ザンザスはひどく疲れていた。
彼の中に熱を与えるのは、冬の沼に身を沈めるようなものだった。
薄暗い森へ分け入り、生い茂る草を掻き分け、ぬかるんだ土を踏みしめる頃には、ザンザスの息はもう既に荒く激しいものとなっていて、鼓動ばかりがやたらガンガンと煩い。常ならばそのリズムに心地の良い音楽に似た神性とて感じることも出来ようが、やっと辿り着いた透き通る美しい沼を前に、ザンザスはただただ早くその淵から甘露の味をする水を頂きたいと涎を垂らして体を倒すことしか考えられぬ。踏み込めば踏み込むほどに足はその底に沈む。しかしねっとりと絡むこの泥さえもが嬉しかった。それが人工の液体であろうとも、自分が中に入った事には変わりなかった。
自分は、人間のようでそうでない。きっと今ならば動物のほうがよっぽど近い。何の頭も使わず自分だけ汗まみれになって、必死こいてスクアーロを組み敷くさまはてんで人間とは掛け離れている。脳みそよりも下半身に支配されているに違いなくて、本能のままに動かす腰つきはたいそうご立派だろう。獣以外のなんでもない。
ああ、愛しい水面にそっと口付ける。神を前にした聖教徒が如く恭しく頭を垂れ、甘い水に唇を浸す。ああ、ああ!足りぬ!体が熱くてしょうがない!こんなものでこの熱が治まろうか!彼の身体はぞっとするほど冷たいのに、何だってここまで体内が燃え狂っているのか。
スクアーロの体はそんな風にして、とてつもなく冷たい。ザンザスがキスをして、恥ずかしがらせようと思ってわざと音を立てて唇を離しても、その頬がいつもみたいに羞恥にさっと染まることはない。あの星色の瞳で生意気に睨み上げてくる事もない。指先で少し口を開かせて、そのまま舌を絡める。きんと冷えた歯列を虚しく撫ぜ、凸凹した上顎を悪戯に擽る。首元のボタンを一つづつ丁寧に外して、少し期待させるように脇腹を指で一掻き、急所を守る為にある筈なのに自分を煽るためにしかない細い毛の感触を確かめて、ザンザスは、触れる。其処すらひえて冷たい。諦めるしかないようだ。
少し遠くから床をきつく踏み締める足音が聞こえてきた。それは段々と大きさを増し、ついには二人の居る部屋の辺りまで響いてくる。聞き覚えのありすぎる歩き方だ。だけどそれは、彼のものであって彼のものではない。
溜め息をつきながらズボンだけを脱がして、固い膝を持ち上げ肩に掛けるが、脚は重力に素直に従ってそこから落ちた。普段ならば絶対に見れないであろうあられもない格好のままにシーツに沈んだそんなどうしようもない様子でも、ザンザスは彼に触れる事が出来るだけでもうどうにも我慢が利きそうになく、何とか自分を受け入れてもらおうと、やや性急ではあるものの、然るべき所を逸って解した。ガンガンガンと扉を強く叩かれる。
指を縁に引っ掛けたままで揺らしてその顔を覗くが、彼のうつくしい眼は依然閉じられたままで、やはりそれはとても残念だと思ってしまう。意地が悪いと拗ねて欲しかった。早くしろと怒ってほしかった。非難だって何だっていいから、声が聞きたかった。
XANXUS。自分の名前をあれほど大切なもののように呼んでくれた人間を、ザンザスはこの男以外に知らない。母親がそれを口にする時、そこにあったのはただの妄信と狂騰だけだった。
本来あの親が自分に付けていた名前が何だったのか、ザンザスはそれすら思い出せない。永遠に失われた忌み名を惜しくは思わなかった。彼が、スクアーロがXANXUSと呼んでくれたから。エックスの烙印を背負うに相応しくないただの男だと知っても尚、その呪われた名を、愛おしげに呼んでくれたから。
堪り兼ねて指を引き抜き、荒々しく自分の性器を取り出す。これは自分で弄らないと使えないという事ではなくて、焦れて焦れて仕方のない、仕様のない行動である。もう、入れたくてたまらない。自身を彼の中で爆ぜさせたい。少しでも熱を与えてやりたい。本来ならば片手で解しながら、という事をしたかったが、生憎ザンザスには腕は片方しかないのだ。
白いだけの太腿をがっしりと掴んで、自分を彼の中に押し込む。繊細な粘膜を傷つけぬよう気を付けながら奥に進み、堰を越えればそこはザンザスをすぐに受け入れた。狭いものの、ローションで多分に濡れた後孔はザンザスを決して押し返しはしない。それをいいことに、ザンザスはスクアーロの奥の奥まで入る。どろどろになった沼にゆっくりと杭を埋めるように。
猛る陰茎が空洞に呑みこまれて、ああ、と漸く安心出来たように息を吐く。オナニー以外の何物でもないそれは別に気持ちがいい訳ではなかった。ただ、スクアーロを抱いているという事実にほっとした。
何度も何度も入って、そうして冷たい彼の体の中に、自分勝手に精を撒き散らす。その間も扉は何度も叩かれて、その向こうからは“スクアーロ”の声がする。スクアーロの虚脱した手足ががくがくと揺さ振られる。マスターベーションに物言わぬ恋人を無理矢理付き合わせる。
逐情は小さな死である。自分は今、スクアーロの中で死んだ。
何度も何度も想いを吐き出して、律動の度に汚い白が飛び散るほどにスクアーロを汚して、そうしてやっと彼を解放したザンザスは、ぐったりとした彼の身体をがっくり肩を落としながら清める。惨めだ。ガンガンガン。『XANXUS!いつまでやってんだぁそんな事!!』
今日も一日が始まる。スクアーロが死んでからも変わらず回り続ける世界の中で、彼を失ったにも関わらず自分だけが生き残ってしまったザンザスの、落日が始まる。
***
スクアーロはひどく悲しかった。
痺れを切らして観音開きの扉を勝手に開けると、すぐさま歓迎とは真逆の灰皿が顔面に熱烈なキスをした。顔中にべっとりと付着した灰を拭うより先に黙って吸い殻を集め、向けられた広い背中に「メシは?」と聞くも、返って来たのは無言だった。背けられた顔から何から何まで、隠そうともしない嫌悪感がぴりぴりと肌を刺すようだ。ザンザスは、全身を持ってしてスクアーロを拒絶していた。
日本で起きた代理戦争から帰国してから早一ヵ月が経っていた。独立暗殺部隊の長と副官、そのふたりの関係はいま最悪なところまで冷え切っていて、ザンザスはスクアーロに目を合わせようとせず、全く口も利かず、それどころか顔すらろくに見ようとはしなかった。日がな私室に閉じ籠り、おままごとをするそんな彼にいくら声を掛けたところで、彼はその存在をまるで居ないものとして、こうやって不快感ばかり伝えてくるのだった。
二人の間には銃撃戦が勃発する直前のような張り詰めた空気がいつも漂っていて、スクアーロの方がいくらそれを改善しようと躍起になっても、それらはすげなく切り捨てられるばかりであった。スクアーロはザンザスと話したくてたまらない。ザンザスはスクアーロと話したがらない。
スクアーロにはそれが、悲しくてしょうがない。彼に必要とされないならば、自分は生きている意味がないからだ。
だけれど何故“自分”がここまでザンザスに惚れ込んでいるかなどのきっかけは分からず、それがまたどうしようもなく悲しいのだ。好きなのに、何故好きなのかは分からない。こんな悲しい事があるだろうか?二十二年分の記憶データは膨大で、かなり圧縮したので、曖昧な記憶や微細な記憶はプログラムに変換出来ていない可能性もある。そのせいかもしれない。
ガラス玉の目を柔らかく細めて口端を緩く吊り上げた表情が笑顔に分類されるという事は脳内で息づく膨大なデータと照らし合わせて知ってはいるが、それをどこで使うのかだとか、そういうことまでは分からない。だからスクアーロは生まれてからというもの、常に無表情であった。今だってこんなに悲しいのに、その顔は能面のように動かない。悲しい時にどういう顔をすればいいのか、あの三人はそこまでデータ入力はしてくれなかったようだ。これもまたザンザスに疎まれる原因の内のひとつなのかもしれない。
「なぁ、ボス、…もうやめろよぉ」
遮光用の暗幕と装飾用のカーテンの二重になっている天井にまである緞帳を閉め切ったままの室内は静寂が沁み入っていやに薄暗く、その中で、主が腕に抱えるものばかりが無闇に輝いていて何だかちょっと気味悪かった。自分と寸分狂わず同じ容姿をしていたって。
オリジナル・スクアーロは死んでいた。
アルコバレーノにまつわる、かの争いで、その命を落としたのだ。文字通りザンザスの目の前で、死んだ。腹部を一突き。呆れかえるほどあっけなかった。
ボンゴレファミリーが誇るメカニック、入江正一とスパナ。それに加えて天才科学者と名高いヴェルデの手により対イェーガー戦の為に作られた「囮人形」であるスクアーロはそれを近くで見ていたし、ザンザスが片方しかなくなってしまった腕でオリジナルを抱きかかえてまるで懇願するように何度も『起きろ』と命じていたのだって、ちゃんと聞いていた。特に何も思わなかった。自分のモデルが殺された。それだけだ。
しかしそののち、スクアーロは再度造り変えられた。今度は戦闘用でも何でもない、“ザンザス”の為にだ。もうオモチャではない。
原動力が炎である事は変わっていない。内臓チップにまでダメージを受けた場合は痛覚という形で対外部刺激反応が起こるし、表皮が傷付けばその下を流れる疑似血液がちゃんと噴き出す仕組みになっている。
体表面の温度は人間の平温値である三六度前後に感じられるように設定されているし、食事からエネルギーを補充することだって可能だ。勿論必要とあらば排泄の機能も搭載されている。当然セックスだって。
頭部メモリーにバックアップされたオリジナルのデータが情緒センサーにフィードバックされる度に知能を成長させ、AIによる学習機能に基づき経験が蓄積される事でヒトと同じく考えることを研究していく高度な自律思考型有機的人造ロボットに進化したスクアーロは、どこからどう見ても『スペルピ・スクアーロ』という設定人格をきちんと守った立派なアンドロイドだ。影武者の役割だって果たせる。一挙一動を完璧に模したスクアーロを見て、外部の他ファミリーも、よもやあのザンザスの腹心がもう既に死んでいるとは露ほども思わないだろう。
それなのにザンザスといったら、ルッスーリアに防腐処理加工を施して貰った冷たい遺体ばかりを弄り回して、スクアーロにちっとも構ってくれないのだった。
そんな身体、冷たいだけだろうに。俺ならお前好みの、好きな体温に設定出来るのに!センサーで体外温度を計測して汗をかいたり鳥肌を立てたりも出来るぞ!どれだけそう訴えたところで、ザンザスの残された左手はオリジナルを撫でる為にしか動かされない。自分は何の為にここに居るのだろう。存在意義を疑う、という事はロボットにとって何より辛いことだ。悲しい。
オリジナルの驚くほどびっしりと生え揃った長い睫毛(俺も同じ本数な筈だ)が目元で白い光を弾いていて、眼差しまでもが輝いて見えた。落日の色だ。ぞっとする。生きてもいない癖に、コイツの美しさが、ザンザスを縛り付けている!
動力ポンプよりは下、人間であれば臓腑の収まる辺りがもやもやむかむかいらいらして上手く代謝が出来ないのは、何もかも全て依怙地な主のせいだ。だけどそれ以上に、主を置いてひとりで逝ってしまったオリジナルのせいだ。お前が死ななきゃ、俺はわざわざこんな感情を搭載される事もなかった。叶わぬ恋にこんなに苦しむ事も!
スクアーロは華奢な顎の上で咲く桜色の唇をきつくきゅっと噛み締めて、もう一度ザンザスに声を掛けた。
「俺が居るじゃねぇか」
窓の外で大きな鳥の羽ばたきが聞こえた。翼をばっさばっさと大袈裟に打ち付けて、ぎゃあぎゃあと群れを成して、しゃがれた不吉な鳴き声で騒ぐあの鳥達は、鴉に違いなかった。ヴァリアーのアジトをぐるりと囲む深い針葉樹の森には、猛禽類ほどもあるかというくらい大きなカラスが棲み付いているから。
それに紛れて、オリジナルの笑い声が聞こえた気がした。壮絶に悪い予感が一瞬で襲い掛かり、途端に空気を変えた室内に、スクアーロはひゅっと呑み込む。しまった、と思った時にはもう遅かった。さぁっと音を立てて血の気が引くのが分かった。血なんてないのに。
目の前に、巨大なカラスが立っていた。赤い赤い、滴り落ちた血のような底無しの目が、嫌なぎらつき方をしていた。はっきりと、憎む目だった。それに射竦められるスクアーロの元へ、ザンザスがゆっくり近寄ってくる。ベッドの上に、国宝か何かのような丁寧すぎる手付きでオリジナルをそうっと置いてから。
元は精悍であっただろう頬は幾分がこけ、それが痙攣の如し慄いている。いっそ笑い出したいのを堪えているような表情だった。
「“居る”だと?」
そうして鋭い嘴が開き、その隙間から、これまた赤い舌が覗いたのを、スクアーロはまんじりともせずにただ茫洋と見上げるしか出来なかった。…
***
XANXUSはひどく憤っていた。
それはもう怒る、などという生半可な表現では追い付かない。額には切れそうな血管が浮かび、厳つく聳える肩はぶるぶる震え、握り締めた拳は爪が食い込み血を滲ませ、カッと見開かれた朱い眼はより一層色濃くなった。ある筈もない内臓の中で炎の塊が七転八倒でもしているかのように腸はぐつぐつと煮え繰り返っていた。
「殺してやる」
喉の奥から絞り出した掠れ声はなるほど憎しみに満ちていて、それを聞いたスクアーロが項垂れていた顔をパッと上げた。それを見るともう駄目だった。XANXUSは低い唸り声を上げて猛然と立ち上がった。
「あのクソ野郎、ぶっ殺してやる!」
「ザンザス!」
スクアーロはとんでもないとばかりにその目を瞠ったが、瞑っているようにしか見えない。何しろその瞼は両方ともろくに開かない状態で、内出血を起こした皮膚がホラー映画用の特殊メイクでも施されたように垂れ下がっているのだ。それを見て、XANXUSはぞっとした。内出血!自分達はロボットに関わらずそこまで緻密に計算され尽くしているのか。
「そんなこと言うな」と切に訴えるスクアーロはしかし、その唇も頬も同じように腫れ上がっていて、可哀想だがもう化け物以外の何とも言い表せそうにない惨状であった。
隊服の襟元から垣間見える鎖骨の辺りには見るも無残な紫や青の色鮮やかな痣が沢山花咲き、その上の白い首周りにはくっきりと指の形に爛れた手加減のない火傷の跡が残されている。
本来形の良かった可憐な唇も不恰好に裂けて、女の紅でも引いたかのように真っ赤に染まっている。そんな口から出るのはあの男を庇う発言ばかりで、それがこの上なくXANXUSを腹立たせた。
「ざけんな!何でそこまでやられて黙ってんだよ!」
「俺が悪いんだぁ、俺がアイツの、オリジナルの代わりになるなんて言ったから」
スクアーロはそう言って、ちっとも開いてはいない目から真珠みたいに大きな涙、に見せかけた人工食塩水をぽろぽろ零した。「俺が代わりに死ねば良かったんだぁ」そうとつとつと漏らす様子があまりにも痛ましくて見ていられず、XANXUSは余計に息巻いて捲し立てた。
「大事な奴ひとりすら守れなかったような男にそんなこと言う権利なんざねぇ!」
「やめろぉXANXUS!ボスのこと悪く言うな!ボスが、ボスが可哀想だ、」
「馬鹿!それはお前の方だろ!」
腰に必死にしがみ付くスクアーロはしかし、片腕しかない為に全く力が入っていない。何より酷いのは左腕で、胴体から完全に引き千切られていた。別けられた肩口からは切断された神経系コードが剥き出しになってたまに火花がぱちぱちと散り、優れた結晶能力で空気に触れた瞬間に凝固した血液が絵の具のようにべっとり色を飾っているのが見るだに痛ましい。あの男は、自分も片腕しかないというのにスクアーロの機械の腕をもいだのだ。
けれど食い込む細い指に籠もる想いはことに強く、それを剥がすのはいかなXANXUSといえど容易ではなかった。
「何であんな野郎のこと庇うんだよ!」
XANXUSは自分のオリジナルの名を決して呼ばない。
復讐者との戦闘の際の目晦ましに使われる、囮としてのみ生み出された自分にとって、スクアーロは兄弟であり、半身であり、掛け替えのない唯一の存在だった。
帰国するや否や、スクアーロはボンゴレの連中に取り上げられ、“スペルビ”の代用機としてその身体を強制的に造り変えられた。部品をイチから取り替えて、二週間ラボから戻れなかったのだ。帰って来たスクアーロはXANXUSとは何もかもが変えられてしまっていた。人間達に好き勝手に弄り回されたそんな彼を見て、あの男は『アイツの紛い物なんざいらねぇ』と吐き捨てた。XANXUSはその時の事をよく覚えている。あの時のスクアーロの顔といったら!感情を植え付けられてしまったせいで、“傷付く”という想いも味わう羽目となった彼の横顔を見たあの瞬間から、XANXUSの中でオリジナル・ザンザスは何よりの敵となった。
「逃げるぞ」
XANXUSが勢いを削ぐ事も忘れてその華奢な肩を掴むと、スクアーロは若干痛そうに顔を顰めた。アイツと同じ顔をした男に手を上げられると思ったのか、びくっと身を竦ませるその様が何とも哀れである。
「このままここに居たらいつか殺されちまう。俺と一緒に来い。ここから逃げるんだ」
「そんなの、」
「無理じゃねぇ。どこか…どこでもいい、どこか遠い所に」
スクアーロはうらぶれた風情で俯いた。冬の夜空に一等眩しく輝いている恒星のような瞳は今は隠され、その真意を探る事は叶わない。
XANXUSは噛み締めた奥歯がぎりぎりと音を鳴らすほどの怒りを何とかようやっと堪えながら、至極優しく彼に語り掛けた。もうこれ以上、一分一秒だってスクアーロをこんな場所に置いていたくなかった。外でカラスがぎゃあぎゃあと五月蠅い。
「ごめん、俺…ここに居る」
顔を逸らされながら呟かれたその言葉に、XANXUSは頭から冬の冷たい真水を掛けられたような気分になった。それは臓腑に沁み入り、心臓に到達する前に凍り付いてしまいそうだ。
自らの排熱処理が上手くいっていないことを肌で悟る。服が人工皮膚にじっとりとへばりつく嫌な感じが、XANXUSの全身を包んでいた。「な、何で、」掠れて最後まで音にならなかった声はそれでも聴覚データと言語補正でちゃんと復元されて、しっかりとスクアーロの耳に届いた筈だ。
本人は目を開けているつもりかもしれないが、スクアーロの目はモンスターめいて腫れ上がっている。だけれどその隙間から覗く目は、まっとうに正気だった。
どんな有様でも、スクアーロは冴え冴えと美しかった。真っ白い髪と肌がマーブリングのように混じって外に溶け出してしまっていて、涙の粒で彩られた睫毛がきらきらと光る。こんな綺麗なのに、人間じゃないなんて、
「だって、だって俺、アイツのこと好きだから」
掴んだ手の中で骨がかちかちと軋むのが分かった。忙しない呼吸を繰り返すばかりの唇は細かく震えるばかりで、どうにもうまく彼に言いたいことを伝えられない。歯がかたかた鳴って、間から、吐息がひとりでに漏れていく。世界がぐるぐると音を立てて回る。
「そんなの、ただのプログラムだろ。アイツ等に勝手に設定された電子回路で…」「違う!俺のこの気持ちは本物だぁ!」
XANXUSの苦し紛れの説得に、しかしスクアーロは意気込んで反論した。これだけはコンピューターなんかじゃないと言い募りながら、肩に置いていた手を払われる。融けきれずに底に残った粉末のココアみたいに行き場のない手が空中を彷徨い、もう一度そこに触れる勇気も出せないまま、迷ったように浮いた後で、虚しく落ちた。
それはお前自身の感情じゃない。実際に使った事のない、経験を伴わないそれは、単なる知識でしかない。どうしてそれが分からないんだ。日本の小学生が、豊臣秀吉という人物が居たのだと、歴史の教科書で知るのと同じだ。現実に存在したはずなのに、実感のないふわふわしたそれは、決してお前の心の中で芽生えた感情なんかじゃない。
矮躯を満たしている誤謬は砕いてやらねばなるまい。XANXUSはそう思って、「目を覚ませ」と言おうとしたのに、唇を割り開き勝手に漏れ出ていた音声はそれではなかった。
「俺だって、」
いつの間にか陽は暮れて、夕焼けの残照が地平の隙間を埋めていた。窓から差し込んだ淡い光がふたりの人工の皮膚をオレンジに染めている。
暮れなずむ夕日がまるで血をぶちまけたみたいに室内に入り込んでいて、熟れた太陽が落日を告げていた。鴉が一層騒ぎ出す。
「…俺だってお前のこと、ずっと…、」
XANXUSの目頭がどれだけ熱くなろうと、喉元に想いがせり上がろうが、唇が痙攣を起こしたようにわななこうが、手足の末端が冷たくなろうが、その紅い眼が溶ける事はない。彼と同じように、泣く事はどうしたって出来ない。
スクアーロが傷だらけの顔で笑った。「スクアーロが、生きてたらなぁ」最早何もかも諦めきった声だった。「そしたら俺達、こんな想い、しなくて済んだのに」
太陽は周囲の空を一方的に茜色に染めながら、ゆっくり、ゆっくりと沈もうとしていた。今日も一日が終わる。