SSS詰

------------one

 

セックスの途中で吐いた。

幸いにも入ってしまう前だったので、かろうじて、喉の奥から一気に溢れるものを相手にぶちまけずに済んだ。もしもあと数秒遅かったら俺の自殺は避けられなかっただろう。こいつの顔に精液ではないものを掛けた時にはあまりの惨めさに死んでしまいそうだった。
別に初めての事でもなかったのにどうしてだかてんで分からない。ただ触れた時のその生身の手の熱さにぞっとした。はじめてでもなかったのに。
  お前はぎょっとしてそれから迷いなく俺に腕を伸ばして肩を抱き、「吐いていいから」と何だか優しすぎる声で言った。流石に支えられるのは恰好がつかないような気もした。そんなことを考えている場合ではないような気もした。今もう既に車椅子の俺の膝上にわざわざ乗ってまで性欲を解消させてくれようとしていたのに、これ以上堕ちることはないだろうとやけに凪いだ心で思ったりもした。
支えてくる腕がじんじんと熱くて余計に気持ち悪くなり、けれど片手だけでは振り払うことも出来なかった。
  俺はたぶん死にたいんだろう。咥内に我先にと詰め掛けてくる夕食の酸っぱさを遠ざける為に、俺はそんな事を考えていた。排泄すら一人でままならないこんな奴が、男としてコイツに触れることなど出来ないと思った。左手を斬らせて、八年待たせて、鮫に食わせて、それから、

  “それから”を全く気にもしていないようなお前がどこからか持ってきたバケツを前に、そこでげえげえと吐いた。見せれない弱音、零せない苦痛、言えない言葉を一緒に捨ててしまうように、ただひたすら胃の中を空にした。頭の中も空に出来ればどんなに良かっただろう。
一通り終わったと見ると、お前はこれまたどこから取り出したのか水のボトルを差し出してきた。心配そうな目をしていた。あの頃のままの目だった。

どうしてこんなことをしているのかわからない。
そう思った。どうしておまえが裸で俺を支えているのかわからない。俺が脂汗で貼り付く前髪の間から必死におまえを見上げているのかわからない。おまえが屈みこんで唇を合わせてくる理由もわからない。俺は無性に気持ち悪くなり、それでもう一度えずいた。おまえが体からゆっくり身を離す前に、おまえの舌はたぶん、俺の吐瀉物を舐めた。

お前はただそこにいて、俺が吐き終わるのを待っていた。待たなくてもいい、と言ったけれど、それが今のこの状態なのか、それとも俺の身体が治るまで、という意味なのか、言った俺にもよく分からなかった。待つもクソも、この足は二度と動かないのだ。

おまえはそれを笑い飛ばして、何でもないように冷蔵庫を開けた。薄暗闇の中、そこからすうっと差す一筋の光だけが、おまえの横顔を照らしていた。

「何かさ、吐くと腹減らねぇ?」
「……減るな」

俺は思わず笑った。馬鹿かだと思った。だれがばかだったのだろう。
  左手で車椅子を動かしてのろのろと頼りない動きで冷蔵庫の傍に寄った。中には何もなかった、見上げると、おまえはその空っぽの箱の中を見つめて、もう一度わらった。

 

 

------------two

 

ただただ白い手は冷たい暗がりの中を何とも不自然な動きで泳ぎ、苦しそうにそれを丸めた。じとりと汗ばんだそれは、薄暗闇の中でアルビノの蛇のような不思議な質感に見えた。
その手には人の命を奪う時の殺気も何もなく、ただその男の愚直な妄執を示す為だけに俺の首に絡みついた。無様だ。ぞっとするほど美しくて吐き気がするほどに醜い不定形の手は、こちらの骨を折ろうとするでもなくくたりと力を抜いて、その指先は震えている。 死にたいと言ったのは確かに俺だが、殺そうとしているのは間違いなくコイツだ。

「どうしたカス。もうおわりか」

仄暗い室内に発せられる言葉は水の中の空気と同じようにこぽこぽと浮かび上がるだけでその役目を果たしはしない。空気の泡がごぽりと水面を目指す代わりに、引き攣った喉がひゅうと鳴った。やはりその音もこの男には届かないだろう。

「やっぱり無理だ、俺には」

暗闇を裂くような甲高い声だった。悲痛しか籠められていないその手は俺の胸を強く押して、体勢を崩した俺は床にぶつかった。咄嗟に受け身を取ろうとしたけれど酸欠気味の身体にそんな機転を働かせる余裕はなかった。おまけに右腕がないんじゃどうしたって上手くいく筈もない。背骨がそのまま床に盛大にぶつかってごりっと嫌な音を立てるよりも、一瞬止まった呼吸のほうが自分にとって深刻だった。
両脚が動かない為に自力で立ち上がる事も出来ず、そのまま床の上で身を捩り、丸まったまま大きく咳きこんだ。その音でさえこの物静かな部屋の中では異質なものに聞こえる。最近は何も食べていなかったにも関わらず図々しく戻ってきそうになった胃の中のものの正体をぼんやりと考えながら片手で口元を押さえる。その掌と唇の触れ合う音さえも何もかも異質だった。生きるための音だ。それはきっと暗闇には似合わない。
はあ、と息をついて自分を無理矢理突き飛ばした男を見ると、ソイツは音も無く泣いていた。その足元にぽたぽたと透明の水滴が落ちる。次々零れるそれは無駄に毛足の長い絨毯に吸い込まれて音を立てることはない。水は重力に逆らえない。コイツの涙は足元にたまって、水溜りくらいは作れるかもしれない。

「俺はどんな身体だって、アンタに生きてて欲しい」

だけれど、この部屋いっぱいに、それこそ溺れて死ねるほどに。そんな量の涙をこの男が流せるとは思えない。      
どくんどくんと心臓が高鳴る音がやけにうるさく聞こえた。俺達は生きている。

 

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