日常とは誠に有り難いものであるが、思考をやめるとそれは「退屈」となって襲い掛かってくる。
日常
起床、朝食、髭をそって出社。夕方~夜に終業を終え、床に就く。 その間には予想できない出来事(良くも悪くも)が含まれていることもあるけど、それについてはつど対処する。自分で特段、望んだことでもなければ期待していたことではないので、こういった突発的なイベントも日常の延長線上と捉えている。
この日常を「退屈だ」と感じてしまったあたりから、何かが歪み始めるような気がする。刺激や非日常を求め、日常のレールに乗っているにも関わらず法の外側に行ってみたり、誰かに迷惑をかけてみたり。こう考えると、「退屈」というのは非常にやっかいな代物だなぁと考えさせられる。
大きく道を踏み外すような度胸のない人でも、日常の退屈さで無意識のうちに疲れ、うわ言のように「何か良いことないかな」なんてつぶやく。このような同僚が職場にもいて、最初の方は「そーですねぇ」なんて呼応していたが、今ではスルーするようになった。
日常なんだから良いことなんてあるわけがない。あったとしてもそれは予想だにしないところから突然飛び出したりする。それについてはそのつふど対処しているうちにそれが「良いこと」としてとらえられず、過ぎ去ったころにはまた日常が色濃くなって「何か良いことないかな」という言葉が自然と浮上するようになる。
突き詰めると、何もない平常運航の日常が最も素晴らしいことである。僕はそう思っている。何もない、ということは何も悪いことが起きていないという良いことを体験している真っ最中なわけで、不幸のどん底にいる人から見た視点や、不幸の渦中にいる際に現在いる地点を眺めた時に「あの時は平和だった」なんて相対的に今の何もなさが「良いこと」として浮き上がるのである。
日常に退屈を感じて道を踏み外す人は畢竟、現在の位置を俯瞰視していないのだろう。何もないことが幸せ、それは間違いないはずなのに、今の状況を当たり前だととらえて有難味を感じないマヒした思考に陥ってしまう。そんな状況すらも理解できずに「何か良いことないかな」とうわ言。そのことについて理屈で説明しても理解を得られそうもないので、基本はスルーだ。
気持ちはわからんでもない。毎日、同じことの繰り返しで刺激が足りなさすぎるのだろう。だからこのような言葉が不意に飛び出す。だが、無意識でも自分が放った言葉について少しでも思考を巡らせることができるのであれば、きっと日常にマヒしてしまっているということが理解できるはずなんだ。ここができるかできないかは、人それぞれなのだろうけれども。
さて、日常にマヒしてしまった自分への治療薬というものがいくつか考えられるので、具体的に示してみたい。
非日常への旅立ち
美術館
異文化に触れるというのは、それだけで常識を覆すほどの刺激を得られることがあるだろうし、実際に足を運んで得られた知見を記事にするブロガーも少なくない。
彼らが美術館に足を運ぶ理由はそれぞれなのだろうが、僕的には非日常の入り口になり得るのではないかと考えている。
ただ、足を運んだだけで何かを得られるような甘いものではなく、そこから何を学ぶかという姿勢が使った時間への見返りとしてあらわれてくるのだろう。だから僕はよほど興味のある場合にしか美術館は行かない。行くのであれば、無駄にしないためにも「何かを得る」という意識が欲しい。
映画鑑賞
こちらは美術館よりもハードルが低い。暗がりでダイナミックな演出とともに飛び込んでくる映像を見、聞くだけで受動的に情報を得たり刺激を受けることができる。TVも似たようなものであるが、非日常を味わうという意味では映画館へ行くほうがより強度が上がるのではないか。
もちろん、事前に扱うテーマについて学習しておけば、より映画を楽しめる要素になりえるだろう。また、観覧したからといってすべからく非日常的刺激を得られるかと言えば、そのような保証はない。観た映画の内容にもよれば、その時の精神状態にも大きく左右されるだろう。
美術館にしても映画鑑賞にしてもそうだが、とにかく刺激への感受性を高めておいたほうが良い。これらの場所に足を運ぶ時くらいは、自分でスイッチを入れて感動しやすい精神状態を作れるようになりたいもの。日常において喜怒哀楽は物事の本質を見る目を曇らせる要素になるが、エンターテイメントは飲まれたもの勝ちというところを大いに感じる。
遠方への旅行
海を渡るような遠方への旅行は、非日常へのアクセスの最も近道ではないかと思う。世間というのは狭いから、地元から物理的に近いところへ行くと、どうしても避けられないしがらみというものが付きまとう。別に悪いことをしようというわけではないのだが、どこか隣に日常があるような気がして手放しに楽しめないところがある。
遠く離れれば離れるほどに地元のしがらみから解放され、非日常に近づくことができる。普段は抑圧した自分を解放して、人様に迷惑のかからない程度に楽しむと良いのではなかろうか。
後記
具体例を挙げればキリがないので、このへんでおさめておくが、以上のように非日常への道を選択するとなればいろいろなものがある。このような道を選択せずに日常に毒され、当たり前の幸せを享受できない状態というのは、あまりよろしくはないだろう。
できることならば日常がいかに平和であるかを理解するために己を俯瞰視する能力を身に着けるべきだし、それでもたまった日常ガスを抜くために、具体的行動を起こして「何か良いことないかな症候群」を発症しないような暮らしをしたいものである。
以上。