T.ヒーローなんかいらない

 

 

   いよいよか、と思った。かつての腹心が、自分を殺しに来たのだ。

 「入っても?」

 スクアーロは顎をしゃくって静かに言った。こめかみから流れ落ちた一筋の水がその削げた頬を伝い、尖った華奢な顎先にほんの一瞬だけ溜まってはポタリと落ちるのが見えた。その水滴を追って視線を落とすと、既に玄関口を跨いで室内へと侵入しているブーツの先っぽが目に入った。この雨の中を歩き回ったのだろう、跳ねた泥で些か汚れている。
 目の前に立ちはだかったままのスクアーロは、ザンザスの眼球の裏にある種甘酸っぱいような刺激を与える出で立ちをしていた。素っ気無いTシャツにジーンズというゆるい格好で、私服風の隊服も何も着ていなかった。窓の外に降る雨を閉じ込めたみたいな銀髪はそのままだった。どんな天気であれそこにある少しの光を吸収してはいちいち光り輝くその髪はこの街では目立ちすぎるから、よしてほしいなとザンザスは思っていた。その眩しさが目の奥で瞬いてじんとした痛みを訴える。

 逃げんな、と、スクアーロは動かないザンザスに向かってそう言った。微かに上下する濡れた肩を、ザンザスはぼうっと見ている。彼の背後ではしとしとと、重力など知らないように水が陥落していた。若しくはあまりに従順に。大気の動きが湿気のうねりとなって見えない蜃気楼を作っているようだった。ザンザスは雨粒の落ちるその様子を半ば呆然として眺めた。いい仕事っぷりをみせるエア・コンディショナの空調が適度な風量で背中に冷たく触れるけども、外気の暑さがそれを遥かに上回って身体を包み、ザンザスをひどくぼんやりさせた。この町のこういう、南ドイツ特有の蒸し暑さが、ザンザスはどうにも苦手だった。

 どうしてわざわざそんな町に住み着くことにしたのか、わからない。
 どうしてスクアーロがここまで追いかけてきたのかも。



 二年前にザンザスがヴァリアーから消えた事にはこれまた何とも差し迫った事情があり、とにかく居られなくなったとしか語ることはできない。成人を迎えた綱吉が正式にネオ・ボンゴレT世を継いだその日、ザンザスは式から帰るなり仕事を全て処理し終え、携帯をへし折り、関係を断ち切り、右腕にすら行き先を告げずに、その右腕から昔贈られたモラビトの財布ひとつを後ろポケットに捩じ込んでイタリアをさっさとあとにした。そうして辿り着いたのはバイエルンだ。そのちっぽけな町を選んだことに、意味は何一つだってない。ただ一番近いフライトを選び、着いた空港にやってきたバスを選び、目の前のタクシーを選び、それらの無頓着を伴った偶然に導かれてこのような生活を選んだ。ヨーロッパ人が仕事帰りにバールに寄る気軽さで、ザンザスはそれまでの人生を捨てた。

 今ザンザスはこの田舎町で、全く信じられないことに図書館の司書なんかをやっていて、自分の腰ほどまでしかない小さな子供相手に上棚にある本を取ってやったり、返却貸出のスタンプを押したり、誰にも手に取られない分厚い小説の埃を払ったり、昼下がりの狭い事務室で薄いインスタントコーヒーを飲んだりしている。もう闇に紛れる為の黒い服は着ない。火傷の痕や特徴的な割れた眉、猛烈に寄った跡が残ってしまっている眉間の皺を隠す為に髪を下ろし、血よりも赤いその目だって出来るだけ目立たないように地味な眼鏡を掛けている。ジャッポーネのメーカーであるユニクロのパーカーを着てスーパーマーケットにも行くし、身軽なサンダルで河原を何とはなしに歩いたりもする。それは全く別の人生だ。それは逃亡者の人生なのだと、ザンザスはちゃんと理解している。どんなに地に足をつけて暮らしているように見せかけていても、それは逃亡者の人生だ。

 ザンザスはそれを、理解しているつもりだった。本当に、そのつもりだった。詰まる所、つもりだっただけなのだ。

 ザンザスは過去を捨てようとしていた、しかし過去から逃走することは決してできない。逃亡者は常に過去に追い付かれる覚悟を決めていなくてはならない。そしてザンザスはそれを今、自分の人生において何よりも清算したい過去のところであるスペルビ・スクアーロという男を前にして、ようやく気付いたのだった。



 スクアーロはミルク・インディゴブルーの瞳でザンザスを見返して、そのまま馬鹿みたいに突っ立つザンザスの肩を押した。強く押しのけるのではなく、あくまでも軽い力で押し、ザンザスはそれに何ら抵抗せず押しのけられた。そうして彼は何も言わず玄関に靴を放り出し、勝手に上り込んだ。ザンザスはそれに何も文句をつけなかった。とにもかくも外気が暑すぎて、ものを考えるのが面倒だ。はっきりとした思考であってもぼけっとしている事が最大の欲求のように思えて、気ままに文字を連ねる脳も放ってしまう。そうして半ば投げやりにスクアーロを通したザンザスは、過去が遂に自分を見つけ出したことを理解し、後ろ手に扉を閉めて鍵を掛け、チェーンまで差した。自分自身を追い詰めるように、わざとそうした。もういい加減、過去と向き合わなければならないと思った。決着をつけるなら、今しかないのだ。

 ほぞを固めたそんなザンザスを、流し台のある細い廊下の途中で、スクアーロは胡乱そうに振り返った。彼のつり上がった細い眉と同じような角度で綺麗に吊り上った目が、元主、元上司を捉える。

 「何やってんだぁ」
 「………お前こそ、なにやってんだ」

スクアーロは軽く鼻を鳴らして頭を振ったけれど、返事をしなかった。

 「コーヒー飲むか」

 “客人”が訪れた際の一応の口上としてそう聞くと、スクアーロは、断りもせずに冷蔵庫を開き、中からパック(パック!二年前までその開け方どころか存在さえ知らなかったものだ)の低脂肪牛乳を取り出して、ドンと流し台に置いた。それから、「飲む」と言いながら振り向く。入れろということだろう、それはザンザスのすっかり麻痺した頭でもしっかり理解できた。この男がこういう、理解しづらい行動を取ることも、それで今更のように思い出した。
 スクアーロは、ザンザスがシンクに放置していたままだった腐った桃に目を留めるとそのまま手を伸ばして、それをぐしゃりと潰した。瞬間、不快な甘い香りが安アパートメントの一室に強く漂った。彼はにわかに顔を顰め、そのまま指先を洗っている。自分からやっておいて、如何にも耐え難いと言わんばかりだ。




 この長閑な町にS・スクアーロがやってきたのは、およそ一ヶ月前のことだ。ザンザスがイタリアを離れてからもう二年が経過した秋、しろい男が突如として現れた。旅行客が滞在するような町ではないし、長期滞在となっては尚更だ。男の長身と銀髪、もとい美貌はとても目を引いたので、その噂は小さな町中にたちまち広がった。勿論ザンザスの元へもすぐさま届いた。
 男は夜な夜な町を歩き、数少ない酒場に必ずあらわれたという。ザンザスはその男が自分を探し出して遂にここまでやってきたのを認識したまま、入荷した新書の位置に気を配り、相変わらず黙々と別人の人生を送ろうとしていた。今ではすっかりザンザスを寡黙なだけの一般人だと信じている館長が、町で出会った奇妙な男の話をしても、ただ不思議そうに相槌だけを打った。『幽霊じゃないかって言う人も居るんだよ、妻と娘が怖がっててね』『へぇ、』この館長はザンザスの無口さ無表情さ無愛想さを、火事か何かに巻き込まれ、その時のトラウマからによる往来の性格なのだと思い込んでいる。あながち間違ってはいないかもしれないが、頬に蔓延る火傷痕もたまには役に立つものである。
 町の外れに住み着いた男は誰かを探しているようだと人づてに聞いても、ザンザスは出歩くのをやめなかった。見つかることは、何も恐ろしい事ではなかった。変に心が凪いでいて、ただ、いよいよか、と思っただけだった。
 嘗ての腹心が、自分を殺しに来たのだ。

 彼等がようやっと鉢合わせたのは、平日の午後のスーパーマーケットでのことだった。もうバイエルンはうざったい熱気に包まれ始めていて、店内はいっそ頭痛がするほど空調がきいていた。あの継承式帰りの車内以来に再会したスクアーロは桃をひとつ手にしていた。ザンザスはといえば、買い物籠にレタスの半割をいれていたところだ。相変わらずいやにきれいな銀髪が、買い物客の間から頭一つ分、飛び出していた。あ、と思った瞬間には視線を感じたらしい彼が顔を上げ、辺りを見回し、そしてザンザスを見つけた。久方ぶりの視線が交差した。

 「よぉ゛」

 スクアーロは至って普通にそう言った。何でもないように、いつも通りの、あの砂をまぶしたみたいにざらついた声でそう言った。桃を手中で潰してジュースにしてしまったりもしなかった。指を食い込ませることもないまま、その傷つきやすい繊細な果実を掌の上に平穏にのせて、ザンザスを見ていた。「だっせぇ」 冗談とも本気ともつきかねる微妙な笑みの形に唇を歪めている。

 「似合わねえなぁ、眼鏡」
 「……ほっとけ」

 ザンザスはそう一言だけ言い返した。そうして少しだけ笑った。何故だかそのとき笑う事が出来た。

 「外せよ、んな安モン」
 「俺が何を使おうがてめぇには関係ねぇだろ」
 「あるぜぇ。俺を苛立たせる」
 「じゃあ見んなカス」
 「は、すっげぇ久し振りに聞いたぜぇ、ソレ」

 常連である栗毛の純朴な女がザンザスを見つけ、声を掛けようとした次の瞬間スクアーロを見つけ、訝しそうに二人を見ているのが視界の端に映った。ザンザスはすっと彼から目を逸らし、果物棚の横を自然に通り過ぎた。踵を返してしまえば、それはこの暗殺者との対話の意味を認めることだった。スクアーロはこちらをじっと見据えているだけで何も言わなかったが、横切る時に、ザンザスの持つ緑色の籠の中に桃を転がした。ザンザスは彼をほんのいっとき睨んだ。けれど文句を言わずそのまま青果売り場をあとにして、いつも通りに豚の細切れや、ヨーグルトを買った。それらを詰めて帰り、自宅に帰ってみると、袋のなかから出てきたのは、輸入品のしけたワインビネガーと、半額のシールの貼られた菓子パンが数個、野菜類、諸々、それと、桃と。
 ザンザスはもうそのスーパーには行かなかったが、同じことは別のスーパーで、はたまたドラッグストアで、ある日は本屋で、繰り返し起こった。そうこうしている内に町はどんどん暑さを増していき、ザンザスは例年以上に思考能力を失っていた。スクアーロのことを思い出す。自分がヴァリアーを、しいては部下としてのスクアーロを捨てたあの日、彼は最後にどんな顔をしていただろうか。『なぁボス』 助手席で眠ったフリを頑なに続けていた自分が本当は起きていたことなど、彼は分かっていたのではないだろうか。『アンタがただのザンザスになったら、』 そうして彼は口を開き掛け、再び閉じた。そのまままた、黙りこんだ。アジト本部に着いたザンザスが車から降りて荷造りを終えるまで、ついぞその顔を見ることは出来なかった。
 自分がスクアーロと目も合わせてやらない事なんか、それは大したことない、いつも通りのワンシーン、ザンザスの心の中に幾つも転がっている石ころのひとつだ。けれどそれはザンザスの胸のなかに、いしころみたいに転がって、いつまで経ってもなくならない。

 腐り始めた桃は流し台に放置した。だいぶ黒ずんだ表皮がぶよぶよと柔らかく弛んだそれは噎せ返るような甘い匂いを部屋の中に容赦なく放ち、ザンザスは自室ですら気分が悪くなったが、それを敢えて捨てないままに放置しつづけた。あの男は必ずここに来ると、分かっていたからだ。
再会したあの翌日、温かい髪色をした女がザンザスにスクアーロとの関係をあけすけに尋ねたが、ザンザスは口角を一ミリとて上げることせず、ただ、古い知り合いだと答えた。

 そしてじめっぽい雨のなか、過去がザンザスの部屋のチャイムをならし、ザンザスの顔を見るなり、逃げるなと言った。




 昼過ぎにはぽつぽつと頬を打つ程度だった雫が盥を引っくり返したような勢いになるのに長くはかからなかった。濡れた土の匂いが辺りを覆い、草葉はその色をしっとりと重くし、窓の外に広がる枝葉は雫を受け様々の音を立てている。草いきれで湿気を孕んだ空気は熱と共にじっとりと肌にまとわりつき、立っているだけでもすぐに汗だくになった。そんな雨の中、スクアーロはやって来た。
 ザンザスはコーヒー豆をのろのろと挽き、ドリップして、牛乳を温めている間、ずっと考えていた。何故さっさと殺さないのだろうと。
 ザンザスは今日こそこの自分の過去と決着をつけると腹を括っていたが、それは何も力勝負という意味ではない。といよりも、寧ろ彼に殺されてやるつもりだった。なにも自分がわざわざ彼を手に掛ける事はない。スクアーロは、自分を散々振り回して、人生を壊しまくって、絶望と失意、或いは屈辱ばかり与え続けて、結果としてその内の何一つ手に入れられず、結果逃げた。そんなどうしようもないこの駄目男をきっと憎んでいるだろう。


 今から二年前、沢田綱吉がネオ・ボンゴレT世を正式に継承したあの日付けで、ボンゴレの歴史は幕を閉じた。そうして新生ボンゴレの時代が代わりに華々しく始まり、最早それまでのボンゴレは滅びの象徴であるただの旧時代の残骸と成り下がった。ザンザスが過ぐる日にあれほど望み続けたボンゴレ十代目の席は、永遠に失われたのだ。
 偽りの仮面は剥がれ、王座のメッキは禿げ、それでもザンザスは十代目への野望をいつまでも捨てきれないでいた。それはひとえに、あの石ころの存在があったからだ。継ぎはぎだらけの赤い絨毯を踏みしめるブーツの先端にもし邪魔臭いアレさえなかったならば、ザンザスは途中で足を止めていたかもしれない。だけれどそれがあったから、十代目にはなれないと分かって尚、未練を持ち続けていたのだった。どれだけ無様だと嗤われようと、無謀だと宥められようと、いつだって傍で支えてくれた彼が信じてると言ったから、だから後ろを振り返ることなく歩き続けていられた。
 嘗てザンザスがそれこそ文字通り血反吐を吐くまで惨めったらしく足掻いて、それでも欲しかったボンゴレ十代目の座。それが他の誰かの手に渡るどころか、在庫処分として目の前であっさりとすげなく廃棄された。そうしてその代わりに現れた新品の椅子を目にして、ザンザスは、自分が選ばれし子でも、ましてやボンゴレ十代目でもない、ただの癇癪持ちのどうしようもない一人の男だと、ようやく気付かされたのである。『アンタがただのザンザスになったら、』 スクアーロはあの時本当は、ザンザスがもう何もかも捨てる気だと、分かっていたのではないだろうか?

 スクアーロはザンザスにとって何より清算したい過去の内のひとつである。
 なにひとつ成功しなかった。何一つ。唯一成功したのは、彼がまだ隣に居るという事だけだった。結局自分はそれしか出来なかった。全部なくした時に、傷だらけの手の中に残っていたのはほんの僅かな短い思い出だけだった。あのきらきらと輝いていた六ヵ月の夢のような時間と、そして8年経ってもそれを忘れなかったあの馬鹿のきらきらと輝く瞳だけだった。
それがあったから、ザンザスはその煌めきを抱えたままひとりで勝手に死ぬことが出来ず、こうして逃げることを選んだのだ。死ぬ理由はいくらでもあった。だけど、生きる理由は一つしかなかった。綺麗に消さなければいけない過去があるとすれば、それはスクアーロとの思い出以外に他ならない。そうしてそれは、彼自身の手で終わらせて貰わなければ困るのだ。


 そしてそのスクアーロはといえば、ザンザスが机の上に置いていたものを手にとって興味深そうに眺めていた。DVDのパッケージ。

 「ローマの休日」

 彼は語尾を引き上げた子供みたいな言い方で声に出してそのタイトルを読んだ。そういえばザンザスは映画を見ていたのだった。あの意外としたたかだった女に面白いので是非観て下さい、きっと気に入りますと押し付けるように渡された、一枚のDVD。チャイムに立ったとき途切れさせたその映画の、途中の台詞が再生された。「勝手に触んじゃねぇよ」 ザンザスは二年ぶりに不平をもらした。それはザンザスが見ていた映画なのだ。真実の口を巡って、平和ボケした王女と記者がいちゃついている場面だ。古めかしい映像の中に、幸せそうなふたりが映っている。 「今度はローマにでも逃げんのかぁ?原点回帰だな」
 ザンザスはスクアーロにカフェオレを渡し、自分の為のブラックコーヒーを抱えたまま窓に凭れ、映画を眺めながら、それを啜った。

 「俺は別にてめぇから逃げた訳じゃない」
 「知ってる」

 アンタ俺にあの続きを言わせんのが怖かっただけだもんな、とスクアーロはそう言ったが、ザンザスはいまいちうまく気を荒立てることが出来なかった。「お前」「うん?」「俺を殺さねぇのか」「何で」 俺はアンタを迎えに来ただけだぜぇ、とスクアーロが十四の頃と全く変わらない笑顔で言う。映画のなかの、オードリー・ヘップバーンが扮する王女は、すっぱりと髪を切って身分から逃げ出し、美しい街をいきいきと駆け回って、新聞記者とあわい恋におちる。自分は逃げて、どこへ行くのだろう。アンタがただのザンザスになったら、…

 ザンザスは自問する。仮に石ころを遠くへ蹴飛ばしたとして、自分が後から慌てふためいてそれを探しに行かないか?答えはノン、だ。

 「行くか」
 「どこに?」
 「ローマ。行ってもいいぜ」
 「へえ」

 スクアーロはザンザスを見てふいと口元だけで感慨なく笑った。予めこうなることが全部分かっていたかのような、そんな得意げな顏だった。その目の端はうっすら光っているとも見えなくもないがスコールめいた雨により室内が薄暗くなっているせいで判然とはしない。

 「どうせこんな町、似合わねえよ。XANXUS、お前にはなぁ」
 「ザンザスじゃねぇよ、もう。ただの金も地位も名誉も何もねぇ男だ」

 嘗て十代目になるべくして名付けられたそれは忌み言葉だ。狂った母親と温情を勘違いした老人が使った呪詛はエックスの烙印を背負うに相応しくない男には使えない。だがしかし、スクアーロは相変わらず腹立たしくなるような笑みを浮かべてこう言った。「そっか。じゃあイチからやり直そうぜぇ」 一瞬伸ばしかけた右手を途中でピタリと止めると引っ込め、改めて差し出したのは機械の左手だった。「初めまして、“ただのザンザス”。俺ぁスクアーロってんだ、宜しくなぁ」 ザンザスはいつの間にか自分に以前のような感情が戻って来ているのに気付いた。今猛烈に、それはもう凄く、この目の前の男を殴ってやりたい。そのこと自体が、もう手のつけようもなくひどく嬉しかった。

 ざぁざぁ、ざぁざぁと、雨が強く降っている。どんなに逃げても結局は同じ空の下に居る。同じ雨に打たれて、同じ空気を吸って、同じ時代を生きている。どこに行ったってここは、スペルビ・スクアーロの生きている、美しい星だ。コイツはどこまでだって追い掛けてくるだろう。スクアーロにとって自分はヒーローではないし、勿論自分にとってもそうだ。救世主どころかいつまでたっても手の掛かる、どうしようもない面倒臭い相手でしかない。だけど互いを救えるのは、互いしか居ないのだ。
 映画が、ふたりを置いてひとりでにさきさき進んでゆく。身分違いのカップルの行く末を確認しないまま、ザンザスはただ、スクアーロを眺めている。ザンザスの現在に追いついてきた、過去を眺めている。ザンザスは表情を悟られぬようにわざと深く溜息をついてみせ、彼に向かって、手をのばした。雨が強く降っている。もう現実から逃げることをやめたザンザスは笑い、鈍く光る鉛色の手を、その手の重さを、硬さを、ただ黙って待ち受けているのだった。





 こうして、二年に及ぶザンザスの逃亡劇は終わりを告げた。












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