01. ただいまのまえに

 

 

 ザンザスは目を覚ました。と同時に、おや、と思った。感覚的にはだいぶ長い間瞼同士を引っ付けて筈なのに、突然飛び込んできたその白い明かりを特に眩しいと感じないのだ。ザンザスの赤い目はそれらを多く透過するため光には大変弱く、少し寝過ぎた後なんかはもう視界中をちいさな虫のような粒が飛び回って鬱陶しいのだが。

「起きたかぁ」

未だまぶたの裏に残りうる仄暗い闇を瞳に馴染ませるように瞬きをひとつしたザンザスは、そこで漸く自分がベッドの上に寝かされていることに気付いた。すると聞き慣れた声と共に、顔の上をさらさらとくすぐったい感触が滑る。髪の毛だ。ザンザスの顔を覗き込む男の小さな顔から垂れた長い髪が、緩やかに波打ちながらザンザスの視界を防いでいる。

「スクア、……。…カス…?」

自分の顔の上に柔らかく掛かった銀のオーロラを見上げながらザンザスはひとつ声を出した。ここでもひとつ、はて、と思うことがあった。寝起きで唇が乾ききっているというのに、随分久し振りに喉から通ったその声は掠れても上擦ってもいない、まるで覚醒しきっているかのようなスムーズさでザンザスの口から自然に滑り落ちたのだ。
  目の前のうねる綾線の境目が曖昧で、妙に眩しく感じる。ザンザスは何かをおかしく感じながらものろのろと身体を起こした。掌をスプリングが柔軟に押し返すその感覚だけがやけにハッキリとしている。ここは一体どこだ?
  いや、それは分かる。潔癖なまでにただ只管白い壁と沈鬱な蛍光灯の光を反射させるリノリウムの床。染みついた薬品の匂いが鼻をつき、それすらも、全てが無感情で、行き過ぎた静謐さがいっそ逆に息苦しいここは確かに病院だった。それは分かる。だが、自分が何故ここに居るのかが分からない。ザンザスの記憶は最後、イェーガー達と対峙した際に両脚を深く斬られたところでフィルム切れのようにプッツリと終わっていた。あれからどうなったのだろう。バミューダ共は?アルコバレーノの呪いは?代理戦争の行く末は?スクアーロは?──…

  そこまで考えてザンザスはハッと目を見開きながら慌ててガバッと飛び起きた。そうだ、スクアーロだ。ザンザスの脳裏に赤い赤い血が色鮮やかに蘇る。意識が途切れる寸前までのあの一連の悪夢のような光景が、コマ送りで再生された。
  あの時、文字通り自分の目の前で彼の身体に穴が開いた。 一瞬の事だった。突然姿を消した敵に咄嗟の反応が遅れ、刹那、自分の右腕が熱くカッと燃え立つような感覚があった。視界の端に何かを呼ぼうとする彼の悲痛な顔が映り、来るなと叫ぶ間もなく、飛び出して来た彼の身体が大きく揺らぎ、そして真っ赤な血飛沫が噴水みたいに湧き上がった。あの瞬間、まるで世界が音を失くしたかのように、何も聞こえなかった。スローモーションで倒れていく彼の細い身体以外の全ての時が止まり、黒と白のモノクロームだけで構成されたそこに、パァッと顔中に降りかかった生温かい液体だけがただただ紅かった。そして、手を伸ばすことも叶わず、何もかもが消えた。

「お、お前っ…!?」

怪我は、と言おうとした瞬間、その続きを塞ぐかのように、なまじろい指が唇にぴたっと一本当てられた。寝起きの癖してぼやける事もなく妙にクリアな視界、スクアーロがにっこりと美しく微笑んでいるのが見えた。その皮下に血が通っていること自体を疑ってしまいたくなるようなどこまでも青白い肌は、不健康さを通り越して冷たく映るほどだった。しかし、その表情はひどく温和だ。それこそ聖母か何かのように。

「俺は大丈夫だから」

ふっさりと生え揃った睫毛の先が光を弾いてちらちらと揺れる。
  いつものようなきつい眼差しは何故だかすっかり鳴りを潜めている。眦も吊り上っておらず、およそ人らしい温かみに欠けたその双眸には今は何の感情も読み取れない。ザンザスの知るこのS.スクアーロという男は、研ぎ澄ました剣先よろしく無機質な瞳をいつだって亢奮と快哉に濡らしてギラギラと嫌な光沢を放たせているような奴で、良くも悪くもザンザスに対する気持ちをそこから読み取らせ易い単純な男だったのだが。

「は…?大丈夫って、んな訳、」
「なんも心配しなくていいぜぇ」
「何言ってんだ、俺よりお前の方が…!…、…あ…?」

こぎれいな顔でどこか嫣然と微笑むその姿に胸の裡がへんにざわつくような違和感を抱いたザンザスは食い掛かりかけて、あれっと首を傾げた。
  身体のどこにも痛みを感じない。それどころか、あれほどの重傷を負ったというのに、何の傷痕も見当たらないのだ。いや待て、それは幾らなんでもおかしい。ザンザスはいよいよらしくもなく混乱に陥った。
  これは一体どういうことだろうか。
意識を手放した原因の内、一番多くを占めるのはやはり出血多量だろう。他ならぬ自分の手足から壊れた蛇口よろしく噴き出した血で出来た海に無様に沈んだ瞬間をザンザスはちゃんと覚えている。両膝からがくんと崩れ落ちてそのまま地に伏せた時のあの、頬にびちゃんと飛んだ飛沫の温かさ、嗅ぎ慣れすぎた鉄臭さの濃さ、体内の温度が急激に下がっていく感覚。その全てを今こんなにもリアルに思い起こせるというのに。
  自分の事だからこそ誰よりも分かる。あの出血量は、恐らく、いや間違いなく致死量に至るレベルだった。ザンザスは最後瞼を閉じる瞬間、次に目を開けた時に一番最初に見えるのは地獄の門だときっちり覚悟をしていたほどだった。
数多く積んできた経験に裏付けされたその見解から冷静に判断するに、自分はあの場でそのまま死んでいても何もおかしくなかった筈なのだが。よしんばあの後に早急且つ適切な処置を受けて助かっていたとしても、生きているのも不思議なくらいには深手を負っていたはずだ。それが何故こんな無傷で済んでいるのだろうか?

「ボス、もういいんだぁ」

それは彼とて同じ筈だった。上半身にぽっかり穴が空いていたスクアーロも今こうして命があること自体奇跡で、重体であることは変わりないだろうに、しかし彼はけろっとしている以前に、その身体のどこにもかすり傷ひとつ見当たらない。ただニコニコ笑うだけで、あの一件があった事すら感じさせない。「安心しろぉ。全部終わったからなぁ」けぶる睫がいちいち光を拾って輝いている。そればかりに目を取られて、ザンザスは一瞬反応に遅れた。

「アンタは楽になってもいい。ここまでほんとよく頑張ったぜぇ」

それをいいことにスクアーロ、──…スクアーロ?はぞっとするほど穏やかな声でザンザスに優しく語り掛け続けた。

「これからは苦しんだり悩んだり悲しんだり、そんな辛い思いをしなくていいんだ」

スクアーロの砂をまぶしたようにざらついた声が不気味な温かさを持って向けられる。
今更になって唇が急速に渇いてきたのをザンザスは如実に感じていた。からからになった喉を潤そうと自分が無意識にごくりと唾の飲み込んだ音が、大きく耳に響く。

「もうそろそろ」

ここまで来たら流石に気付いた。ザンザスはざあざあと血の気が引いていく音を確かに聞いた。

「休んで、いいんじゃねぇか?」

“それ”はこれまで見たこともないほど綺麗に笑った。ザンザスが、いつか見れたら、そしてそれを他ならぬ自分が引き出せたら、と心の奥底で密かに想い続けていた、そんな笑顔だった。「………じょ、…」ソレからすっと伸ばされた細い手をほんの一瞬ふらふらと取り掛けた自分の手をぴた、と止めたザンザスは、それをぎゅっと握り締めて拳を作ると心地のよいシーツを勢いよく撥ね退けた。

「冗談じゃねぇ!」
「ボス!?」

そのままベッドから飛び降りると、ザンザスはすぐさま逃げ出した。後ろから、ソレの驚いたような声が聞こえるのに見向きもせず、真っ暗闇の中に向かって必死に走る。走る、だなんて、いくら夢だといっても滅多にやらないことなのに!

「ボス!待て!行っちゃ駄目だぁ!」
「うっせぇ!俺にはやらなきゃいけねぇ事があんだ!まだ死ねるかよ!」

なに馬鹿なこと言ってんだ、という聞き慣れ過ぎたあの声が追い掛けてくる。ザンザスは後ろを決して振り向かず、ただ只管がむしゃらに走り続けた。ちょっとでも後ろ髪を引かれれば終わりだと思った。「ボス!何でだよ!」その涙声は、もう悲痛なものから切願に変わりつつあった。「もうあっちなんかしんどい事しかねぇじゃねぇかぁ!」未練を感じたら負けだ。「アンタだって何も生きてる意味なんかねぇって思ってる癖に!なぁ…っ!」

  さて、ザンザスがこの世で一番嫌いなものといえば、あの憎たらしい義父でもなければ野菜でも、はたまた冷えたフィレ肉でもない。それは、スクアーロの悲しげな顔であった。戦闘の高揚から日々の些事まで、内面をそっくりそのまま顔に出すスクアーロの表情は、いつも歪に捻じ曲がっている。それが喜怒楽どれであれ、ザンザスの右腕の男の表情というのはいつだって五月蠅いものなのだ。表情豊かというよりは、ただただうるさい。笑っていようと怒っていようと、柳眉は吊り上がり、三白眼は見開かれ、大きな口は常に叫んで忙しい。ニタリと嗤う悪どさときたら最早禍々しいの一言に尽き、唇を裂けそうなほど開いて怒鳴り散らす様は修羅そのものである。しかし、そういう激情を抑えた時の『哀』の惨めったらしさといったら!下品に笑いも威嚇もしない物憂げな視線はしっとりと湿り、たっぷりと憐憫や感傷を持って光る。そういう時は銀蒼に僅かに菫色が入って、ザンザスはその瞳を見る度に、とても嫌な気分になる。スクアーロを悲しませる大きな原因は大抵自分であったが、その理由が何であれ、彼の悲しそうな顔を見るのだけはザンザスは色んな意味でごめんなのだった。

「行かねぇでくれよ、ボス…もう、いいじゃねぇかぁ…」

  ソレが目測誤ったとすればそこだ。今自分の後ろにある顔が自分が何より嫌っているものと分かったザンザスは、最早頑なとして視線をやろうとはしなかった。絶対に何があっても振り向かないぞ、と改めて意志を固めた、その時だった。目の前に、ふっと何かが現れる。虫食いや破れた箇所を繕おうとあちこち沢山継ぎ当てされた薄汚いスカート。染みまみれで斑の鼠色になってしまっているカーディガン。解れだらけで本来の意味をほとんど成していないスカーフ。それらのみすぼらしい服装が視界の端に映っただけで、先程までの決意はどこへやら、ザンザスはいとも簡単に足を止めてしまった。

「あ、…っ…」

ぼさぼさの髪の間から覗いた腫れぼったい瞼とその下の蕭索たる目に、ザンザスはとうとう息を呑んだ。石膏彫刻にでもなったように固まりぽかんと口を開ける様は阿呆さながらであった。
  ザンザスは咄嗟に耳を塞ごうとした。やめろと叫び出したい気持ちをほとんど必死といって良いような努力で持ってして何とか抑え付け、まんじりともせずその瞳と向き合うこととなる。頼むから何も言わないでくれ、と思った。頼むから、アンタにまで引き留められたら、俺は本当にもう戻れなくなるかもしれない。このまま行かせてくれ、俺には帰らなくちゃならない場所があるんだ。だから。そういった気持ちで自分と同じ色の目を見つけ続けると、彼女は年齢の割にやや深い為により一層老け込んで見える皺を刻み込ませた口元を一瞬弛め、そうして何も言わないまま、ただ右手だけをゆっくりと上げた。ザンザスがその指差す方向につられて目をやると、暗いばかりであった空間にうっすらと光が漏れている部分が遠目に見えた。その一筋の灯りはひどく細く薄く、今すぐにでも消えてなくなってしまいそうな小ささである。

「か、母さ、……。…」

ザンザスが思わず顔を上げて呼び掛けようとするが、彼女はただ首を横に振るばかりで、何も喋ったりはしなかった。「ザンザス!」いつの間にやらボスではなく名に変わっていたその声が少し離れたところから聞こえてくる。「ザンザス!やらなきゃいけない事って何だぁ!」ここは任せて早く行けと言わんばかりに彼女が眉を顰めて顎をしゃくった。そうこうしている間に光はどんどんとその力を弱めていく。「お前があんな世界でも生きていたい理由って!何があんだよ!」ザンザスは未だ彼女から目を離せないままだった。光はみるみる内に閉じてゆく。しかし、ソレのひと言により、ザンザスはハッと気を取り戻すこととなった。
  ザンザスがこの世で一番嫌いなものといえば、あの憎たらしい義父でもなければ野菜でも、はたまた冷えたフィレ肉でもない。それは、スクアーロの悲しげな顔であった。
彼を泣かせたくない。自分が生きる理由は、それでじゅうぶんだと思った。

  ザンザスはきゅっと唇を引き結び、何ら迷いの感じられぬ様子で一回だけ頷いた。そうしてソレを振り切り母の横を通り過ぎると、あとほんの少ししかない光へと向かって歩を進めたのだった。








  ザンザスは目を覚ました。と同時に、重い、と思った。息苦しい。「XANXUS!聞こえるかぁ!?俺だぁ!」聞き慣れた声と共に、顔の上をさらさらとくすぐったい感触が滑る。髪の毛だ。ザンザスの顔を覗き込む男の小さな顔から垂れた長い髪が、緩やかに波打ちながらザンザスの視界を防いでいる。耳元でわあわあと喚く声に眉を盛大にしかめながら、自分の顔の上に柔らかく掛かった銀のオーロラを見上げる。上に乗りかかられている身体を弱々しく押し返そうにも、全身がずきずきと痛くて手を上げる事すらままならない。特に右腕、両脚もひどい怪我をしているのが分かった。しかし、その感覚にほっとせずにはいられなかった。ずっと目を閉じていたせいで、突然飛び込んできたその白い明かりが眩しかった。ザンザスの赤い目はそれらを多く透過するため光には大変弱く、視界中をちいさな虫のような粒が飛び回って鬱陶しいのだ。

「XANXUS!あぁ、ボス!!」

そうして心配そうに八の字に下がった眉が見えたかと思えば、次の瞬間がばっと抱き着かれていた。ぐすぐすと鼻を啜る音が聞こえて、あぁ結局泣かせてんな、とザンザスは思った。寝起きで唇が乾ききっているので、少しだけ洩らした笑い声はちゃんと掠れていたし上擦ってもいた。

「うっ、…せぇよ、カス、…」
「ボス、ボス…よかった、アンタが血が足りないって、俺、ほんとどうなるかと…」

  目の前のうねる綾線の境目が曖昧で、妙に眩しく感じる。「おかえり、ボス…」ザンザスはこの状態を何だかおかしく思いながら、ただいまの前に、まずはそのでかい図体をどけろ、と言うのだった。

 

 

 

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