俺達の関係を、誰かが反対してくれてれば良かったのになぁ」
一切の足音も立てず、その気配までもを見事に消して、しかし昼間喋るのと何ら大差ないその声量を擁したスクアーロの言葉を聞きながら、ザンザスはまるで自分が幽霊とでも会話しているような何とも不思議な錯覚を味わった。そしてその次の瞬間うっかり枯葉を踏んでやけに耳障りな音を立てた自分の靴底が、そんな完璧な情緒も何もかもをも壊してしまったような心地がしたので、この時ばかりは己の粗雑さに腹を立てたが、いつものように尖った舌打ちする訳にはいかなかった。何てったって、二人はいま逃げている真っ最中なのだ。神経質げに辺りを素早く見回すザンザスとは対照的に、スクアーロは夜目にもはっきりと笑っている。緩い弧を描いた口元は落ち着きを過分に表していて、ザンザスの余裕の無さばかりが目立つのであった。
「何でだ」
その茫洋とした表情に何だかこの上もなく言いようのない居心地の悪さと少しばかりの気恥ずかしさを覚えて、ザンザスは素直に話の先を促した。スクアーロの薄っぺらく頼りないながらもその実研ぎ澄まされた筋肉を纏った鋭い身体は確かにすぐそこにあったけれども、なにぶん気配がないので隣を歩くザンザスはどうにも収まりが悪い。
「だって、そしたら俺達がやってるコレには、駆け落ちとでも愛の逃避行とでも、幾らでもそういう洒落た名前がついた筈だろぉ」
「………俺は時々、お前の感覚についていけなくなる」
「う゛お゛ぉい、そりゃ困るぜぇ。しっかりとついて来てくれなくちゃ、俺ぁ一人ではどこにも行けねぇからなぁ」
スクアーロがしれっとそんな嘘を吐いたものだから、ザンザスは面白くなくて唇をむっつり鍵状に曲げたまま黙り込んだ。すると彼は口を閉ざしたザンザスのそれをどう捉えたのか、「ああ、悪い」と取って付けたようないやに軽い謝罪を寄越してくる。わざと大袈裟に溜息を吐いてやれば、無意味に笑うのが目の端に映った。今にも鼻歌でも口遊みそうだ。スクアーロにとってはこんなこと、ただのデートの一環、もとい、ちょっとした散歩程度にしか思ってないのだ。至って真剣なザンザスからすれば笑い事ではないというのに。靄の残る ブナの木立の合間から柔らかな月光が射し込み足元の湿った土を照らしているのを何とはなしに見やりながら、ザンザスは考えた。これで何度目だろう。
足下を擽る草花は小さな雫を纏いながら微かに震えている。蒸気となって立ち昇ろうとする雨の後特有の青臭い匂いがザンザスの鼻孔に容赦なく侵入してきて、鬱積とした気分に一層拍車を掛けていた。
今年に入ってからもう既に十数回に及ぶ真夜中の逃亡の企ては、今のところ果たされる事なく立ち消えるばかりだった。ならこんな茶番はもう止せば良いのにとザンザスは自分でも思っていたが、それを言ってしまえば最後、スクアーロはどこか自分の与り知らぬ場所へ一人でさっさと行ってしまう気がして、言い出せずにいる。そうして何度も何度もこうやって形だけの駆け落ちを繰り返して、ずるずるとやってきているといった具合である。優柔不断な自分のせいで彼をいつまで経ってもここに縛り付けているのは分かっていたが、しかしなかなかどうして、ザンザスは逃げ切る為の一歩が踏み出せないのであった。でも本当はもうそろそろ離してやるべきかしらとも思っていた。思っているだけだ。
「さあ、どこに行く?」
どこでも良いぜ、とスクアーロは首だけ振り向いて言った。梧桐の広葉が開けるその先には、堂々とした柵が聳え立っている。彼が指し示す先にはこれからの解放を感じさせる森林がどこまでも広がっている。そこを下ると、町だ。
目の前の塀を越えれば手っ取り早く自由だったが、毎度の事ながらザンザスの足はどうしてだかそこから動こうとはせず、まるで全身でボンゴレの敷地外へと出るのを拒否していた。早々に決着を付けなければ、いつ巡回中の門番に見つかるとも知れない。不審がって上に報告でもされたら、それを耳にしたあの男は眉を八の字に下げながらも口の端を柔和に窪めてこう言うだろう。『XANXUS、あんまスクアーロを困らせちゃ駄目だよ』
一刻も早くこの壁を乗り越えなければいけない。そんな局面で、後一歩という場所で、いつだってスクアーロはザンザスに選択権を押し付けるのだった。ほら、どうする?本当に出て行きたいのか?お前に果たしてボンゴレが捨てれるか?彼の、きれいな色をした目は、そう問い質しているかのように見えた。闇夜の中で瞳孔が広がっていた為に僅かのあいだ色濃く見えたそれはまた縮み、すぐに薄い灰色を帯びる。微かに覗く白目が爛々と輝いていて、些か不気味で、しかし美しくもある。仄青い星色の瞳が、いちいち躊躇うザンザスを映し込んだ。
向かい合ってその煌めく光をぼんやり眺めながら、つまり自分は、スクアーロが自分に与えようとする答えのどれを選ぶのも嫌なのだと、ザンザスはこの場に似付かわない冷静さを持って結論付けた。彼だけがどこかへ行ってしまうのも、自分一人残されるのも、そして、このボンゴレファミリーを去るのも。そのどれを選ぶのもザンザスは嫌だった。いつものように、選べないのとはまた訳が違う。
今から六年前、日本で行われたかの代理戦争を終えた後、ボンゴレ内部でとある異例の改革が起きた。それは代々続いたこのファミリーの歴史を一旦棄却し、“ネオ”の名を掲げた上で新生ボンゴレとして生まれ変わるという、マフィア界に類を見ない、未曽有のものだった。組織の立て直しを図ったのは他でもない当時の首領・ティモッテオである。
思い切ったその再造は勿論大きな波紋を呼び、それまでの時代を担ってきた上層部は当然難色を示したし、内部でも反対論が噴出、異議と不満が渦巻き、様々な問題が生じた。しかしそれを、沢田綱吉は粒々辛苦して少しずつ、一つずつ、多大な努力と苦労を持ってしてゆっくりと取り除いていったのだった。かつて、一介の自警団に過ぎなかったボンゴレファミリーを自らの手で変えたU世がそうしたように。
そうしてそれらの反対意見は沢田綱吉の熱意の訴え掛けにより次第に薄れてゆき、彼がネオ・ボンゴレ・プリーモに正式に就任する時には、最早誰もが新時代の幕開けに胸を高鳴らせてたのだった。ザンザス達を除いて。
さてそういう訳で、本来ならば『ボンゴレ十代目』の座は永遠に失われたのだが、そこはやはり甘ちゃんの沢田綱吉。I世の血である“罰”を加えてタルボが加工したボンゴレギアを引き継ぐ実質的なドンとは別に、ボンゴレ十代目も共に在って欲しいと願ったのだ。そして彼がそれを任せる者として指名、いや依頼したのは、他ならぬXANXUSだ。
もうひとつのボス。ネオ・プリーモとボンゴレ・デーチモのふたりで一体となり、これからの新しいボンゴレファミリーを、互いに力を合わせて支えてゆこうという調和と協調の連携形態を打ち出したのであった。
冗談じゃない、と撥ね退けたザンザスであったが、口ではどれだけ冷やかに拒絶していても、その実はっきりと明確に辞退することは出来なかった。ボンゴレの見捨てれなかった。嘗てあれほど愛し、そしてそれ以上に憎んだボンゴレを、どうあっても自分から切り離すことが出来なかった。
自分でも内心それをちゃんと分かっていながらもそれを頑なに認めようといないザンザスは、その想いを振り切るようにして唯一の腹心に言った。『逃げるぞ』 このままここに居たら、本当にお下がりのボンゴレ十代目を背負わされる羽目になる。どこかに逃げるぞ。そんな風にして、全く持って無計画の、衝動だけの言葉を口にした。
けれどもそんな馬鹿みたいな曖昧な提案に、十数年連れ添ってきた右腕は何も言わず、ただ笑って頷いてくれたのであった。そうしてそれからこうやって幾度も挑戦をし、その度に不思議とこの瀬戸際のところで足が止まってしまう。
論理的に考えようとすればするほど、自分の不甲斐なさばかりが露わになる。そこから先へ中々進む事が出来ないまま、身を置く場所すらひとりでは決断出来ぬ、心中で常にゆらゆらと移ろい続ける自分をひどく遣る瀬無く思う。時々こうやって深夜に徘徊しては、行き当たりばったりな上に実行されもしない脱走を謀る事でその憂さ晴らしをしているだけなのだ。結局のところ、自分のボンゴレへの執着は経ち難く、その雁字搦めに絡まった荊から逃げ出すことは叶わないのだ。ぐずぐずと煮え切らなそんなザンザスに対して、しかしスクアーロは何故だか是とも否とも言わなかった。ただ『お前がそうしたいならいいぜぇ』と笑うばかりで、反対も賛成も何もせず、何もかもをザンザスに丸投げしていた。或いは、ザンザス自身の意志をちゃんと貫かせようとしていた。彼は本来気が短く、また、中途半端でどっちつかずの自律性を欠いた態度を何より嫌うような男であったのだが、よくもまあ飽きずに大人しく自分の側に居続けられているものだ。謎だ。ザンザスはそう疑問に思うが、それを一々口に出すほどの勇気もなかった。
やがて、ごうと大きな音を立てた冷たい風が二人の間を吹き抜けた。煽られたスクアーロの髪が揺れ踊り、光を弾いてきらきらと小さな粒になって飛び散るのが視界の端に映った。靡きながら大きく波打って舞い広がるそれは細かに瞬いている。二人の目の前には自由への塀。後ろには、ただ寥廓とした土地が寝転んでいる。遠くに、少しだけ小さくなったボンゴレ本部の城が見える。厚生林の只中に作られたそこは何とも空虚で、白々しい豪壮さを漂わせていた。 もうこんな遠くまで来ていたのだ。
ザンザスは白い息を吐きながら、ぽつりと零した。
「……今日は寒すぎるから、やめとくか」
結局、今日もまた外の世界を見せてやる事は出来なかったなあと身勝手な罪悪感を持って自分の赤くかじかんだ手を差し出せば、スクアーロは一瞬たりとも迷うことなくその手を掴んだ。まるで、そう言われるのを待っていたかのような速さだったが、彼はその事に気付かない。スクアーロにとっても無意識の内の行動なのだろう。ザンザスが、最終的にこうすることを知っていた。「おう。また今度な」そう言って笑ってくれる彼は、いつまでこの手を握っていてくれるのだろうか。
二人は何事もなかったかのように、元来た道を引き返して行く。スクアーロがのんびり歩きながらこんな事を言ったので、ザンザスは繋いだ手にぎゅっと力を込めた。「なぁXANXUS、俺はお前が望むなら、遠い外国でも静かな田舎でも、勿論あの世にだってついてってくからな」 ザンザスが十代目になろうとならまいと、きっとこれからも、この手の温かさだけは変わらないだろうと思った。
空にぽっかりと浮かんだ月は金の光を至る所に容赦なく振り撒いていて、それに照らされると何もかもが暴かれるような気がした。この月の下では、胸の奥底に秘した密かな気持ちすらも、隠せそうになかった。いよいよ自分が情けなくなったザンザスは、思わず謝りそうになった口を噤み、そして代わりにこう言った。
「今日、俺の部屋で寝ろよ」
今まで一度だって言ったことのない言葉に目を子供みたいに丸くしたスクアーロに、「今日は寒いからな」と薄く笑めば、スクアーロは遺骨の如き色彩の頬を寒さのせいだけではない赤みで色付かせながら、「俺は今日から冬が好きになったぜぇ」と笑い返した。その気配はゆらゆらと朧げなままだった。寒さを理由にお前がまだここにいてくれるなら、俺だって冬が好きだ。本当はこう返したかったが、ザンザスはそれを遂に口には出すことが出来なかった。しかし、臆病者の一撃として、せめて今夜、彼に好きだとでも伝えてみようと思った。