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ケーススタディの人生

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仲間どうしで高め合う?何を言っているんだ 切磋琢磨という言葉に異議を唱えたい

生活 精神論

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切磋琢磨、仲間どうしで高め合う。
この言葉に違和感を感じるのはわたしだけでしょうか?
聞こえはいいですが、言葉に対して実際に実力が拮抗している場面はあんまり多くはありません。
どちらかがもう片方を引っ張っていることの方が多いです。

 

「仲間どうし、切磋琢磨してお互いに高め合ってください」
部活動など、狭いコミュニティではこのような言葉がかけられることが多いです。
しかしながら、実際はトップとそれ以外とでは全然別物というケースは少なくありません。

ほとんどの場合トップの人間はそれ以外よりも差をつけて優秀で、それ以外の人間は引っ張ってもらっています。
よくよく考えればこれも自然なことで、キャプテンは背負っているものからしてちがいすぎます。
大会で優勝できなければすべてキャプテンのせいになりますし、キャプテンはトップらしくあらねばならず、弱音など仲間の前では吐けません。

心構えからしてトップとそれ以外とでは異なるので、それが実力に影響するのは言うまでもないでしょう。
失敗時・問題が起きた時に全責任を負うという立場である以上、価値観や考え方にちがいが生じるのは不可避。
トップの人間が孤独というのもめずらしくありません。

 

実際には牽引だらけ

一見してトップとナンバー2とでは同じように見えるでしょう。
しかし本人からすれば全然ちがうものです。
ナンバー2の人間にとっては「まだまだ上がいる。でも自分は結構上の方だ。」ですが、トップの人間はそうではない。

チームの中に自分より上はいない一方で、場所を変えると途端にケツを叩かれる。そしてケツを叩かれないと成長しない。
それゆえにプライベートの時間もトレーニングやそれに並ぶものに消えます。

メンバーからすれば「キャプテンの意識が高すぎてついていけない」ですが、キャプテンからすれば「お前ら意識低すぎる」みたいなのもしばしば。
構造的にはキャプテンがそれ以外を引っ張っている場合が多いです。
にもかかわらず、メンバーから出てくるのはイヤという言葉だったり、受け身の姿勢だったり。
こういうのを見ていると、ワンマン&イエスマンの組み合わせの方が実は効果的なんだなぁと感じてしまいます。

 

部活動に何を見るか

大学に来て感じたのは、同じ「部活動」でも高校までのそれとは別物だということ。
みんなガチですし、後援会にお金を出してもらったりします。
放課後の時間は部活に消え、土日もあってないようなもの。
ごくわずかな空き時間にバイトして稼いだお金もプロテインに消えるとかザラです。

それでもキャプテンとそれ以外とではちがうものがありました。
みんなが練習終わって楽しく話しているなか、キャプテンは別の場所に練習に行ったり、ひとりでトレーニングしていたり。
意識の高さと実力の両方を兼ね備えるのはすごいの一言です。

仲間が練習辛いだの言っている時間に、トレーニングしたり打ち込みしたり。
そしてキャプテンの前には同期含め、誰も歯が立たない
同じ幹部でもキャプテンは何回りもちがっており、ずば抜けて優秀でした。

そんな場所で切磋琢磨なんてものはまずありません。
むしろ切磋琢磨できるパターン自体がまれで、多くの場合、かなりの差が開いています。
高め合うのなんて数えるほどしかなくて、キャプテンに鍛えてもらうのがほとんどでした。

 

わたし自身は部活動を引退してから、周囲との差に苦しむようになりました。
「この問題はもっと考えれば解けるだろう」とか「もっとうまく後輩に接しろよ」とか「なんで時間やお金をそういう風にむだ遣いするか」みたいなのが盛り沢山。
あまりにも価値観が違いすぎて、もうやってられない状態です。こういうのに耐えて涼しい顔をしていた主将たちはすごいなぁと思います。

一般的には協調性は大切だとされますが、自分の場合は不器用すぎて、協調すると自分まで落ちていきそうです。
だとすれば孤立するほかなく、自分自身に対して情報統制して生活リズムごと変えなければならない。
他方ではケツを叩かれまくっているので、普通のひとならまず間違いなく倒れます。

 

切磋琢磨できる方がめずらしい

結局のところ、仲間どうしで切磋琢磨できるというのはかなり環境に恵まれています。
大半の場合は引き上げてもらうか自分が引き上げるかのどちらかです。
引き上げてもらう場合には成長できますが、引き上げるという場合においては成長できない場合が少なくありません。

「教えることもためになる」とはよくいったものですが、追い込まれてケツを叩かれまくる方が効果的なことは多いです。
下の人間に対して教えるということはそれだけ自身の成長に充てられる時間が減ることでもあり、教える側の人間は自らの時間を負担することになります。

もし切磋琢磨できる場合、見えないところに相手がいる場合が多いでしょう。
情報量は限られ、相手の状態については推測するしかありません。
逆にいえば、見えない相手を意識できるようになるのが成長のカギ。
「倍返しだ!」などと言っているうちはまだまだです。

 

まとめ

切磋琢磨というのは、言われるほど多くはありません。
実際には引っ張ってもらうか引っ張られるかのどちらかであり、高め合うパターンは少ないです。
言葉で言われるほど現実は綺麗ではなく、トップが孤立するというケースは多数存在します。

世の中で言われることの大半はオブラートに包まれています。
ひとつの評価軸では力の差がそのまんま見えてしまいグロテスクであるので、楽しさといった別の評価軸が持ち出されるのです。
力の差という残酷さに耐えられるひとは少数で、ほとんどのひとは言い訳をして「その他大勢」になってしまいます。
逆にいえば、差を素直に受け止められること自体、すごいことなのです。受け止めたのなら、あとはひたすら努力していくだけです。

 

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