではなく、兵士たちを「犬死に」させた当時の政府・軍指導者にこそ向けるものです。
特攻隊員たちの純粋な気持ちを利用した卑劣な指導者たちに怒りを覚えます。
特攻で死亡した兵士、海上を移動中に乗船が沈められ、死亡した陸軍兵士(18万人以上にも上るとか)は、まさしく、政府・軍部指導者によって「犬死に」させられたのです。
自分は一番安全な場所にいて机の上で兵士たちを将棋の駒か牛馬のように扱っていた参謀本部の連中など許しがたい。
未来ある若者を犬死にさせた「お偉い方」は、あのインパール作戦の軍司令官だった牟田口元中将のように、己を正当化し、失敗の責任を部下将兵に転嫁し、ぬくぬくと戦後を生きた。(もちろん、例外もいますが少数だ※)
※
BC級裁判では、「部下に責任は無い。全ては上官である私の責任です」と、責任を一身に背負って死刑を受けた将校もいました。
「犬死にとは死者に非礼だ、冒涜だ」などとギャースカ騒いでいる人達の言い掛かりに耳を傾ける必要はありません。
強い表現であればあるほど、先の大戦における日本の政府・軍部指導者たちの愚劣さが浮き彫りになります。
怒りの矛先は猪野様の「犬死に」の使用に向けるのではなく、兵士たちを「犬死に」させた当時の政府・軍指導者にこそ向けるものです。
特攻隊員たちの純粋な気持ちを利用した卑劣な指導者たちに怒りを覚えます。
特攻で死亡した兵士、海上を移動中に乗船が沈められ、死亡した陸軍兵士(18万人以上にも上るとか)は、まさしく、政府・軍部指導者によって「犬死に」させられたのです。
自分は一番安全な場所にいて机の上で兵士たちを将棋の駒か牛馬のように扱っていた参謀本部の連中など許しがたい。
未来ある若者を犬死にさせた「お偉い方」は、あのインパール作戦の軍司令官だった牟田口元中将のように、己を正当化し、失敗の責任を部下将兵に転嫁し、ぬくぬくと戦後を生きた。(もちろん、例外もいますが少数だ※)
※
BC級裁判では、「部下に責任は無い。全ては上官である私の責任です」と、責任を一身に背負って死刑を受けた将校もいました。
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No title
片割月さんが「犬嫌い」なのはあなたのブログ記事で分かっているけどさ、日本には1.500万頭の犬が家族として飼育されているのですよ。猪野さんにも何度も書いたけど「犬死」って騒がれると本当に不愉快になる。少なくとも1.500万頭を家族とするそれ以上の数の日本人の共感を失う。「無駄死」になさってくださいな。あなたたちの意見が色まみれになってしまいますよ。
No title
>「犬死にとは死者に非礼だ、冒涜だ」などとギャースカ騒いでいる人達の言い掛かりに耳を傾ける必要はありません。
こういう表現は非常に失礼だと思います。犬死反対派からすれば、言いがかり、聞くに値しないと断言される理由はないし、そうした高圧的な態度では反感を買うだけでしょう。gobigredさんの様な謙虚さのある文章なら十分読む気持ちになりますが、貴方の文章は読む気にすらなりません。ヒステリックな人間が書いてるな、やれやれと思うだけです。
常々、疑問なのは、左寄りの方は反戦、平和、人権が好きな筈なのに、このブログを読んでると、自分と異なる意見に挑発的、攻撃的になる左寄りの方が結構多いなと感じます。そんなことで反戦、平和が実現するのでしょうか?
No title
「犬死に」という言葉をつきつけられていい気分になる方がいらっしゃるはずもありません。しかし、gobigredさんが書かれているように、「犬死に」という言葉は多くの辞書に記載されている一般的な表現です。(私もそう思ったのですが、なんとなく書けない雰囲気でした。)英語では、for nothing、つまり意味のない、無駄なという表現、胸が痛くなります。
また、この表現は、ブログ主さんの造語ではありません。(その意味では、出版社等にご意見されては、と思うこともあります)要はその悲惨な死についての意味が問われているのだと思います。
こちらのブログでは、ごく普通に日々生活していた人々を「犬死に」(←繰り返しますが、辞書的な一般的な意味です)させた当時の軍及び政府が批判されているのであって、(近い)将来にも、そんな「死」をひとつも出してはならないとのメッセージが繰り返されているのだと思います。
言ってみれば、無駄に命を失わざるを得なかった人々は、お気の毒な、戦争の「被害者」であり、当時の軍や政府は「加害者」でした。
「お国のため」と騙された被害者であり、なんとなく騙されていると知りながら
「それを問うこと」さえ許されなかった被害者もいらしたことでしょう、怖ろしいことに。
このような方々は、霊になった今でも(霊の存在があるとすれば)、戦後70年を経た今でも、「あななたちはお国のために『いい死に方』をしたんですよ」と騙され続けなければいけないのでしょうか。洗脳され続けなければいけないのでしょうか。いずれにしても、とてもお気の毒です。
二度と国によって命がモノのように粗末に扱われるような時代にならないように
祈るばかりです、小さな声しかあげられないけれど。それが無駄に命をなくされた方々への供養になると信じます。政治的な立ち位置などに関係なく、です。
親戚の家に、戦死した人の遺影がありますが、もちろん出征前に撮影されていたものでしょう。手をあわせる高齢の人たちは「陽ちゃん、ごめんね」と名前で呼びかけていました。実際には会ったこともないこの人は、高校野球に出てくるような、まだあどけなさが残る顔をしています。
また、この表現は、ブログ主さんの造語ではありません。(その意味では、出版社等にご意見されては、と思うこともあります)要はその悲惨な死についての意味が問われているのだと思います。
こちらのブログでは、ごく普通に日々生活していた人々を「犬死に」(←繰り返しますが、辞書的な一般的な意味です)させた当時の軍及び政府が批判されているのであって、(近い)将来にも、そんな「死」をひとつも出してはならないとのメッセージが繰り返されているのだと思います。
言ってみれば、無駄に命を失わざるを得なかった人々は、お気の毒な、戦争の「被害者」であり、当時の軍や政府は「加害者」でした。
「お国のため」と騙された被害者であり、なんとなく騙されていると知りながら
「それを問うこと」さえ許されなかった被害者もいらしたことでしょう、怖ろしいことに。
このような方々は、霊になった今でも(霊の存在があるとすれば)、戦後70年を経た今でも、「あななたちはお国のために『いい死に方』をしたんですよ」と騙され続けなければいけないのでしょうか。洗脳され続けなければいけないのでしょうか。いずれにしても、とてもお気の毒です。
二度と国によって命がモノのように粗末に扱われるような時代にならないように
祈るばかりです、小さな声しかあげられないけれど。それが無駄に命をなくされた方々への供養になると信じます。政治的な立ち位置などに関係なく、です。
親戚の家に、戦死した人の遺影がありますが、もちろん出征前に撮影されていたものでしょう。手をあわせる高齢の人たちは「陽ちゃん、ごめんね」と名前で呼びかけていました。実際には会ったこともないこの人は、高校野球に出てくるような、まだあどけなさが残る顔をしています。
横レス失礼
特攻を美化している、と批判なさっている方がいるようだが、特攻それ自体を美化している人間など誰もいない。
つまり架空の相手を設定してこれを叩くという、詭弁の論法になってしまっている。ストローマンというやつですね。
無意識にやられているのであれば、論理を整理した方が良いですよ。
つまり架空の相手を設定してこれを叩くという、詭弁の論法になってしまっている。ストローマンというやつですね。
無意識にやられているのであれば、論理を整理した方が良いですよ。
死者の声に耳かたむけよ
「死者への冒涜」について、多くの人が様々の書き込みをされていて、それぞれの思いがこもっていました。わたしが平将門と豊臣秀吉の例を挙げたら、古すぎて笑ってしまったひともいたようです(岩田関連であっても、確かに少し古すぎました。すみません)。
死者への冒涜の比較的新しい例として、1964年のカーティス・ル・メイの受勲(勲一等旭日大綬章)をあげましょう。日本の焦土化作戦を立案し、東京大空襲を指揮したこの「鬼畜ルメイ」、「皆殺しルメイ」に、終戦後20年を経ぬ時に日本は叙勲したのです。まだたくさん生存していた、空襲によって親族を失ったひとの感情を逆なでしただけなく、まさに空襲による死者に対する冒涜でした。昭和20年3月18日、東京大空襲から8日後に天皇の視察があったのですが、「天皇が視察にくるので、空襲で死亡した人たちの遺体をまとめて東陽公園に埋葬したという話を聞かされたある男性は、自分の妻子がそこにいっしょくたに放りこまれ、もう探しようもない事態となっていた顛末に、『憤懣やりきれぬ自分をおさえながら、それからは深川枝川町で朝鮮人とともに生活するようになった』という」(早乙女勝元、『東京大空襲』)。これも死者への冒涜と考えるひともいるかもしれません。
他にも、連合軍総司令官のマッカーサー宛てに、日本中から「あなたと結婚したい」、「あなたの子供を産みたい」という手紙が届いたそうです。フィリピン戦線でマッカーサー率いる米軍に破れ、殺された人達は浮かばれないでしょう。
以前の書き込みで沢村栄治に触れました。彼が三度目に徴兵されて戦死した1944年10月には日本は敗戦必至でした。にもかかわらず20代、30代の若者を戦地へ送っていたのです。半藤一利は「なんとあほな戦争をしたものか」と先の戦争を総括しています。「馬鹿な戦争」というにはあまりにも阿呆過ぎるということでしょう。敗戦必至となれば、敗戦後の国作りを考えて、少しでも人的資源の消耗を考えるものですが、それを日本はしませんでした。戦力の40% (30%だったかも) を失えば、戦争遂行は不可能で、白旗を揚げるものなのに、まさに「一億層玉砕」へ進んでいったのです。日本人は戦争をするのに向かない、と前にも書きましたが、同じことを繰り返します。でも、「戦争には向いていません」と言われるのは不名誉ではありません。褒め言葉です。美化を意図するときには、その下に醜いもの、見られては困るものを隠します。それを見ることが、我々の責務ではないでしょうか。いつでも我々は敗者や死者の声に耳を傾けなければなりません。
死者への冒涜の比較的新しい例として、1964年のカーティス・ル・メイの受勲(勲一等旭日大綬章)をあげましょう。日本の焦土化作戦を立案し、東京大空襲を指揮したこの「鬼畜ルメイ」、「皆殺しルメイ」に、終戦後20年を経ぬ時に日本は叙勲したのです。まだたくさん生存していた、空襲によって親族を失ったひとの感情を逆なでしただけなく、まさに空襲による死者に対する冒涜でした。昭和20年3月18日、東京大空襲から8日後に天皇の視察があったのですが、「天皇が視察にくるので、空襲で死亡した人たちの遺体をまとめて東陽公園に埋葬したという話を聞かされたある男性は、自分の妻子がそこにいっしょくたに放りこまれ、もう探しようもない事態となっていた顛末に、『憤懣やりきれぬ自分をおさえながら、それからは深川枝川町で朝鮮人とともに生活するようになった』という」(早乙女勝元、『東京大空襲』)。これも死者への冒涜と考えるひともいるかもしれません。
他にも、連合軍総司令官のマッカーサー宛てに、日本中から「あなたと結婚したい」、「あなたの子供を産みたい」という手紙が届いたそうです。フィリピン戦線でマッカーサー率いる米軍に破れ、殺された人達は浮かばれないでしょう。
以前の書き込みで沢村栄治に触れました。彼が三度目に徴兵されて戦死した1944年10月には日本は敗戦必至でした。にもかかわらず20代、30代の若者を戦地へ送っていたのです。半藤一利は「なんとあほな戦争をしたものか」と先の戦争を総括しています。「馬鹿な戦争」というにはあまりにも阿呆過ぎるということでしょう。敗戦必至となれば、敗戦後の国作りを考えて、少しでも人的資源の消耗を考えるものですが、それを日本はしませんでした。戦力の40% (30%だったかも) を失えば、戦争遂行は不可能で、白旗を揚げるものなのに、まさに「一億層玉砕」へ進んでいったのです。日本人は戦争をするのに向かない、と前にも書きましたが、同じことを繰り返します。でも、「戦争には向いていません」と言われるのは不名誉ではありません。褒め言葉です。美化を意図するときには、その下に醜いもの、見られては困るものを隠します。それを見ることが、我々の責務ではないでしょうか。いつでも我々は敗者や死者の声に耳を傾けなければなりません。
訂正
人的資源の消耗⇒人的資源の消耗を避けること
一億層玉砕⇒一億総玉砕
失礼しました。
一億層玉砕⇒一億総玉砕
失礼しました。
No title
まず、gobigred 様
死者の声に耳を傾けるということであれば、むしろ「犬死に」とか「無駄死に」という表現は、
失礼にあたりますね。
猪野さん
そもそも、「犬死に」、「無駄死に」って言葉、
亡くなられた一人ひとりを否定すると捕えられかねない表現だと考えなかったんですか?
猪野さんに対しての意見の多くはここにポイントがあって、
何故命令に従わざるを得なかった個人まで否定されなければならないのやら、
という意見もあったはず。
繰り返しになりますが、批判をしたければ対象は旧軍部に絞るべきであって、
実際に特攻で命を落とした個々人を軽率に批判してはならないと思います。
私は戦争反対であるし、特攻は止めるべきかつ今の時代はそんな愚策はやらないと
思っていますが、
猪野さんのこの「特攻=無駄死に・犬死に」という表現の意図に対しては、
絶対に支持はしません。
死者の声に耳を傾けるということであれば、むしろ「犬死に」とか「無駄死に」という表現は、
失礼にあたりますね。
猪野さん
そもそも、「犬死に」、「無駄死に」って言葉、
亡くなられた一人ひとりを否定すると捕えられかねない表現だと考えなかったんですか?
猪野さんに対しての意見の多くはここにポイントがあって、
何故命令に従わざるを得なかった個人まで否定されなければならないのやら、
という意見もあったはず。
繰り返しになりますが、批判をしたければ対象は旧軍部に絞るべきであって、
実際に特攻で命を落とした個々人を軽率に批判してはならないと思います。
私は戦争反対であるし、特攻は止めるべきかつ今の時代はそんな愚策はやらないと
思っていますが、
猪野さんのこの「特攻=無駄死に・犬死に」という表現の意図に対しては、
絶対に支持はしません。
No title
「英霊」という呼び方に過去の美化も戦争賛美もありません。ただただ不幸な時代に、本意であろうと不本意であろうと日本のために身を投じた方々に、敬意を持って、そう呼ぶことが何が愚かなことでしょうか?
(アジア・太平洋戦争を始め、明らかな劣勢になったてもまだ国体護持という目的だけで終戦まで遅らせて多大な犠牲を強いてきたのが当時の支配層です。)
⇒テロリストに寛容なブログ主も、相変わらず日本には非寛容的ですね。
戦争を始めた日本は国家滅亡のリスクも覚悟して挑んはずです。むろん敗戦間際の段階でも一億総玉砕の発想もあったでしょう。ブログ主の言うように、負けそうだ、では止めようで収まる話ではなかったはずです。
それは当時、そのような国際情勢だったからです。戦争を始めたときは、座して死を待つよりは・・・の精神であり、敗戦間際にが生きて恥を・・・・・的な精神だったのでしょう。当時は白人にとことん収奪される世界だったのです。そうです、武士道精神を持つ日本だからこその国家存亡をかけた戦いだったのです。
戦後、結果的に日本は再独立を許されましたが、当時は戦争に負ければ、日本は植民地で国民は奴隷化、国体は失うとう前提で戦っていたはずです。そんな弱肉強食の苦しい時代も知らぬ、今の平和だけを享受する我々が、「あの時こうしていたら」とか、言うのは軽率すぎるし、あまりに身勝手だと感じるのが保守層の考え方です。
まさに「犬死」の言い回しもそうです。客観的に見ても、今の時代ならそうも言えるかも知れません。けれどその時代を懸命に生きた方々を想いを馳せれば、出てくる言葉ではないと思います。
(アジア・太平洋戦争を始め、明らかな劣勢になったてもまだ国体護持という目的だけで終戦まで遅らせて多大な犠牲を強いてきたのが当時の支配層です。)
⇒テロリストに寛容なブログ主も、相変わらず日本には非寛容的ですね。
戦争を始めた日本は国家滅亡のリスクも覚悟して挑んはずです。むろん敗戦間際の段階でも一億総玉砕の発想もあったでしょう。ブログ主の言うように、負けそうだ、では止めようで収まる話ではなかったはずです。
それは当時、そのような国際情勢だったからです。戦争を始めたときは、座して死を待つよりは・・・の精神であり、敗戦間際にが生きて恥を・・・・・的な精神だったのでしょう。当時は白人にとことん収奪される世界だったのです。そうです、武士道精神を持つ日本だからこその国家存亡をかけた戦いだったのです。
戦後、結果的に日本は再独立を許されましたが、当時は戦争に負ければ、日本は植民地で国民は奴隷化、国体は失うとう前提で戦っていたはずです。そんな弱肉強食の苦しい時代も知らぬ、今の平和だけを享受する我々が、「あの時こうしていたら」とか、言うのは軽率すぎるし、あまりに身勝手だと感じるのが保守層の考え方です。
まさに「犬死」の言い回しもそうです。客観的に見ても、今の時代ならそうも言えるかも知れません。けれどその時代を懸命に生きた方々を想いを馳せれば、出てくる言葉ではないと思います。
何々?
要はgobigredさんは、「日本人は死者を冒涜する民族性がある」と真面目に書いているわけですか??
その最近の例でも「他国より日本は死者を冒涜する」例には読めませんけど。
自虐史観タイプですかね??
その最近の例でも「他国より日本は死者を冒涜する」例には読めませんけど。
自虐史観タイプですかね??
タラレバの大切さ
一般人さんのコメントについて―
要はgobigredさんは、「日本人は死者を冒涜する民族性がある」と真面目に書いているわけですか??
その最近の例でも「他国より日本は死者を冒涜する」例には読めませんけど。
あなたが後段で書いているとおり、わたしは「他国より」というようなことを一切書いていません。だからそう読めないのは当たり前です。この点で、一般人さんの読解力に敬意を表します。カーティス・ルメイやマッカーサーの例は「死者を冒涜するもの」だというのはその通りだと思います。歴史を直視することを「自虐史観」(こういう言葉をわたしは使いません。使う人自身を貶めているのにそれに気づいていない)というのでしょうか。私が書いたことはすべて、過去に起きたことです。わたしはそれだけを書いています。あなたの批判は印象批判です。少なくとも勝手に「他国より」と付けているのはあなたの印象ではないでしょうか。
青湘さんが
>「特攻隊をはじめ、多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と~(戦前に活躍したプロ野球の選手80名ほどが戦死)。
これはただのタラレバ話。
と書かれていました。「戦死したひとが生きていたら」というのは、青湘さんにとっても(わたしにとっても)それは「タラレバ」(これも嫌な言葉)の話でしょう。しかし、
「赤紙1枚で父を奪われた」。田中サナエさん(75)は石炭会社を経営する父が朝早く仕事場に向かい、夜遅く帰宅する姿を覚えている。亡くなった場所はフィリピンの小さな島と聞いたが、詳しい時期や状況は分からない。「力持ちだった。父を思う気持ちは年々強くなるんです」 (『長崎新聞』2010年8月15日)
に代表されるような、戦後60年過ぎでも「タラレバ」に毎日直面しながら生きている遺族がたくさんいるのです。「お父さんが生きていタラ」、「無事に帰っていレバ」と毎日思いながら生きている人が今もいるのです。この人たちは父親の顔を知らないまま育ち、今老齢に達した人たちです。その人たちのことを思うと、わたしは「タラレバ話」に向き合うことが実はとても大切なことなのだと思うのです。
小学校2年の時に終戦を迎えた、ビルマで戦死した父親の顔を知らないひとについての別の新聞記事―
「戦争の苦労を知らない世代」にいかに理解を広め、戦没者の慰霊や顕彰、戦争の記憶をどのように引き継いでいくのか。伊那市遺族会の赤羽要会長(77)は「戦後の社会や教育をはじめ、私たちにも伝えきってこなかった責任がある」と唇をかみ締める。赤羽さんは戦争で亡くなった若者の無念さをよく思い浮かべる。「青春のど真ん中にいた人たちが、どんな思いで命を落としたのか」。戦後、日本の社会や学校教育が戦争とどう向き合ってきたか疑問も感じる日々だ。だからこそ今、強く願う。「きちんと歴史を教えること。なぜ戦争が起きたのか、事実を子どもたちにしっかりと伝えなければ」(『長野日報』2015年8月15日)
この新聞記事に書かれていることにわたしは同意します。死者の声に耳を傾けることは、「戦争で亡くなった若者の無念さを思い浮かべること」、しかも自分のものとして。これは「ただのタラレバ話」の対極にあります。戦没者をタラレバで片付けることこそが「死者に対する冒涜」ではないですか。
要はgobigredさんは、「日本人は死者を冒涜する民族性がある」と真面目に書いているわけですか??
その最近の例でも「他国より日本は死者を冒涜する」例には読めませんけど。
あなたが後段で書いているとおり、わたしは「他国より」というようなことを一切書いていません。だからそう読めないのは当たり前です。この点で、一般人さんの読解力に敬意を表します。カーティス・ルメイやマッカーサーの例は「死者を冒涜するもの」だというのはその通りだと思います。歴史を直視することを「自虐史観」(こういう言葉をわたしは使いません。使う人自身を貶めているのにそれに気づいていない)というのでしょうか。私が書いたことはすべて、過去に起きたことです。わたしはそれだけを書いています。あなたの批判は印象批判です。少なくとも勝手に「他国より」と付けているのはあなたの印象ではないでしょうか。
青湘さんが
>「特攻隊をはじめ、多くの方々の死によって、現在の平和が存在する」と~(戦前に活躍したプロ野球の選手80名ほどが戦死)。
これはただのタラレバ話。
と書かれていました。「戦死したひとが生きていたら」というのは、青湘さんにとっても(わたしにとっても)それは「タラレバ」(これも嫌な言葉)の話でしょう。しかし、
「赤紙1枚で父を奪われた」。田中サナエさん(75)は石炭会社を経営する父が朝早く仕事場に向かい、夜遅く帰宅する姿を覚えている。亡くなった場所はフィリピンの小さな島と聞いたが、詳しい時期や状況は分からない。「力持ちだった。父を思う気持ちは年々強くなるんです」 (『長崎新聞』2010年8月15日)
に代表されるような、戦後60年過ぎでも「タラレバ」に毎日直面しながら生きている遺族がたくさんいるのです。「お父さんが生きていタラ」、「無事に帰っていレバ」と毎日思いながら生きている人が今もいるのです。この人たちは父親の顔を知らないまま育ち、今老齢に達した人たちです。その人たちのことを思うと、わたしは「タラレバ話」に向き合うことが実はとても大切なことなのだと思うのです。
小学校2年の時に終戦を迎えた、ビルマで戦死した父親の顔を知らないひとについての別の新聞記事―
「戦争の苦労を知らない世代」にいかに理解を広め、戦没者の慰霊や顕彰、戦争の記憶をどのように引き継いでいくのか。伊那市遺族会の赤羽要会長(77)は「戦後の社会や教育をはじめ、私たちにも伝えきってこなかった責任がある」と唇をかみ締める。赤羽さんは戦争で亡くなった若者の無念さをよく思い浮かべる。「青春のど真ん中にいた人たちが、どんな思いで命を落としたのか」。戦後、日本の社会や学校教育が戦争とどう向き合ってきたか疑問も感じる日々だ。だからこそ今、強く願う。「きちんと歴史を教えること。なぜ戦争が起きたのか、事実を子どもたちにしっかりと伝えなければ」(『長野日報』2015年8月15日)
この新聞記事に書かれていることにわたしは同意します。死者の声に耳を傾けることは、「戦争で亡くなった若者の無念さを思い浮かべること」、しかも自分のものとして。これは「ただのタラレバ話」の対極にあります。戦没者をタラレバで片付けることこそが「死者に対する冒涜」ではないですか。
No title
gobigred様
ご意見ありがとうございます。
>一度国語辞典をお引きになるとよい。「犬死に」=「結果として何の役にも立たない死に方。むだじに」(『集英社国語辞典』)とあります。夏目漱石、「抗夫」には「「たのむわ、兵隊さん。も少し向こうのほうへ逃げましょうよ。ここで犬死にしてはつまらない。逃げられるだけは逃げましょうよ」 という用例もあります。菊池寛や織田作之助など、普通に使っていますが、最近はあまり使わなくなっているようです。「犬死」を使うひとは「無駄死」と同義で、文学作品にそういう意味で使われていたと答えることでしょうね、犬好きには嬉しくないことですが。「犬死」=「死者を冒涜」は短絡的です。
↑ つまり辞典に貶めるとは書いてないから冒涜していないのだ。
小説でも貶める表現では使われていないからいいのだ。
これが根拠なのですね。
では豚に真珠という言葉も辞典に貶めるとは書いてません。
小説にもでてきます。
(豚に真珠=価値のわからない者には,貴重なものも意味がないことのたとえ。)
だからと言ってお得意さんや上司に「この高価な絵画は絵心のない社長には豚に真珠ですね」と言えますか?
私は親しい友人ならまだしも目上の人や尊敬する人にはとても言えないです。
猫に小判、も同じ意味ですがやはり同じです。表現が適正ではありません。
言葉の使い方はその状況、境遇、立場、状態、事態といったシチュエーションで使い分けるべきではないですか?
辞典に貶めるとは書いてないから冒涜していないのだ、
あくまで無駄という意味なのだ、「犬死」=「死者を冒涜」は短絡的だ、
と簡単にいいきってしまうということはどこかで特攻隊の死を
軽ろんじていませんか?
重く受け止めているからこそ犬死という言葉に
違和感を感じるのではないですか。
だから「犬死」に反発する人が多いのですよ。
美化でもなんでもありません。
青湘遊郎様
ご指摘ありがとうございます。
>落ち着いてコメントをよく見直してみてください。 「無駄死に」=「犬死に」という意味でエントリーやコメントが交わされていますよ。
↑ 上記と同じことですがその「無駄死に」=「犬死に」に違和感を感じるか感じないかの違いです。スタートから違うのです。
ご意見ありがとうございます。
>一度国語辞典をお引きになるとよい。「犬死に」=「結果として何の役にも立たない死に方。むだじに」(『集英社国語辞典』)とあります。夏目漱石、「抗夫」には「「たのむわ、兵隊さん。も少し向こうのほうへ逃げましょうよ。ここで犬死にしてはつまらない。逃げられるだけは逃げましょうよ」 という用例もあります。菊池寛や織田作之助など、普通に使っていますが、最近はあまり使わなくなっているようです。「犬死」を使うひとは「無駄死」と同義で、文学作品にそういう意味で使われていたと答えることでしょうね、犬好きには嬉しくないことですが。「犬死」=「死者を冒涜」は短絡的です。
↑ つまり辞典に貶めるとは書いてないから冒涜していないのだ。
小説でも貶める表現では使われていないからいいのだ。
これが根拠なのですね。
では豚に真珠という言葉も辞典に貶めるとは書いてません。
小説にもでてきます。
(豚に真珠=価値のわからない者には,貴重なものも意味がないことのたとえ。)
だからと言ってお得意さんや上司に「この高価な絵画は絵心のない社長には豚に真珠ですね」と言えますか?
私は親しい友人ならまだしも目上の人や尊敬する人にはとても言えないです。
猫に小判、も同じ意味ですがやはり同じです。表現が適正ではありません。
言葉の使い方はその状況、境遇、立場、状態、事態といったシチュエーションで使い分けるべきではないですか?
辞典に貶めるとは書いてないから冒涜していないのだ、
あくまで無駄という意味なのだ、「犬死」=「死者を冒涜」は短絡的だ、
と簡単にいいきってしまうということはどこかで特攻隊の死を
軽ろんじていませんか?
重く受け止めているからこそ犬死という言葉に
違和感を感じるのではないですか。
だから「犬死」に反発する人が多いのですよ。
美化でもなんでもありません。
青湘遊郎様
ご指摘ありがとうございます。
>落ち着いてコメントをよく見直してみてください。 「無駄死に」=「犬死に」という意味でエントリーやコメントが交わされていますよ。
↑ 上記と同じことですがその「無駄死に」=「犬死に」に違和感を感じるか感じないかの違いです。スタートから違うのです。
あらそう?
確か、違う方にも
「まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので・・・」とすぐに書かれてませんでしたか??
では、「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。」は、あの流れでどういう意味で書いてるのですかね。
御説明願えますか。
「まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので・・・」とすぐに書かれてませんでしたか??
では、「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。」は、あの流れでどういう意味で書いてるのですかね。
御説明願えますか。
また反論
「一般人」さん
下の①と②にわたしの書き込みを並べて示しました。これが「流れ」です―
②「死者に対する冒涜」という表現も書き込みに見られます。昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。賊軍の頭として戦いに敗れ、殺された平将門の首級は塩漬けにされて、京都まで送られ、四条通西洞院東入ルで晒されました。豊臣秀吉の甥、秀次も三条河原でさらし首になり、その子供たちと妻妾、眷属(総数30名)も三条河原で処刑され、墓も造られませんでした。岩田温氏は、そういう秀吉を愛国者として称えているのです(論拠を示していませんが)。
③皆さんからわたしの書き込みにいくつか反論を頂戴した。わたしの読解力不足から意味を理解できない箇所もありました。またわたしの表現力の不足から、誤読ではないかと思われるものもありました。例えば、
「非常に不愉快にさせる発言をしてますね。しかも、その例が、平将門の頃とか笑わせる。 一連の他の方の書き込みでも、特攻の意義ではなく、死者に対する冒涜は止めようとする流れですよ。気づいてないんですかね。真反対なんじゃないですか。」
はその例。岩田温氏の「豊臣秀吉は愛国者」という考えを批判するためにわたしが書いた最後の段落(この結論部分を見ればそれは明白)を見事に誤読しておられるようだ。
以上です。
時々強引とも思われるような主張も見られます。例えば、
「特攻を美化している、と批判なさっている方がいるようだが、特攻それ自体を美化している人間など誰もいない」と山葵さんは断言しておられるが、その根拠(「誰もいない」とお考えになる根拠)をあげていただけますか。長く生きた人間には自明のことですが、「ひとりもいない」ということを証明するのはほとんど不可能なのです。すべてを渉猟しなければ証明できませんから。この場合なら「山葵」さんは世界中の書物を読み、「特攻を美化している人間は誰もいなかった」ことを証明しなければならなくなる。
わたしからは、山葵さんに対する反証として比較的最近のものをふたつ―
「特攻について論文や書籍を出そうとすると、出版社からは必ず、特攻隊員を賛美する内容でないと出せない、と言われる。だから客観的な事実研究は、特攻については難しいのです。」(『日本海軍400時間の証言』(新潮社 2014、229ページ)
「「日高恒太朗『不時着』が指摘しているように、特攻についてもっとも饒舌に語り、特攻を美化してきたのは、特攻作戦を推進し、自らは生き残ったエリート将校であり(以下略)」(吉田裕、『アジア・太平洋戦争』[岩波書店 2007、192ページ] (これに続いて、その理由が述べられています。)
もうひとつは、特攻隊員と特攻作戦とはそれぞれ別のものとして眺め、批判する必要があるという、特攻に関わった元軍人の指摘―
「特攻に殉じた若者たちの行為は、いかなる賛美も惜しむものではない。だからといって、特攻作戦を賛美することはできない。そこには深刻な反省と懺悔がなければならない」(鳥巣健之助元中佐、海軍反省会400時間の証言、第11回1981年、『日本海軍はなぜ過ったか』[岩波現代文庫 2015]、101ページ)
このことを念頭に置いて、特攻は論じるべきだと思います。「犬死」にこだわっている人たちは、どうも鳥巣元中佐のような区別ができていないようです。「特攻隊 (員) の死を軽ろんじていませんか」(ひまわりさん)というような(わたしの脳みそでは理解不可能な)疑問/指摘は、原因と結果を峻別すれば避けることができるのではないでしょうか。
『日本海軍はなぜ過ったか』は「戦争を後押ししたもの」と題する章 (101-34) で、戦争へ向かった要因について語っています。「あきさん」の披瀝されたこととはまったく異なっています。どちらを採るかと尋ねられたら、「あきさん」には申し訳ありませんが、『日本海軍はなぜ過ったか』を採用します。「あきさん」はブログ主さんの「アジア・太平洋戦争を始め、明らかな劣勢になってもまだ国体護持という目的だけで終戦まで遅らせて多大な犠牲を強いてきたのが当時の支配層です」にも批判的なようですが(「ブログ主の言うように、負けそうだ、では止めようで収まる話ではなかったはずです。」)、これは既に歴史的事実ですよ。上に引用した吉田裕が著書の211ページと215ページで触れています。(「あき」さんの「~はずです」は説得力を減じます。お使いにならぬ方がよいと思います。)
他に、手頃な参考書としては、岩波書店の「シリーズ日本近代史」(『アジア・太平洋戦争』はその中の一冊)や『日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 外交・陸軍編』(新潮文庫 2015) などをあげましょう。このジャンルの出版物はまさに汗牛充棟の感があります。一年間、毎日一冊ずつ読了しても追いつきません。注目すべきものとして、山本武利、『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書 2001)。半藤一利の「何とあほな戦争をしたものか」を裏付ける、日本兵の捕虜からの聞き書きがたくさん含まれています。アメリカ国立公文書館で渉猟した文献資料が基になっています。
下の①と②にわたしの書き込みを並べて示しました。これが「流れ」です―
②「死者に対する冒涜」という表現も書き込みに見られます。昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。賊軍の頭として戦いに敗れ、殺された平将門の首級は塩漬けにされて、京都まで送られ、四条通西洞院東入ルで晒されました。豊臣秀吉の甥、秀次も三条河原でさらし首になり、その子供たちと妻妾、眷属(総数30名)も三条河原で処刑され、墓も造られませんでした。岩田温氏は、そういう秀吉を愛国者として称えているのです(論拠を示していませんが)。
③皆さんからわたしの書き込みにいくつか反論を頂戴した。わたしの読解力不足から意味を理解できない箇所もありました。またわたしの表現力の不足から、誤読ではないかと思われるものもありました。例えば、
「非常に不愉快にさせる発言をしてますね。しかも、その例が、平将門の頃とか笑わせる。 一連の他の方の書き込みでも、特攻の意義ではなく、死者に対する冒涜は止めようとする流れですよ。気づいてないんですかね。真反対なんじゃないですか。」
はその例。岩田温氏の「豊臣秀吉は愛国者」という考えを批判するためにわたしが書いた最後の段落(この結論部分を見ればそれは明白)を見事に誤読しておられるようだ。
以上です。
時々強引とも思われるような主張も見られます。例えば、
「特攻を美化している、と批判なさっている方がいるようだが、特攻それ自体を美化している人間など誰もいない」と山葵さんは断言しておられるが、その根拠(「誰もいない」とお考えになる根拠)をあげていただけますか。長く生きた人間には自明のことですが、「ひとりもいない」ということを証明するのはほとんど不可能なのです。すべてを渉猟しなければ証明できませんから。この場合なら「山葵」さんは世界中の書物を読み、「特攻を美化している人間は誰もいなかった」ことを証明しなければならなくなる。
わたしからは、山葵さんに対する反証として比較的最近のものをふたつ―
「特攻について論文や書籍を出そうとすると、出版社からは必ず、特攻隊員を賛美する内容でないと出せない、と言われる。だから客観的な事実研究は、特攻については難しいのです。」(『日本海軍400時間の証言』(新潮社 2014、229ページ)
「「日高恒太朗『不時着』が指摘しているように、特攻についてもっとも饒舌に語り、特攻を美化してきたのは、特攻作戦を推進し、自らは生き残ったエリート将校であり(以下略)」(吉田裕、『アジア・太平洋戦争』[岩波書店 2007、192ページ] (これに続いて、その理由が述べられています。)
もうひとつは、特攻隊員と特攻作戦とはそれぞれ別のものとして眺め、批判する必要があるという、特攻に関わった元軍人の指摘―
「特攻に殉じた若者たちの行為は、いかなる賛美も惜しむものではない。だからといって、特攻作戦を賛美することはできない。そこには深刻な反省と懺悔がなければならない」(鳥巣健之助元中佐、海軍反省会400時間の証言、第11回1981年、『日本海軍はなぜ過ったか』[岩波現代文庫 2015]、101ページ)
このことを念頭に置いて、特攻は論じるべきだと思います。「犬死」にこだわっている人たちは、どうも鳥巣元中佐のような区別ができていないようです。「特攻隊 (員) の死を軽ろんじていませんか」(ひまわりさん)というような(わたしの脳みそでは理解不可能な)疑問/指摘は、原因と結果を峻別すれば避けることができるのではないでしょうか。
『日本海軍はなぜ過ったか』は「戦争を後押ししたもの」と題する章 (101-34) で、戦争へ向かった要因について語っています。「あきさん」の披瀝されたこととはまったく異なっています。どちらを採るかと尋ねられたら、「あきさん」には申し訳ありませんが、『日本海軍はなぜ過ったか』を採用します。「あきさん」はブログ主さんの「アジア・太平洋戦争を始め、明らかな劣勢になってもまだ国体護持という目的だけで終戦まで遅らせて多大な犠牲を強いてきたのが当時の支配層です」にも批判的なようですが(「ブログ主の言うように、負けそうだ、では止めようで収まる話ではなかったはずです。」)、これは既に歴史的事実ですよ。上に引用した吉田裕が著書の211ページと215ページで触れています。(「あき」さんの「~はずです」は説得力を減じます。お使いにならぬ方がよいと思います。)
他に、手頃な参考書としては、岩波書店の「シリーズ日本近代史」(『アジア・太平洋戦争』はその中の一冊)や『日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 外交・陸軍編』(新潮文庫 2015) などをあげましょう。このジャンルの出版物はまさに汗牛充棟の感があります。一年間、毎日一冊ずつ読了しても追いつきません。注目すべきものとして、山本武利、『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(文春新書 2001)。半藤一利の「何とあほな戦争をしたものか」を裏付ける、日本兵の捕虜からの聞き書きがたくさん含まれています。アメリカ国立公文書館で渉猟した文献資料が基になっています。
No title
私が何か作戦(原因)と成果(結果)をごちゃまぜにしているとのことですが、
私は終始一貫して特攻隊の死の表現についてしか述べていませんよ。
鳥巣健之助元中佐の言葉を出すまでもありません。
聡明なgobigred様ならお分かりのはずなのに。
私は特攻隊の死を軽ろんじていませんか?犬死にと表現しても違和感ないのでは?
ということを聞きたかったのですが。
うまくはぐらかされましたね。
私は終始一貫して特攻隊の死の表現についてしか述べていませんよ。
鳥巣健之助元中佐の言葉を出すまでもありません。
聡明なgobigred様ならお分かりのはずなのに。
私は特攻隊の死を軽ろんじていませんか?犬死にと表現しても違和感ないのでは?
ということを聞きたかったのですが。
うまくはぐらかされましたね。
No title
gobigredさん
(あきさん」はブログ主さんの~批判的なようですが)
⇒本ブログ内でも、何回も申し上げていますが、私も過去の日本や軍部をすべて肯定している訳ではありません。
ただ他のエントリーでは「無差別テロにも事情があるのだ」とも受け取れる文面を綴っておられるくせに、過去の日本に関してはまったく当時の事情を顧みないブログ主に反論したまでです。
本件に関しては特攻隊員をわざわざ「犬死」と表現せよなどと、右よりの方だけでなく、一般国民を挑発しているだけのように思います。
当時の国難に殉じて亡くなった兵隊さんを英霊として敬い、感謝することに何の問題があるのでしょうか?
どの国でも、個人の本意・不本意や、国策や作戦が無謀であった・無かったに関わらず、その犠牲になった兵士は、尊敬され感謝するものです。
無論、特攻の悲劇や非人間的な作戦を二度と起こしていけないのは当たり前の話であり、その行為自体を美化しようなどという意図はありません。
(あきさん」はブログ主さんの~批判的なようですが)
⇒本ブログ内でも、何回も申し上げていますが、私も過去の日本や軍部をすべて肯定している訳ではありません。
ただ他のエントリーでは「無差別テロにも事情があるのだ」とも受け取れる文面を綴っておられるくせに、過去の日本に関してはまったく当時の事情を顧みないブログ主に反論したまでです。
本件に関しては特攻隊員をわざわざ「犬死」と表現せよなどと、右よりの方だけでなく、一般国民を挑発しているだけのように思います。
当時の国難に殉じて亡くなった兵隊さんを英霊として敬い、感謝することに何の問題があるのでしょうか?
どの国でも、個人の本意・不本意や、国策や作戦が無謀であった・無かったに関わらず、その犠牲になった兵士は、尊敬され感謝するものです。
無論、特攻の悲劇や非人間的な作戦を二度と起こしていけないのは当たり前の話であり、その行為自体を美化しようなどという意図はありません。
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
自虐史観
「一般人さん」が、「あの流れでどういう意味で書いてるのですかね」と問うておられる意味がまだ十分には飲み込めません。先の書き込みをした後で、思いついたことを書きます。あなたは、
「その最近の例でも「他国より日本は死者を冒涜する」例には読めませんけど。自虐史観タイプですかね??」
とわざわざ「他国より」と自分の印象を付けて反応されていたこと、さらに「一般の人」さんのコメントを引用しながら、
確か、違う方にも
「まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので・・・」とすぐに書かれてませんでしたか??
と書いておられました。わたしは他国との比較を全くしていないのに、お二人とも見事に(本当に見事です)「他国」や「他の国」と比較しておられる。これがまず理解できなかったのです。さらに、なぜこの文脈で、「自虐史観」が出てくるのかも理解できませんでした。でもやっと、今になってなぜかということが分かりました。つまり、他国もやってるから(「まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので」などまさにそういう意味ですね)、我々もやってもいいのだ、これが言い過ぎなら、他国でもやっているのだから我々がやっていることを批判するのはおかしい。そういう批判を「自虐史観」というのだ、というのが「一般人」さんの考えなのでしょうか。(間違っていたらご指摘ください。「他国」や「他の国でも」がなぜあなたには気になるのかという理由も教えてください、わたしは他国のことは全く触れてもいないのに。善悪は絶対的な評価で決まります。相対評価ではないと思うのです。他の国と比較して何になりますか(この辺がわたしの理解を超えている)。
もしそうだとしたら、わたしはあなたとの議論にこれ以上つきあえません。小学生が万引しているのを見つかったときに、「他の子たちもやってるよう」と言って、免罪してもらおうとするのと同じレベルだからです。小学校で「自己省察授業」というのをおこなっています。「自虐史観」を言い立てる人たちは「自己省察」力を高めてほしいと切に願います。
確かに、いくつかの書き込みに、「日本に非寛容だ」とか「日本批判」だというような表現が見られます。他人よりも自分に厳しくする、よその国よりも自国に対して厳しい目で眺めるというのは決して間違っていませんよ。逆だったらむしろおかしい。(あなたの子育てを考えてみてください。)「他国が(悪いことを)やっていても、われわれはやらない」、「他国もやっているから、という理由で自分の行為を免責しない」というのが日本人の誇りではありませんか。でも、確かに、こう考えるのは「自虐」とは正反対ですね。(なんと表現するのでしょう、「自分に誇りを持つ」史観?)以前、「自虐史観」を使うひとは自分自身をおとしめているのだと書きました。「一般人」さんのおかげでこれを再確認できました。ありがとうございます。
先の書き込みで、東京大空襲(3月10日だけで死者数10万)を指揮したカーティス・ルメイに日本政府(佐藤栄作総理大臣、その大甥が安倍晋三)が叙勲したことは「死者に対する冒涜」だと書きました。わたしが言及した早乙女勝元は史上最大の大量虐殺だと書いています。「一般人さん」はこれについてどうお考えですか。
「ひまわり」さん、特攻隊員の死はもちろんですが、民間人[非戦闘員]の死もわたしは一貫して、軽んじてはいませんよ。わたしの戦没者に対する気持ちは次の言葉で尽くされています―「死者の声に耳を傾けることは、『戦争で亡くなった若者の無念さを思い浮かべること』、しかも自分のものとして」。
わたしが「ひまわり」さんの書き込みにコメントしたのは、あなたが「犬死」という単語を知らなかったか、少なくともその意味(「無駄死」と置き換え可能)を知らなかったのではないかと思ったからです。「一般人」さんのコメントを見れば、彼も同じことに気づいたのを理解していただけるのではないでしょうか。序でに付け加えると、わたしは「犬死」をほとんど使っていません。それでもあなたのように、「犬死」という言葉を見るだけで、思考がストップしてその先へ進めない、その裏にある意図が読めないひともおられますから、今後は「犬死」ではなく、「無念の死」を使うことをブログ主さんにはお勧めします。
「犬死に」を使ってくれるなという愛犬家からの要求は理解できます。「産経新聞購読者」さんのような愛犬家には「走狗」という表現など我慢できないでしょうね。わたしは猫好きなので、白鵬には「猫だまし」を使ってほしくないと思っています。どうしても勝ちたいから使う、というときには「猫だまし」ではなく、「相手力士が立ち上がった瞬間に目の前でパチンと両手のひらを鳴らして、機先を制する秘技」と書いてほしいですね。
「一般の人」が言及しておられるように、「他の国」のひとつ、イギリスでは1868年4月2日まで公開処刑がおこなわれていて、見物人がたくさんそれを見るために集まりました。特にこの最後の処刑は義理の妹を殺した25歳の女性の絞首刑だったので2,000人の見物人を集めたそうです。死んだひとの首を晒すのとどちらが残酷かという比較はできませんが、よそがやるから我々もやる/許されると言うのは間違いです。改めて、念のために。
「その最近の例でも「他国より日本は死者を冒涜する」例には読めませんけど。自虐史観タイプですかね??」
とわざわざ「他国より」と自分の印象を付けて反応されていたこと、さらに「一般の人」さんのコメントを引用しながら、
確か、違う方にも
「まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので・・・」とすぐに書かれてませんでしたか??
と書いておられました。わたしは他国との比較を全くしていないのに、お二人とも見事に(本当に見事です)「他国」や「他の国」と比較しておられる。これがまず理解できなかったのです。さらに、なぜこの文脈で、「自虐史観」が出てくるのかも理解できませんでした。でもやっと、今になってなぜかということが分かりました。つまり、他国もやってるから(「まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので」などまさにそういう意味ですね)、我々もやってもいいのだ、これが言い過ぎなら、他国でもやっているのだから我々がやっていることを批判するのはおかしい。そういう批判を「自虐史観」というのだ、というのが「一般人」さんの考えなのでしょうか。(間違っていたらご指摘ください。「他国」や「他の国でも」がなぜあなたには気になるのかという理由も教えてください、わたしは他国のことは全く触れてもいないのに。善悪は絶対的な評価で決まります。相対評価ではないと思うのです。他の国と比較して何になりますか(この辺がわたしの理解を超えている)。
もしそうだとしたら、わたしはあなたとの議論にこれ以上つきあえません。小学生が万引しているのを見つかったときに、「他の子たちもやってるよう」と言って、免罪してもらおうとするのと同じレベルだからです。小学校で「自己省察授業」というのをおこなっています。「自虐史観」を言い立てる人たちは「自己省察」力を高めてほしいと切に願います。
確かに、いくつかの書き込みに、「日本に非寛容だ」とか「日本批判」だというような表現が見られます。他人よりも自分に厳しくする、よその国よりも自国に対して厳しい目で眺めるというのは決して間違っていませんよ。逆だったらむしろおかしい。(あなたの子育てを考えてみてください。)「他国が(悪いことを)やっていても、われわれはやらない」、「他国もやっているから、という理由で自分の行為を免責しない」というのが日本人の誇りではありませんか。でも、確かに、こう考えるのは「自虐」とは正反対ですね。(なんと表現するのでしょう、「自分に誇りを持つ」史観?)以前、「自虐史観」を使うひとは自分自身をおとしめているのだと書きました。「一般人」さんのおかげでこれを再確認できました。ありがとうございます。
先の書き込みで、東京大空襲(3月10日だけで死者数10万)を指揮したカーティス・ルメイに日本政府(佐藤栄作総理大臣、その大甥が安倍晋三)が叙勲したことは「死者に対する冒涜」だと書きました。わたしが言及した早乙女勝元は史上最大の大量虐殺だと書いています。「一般人さん」はこれについてどうお考えですか。
「ひまわり」さん、特攻隊員の死はもちろんですが、民間人[非戦闘員]の死もわたしは一貫して、軽んじてはいませんよ。わたしの戦没者に対する気持ちは次の言葉で尽くされています―「死者の声に耳を傾けることは、『戦争で亡くなった若者の無念さを思い浮かべること』、しかも自分のものとして」。
わたしが「ひまわり」さんの書き込みにコメントしたのは、あなたが「犬死」という単語を知らなかったか、少なくともその意味(「無駄死」と置き換え可能)を知らなかったのではないかと思ったからです。「一般人」さんのコメントを見れば、彼も同じことに気づいたのを理解していただけるのではないでしょうか。序でに付け加えると、わたしは「犬死」をほとんど使っていません。それでもあなたのように、「犬死」という言葉を見るだけで、思考がストップしてその先へ進めない、その裏にある意図が読めないひともおられますから、今後は「犬死」ではなく、「無念の死」を使うことをブログ主さんにはお勧めします。
「犬死に」を使ってくれるなという愛犬家からの要求は理解できます。「産経新聞購読者」さんのような愛犬家には「走狗」という表現など我慢できないでしょうね。わたしは猫好きなので、白鵬には「猫だまし」を使ってほしくないと思っています。どうしても勝ちたいから使う、というときには「猫だまし」ではなく、「相手力士が立ち上がった瞬間に目の前でパチンと両手のひらを鳴らして、機先を制する秘技」と書いてほしいですね。
「一般の人」が言及しておられるように、「他の国」のひとつ、イギリスでは1868年4月2日まで公開処刑がおこなわれていて、見物人がたくさんそれを見るために集まりました。特にこの最後の処刑は義理の妹を殺した25歳の女性の絞首刑だったので2,000人の見物人を集めたそうです。死んだひとの首を晒すのとどちらが残酷かという比較はできませんが、よそがやるから我々もやる/許されると言うのは間違いです。改めて、念のために。
godi氏へ
①
OK、わたしが言葉足らずでした。謝罪してより正確な表現に訂正します。
「このコメント欄で議論してる者たちのなかに、特攻それ自体を美化している人間など誰もいない。」
わたしは元よりこの限定的な意味で書いてました。誤解させましたね。失礼。
②
>長く生きた人間には自明の事ですが、
嫌味ったらしく人を小僧扱いしなくてもよろしい。
尚、悪魔の証明が困難なことなど気の利いたゆとり中学生でも知っています。長く生きた人…ねぇ。
③
論理的に言って、反証としてあなたが上げた二例は、訂正前の私の書き込み、「特攻それ自体を美化している人間など誰もいない」の直接的反証になっていません。数学苦手でしたか?
エレガントに反証したければ、「特攻それ自体を賛美する人間」の実例を出せばよろしい。人間70億もいるんだし、探せばいるでしょ。
尚、わたしも含めてこのコメント欄で「犬死に」に異議を呈しているあなたの論敵は鳥巣元中佐とほぼ同じことを言ってるとしか思うわけだが、わかりませんかね?
④
「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
と外国人ぽくあなたは論じ、理由として幾つかの事例を上げている。しかも、これは他民族と比較しての相対的評価じゃないと。
こんな雑なロジックが許されるなら、死者を丁重に供養した幾つかの事例ををあげて、「昔から日本人は死者を丁重に供養する民族でした」、とする論を張っても成り立ちますね。
ちなみにわたしは、怨霊信仰と儒教と輪廻の価値観のおかげで、日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う。
⑤
あなたはよく勉強なさっているようです。それは認めます。
しかし、あなたには論理を歪めて受けとる悪癖があるように感じます。理に誠実たらんと考えるなら、是正なさるべきです。
あのね、自虐や自省は気持ち良いんですよ。
「日本人は駄目な人達」と言えば、自分個人はそうじゃない善人だと思えるから。反省できる謙虚な人間だと思えるから。
でもね、こんなの自分を自民族に仮託して全肯定してる極右よりも下らない。
議論は情や願望で振り回さず、知性の領域で行わないと。
OK、わたしが言葉足らずでした。謝罪してより正確な表現に訂正します。
「このコメント欄で議論してる者たちのなかに、特攻それ自体を美化している人間など誰もいない。」
わたしは元よりこの限定的な意味で書いてました。誤解させましたね。失礼。
②
>長く生きた人間には自明の事ですが、
嫌味ったらしく人を小僧扱いしなくてもよろしい。
尚、悪魔の証明が困難なことなど気の利いたゆとり中学生でも知っています。長く生きた人…ねぇ。
③
論理的に言って、反証としてあなたが上げた二例は、訂正前の私の書き込み、「特攻それ自体を美化している人間など誰もいない」の直接的反証になっていません。数学苦手でしたか?
エレガントに反証したければ、「特攻それ自体を賛美する人間」の実例を出せばよろしい。人間70億もいるんだし、探せばいるでしょ。
尚、わたしも含めてこのコメント欄で「犬死に」に異議を呈しているあなたの論敵は鳥巣元中佐とほぼ同じことを言ってるとしか思うわけだが、わかりませんかね?
④
「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
と外国人ぽくあなたは論じ、理由として幾つかの事例を上げている。しかも、これは他民族と比較しての相対的評価じゃないと。
こんな雑なロジックが許されるなら、死者を丁重に供養した幾つかの事例ををあげて、「昔から日本人は死者を丁重に供養する民族でした」、とする論を張っても成り立ちますね。
ちなみにわたしは、怨霊信仰と儒教と輪廻の価値観のおかげで、日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う。
⑤
あなたはよく勉強なさっているようです。それは認めます。
しかし、あなたには論理を歪めて受けとる悪癖があるように感じます。理に誠実たらんと考えるなら、是正なさるべきです。
あのね、自虐や自省は気持ち良いんですよ。
「日本人は駄目な人達」と言えば、自分個人はそうじゃない善人だと思えるから。反省できる謙虚な人間だと思えるから。
でもね、こんなの自分を自民族に仮託して全肯定してる極右よりも下らない。
議論は情や願望で振り回さず、知性の領域で行わないと。
No title
>よそがやるから我々もやる/許されると言うのは間違いです。改めて、念のために。
僕はそういう「よそがやるからうちも許される」という文脈で使ったわけではありませんよ。
「うち(日本)もやっているからよそも許される」というわけでもありません。
例えば、最近、古代ギリシャの伝説の島が見つかったそうです。アルギヌサイの戦いが行われた場所のすぐ近くということです。で、このアルギヌサイの戦いにおいては、アテネvsスパルタであり、アテネ軍が勝利したのですが不幸にも嵐に襲われ壊滅的な打撃を受けたのだそうです。ところが、勝利した筈のアテネ軍(指揮官)を市民は「嵐の中、兵を救えなかった」と責め立て、ついには(投票の上で)処刑したそうです。民主政治というものをもってしても正義とは凄まじいものがあります。
人というのはどの時代にしても愚かだと思ってますよ。
「自分の時代の価値観だけをもってそれ(他人の人生そのもの)を裁くようなことはしてはならない」言いたいのはただそれだけです。
それにしても、僕の文章がウヨク的に思われるのは残念です。
僕はそういう「よそがやるからうちも許される」という文脈で使ったわけではありませんよ。
「うち(日本)もやっているからよそも許される」というわけでもありません。
例えば、最近、古代ギリシャの伝説の島が見つかったそうです。アルギヌサイの戦いが行われた場所のすぐ近くということです。で、このアルギヌサイの戦いにおいては、アテネvsスパルタであり、アテネ軍が勝利したのですが不幸にも嵐に襲われ壊滅的な打撃を受けたのだそうです。ところが、勝利した筈のアテネ軍(指揮官)を市民は「嵐の中、兵を救えなかった」と責め立て、ついには(投票の上で)処刑したそうです。民主政治というものをもってしても正義とは凄まじいものがあります。
人というのはどの時代にしても愚かだと思ってますよ。
「自分の時代の価値観だけをもってそれ(他人の人生そのもの)を裁くようなことはしてはならない」言いたいのはただそれだけです。
それにしても、僕の文章がウヨク的に思われるのは残念です。
犬死の件に関してはこういうことです
ブログ主様等は、旧日本軍が行った戦争に意義を全く認めたくない訳です。具体的に言えば、アジア圏での白人至上主義(植民地時代)から、日本はそれを解放したなどの部分すらも認めたくない訳です。「とにかく、日本が悪いのですよ」という一種の宣伝です。
先の大戦では、日本にも多くの問題点はありましたが、100%悪かったわけではない。しかし、100%悪かったように多くの他の人に思ってもらいたいので、「犬死に」「無価値」等のキツイ表現方法を使っているということです。左系がよくやる、いつもの大げさな極端話です。
「犬死に」=「無価値」などが辞書に載っているというのは問題外で、もう少し、左系の意図を知りましょう。
完全に誘導されてます。
先の大戦では、日本にも多くの問題点はありましたが、100%悪かったわけではない。しかし、100%悪かったように多くの他の人に思ってもらいたいので、「犬死に」「無価値」等のキツイ表現方法を使っているということです。左系がよくやる、いつもの大げさな極端話です。
「犬死に」=「無価値」などが辞書に載っているというのは問題外で、もう少し、左系の意図を知りましょう。
完全に誘導されてます。
No title
>アジア圏での白人至上主義(植民地時代)から、日本はそれを解放したなど
それは都市伝説の域を出ないでしょう。
だいだい、日本は負けたし、しかも白人帝国のアメリカに。そんなんでどうして白人至上主義からアジアを解放したといえるのでしょうか。
そもそも、植民地を解放したのは、まずはナチスが暴れたおかげ。イギリスもフランスもオランダも大いに疲弊し植民地を支配する力を失った。
それにアメリカ。アメリカにとってもヨーロッパの植民地帝国は自分たちのビジネスを阻害する目障りなものと映ったのだろう。かれらが、海洋自由、民族自決を唱えたのも植民地帝国を否定したいという気持ちの表れだろう。
イギリスも非公式の帝国と呼ばれた領域からの上がり方がよかったそうだ。イギリスがフランスと比較して植民地を簡単に手放したのも、むしろそのほうが負担を減らせると考えたのだろう。
いずれにしても、他を圧倒するパワーをもったアメリカにとって、植民地を維持するより、それを解放して、経済的な影響下に置いたほうが得と判断したのは不思議ではない。アメリカがグローバリゼーションを進める理由がそこにあるといえる。
あの戦争で日本が果たした大きな役割は、アメリカが国際社会に出てくるきっかけを与えたことだろう。それは今日の現代社会にどんな影響を与えたのか。
それは都市伝説の域を出ないでしょう。
だいだい、日本は負けたし、しかも白人帝国のアメリカに。そんなんでどうして白人至上主義からアジアを解放したといえるのでしょうか。
そもそも、植民地を解放したのは、まずはナチスが暴れたおかげ。イギリスもフランスもオランダも大いに疲弊し植民地を支配する力を失った。
それにアメリカ。アメリカにとってもヨーロッパの植民地帝国は自分たちのビジネスを阻害する目障りなものと映ったのだろう。かれらが、海洋自由、民族自決を唱えたのも植民地帝国を否定したいという気持ちの表れだろう。
イギリスも非公式の帝国と呼ばれた領域からの上がり方がよかったそうだ。イギリスがフランスと比較して植民地を簡単に手放したのも、むしろそのほうが負担を減らせると考えたのだろう。
いずれにしても、他を圧倒するパワーをもったアメリカにとって、植民地を維持するより、それを解放して、経済的な影響下に置いたほうが得と判断したのは不思議ではない。アメリカがグローバリゼーションを進める理由がそこにあるといえる。
あの戦争で日本が果たした大きな役割は、アメリカが国際社会に出てくるきっかけを与えたことだろう。それは今日の現代社会にどんな影響を与えたのか。
都市伝説というか
右よりな方ではあるが、石原慎太郎氏も同様な解釈をしていたと思うが。
当時の日本の目的は別でしょうが、結果として、日本がアジア圏の植民地解放に一役買っていたのは間違いないと思いますよ。
だから、中韓以外には恨まれてないどころか、未だに好感をもたれてますよね。
当時の日本の目的は別でしょうが、結果として、日本がアジア圏の植民地解放に一役買っていたのは間違いないと思いますよ。
だから、中韓以外には恨まれてないどころか、未だに好感をもたれてますよね。
gobigredさん
あなたの「自虐史観」での問いかけを読んでませんでした、失礼。今、読みました。
特攻隊員に対して、あなたはこう書いてましたね
>>「死者に対する冒涜」という表現も書き込みに見られます。昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。
↑あなたはこれを、何故、私が相対的評価をするのかと書いてますが、どう読んでも「他国の民族性」との比較にしか読めないんですけど。
他の方のHNを出して申し訳ないが、私以外にも「一般人さん」もそう理解してると思いますし、山葵さんの④「ちなみにわたしは、怨霊信仰と儒教と輪廻の価値観のおかげで、日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う。」も、結局、他国の民族性と比較してというのが前提になっていると思いますよ。
あなたは、相対的に判断をするなというなら、「昔から「人間」は←(日本人ではなく)は死者を平気で冒涜する」と書くべきでしたね。日本人という言葉を入れた以上、他国との比較とするなと言っても、無理があるでしょう。
あなたほど、読解力に優れた方が、何故、そのように解するのかが不思議です。
あと
>>さらに、なぜこの文脈で、「自虐史観」が出てくるのかも理解できませんでした。でもやっと、今になってなぜかということが分かりました。つまり、他国もやってるから(「まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので」などまさにそういう意味ですね)、我々もやってもいいのだ、これが言い過ぎなら、他国でもやっているのだから我々がやっていることを批判するのはおかしい。そういう批判を「自虐史観」というのだ、というのが「一般人」さんの考えなのでしょうか。(間違っていたらご指摘ください
↑あなたの「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。」という記述を、私は「日本人は必要以上に謝るべき」という左系特有の自虐史観タイプと思っただけです。あくまで、反射的な見解です。
一つ置いておいて(話は変わるが)、
それとね、ここ大事なとこですが、他にも書いたけど、そもそも、ブログ主様等の左系は、当時の日本国及び日本軍が、いかに悪100%の戦争を行ったかを書きたいだけですよ。
あの戦争は100%日本が悪く、故に、その戦争によって死亡したものには「何の価値もない」と主張したい訳です。だから、特攻隊員や原爆での死亡者にも「犬死に」「無駄死に」と主張しているわけですよ。
そういう記述の方が、感情論的にインパクトが強いでしょ?、より傷つけて無価値感を上げているのですよ。
まぁ、敢えてそういう言い方を選択している訳です。
おわかりですよね。
特攻隊員に対して、あなたはこう書いてましたね
>>「死者に対する冒涜」という表現も書き込みに見られます。昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。
↑あなたはこれを、何故、私が相対的評価をするのかと書いてますが、どう読んでも「他国の民族性」との比較にしか読めないんですけど。
他の方のHNを出して申し訳ないが、私以外にも「一般人さん」もそう理解してると思いますし、山葵さんの④「ちなみにわたしは、怨霊信仰と儒教と輪廻の価値観のおかげで、日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う。」も、結局、他国の民族性と比較してというのが前提になっていると思いますよ。
あなたは、相対的に判断をするなというなら、「昔から「人間」は←(日本人ではなく)は死者を平気で冒涜する」と書くべきでしたね。日本人という言葉を入れた以上、他国との比較とするなと言っても、無理があるでしょう。
あなたほど、読解力に優れた方が、何故、そのように解するのかが不思議です。
あと
>>さらに、なぜこの文脈で、「自虐史観」が出てくるのかも理解できませんでした。でもやっと、今になってなぜかということが分かりました。つまり、他国もやってるから(「まぁ他の国でも死刑が見世物だったりする時代はあるので」などまさにそういう意味ですね)、我々もやってもいいのだ、これが言い過ぎなら、他国でもやっているのだから我々がやっていることを批判するのはおかしい。そういう批判を「自虐史観」というのだ、というのが「一般人」さんの考えなのでしょうか。(間違っていたらご指摘ください
↑あなたの「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。」という記述を、私は「日本人は必要以上に謝るべき」という左系特有の自虐史観タイプと思っただけです。あくまで、反射的な見解です。
一つ置いておいて(話は変わるが)、
それとね、ここ大事なとこですが、他にも書いたけど、そもそも、ブログ主様等の左系は、当時の日本国及び日本軍が、いかに悪100%の戦争を行ったかを書きたいだけですよ。
あの戦争は100%日本が悪く、故に、その戦争によって死亡したものには「何の価値もない」と主張したい訳です。だから、特攻隊員や原爆での死亡者にも「犬死に」「無駄死に」と主張しているわけですよ。
そういう記述の方が、感情論的にインパクトが強いでしょ?、より傷つけて無価値感を上げているのですよ。
まぁ、敢えてそういう言い方を選択している訳です。
おわかりですよね。
No title
>完全に誘導されてます。
そうですね。冷静に考えたらはめられてますね。
いくら辞書に(豚に真珠=価値のわからない者には,貴重なものも意味がない)
と載ってるからといっても常識で考えればお得意さんや上司に
「この高価な絵画は絵心のない社長には豚に真珠ですね」とは言えませんもの。
gobigred様にはお答えしてもらいたいものです。
お得意さんや上司に向かって豚に真珠ですねと言えますか?
とてもではないが言えませんよね。
言えるという人がいたらそういう人にとって特攻隊の死は豚に真珠なのでしょう。
・・・・如何ですか。言葉にこだわると言いますが
このように豚に真珠と言われたら失礼なやつだと思いますよね。
「犬死に」という言葉も同じですよ。
そうですね。冷静に考えたらはめられてますね。
いくら辞書に(豚に真珠=価値のわからない者には,貴重なものも意味がない)
と載ってるからといっても常識で考えればお得意さんや上司に
「この高価な絵画は絵心のない社長には豚に真珠ですね」とは言えませんもの。
gobigred様にはお答えしてもらいたいものです。
お得意さんや上司に向かって豚に真珠ですねと言えますか?
とてもではないが言えませんよね。
言えるという人がいたらそういう人にとって特攻隊の死は豚に真珠なのでしょう。
・・・・如何ですか。言葉にこだわると言いますが
このように豚に真珠と言われたら失礼なやつだと思いますよね。
「犬死に」という言葉も同じですよ。
No title
エヴァ様
そのような見解はもう反省の領域を超えてますよ。
自虐史観といわれても仕方ないですよ。
そのような見解はもう反省の領域を超えてますよ。
自虐史観といわれても仕方ないですよ。
「謝罪」は本当に難しい
皆さん、
いろいろなご意見をありがとうございます。それぞれの方がそれぞれの立場(視点、イデオロギー)に基づいて、お考えを披瀝していただいて、大変参考になりました。違うものからはたくさん学ぶことができるということを再確認しました。本当にありがとうございます。
問いかけへの回答として、まず「ひまわりさん」から―
お得意さんや上司に向かって豚に真珠ですねと言えますか?
とてもではないが言えませんよね。
もちろん言いません。これがわたしの返答です。次に、
言えるという人がいたらそういう人にとって特攻隊の死は豚に真珠なのでしょう。
「特攻隊の死は豚に真珠」というのがどういう意味なのか、わたしには全く理解できません。「豚に真珠」ということわざをこういう文脈で使うことは、少なくともわたしにはありませんので。あなたのお示しになった例は、「豚が山登りをするのは本末転倒」というのと同じくらいの無茶苦茶で、意味不明の表現です。申し訳ありませんが、回答は不能です。
次に、「一般人さん」―
他の方のHNを出して申し訳ないが、私以外にも「一般人さん」もそう理解してると思いますし、山葵さんの④「ちなみにわたしは、怨霊信仰と儒教と輪廻の価値観のおかげで、日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う。」も、結局、他国の民族性と比較してというのが前提になっていると思いますよ。
あなたは、相対的に判断をするなというなら、「昔から「人間」は←(日本人ではなく)は死者を平気で冒涜する」と書くべきでしたね。日本人という言葉を入れた以上、他国との比較とするなと言っても、無理があるでしょう。
例えば、「日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う」(「山葵」さん)の主張ひとつとっても分かることですが、比較の対象(どこの国と比べて)が明らかにされていません。つまり、こういう問題は比較ができないのです。わたしはそのことを数回書きました。もう一度お読みください。「自虐史観」を云々する人達は同じように、日本(の例えば先の大戦)を批判的に見る人が、同じように他国をも批判的に見ているかもしれないのに、それを無視して、「自分の国だけを批判している」と思い込んでいるのではありませんか。もちろん、わたしが子育てにたとえたように、愛するが故に自分の子供(自国)に対して、厳しいことを言うこともあるでしょう、それも納得してもらえないのでしょうか。
もう一つ、
「日本人は必要以上に謝るべき」という左系特有の自虐史観タイプ
という部分については、わたしの理解を超えています。「左系」というのはあなたの勝手な定義で、どういう人(たち)を指すのかが分からないからです。また謝罪に、「ここまででいい」という線引きができるとは思いません。そもそも謝罪が十分か、不十分かは、謝罪する側が決めるものではなく、謝罪される側の気持ちによるのではありませんか。「一般人さん」にお尋ねしますが、「必要以上に謝る」とあなたが仰っていることはどういうことについての誰の、誰に対する謝罪なのか、十分な謝罪とはその場合どの程度なのか、誰がその「必要」とか「十分だ」という基準を決めたのか、具体的にひとつで結構です、ご教示願えますか。そうしていただいたら、「左系」が「必要以上に謝るべき」と言っているのだとわたしのようなぼんくらにも理解できますので。
「誤解を与えるような表現を使って申し訳ありません」とか「誤解させました」のような謝罪の表現を時々目にします。これは謝罪と言うよりは、「誤解したあなたが悪い」と居直っているのと一緒ですね。「謝罪したからいいじゃないか」という往生際の悪さも感じられます。
いろいろなご意見をありがとうございます。それぞれの方がそれぞれの立場(視点、イデオロギー)に基づいて、お考えを披瀝していただいて、大変参考になりました。違うものからはたくさん学ぶことができるということを再確認しました。本当にありがとうございます。
問いかけへの回答として、まず「ひまわりさん」から―
お得意さんや上司に向かって豚に真珠ですねと言えますか?
とてもではないが言えませんよね。
もちろん言いません。これがわたしの返答です。次に、
言えるという人がいたらそういう人にとって特攻隊の死は豚に真珠なのでしょう。
「特攻隊の死は豚に真珠」というのがどういう意味なのか、わたしには全く理解できません。「豚に真珠」ということわざをこういう文脈で使うことは、少なくともわたしにはありませんので。あなたのお示しになった例は、「豚が山登りをするのは本末転倒」というのと同じくらいの無茶苦茶で、意味不明の表現です。申し訳ありませんが、回答は不能です。
次に、「一般人さん」―
他の方のHNを出して申し訳ないが、私以外にも「一般人さん」もそう理解してると思いますし、山葵さんの④「ちなみにわたしは、怨霊信仰と儒教と輪廻の価値観のおかげで、日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う。」も、結局、他国の民族性と比較してというのが前提になっていると思いますよ。
あなたは、相対的に判断をするなというなら、「昔から「人間」は←(日本人ではなく)は死者を平気で冒涜する」と書くべきでしたね。日本人という言葉を入れた以上、他国との比較とするなと言っても、無理があるでしょう。
例えば、「日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う」(「山葵」さん)の主張ひとつとっても分かることですが、比較の対象(どこの国と比べて)が明らかにされていません。つまり、こういう問題は比較ができないのです。わたしはそのことを数回書きました。もう一度お読みください。「自虐史観」を云々する人達は同じように、日本(の例えば先の大戦)を批判的に見る人が、同じように他国をも批判的に見ているかもしれないのに、それを無視して、「自分の国だけを批判している」と思い込んでいるのではありませんか。もちろん、わたしが子育てにたとえたように、愛するが故に自分の子供(自国)に対して、厳しいことを言うこともあるでしょう、それも納得してもらえないのでしょうか。
もう一つ、
「日本人は必要以上に謝るべき」という左系特有の自虐史観タイプ
という部分については、わたしの理解を超えています。「左系」というのはあなたの勝手な定義で、どういう人(たち)を指すのかが分からないからです。また謝罪に、「ここまででいい」という線引きができるとは思いません。そもそも謝罪が十分か、不十分かは、謝罪する側が決めるものではなく、謝罪される側の気持ちによるのではありませんか。「一般人さん」にお尋ねしますが、「必要以上に謝る」とあなたが仰っていることはどういうことについての誰の、誰に対する謝罪なのか、十分な謝罪とはその場合どの程度なのか、誰がその「必要」とか「十分だ」という基準を決めたのか、具体的にひとつで結構です、ご教示願えますか。そうしていただいたら、「左系」が「必要以上に謝るべき」と言っているのだとわたしのようなぼんくらにも理解できますので。
「誤解を与えるような表現を使って申し訳ありません」とか「誤解させました」のような謝罪の表現を時々目にします。これは謝罪と言うよりは、「誤解したあなたが悪い」と居直っているのと一緒ですね。「謝罪したからいいじゃないか」という往生際の悪さも感じられます。
No title
gobigredさん
(また謝罪に、「ここまででいい」という線引きができるとは思いません。そもそも謝罪が十分か、不十分かは、謝罪する側が決めるものではなく、謝罪される側の気持ちによるのではありませんか。)
(十分な謝罪とはその場合どの程度なのか、誰がその「必要」とか「十分だ」という基準を決めたのか、具体的にひとつで結構です、ご教示願えますか)
⇒gobigredさんは相手が納得するまで謝罪し続けるの人なんですね。いい人ですね~!!例えば、交通事故で加害者になって、永久に被害者から無心されても、相手が納得するまで補償金や慰謝料を払い続ける人なんでしょう。誠意溢れる人です。
私は無理ですね、人間が出来てないし、「もう十分誠意を示したしょ?」となるわけです。ほとんどの一般庶民の感覚ははそんなもんでしょ。金銭的な無心でなくとも、法的な賠償責任を全うしているのに、その後も執拗に被害者から「皆の前で土下座せよ」とか、「毎年謝罪に来い?」とか 言われても同じく「もう十分誠意を示したでしょ?」となると思います。結局は被害者とは永久に和解出来ないという結論になるのです。
(また謝罪に、「ここまででいい」という線引きができるとは思いません。そもそも謝罪が十分か、不十分かは、謝罪する側が決めるものではなく、謝罪される側の気持ちによるのではありませんか。)
(十分な謝罪とはその場合どの程度なのか、誰がその「必要」とか「十分だ」という基準を決めたのか、具体的にひとつで結構です、ご教示願えますか)
⇒gobigredさんは相手が納得するまで謝罪し続けるの人なんですね。いい人ですね~!!例えば、交通事故で加害者になって、永久に被害者から無心されても、相手が納得するまで補償金や慰謝料を払い続ける人なんでしょう。誠意溢れる人です。
私は無理ですね、人間が出来てないし、「もう十分誠意を示したしょ?」となるわけです。ほとんどの一般庶民の感覚ははそんなもんでしょ。金銭的な無心でなくとも、法的な賠償責任を全うしているのに、その後も執拗に被害者から「皆の前で土下座せよ」とか、「毎年謝罪に来い?」とか 言われても同じく「もう十分誠意を示したでしょ?」となると思います。結局は被害者とは永久に和解出来ないという結論になるのです。
No title
また謝罪に、「ここまででいい」という線引きができるとは思いません。そもそも謝罪が十分か、不十分かは、謝罪する側が決めるものではなく、謝罪される側の気持ちによるのではありませんか。
↑
謝罪が無際限に継続していくか否かは被害者側の意思一つということなんですね。
↑
謝罪が無際限に継続していくか否かは被害者側の意思一つということなんですね。
Gobi氏へ②
議論が拡散しているようだが、結局、このコメント欄で特攻それ自体を美化している人間など誰もいないという点については納得して頂けたと思って良いのだろうか。
①
横レスだが、ひまわり氏の「豚に真珠」は、gobi氏の辞書云々という説明?悪く言えば弁明?からでしょう?主旨は理解は出来るはずだと思います。
②
「日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
すごい言葉ですよね。
「日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
すごい。
あなたの言うように相対的評価が出来ないのなら、絶対的な評価基準があるのでしょう。あるいは普遍的な視点からの評価か。
文化相対主義からすれば「他文化と比較評価出来ない」って理屈はわかる。
しかし、
「日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
という貴方の評価は、じゃあどっから出てきたの?
申し訳ないが、理解しがたい。
日本と自分を親子間になぞらえてますが、神ならぬGobi氏は私と同様にちっぽけな一日本人、一主権者に過ぎない。日本の親じゃない。
自国に対して批判的に見るのは貴方の自由です。肯定的に見るのが自由であるのと同じように。
だが真に求むるべきは、自国以前に「自説」に対する批判的姿勢でしょう。そして、論理性と客観性に基づく公正さでしょう。そう私は思いますよ。その上で日本人として回帰し、発言する。
じゃあ客観性って何でしょうね?どの様に客観性を醸成すれば良いのでしょうか?あるいは絶対的な視点があると思いますか?あなたの視点は、立場は、どこにありますか?
いや、四の五の言うのは止めて、いっそのこと平たく言ってしまいましょう。
自分の属する会社の文句を滔々と喋るオッサンがしばしば居ます。
やれ「○○部長は現場が分かってない、「○○専務は視野が狭い」、「社長は頭が固い」、「R&Dを効率化すべきだ」。
……このオッサンの言いたい事は何でしょう?
これね、「俺はアイツらごとき有象無象とは違うんだ。価値がある。そうに違いない」
という自己承認欲求の発露だと私は思いますよ。自分で自分を認めるための潜在心理の欲求です。
③
謝罪に関して。
国家間では条約によりケリをつける。
個人や法人間では訴訟あるいは握手によってケリをつける。
ケリがついたことにする。
尚、ww2でケリが付いてないのはソ連との関係だけ。
「謙虚に謝罪できる俺は善人」と思い込める加害者(?)
は永遠に謝罪し続けても幸せでしょうが、修学旅行で韓国に行って自称従軍慰安婦に対する土下座を強要される高校生なんか、ほんと憐れです。
被害者様の道徳的優位性と、加害者(?)である日本猿の道徳的劣位は、被害者様が納得なさるまで千年万年でも続くのでしょうか?
そうであるなら、俺は今すぐ誰かに殴られたい。
④
誤解について。
私は貴方の嫌味な文章に対して嫌味で返していますから、あなたが不快に感じたのは正しいです。
これは議論にとって愚かな行為であり、私の不徳といたすところです。
①
横レスだが、ひまわり氏の「豚に真珠」は、gobi氏の辞書云々という説明?悪く言えば弁明?からでしょう?主旨は理解は出来るはずだと思います。
②
「日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
すごい言葉ですよね。
「日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
すごい。
あなたの言うように相対的評価が出来ないのなら、絶対的な評価基準があるのでしょう。あるいは普遍的な視点からの評価か。
文化相対主義からすれば「他文化と比較評価出来ない」って理屈はわかる。
しかし、
「日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
という貴方の評価は、じゃあどっから出てきたの?
申し訳ないが、理解しがたい。
日本と自分を親子間になぞらえてますが、神ならぬGobi氏は私と同様にちっぽけな一日本人、一主権者に過ぎない。日本の親じゃない。
自国に対して批判的に見るのは貴方の自由です。肯定的に見るのが自由であるのと同じように。
だが真に求むるべきは、自国以前に「自説」に対する批判的姿勢でしょう。そして、論理性と客観性に基づく公正さでしょう。そう私は思いますよ。その上で日本人として回帰し、発言する。
じゃあ客観性って何でしょうね?どの様に客観性を醸成すれば良いのでしょうか?あるいは絶対的な視点があると思いますか?あなたの視点は、立場は、どこにありますか?
いや、四の五の言うのは止めて、いっそのこと平たく言ってしまいましょう。
自分の属する会社の文句を滔々と喋るオッサンがしばしば居ます。
やれ「○○部長は現場が分かってない、「○○専務は視野が狭い」、「社長は頭が固い」、「R&Dを効率化すべきだ」。
……このオッサンの言いたい事は何でしょう?
これね、「俺はアイツらごとき有象無象とは違うんだ。価値がある。そうに違いない」
という自己承認欲求の発露だと私は思いますよ。自分で自分を認めるための潜在心理の欲求です。
③
謝罪に関して。
国家間では条約によりケリをつける。
個人や法人間では訴訟あるいは握手によってケリをつける。
ケリがついたことにする。
尚、ww2でケリが付いてないのはソ連との関係だけ。
「謙虚に謝罪できる俺は善人」と思い込める加害者(?)
は永遠に謝罪し続けても幸せでしょうが、修学旅行で韓国に行って自称従軍慰安婦に対する土下座を強要される高校生なんか、ほんと憐れです。
被害者様の道徳的優位性と、加害者(?)である日本猿の道徳的劣位は、被害者様が納得なさるまで千年万年でも続くのでしょうか?
そうであるなら、俺は今すぐ誰かに殴られたい。
④
誤解について。
私は貴方の嫌味な文章に対して嫌味で返していますから、あなたが不快に感じたのは正しいです。
これは議論にとって愚かな行為であり、私の不徳といたすところです。
ついでに言えば…
ついでに言えば、俗に言う「左翼・サヨク」の人達って、議論の都合によって「日本人・日本国民」の立場と「世界市民」の立場を使い分けるから嫌なんです。
「日本人として~~」と言いつつも、自分が日本人を超越した何かであると意識している感じ。
お前らにとって日本は何なのよ、と。
お前らがエエカッコするための踏み台じゃないんやで、と。
「日本人として~~」と言いつつも、自分が日本人を超越した何かであると意識している感じ。
お前らにとって日本は何なのよ、と。
お前らがエエカッコするための踏み台じゃないんやで、と。
No title
>私は無理ですね、人間が出来てないし、「もう十分誠意を示したしょ?」となるわけです。ほとんどの一般庶民の感覚ははそんなもんでしょ。
私は幸い、いままで交通事故で人を傷つけたことはない(はねられたことは一度あるが)。もし交通事故で人を死なせてしまったらどうするか。う~ん、難しい。
でもどんなに謝罪しても事故の瞬間が脳裏に焼き付いて離れないと思う。トラウマでもう車は乗れないかもしれない。かけがえのない人の命を奪った償いをどうすればいいのか。もちろん十分な保険はかけているが「カネ払ったからもういいじゃねえか」とはとても言えない。私は命日には墓前で冥福を祈り続けたい。もうそれをする以外にないと思う。
私は幸い、いままで交通事故で人を傷つけたことはない(はねられたことは一度あるが)。もし交通事故で人を死なせてしまったらどうするか。う~ん、難しい。
でもどんなに謝罪しても事故の瞬間が脳裏に焼き付いて離れないと思う。トラウマでもう車は乗れないかもしれない。かけがえのない人の命を奪った償いをどうすればいいのか。もちろん十分な保険はかけているが「カネ払ったからもういいじゃねえか」とはとても言えない。私は命日には墓前で冥福を祈り続けたい。もうそれをする以外にないと思う。
gobigred様
>「特攻隊の死は豚に真珠」というのがどういう意味なのか、わたしには全く理解できません。
↑やっぱりね。という感じです。山葵様のように理解していただける方もいます。
お得意さんや上司に向かって豚に真珠ですねと、とは言えないように
特攻隊の死も犬死にとは言えないにでは、と言いたかったのです。
どちらとも印象が良くない言い回しなのに片方は使えるがもう片方は使えないとは不思議だと思うのです。
特攻隊員の母親は犬死にさせられたといった感情が湧いても決しておかしくはありません。
しかし例えば溺れた子を人助けをしようとしたが助けられず
自分も命を落としてしまった子に対し母親は犬死にだったとまで言うでしょうか。
溺れた子さえいなければとその子を恨むことはあると思いますが。
その違いは自主性と強制性の違いがあるからでしょう。
当然特攻隊員の母親は被害者意識が強く残ります。
こんなひどい死に方をさせられたんだ!ということを強調したいために息子をあえて犬に例えて犬同様に使われたんだ、犬死にさせられた、と感情的な心境になるのしょう。
しかしその一方で息子の最後は立派だった、せめてそう思わなければ息子は報われない、何もかもが無駄であったならあまりにも息子はかわいそうだと思う感情もあるでしょう。
このように感情が入り乱れるほどつらいことであることは想像できますが
だからと言って当事者ではない我々はその母の気持ちを100分の1もわからないでしょう。
それどころか現代に生きる私たちは特攻隊員との接点はほとんどないため
どうしてもその母親よりも客観的で冷静な立場であることは否めません。
しかし唯一の接点は同じ日本人であったということです。
特攻隊という存在を知ったとき早く生まれなくてよかったと正直に思います。
同時に特攻隊を知れば知るほど戦争がなくてよかったと思えてきます。
平和のありがたみを感じられるのは彼らの悲惨な死から戦争の悲劇を学べたからです。
彼らの死は決して無駄ではなかったはずです。
しかし左翼は特攻隊の死を無駄である、犬死にだと言い放つ一方で
もう二度とあんな戰爭はごめんだと先人から学んだはずの平和を声高々に主張しています。
我々はたまたま1?2代遅く生まれただけであります。
その同じ日本人が今では平和にどっぷり身をつつみながら
身をもって教えてくれた先人に対し「犬死であり無駄死であることは間違いない」とはどういうことでしょう。
平和をアピールするのならその前に多くの教訓を教えてくれた先人たちにまずは敬意を払いなさい。
これを美化だという人、まるで当事者の被害者であるがごとく「犬死であり無駄死であることは間違いない」といい放つ人、そのような平和主義の人たちからは尊崇の念は感じられません。
↑やっぱりね。という感じです。山葵様のように理解していただける方もいます。
お得意さんや上司に向かって豚に真珠ですねと、とは言えないように
特攻隊の死も犬死にとは言えないにでは、と言いたかったのです。
どちらとも印象が良くない言い回しなのに片方は使えるがもう片方は使えないとは不思議だと思うのです。
特攻隊員の母親は犬死にさせられたといった感情が湧いても決しておかしくはありません。
しかし例えば溺れた子を人助けをしようとしたが助けられず
自分も命を落としてしまった子に対し母親は犬死にだったとまで言うでしょうか。
溺れた子さえいなければとその子を恨むことはあると思いますが。
その違いは自主性と強制性の違いがあるからでしょう。
当然特攻隊員の母親は被害者意識が強く残ります。
こんなひどい死に方をさせられたんだ!ということを強調したいために息子をあえて犬に例えて犬同様に使われたんだ、犬死にさせられた、と感情的な心境になるのしょう。
しかしその一方で息子の最後は立派だった、せめてそう思わなければ息子は報われない、何もかもが無駄であったならあまりにも息子はかわいそうだと思う感情もあるでしょう。
このように感情が入り乱れるほどつらいことであることは想像できますが
だからと言って当事者ではない我々はその母の気持ちを100分の1もわからないでしょう。
それどころか現代に生きる私たちは特攻隊員との接点はほとんどないため
どうしてもその母親よりも客観的で冷静な立場であることは否めません。
しかし唯一の接点は同じ日本人であったということです。
特攻隊という存在を知ったとき早く生まれなくてよかったと正直に思います。
同時に特攻隊を知れば知るほど戦争がなくてよかったと思えてきます。
平和のありがたみを感じられるのは彼らの悲惨な死から戦争の悲劇を学べたからです。
彼らの死は決して無駄ではなかったはずです。
しかし左翼は特攻隊の死を無駄である、犬死にだと言い放つ一方で
もう二度とあんな戰爭はごめんだと先人から学んだはずの平和を声高々に主張しています。
我々はたまたま1?2代遅く生まれただけであります。
その同じ日本人が今では平和にどっぷり身をつつみながら
身をもって教えてくれた先人に対し「犬死であり無駄死であることは間違いない」とはどういうことでしょう。
平和をアピールするのならその前に多くの教訓を教えてくれた先人たちにまずは敬意を払いなさい。
これを美化だという人、まるで当事者の被害者であるがごとく「犬死であり無駄死であることは間違いない」といい放つ人、そのような平和主義の人たちからは尊崇の念は感じられません。
特攻を美化する者は誰か
犬死については、このブログで7月にも喧々囂々の議論が戦わされたと知りました。「ひまわりさん」も「参戦」されていて、次に引用する書き込みをご覧になっているはずです。わたしは、「特攻=犬死」と表現していないはずなので、「犬死に同感」している方に再度問いかけをお願いします。念のため、書き込みを引用しておきます。
犬死には同感です
特攻隊が出撃する時点では、どうみても敗色濃厚。とっくに、降伏をすべきでした。
このまま続けても負ける戦争を意地で長引かせ、不必要に国民・兵士の死者を増やしたのは、明らかに当時の政府・軍の判断ミスです。 そういう、政府・軍の判断ミスで特攻隊として出撃し、亡くなられたのですから犬死にに近いものが有ると思う。勿論、特攻隊員を責めているのではありません。
2012/11/17(09:29) 私は一般人
どう考えても特攻隊は最悪の作戦ですよ。こういうのを爽やかな感じで映画にすると、もう、右傾化と言われても仕方がない。靖国神社には、特攻隊員の遺書もたくさんあり、見られている人も多いと思いますが、読めば本当に気の毒な印象を持ちました。当時の特攻隊の指揮官も、「俺も必ずあとから行く」とか言いながら、行った指揮官など、ほとんどいないそうじゃないですか。
映画を見ているうちに、どこかフィクションのように感じられた発言かも知れませんが、ただ「在った」では、すまないですよ。
2013/01/18(02:04) 私は一般人
犬扱いすることはやりすぎです。人間の死をあえて「犬」に例えて「犬死に」と表現することは、
その人の人権までも否定することになりませんか? 犬死させられた被害者と言いたかったのでしょうがせめて「無駄死にだった」で押さえておくべきだったと思います。 いくら軍国主義を否定する為だったにしても犬扱いしたことは重大で、お亡くなりになられた方の尊厳に関わることです。「特攻隊は無駄死にだったか否か」以前の問題になってしまっています。
2013/03/18(01:42) ひまわり
特攻の賛美については、同じエントリーにこういう書き込みがありました―
特攻を賛美することは絶対やめたほうがいい。賛美することは繰り返すことにつながる。重い教訓とし、決して繰替えさないことを誓うのが政治を司る者の責任であると信じる。
アラブの自爆テロも同じだと思う。死んだ者は神として祭り上げられるが、生きているからこそ、その人の世界全てがあることを決して忘れてはならない。このことは人の根本であり、右も左もない議論の余地もないと確信する。
2013/09/19(17:13) musashi44
(この方は特攻を美化する者の対象を「コメント欄で議論して(い)る者たち」に限定していないようです。しかし、これは7月のエントリー。)
で、今回のエントリーで、特攻を誰が美化しているかについて、「山葵」さんは、
「このコメント欄で議論してる者たちのなかに、特攻それ自体を美化している人間など誰もいない。」 わたしは元よりこの限定的な意味で書いてました。誤解させましたね。失礼。
と書かれていました。しかし、エントリーを立ち上げたブログ主さんは、その冒頭に、
特攻による死が無駄だったのかどうか、この結論は出ています。無駄死に、犬死にであり、彼ら特攻隊員を無駄に命を落とさせられたのです。「特攻は死を強要した単なる殺人 美化するなんてとんでもない」
と書いています。わたしはこれを議論の出発点だと考えて皆さんは書き込みをされていると思い込んでおりました。しかし、「山葵」さんは、「このコメント欄で議論してる者たち」に限定しておられたようです。上の引用は次のように続きます―
ところが性懲りもなく、無駄死にとは何だと騒いでいる人がいます。岩田温氏です。
「特攻隊は無駄死にだったのか?もう一度冷静に振り返りたい特攻隊の真実。」(ブロゴス)
これだけ読んでも、ブログ主さんは、特攻を美化しているのが「このコメント欄で議論してる者たち」に限定しておられないことが分かると思うのですが。もちろん他人様のブログであっても、「山葵」さんが自分のピッチだけで試合をなさるのは勝手です。(長くなるので、謝罪に関しては別に書き込みます。皆さんたくさんのご意見ありがとうございます。)
犬死には同感です
特攻隊が出撃する時点では、どうみても敗色濃厚。とっくに、降伏をすべきでした。
このまま続けても負ける戦争を意地で長引かせ、不必要に国民・兵士の死者を増やしたのは、明らかに当時の政府・軍の判断ミスです。 そういう、政府・軍の判断ミスで特攻隊として出撃し、亡くなられたのですから犬死にに近いものが有ると思う。勿論、特攻隊員を責めているのではありません。
2012/11/17(09:29) 私は一般人
どう考えても特攻隊は最悪の作戦ですよ。こういうのを爽やかな感じで映画にすると、もう、右傾化と言われても仕方がない。靖国神社には、特攻隊員の遺書もたくさんあり、見られている人も多いと思いますが、読めば本当に気の毒な印象を持ちました。当時の特攻隊の指揮官も、「俺も必ずあとから行く」とか言いながら、行った指揮官など、ほとんどいないそうじゃないですか。
映画を見ているうちに、どこかフィクションのように感じられた発言かも知れませんが、ただ「在った」では、すまないですよ。
2013/01/18(02:04) 私は一般人
犬扱いすることはやりすぎです。人間の死をあえて「犬」に例えて「犬死に」と表現することは、
その人の人権までも否定することになりませんか? 犬死させられた被害者と言いたかったのでしょうがせめて「無駄死にだった」で押さえておくべきだったと思います。 いくら軍国主義を否定する為だったにしても犬扱いしたことは重大で、お亡くなりになられた方の尊厳に関わることです。「特攻隊は無駄死にだったか否か」以前の問題になってしまっています。
2013/03/18(01:42) ひまわり
特攻の賛美については、同じエントリーにこういう書き込みがありました―
特攻を賛美することは絶対やめたほうがいい。賛美することは繰り返すことにつながる。重い教訓とし、決して繰替えさないことを誓うのが政治を司る者の責任であると信じる。
アラブの自爆テロも同じだと思う。死んだ者は神として祭り上げられるが、生きているからこそ、その人の世界全てがあることを決して忘れてはならない。このことは人の根本であり、右も左もない議論の余地もないと確信する。
2013/09/19(17:13) musashi44
(この方は特攻を美化する者の対象を「コメント欄で議論して(い)る者たち」に限定していないようです。しかし、これは7月のエントリー。)
で、今回のエントリーで、特攻を誰が美化しているかについて、「山葵」さんは、
「このコメント欄で議論してる者たちのなかに、特攻それ自体を美化している人間など誰もいない。」 わたしは元よりこの限定的な意味で書いてました。誤解させましたね。失礼。
と書かれていました。しかし、エントリーを立ち上げたブログ主さんは、その冒頭に、
特攻による死が無駄だったのかどうか、この結論は出ています。無駄死に、犬死にであり、彼ら特攻隊員を無駄に命を落とさせられたのです。「特攻は死を強要した単なる殺人 美化するなんてとんでもない」
と書いています。わたしはこれを議論の出発点だと考えて皆さんは書き込みをされていると思い込んでおりました。しかし、「山葵」さんは、「このコメント欄で議論してる者たち」に限定しておられたようです。上の引用は次のように続きます―
ところが性懲りもなく、無駄死にとは何だと騒いでいる人がいます。岩田温氏です。
「特攻隊は無駄死にだったのか?もう一度冷静に振り返りたい特攻隊の真実。」(ブロゴス)
これだけ読んでも、ブログ主さんは、特攻を美化しているのが「このコメント欄で議論してる者たち」に限定しておられないことが分かると思うのですが。もちろん他人様のブログであっても、「山葵」さんが自分のピッチだけで試合をなさるのは勝手です。(長くなるので、謝罪に関しては別に書き込みます。皆さんたくさんのご意見ありがとうございます。)
No title
「謝罪」については、このサイトをご覧ください(リンクを張って申し訳ありませんが)、わたしの考えに近いので。
http://d.hatena.ne.jp/mzponta/20150814/p1
その一部だけを抜粋します―
つまり、直接的な「謝罪の言葉」がなくとも、被害側に伝わる「謝罪の仕方」はいくらでもあって、実は、「形式的な謝罪の言葉」よりも「真摯な反省の態度」を示す方が、より伝わる「謝罪」になりうるわけです。この点、日本(政府)がなぜ、「言葉による謝罪」を求められるのか…と言えばそれは、どない考えても日本政府に「過去への真摯な反省の態度が見て取れないから」でありまして、そのために、相手方は「言葉による謝罪」という「(目に見える)反省の確認」を求めているんだと思うんです。とすると、謝罪をくり返し求められるのは、「相手方に起因すること」ではなくて、「こちら側の振る舞いに起因すること」…ということになるので、くり返し謝罪を求められる…なんていう被害者感覚を抱くのは、まったく筋違いです。だから…(以下、ひとさまのtweetより)
「戦後70年談話」 稲田朋美 : 日本は過去の戦争への痛切な反省のもと、戦後は一貫して平和国家として国際社会の平和と発展に貢献して来た 戦争の解決は平和条約の締結が全てであり、未来永劫謝り続けることには違和感がある
何度も「謝罪の言葉」という「反省の確認」を求められるのは、こちらが相手方に伝わる「真摯な反省」をしてないから…でありまして、「過去への真摯な反省」が相手方に伝わらない限り、ドイツと違って日本政府は、「謝罪の言葉」を未来永劫、くり返し求められることでしょう
(だって、日本が未来永劫、真摯な反省をしなかったとしたら、相手方は未来永劫、言葉の謝罪という反省の確認を求め続けるでしょうからね)[引用ここまで]
バブルたけなわの頃の話です。野村證券に就職内定した大学生が、内定を辞退するために本社を訪れ、その旨を伝えたら、社員がその学生に頭からバケツで水をかけて、「クリーニング代だ」と言って1万円札を投げてよこしたそうです。他にも「カレー」だ、「カツ丼」だという話も伝わっています。稲田朋美の謝罪は野村證券の謝罪とそれほど変わりはないと思います。「謝ればいいんでしょ」という態度で謝罪しても、その「誠意」は相手に通じません。
わたしが「謝罪」を持ち出したのは、「自虐史観」を「一般人さん」が言い出したからです。交通事故の話ではありません。「限定的な意味で書いてました。」
http://d.hatena.ne.jp/mzponta/20150814/p1
その一部だけを抜粋します―
つまり、直接的な「謝罪の言葉」がなくとも、被害側に伝わる「謝罪の仕方」はいくらでもあって、実は、「形式的な謝罪の言葉」よりも「真摯な反省の態度」を示す方が、より伝わる「謝罪」になりうるわけです。この点、日本(政府)がなぜ、「言葉による謝罪」を求められるのか…と言えばそれは、どない考えても日本政府に「過去への真摯な反省の態度が見て取れないから」でありまして、そのために、相手方は「言葉による謝罪」という「(目に見える)反省の確認」を求めているんだと思うんです。とすると、謝罪をくり返し求められるのは、「相手方に起因すること」ではなくて、「こちら側の振る舞いに起因すること」…ということになるので、くり返し謝罪を求められる…なんていう被害者感覚を抱くのは、まったく筋違いです。だから…(以下、ひとさまのtweetより)
「戦後70年談話」 稲田朋美 : 日本は過去の戦争への痛切な反省のもと、戦後は一貫して平和国家として国際社会の平和と発展に貢献して来た 戦争の解決は平和条約の締結が全てであり、未来永劫謝り続けることには違和感がある
何度も「謝罪の言葉」という「反省の確認」を求められるのは、こちらが相手方に伝わる「真摯な反省」をしてないから…でありまして、「過去への真摯な反省」が相手方に伝わらない限り、ドイツと違って日本政府は、「謝罪の言葉」を未来永劫、くり返し求められることでしょう
(だって、日本が未来永劫、真摯な反省をしなかったとしたら、相手方は未来永劫、言葉の謝罪という反省の確認を求め続けるでしょうからね)[引用ここまで]
バブルたけなわの頃の話です。野村證券に就職内定した大学生が、内定を辞退するために本社を訪れ、その旨を伝えたら、社員がその学生に頭からバケツで水をかけて、「クリーニング代だ」と言って1万円札を投げてよこしたそうです。他にも「カレー」だ、「カツ丼」だという話も伝わっています。稲田朋美の謝罪は野村證券の謝罪とそれほど変わりはないと思います。「謝ればいいんでしょ」という態度で謝罪しても、その「誠意」は相手に通じません。
わたしが「謝罪」を持ち出したのは、「自虐史観」を「一般人さん」が言い出したからです。交通事故の話ではありません。「限定的な意味で書いてました。」
No title
maruさん
タイトルから外れる内容なので最後にしますが・・・
(かけがえのない人の命を奪った償いをどうすればいいのか。もちろん十分な保険はかけているが「カネ払ったからもういいじゃねえか」とはとても言えない。私は命日にはかけがえのない人の命を奪った償いをどうすればいいのか。もちろん十分な保険はかけているが「カネ払ったからもういいじゃねえか」とはとても言えない。私は命日には墓前で冥福を祈り続けたい。もうそれをする以外にないと思う。。もうそれをする以外にないと思う。)
⇒交通事故で人の命を殺めたら、私も一生贖罪意識に苛まれることでしょう。
ですが・・・・
命日に墓前で冥福を祈り続けても被害者側は「全く反省していない」と評価しているのです。そして加害者から、そんなパフォーマンスは不要だ、有形で誠意を示せと、金銭補償や執拗に謝罪を求めくるのです?あなたは自分の生活を捨て、私財を投げうってお詫びし続けるのですか?そうしたい人はそうすればいいと思います。
また加害事故の当事者でもない、自分の息子や娘、孫にまで未来永劫謝罪を求められたらどうされますか?それにも応じる方は勝手にそうすればいいと思います。
一般論として加害者としての贖罪意識を持つことと、被害者からの度を過ぎた謝罪要求に応じることとは別問題でと考えるべきですよね。
謝罪の無限ループは合理的でない、だからこそ法律や条約が存在するのではないでしょうか。
タイトルから外れる内容なので最後にしますが・・・
(かけがえのない人の命を奪った償いをどうすればいいのか。もちろん十分な保険はかけているが「カネ払ったからもういいじゃねえか」とはとても言えない。私は命日にはかけがえのない人の命を奪った償いをどうすればいいのか。もちろん十分な保険はかけているが「カネ払ったからもういいじゃねえか」とはとても言えない。私は命日には墓前で冥福を祈り続けたい。もうそれをする以外にないと思う。。もうそれをする以外にないと思う。)
⇒交通事故で人の命を殺めたら、私も一生贖罪意識に苛まれることでしょう。
ですが・・・・
命日に墓前で冥福を祈り続けても被害者側は「全く反省していない」と評価しているのです。そして加害者から、そんなパフォーマンスは不要だ、有形で誠意を示せと、金銭補償や執拗に謝罪を求めくるのです?あなたは自分の生活を捨て、私財を投げうってお詫びし続けるのですか?そうしたい人はそうすればいいと思います。
また加害事故の当事者でもない、自分の息子や娘、孫にまで未来永劫謝罪を求められたらどうされますか?それにも応じる方は勝手にそうすればいいと思います。
一般論として加害者としての贖罪意識を持つことと、被害者からの度を過ぎた謝罪要求に応じることとは別問題でと考えるべきですよね。
謝罪の無限ループは合理的でない、だからこそ法律や条約が存在するのではないでしょうか。
No title
バブルたけなわの頃の話です。野村證券に就職内定した大学生が、内定を辞退するために本社を訪れ、その旨を伝えたら、社員がその学生に頭からバケツで水をかけて、「クリーニング代だ」と言って1万円札を投げてよこしたそうです。
↑
私も当時その話は聞きましたが、どうせ週刊誌の作り話でしょ?
天下の野村證券の担当者が暴行罪ですか。怒鳴るくらいはあったでしょうが。もしこのヨタ話を信じて謝罪について引用したのなら稲田氏を持ち出すまでもありませんよ。
↑
私も当時その話は聞きましたが、どうせ週刊誌の作り話でしょ?
天下の野村證券の担当者が暴行罪ですか。怒鳴るくらいはあったでしょうが。もしこのヨタ話を信じて謝罪について引用したのなら稲田氏を持ち出すまでもありませんよ。
No title
元より3年前のものだけど
私も記述は覚えているが、当時の軍部の「特攻作戦」を責める目的に限定する「ためだけ」であれば、私は特攻隊員に対して「犬死に」「無駄死に」という表現もアリだと思っています(それでも異論のある方もいるでしょうが)。但し、誤解を与えないように記述には「勿論、特攻隊員を責めているのではありません。」と、わざわざ記載していますよ。
推測ですけど、ひまわりさんも、同じ考えだと思います。
しかし、ブログ主様等は、その「特攻隊員」以外にも「被爆者個人」に対しても「犬死に」「無駄死に」と、軍部の作戦と切り離しても主張している訳でしょう??
要は当時の日本軍憎しの思いが強すぎで盲目となり、単なる被害者まで「無価値」と書いている(要は、戦争に係わった者全てが無価値なのでしょう)。
議論の内容が全然違うと思いますよ。
まぁ、ブログ主様の話は置いておいて、私とgobigredさんとは「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。」の内容について、議論してきた訳ですよね。いきなり、どうしちゃったのかな???(笑)
又、違う方の内容の引用で、その方に申し訳ないが
>>例えば、「日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う」(「山葵」さん)の主張ひとつとっても分かることですが、比較の対象(どこの国と比べて)が明らかにされていません。つまり、こういう問題は比較ができないのです。わたしはそのことを数回書きました。もう一度お読みください
↑わざわざ(どこの国と比べて)と書いていないのは、書くまでも無く「他国の民族性」と比較してという意味なのは当然でしょう。むしろ、あなたは、わざわざ書かれないと分からないのですかね。少し言い訳がましいですよ。
最後にあなたの謝罪について
>>つまり、直接的な「謝罪の言葉」がなくとも、被害側に伝わる「謝罪の仕方」はいくらでもあって、実は、「形式的な謝罪の言葉」よりも「真摯な反省の態度」を示す方が、より伝わる「謝罪」になりうるわけです。この点、日本(政府)がなぜ、「言葉による謝罪」を求められるのか…と言えばそれは、どない考えても日本政府に「過去への真摯な反省の態度が見て取れないから」でありまして、そのために、相手方は「言葉による謝罪」という「(目に見える)反省の確認」を求めているんだと思うんです。とすると、謝罪をくり返し求められるのは、「相手方に起因すること」ではなくて、「こちら側の振る舞いに起因すること」…ということになるので、くり返し謝罪を求められる…なんていう被害者感覚を抱くのは、まったく筋違いです。
↑はい、あなたは十分に自虐史観な左系だと思いますよ。中韓が政治的カードに使っている現実が見えてない。
それと交通事故での謝罪でも、結局は同じことですよ。
私も記述は覚えているが、当時の軍部の「特攻作戦」を責める目的に限定する「ためだけ」であれば、私は特攻隊員に対して「犬死に」「無駄死に」という表現もアリだと思っています(それでも異論のある方もいるでしょうが)。但し、誤解を与えないように記述には「勿論、特攻隊員を責めているのではありません。」と、わざわざ記載していますよ。
推測ですけど、ひまわりさんも、同じ考えだと思います。
しかし、ブログ主様等は、その「特攻隊員」以外にも「被爆者個人」に対しても「犬死に」「無駄死に」と、軍部の作戦と切り離しても主張している訳でしょう??
要は当時の日本軍憎しの思いが強すぎで盲目となり、単なる被害者まで「無価値」と書いている(要は、戦争に係わった者全てが無価値なのでしょう)。
議論の内容が全然違うと思いますよ。
まぁ、ブログ主様の話は置いておいて、私とgobigredさんとは「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした。」の内容について、議論してきた訳ですよね。いきなり、どうしちゃったのかな???(笑)
又、違う方の内容の引用で、その方に申し訳ないが
>>例えば、「日本人は「比較的」死者を冒涜しない民族だと思う」(「山葵」さん)の主張ひとつとっても分かることですが、比較の対象(どこの国と比べて)が明らかにされていません。つまり、こういう問題は比較ができないのです。わたしはそのことを数回書きました。もう一度お読みください
↑わざわざ(どこの国と比べて)と書いていないのは、書くまでも無く「他国の民族性」と比較してという意味なのは当然でしょう。むしろ、あなたは、わざわざ書かれないと分からないのですかね。少し言い訳がましいですよ。
最後にあなたの謝罪について
>>つまり、直接的な「謝罪の言葉」がなくとも、被害側に伝わる「謝罪の仕方」はいくらでもあって、実は、「形式的な謝罪の言葉」よりも「真摯な反省の態度」を示す方が、より伝わる「謝罪」になりうるわけです。この点、日本(政府)がなぜ、「言葉による謝罪」を求められるのか…と言えばそれは、どない考えても日本政府に「過去への真摯な反省の態度が見て取れないから」でありまして、そのために、相手方は「言葉による謝罪」という「(目に見える)反省の確認」を求めているんだと思うんです。とすると、謝罪をくり返し求められるのは、「相手方に起因すること」ではなくて、「こちら側の振る舞いに起因すること」…ということになるので、くり返し謝罪を求められる…なんていう被害者感覚を抱くのは、まったく筋違いです。
↑はい、あなたは十分に自虐史観な左系だと思いますよ。中韓が政治的カードに使っている現実が見えてない。
それと交通事故での謝罪でも、結局は同じことですよ。
No title
この点、日本(政府)がなぜ、「言葉による謝罪」を求められるのか…と言えばそれは、どない考えても日本政府に「過去への真摯な反省の態度が見て取れないから」でありまして、そのために、相手方は「言葉による謝罪」という「(目に見える)反省の確認」を求めているんだと思うんです。
↑
昭和60年の中曽根靖国参拝まで(これを朝日新聞の加藤千洋が中国を唆した)戦後40年間中国も韓国も謝罪を求めなかった理由を教えてください。
↑
昭和60年の中曽根靖国参拝まで(これを朝日新聞の加藤千洋が中国を唆した)戦後40年間中国も韓国も謝罪を求めなかった理由を教えてください。
Dobi氏へ③
①謝罪について
謝罪は気持ち良いのです。
特に慰安婦みたいな、自分が犯していない問題について謝罪する時なんか、もう滅茶苦茶気持ち良い。
自分個人の罪ではないから本質的に罪悪感なんぞありゃしない。だけど頭を下げるポーズをしてみると、我が民族の罪を一身に背負って努力する、悲劇の英雄みたいな気分に浸れる。
加えて韓国人等からは「良心派の日本人」とか「正しい日本人」
とか手放しで褒めて貰えるからもうたまんない。承認欲求バリバリ満たされちゃう。
なあに、謝罪ネタが真に事実であるかどうかなど些細な問題だ。どうせ政治的理由から事実はアナウンスされない。
つか、「反省できる謙虚な俺」がここに存在してる事が重要なのだし、そもそも自国を批判的に捉える姿勢それ自体が美しい。子を厳しく育てる親が美しいように。
こんな感じでしょ。
ほら、自己啓発セミナーでもよくあるでしょう?
自らの恥部をカミングアウトして、まわりの連中が「良く言った!お前は偉い!」ってほめる儀式。
あれと一緒ですよ。
つまりね、イデオロギー以前に心理の問題なんだよ。
自己無価値感を解消したいの。
自分には価値があるって思いたいの。
空想的平和主義を捏ねる人も、
浮わついた綺麗事を捏ねる人も、
強烈な環境保護を叫ぶ人も、
根はみんな同じですよ。自己承認欲求の発露。
そりゃね、
「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
こんな説の論理的説明なんか出せるわけない。
だって「自分は自国批判できる謙虚で道徳的な善人」、と思いたいが為に、手段として日本人を貶めてるだけですから。無意識にコジツケてんだから。
そう、無意識の奴隷なんですよ。
ところで、最近パク・ユハの慰安婦本出版の件、「良心的日本人」の筈の村山や河野洋平が韓国人から罵倒されてますね。「しょせん倭寇は倭寇、猿は猿、日本人は日本人」みたいな感じで。
やっぱ、いくら謝っても、謙虚さを演出しても、駄目なもんは駄目なんやね。
悲しいかな、それが現実。
さて、繰り返すが、私はサヨクさんの殆どの主張はイデオロギー以前に心理的欲求から発生してると考えてる。ゆえに、これを書きました。
ハラワタ煮えくり返るでしょうが、人格攻撃ではなく、心理分析と捉えて欲しいな、と。
②誤解について。
うん、ごめんなさいね。
③私は一般人氏へ
韓は政治的カードであるとともに儒教的価値観に呪縛され過ぎてますからねぇ。北との正当政府競争もありますし、根が深い。どうにもならない。
一方、中は国内統治で反日を使いすぎて、特に共産党以外に情報ソースの無い田舎の連中とか狂ったように反日。私、ウイグルで車に石投げられた事ありますw。どうにもならない。
困ったもんですね、本当。
謝罪は気持ち良いのです。
特に慰安婦みたいな、自分が犯していない問題について謝罪する時なんか、もう滅茶苦茶気持ち良い。
自分個人の罪ではないから本質的に罪悪感なんぞありゃしない。だけど頭を下げるポーズをしてみると、我が民族の罪を一身に背負って努力する、悲劇の英雄みたいな気分に浸れる。
加えて韓国人等からは「良心派の日本人」とか「正しい日本人」
とか手放しで褒めて貰えるからもうたまんない。承認欲求バリバリ満たされちゃう。
なあに、謝罪ネタが真に事実であるかどうかなど些細な問題だ。どうせ政治的理由から事実はアナウンスされない。
つか、「反省できる謙虚な俺」がここに存在してる事が重要なのだし、そもそも自国を批判的に捉える姿勢それ自体が美しい。子を厳しく育てる親が美しいように。
こんな感じでしょ。
ほら、自己啓発セミナーでもよくあるでしょう?
自らの恥部をカミングアウトして、まわりの連中が「良く言った!お前は偉い!」ってほめる儀式。
あれと一緒ですよ。
つまりね、イデオロギー以前に心理の問題なんだよ。
自己無価値感を解消したいの。
自分には価値があるって思いたいの。
空想的平和主義を捏ねる人も、
浮わついた綺麗事を捏ねる人も、
強烈な環境保護を叫ぶ人も、
根はみんな同じですよ。自己承認欲求の発露。
そりゃね、
「昔から日本人は死者を平気で冒涜する人達でした」
こんな説の論理的説明なんか出せるわけない。
だって「自分は自国批判できる謙虚で道徳的な善人」、と思いたいが為に、手段として日本人を貶めてるだけですから。無意識にコジツケてんだから。
そう、無意識の奴隷なんですよ。
ところで、最近パク・ユハの慰安婦本出版の件、「良心的日本人」の筈の村山や河野洋平が韓国人から罵倒されてますね。「しょせん倭寇は倭寇、猿は猿、日本人は日本人」みたいな感じで。
やっぱ、いくら謝っても、謙虚さを演出しても、駄目なもんは駄目なんやね。
悲しいかな、それが現実。
さて、繰り返すが、私はサヨクさんの殆どの主張はイデオロギー以前に心理的欲求から発生してると考えてる。ゆえに、これを書きました。
ハラワタ煮えくり返るでしょうが、人格攻撃ではなく、心理分析と捉えて欲しいな、と。
②誤解について。
うん、ごめんなさいね。
③私は一般人氏へ
韓は政治的カードであるとともに儒教的価値観に呪縛され過ぎてますからねぇ。北との正当政府競争もありますし、根が深い。どうにもならない。
一方、中は国内統治で反日を使いすぎて、特に共産党以外に情報ソースの無い田舎の連中とか狂ったように反日。私、ウイグルで車に石投げられた事ありますw。どうにもならない。
困ったもんですね、本当。
No title
gobigred様
懐かしいコメントです。
確かそのエントリーで初めて特攻隊員の死を犬死に呼ばりする人がいるんだ、
と知って驚いた覚えがあります。
その時は先生と議論した記憶があります。
最後はあなたの言葉遊びには付き合いきれません、今後はこの題目では非承認にします。と言うようなことを先生から言われました。
言葉遊びと言われたとき特攻隊員を犬死に呼ばりすることを本当に軽く考えていらっしゃるんだなと思ったものです。
あれから私は特攻隊の死というものを考えさせられました。
そしていま、作戦上からの観点と死そのものの観点をごっちゃにしてはいけないと思うようになりました。
特攻隊員は操縦桿を握りしめながら今から行うことは無駄死にであり誰のためにも何の役にも立たない、と思いながらて飛び立っていったのでしょうか。
特攻隊員の立ち位置で考えたとき理由はどうあれ命に代えて行なった行為を無駄である、と後世の人が涼しい顔をしていうことはあまりにも無神経であると思うようになりました。
gobigred様は犬死にという言葉は使っていないと強調されてますが要はその言葉を容認するのですかそれとも違うのですか?
>今後は「犬死」ではなく、「無念の死」を使うことをブログ主さんにはお勧めします。
と投げやりのような意見はいただいておりますが。
懐かしいコメントです。
確かそのエントリーで初めて特攻隊員の死を犬死に呼ばりする人がいるんだ、
と知って驚いた覚えがあります。
その時は先生と議論した記憶があります。
最後はあなたの言葉遊びには付き合いきれません、今後はこの題目では非承認にします。と言うようなことを先生から言われました。
言葉遊びと言われたとき特攻隊員を犬死に呼ばりすることを本当に軽く考えていらっしゃるんだなと思ったものです。
あれから私は特攻隊の死というものを考えさせられました。
そしていま、作戦上からの観点と死そのものの観点をごっちゃにしてはいけないと思うようになりました。
特攻隊員は操縦桿を握りしめながら今から行うことは無駄死にであり誰のためにも何の役にも立たない、と思いながらて飛び立っていったのでしょうか。
特攻隊員の立ち位置で考えたとき理由はどうあれ命に代えて行なった行為を無駄である、と後世の人が涼しい顔をしていうことはあまりにも無神経であると思うようになりました。
gobigred様は犬死にという言葉は使っていないと強調されてますが要はその言葉を容認するのですかそれとも違うのですか?
>今後は「犬死」ではなく、「無念の死」を使うことをブログ主さんにはお勧めします。
と投げやりのような意見はいただいておりますが。
ソースカツ丼
イーグルさん、おっしゃるとおりですね。バケツに水は作り話でしょう。知人から聞いたことですが、銘柄企業であればあるほど、内定辞退されたときの怒りは大きいとか。野村は業界で圧倒的地位を占めていますからその怒りはさぞやと推察されます。カツ丼やカレーに至っては、自分の好物を「だし」に話を面白くしただけでしょう。いくら好物でも、カツ丼を頭からかけられたら処置に困ります。卵でとじたカツ丼ならまだしも、ソースカツ丼だったらソースが目に入りかねないし、そうなったらすぐに目医者へ急行しなければなりません。眼医者さんも処置に困るでしょう。看護婦さんが若かったら、大笑いするので仕事になりません。本当に大変です。
No title
↑
さらに言わせていただくと、私の記憶ではバブル全盛期ではなく私が卒業した翌年の昭和60年~61年頃の話で、企業は野村證券かどうかは特定されてなく、かけられたのはバケツの水ではなくグラスの水でした。
さらに言わせていただくと、私の記憶ではバブル全盛期ではなく私が卒業した翌年の昭和60年~61年頃の話で、企業は野村證券かどうかは特定されてなく、かけられたのはバケツの水ではなくグラスの水でした。
長々とやってきて、
結局、おちゃらけて終わって終うのですか……
何ともなぁ……
何ともなぁ……
No title
イーグルとコヨーテ、少し絡み過ぎ。右寄りの自分もちと苦々しく感じる。反論は正攻法でやらないと白けてしまう。
特攻隊を語るには大東亜戦争の背景、発端を理解すべきだと思います。シナ事変を含む大東亜戦争はソ連、アメリカ、シナ、イギリスなどが 其々の御都合により日本が戦わなければならないように誘導された物です。一方で日本の望みは自国の存続のみでした。 当時 有色人種の国家が白人国家に支配されるという事は奴隷になるという事です。日本政府としては何を失ってでも それだけは避けなければならなかったのです。日本は開国以来その為だけに必死に国の近代化を急いだと言っても過言ではありません。アメリカからの経済制裁により日本はアメリカと戦わなければ やがては防衛力を失いソ連に侵略される事は明白でした。 大東亜戦争は勝てると思って戦った戦争ではありません。日本としてはじっとしていれば している程状況は悪くなるばかりであり、あの戦争は無いに等しい望みを賭けた戦いであり あの戦争そのものが特攻だったのです。 日本が最後まで玉砕、特攻を繰返した事で アメリカは恐れを抱き 戦後の日本の分割統治を思い留まったのです。 当時日本は本土決戦にむけて戦力を温存しており、 もし戦後アメリカが天皇を処刑し日本の国体を完全に破壊すれば日本は必ず再決起し特攻隊と同様の捨て身の作戦で占領軍は血祭りに挙げられ 泥沼の戦いが何年も続くであろうと マッカーサーに予測させたのです。 特攻隊の犠牲が無ければ日本は 中国、ソ連、アメリカ、イギリスによって分割され 我々は生まれてくる事も無かったのです。
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これはこれで随分と偏った見解ですよ。