伊勢志摩の“祭りの後”には一層、先進国の「たそがれ」が際立ちます。日本を先頭に進む高齢化、人口減…。衰えゆく先の大きな時代の変わり目です。
人気映画『ALWAYS三丁目の夕日』に出てくる「氷屋さん」を覚えていますか。
建設中の東京タワーをバックに高度成長期が始まったころの下町人情劇。ある日、主役一家の自動車修理業、鈴木家に当時の「三種の神器」の一つ、電気冷蔵庫が届きます。氷塊で冷やす旧式冷蔵庫からの買い替えでした。
氷屋さんはそれまで、氷塊の入れ替えで鈴木家にも出入りしていました。後日、用済みで裏庭に出されていた旧式冷蔵庫を目撃するわけです。路地から塀越しにしばらく見詰めた後、ふっとため息をつき自転車で去っていくシーン。時代の変わり目に漂う哀愁を、静かに描写していました。
この時代、その転機を鮮やかに描写した流行語もありました。
一九五六年経済白書の結語に刻まれた時代の惹句(じゃっく)です。
◆先頭走者として
「…我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」。それはまさに、日本経済が戦後の復興を経て「先進国」の領域に踏み出す“宣言”でした。
日本はその後、六四年に経済協力開発機構(OECD)加盟。最先進国グループのサミットにも、七五年の第一回会議から参加し、文字通り「先進国」の中の先頭走者として時代を極めていったのでした。
しかしながら、その勢いも無論永遠ではあり得ません。
高度成長も七〇年代前半には峠を越え、九〇年代初めから今に至る低成長です。この先も、成長力の衰えは抗(あらが)えない歴史の現実でしょう。遅かれ早かれ他の先進国にも共通の現実です。そして日本は今や、その衰えの先頭走者です。
成熟した先進国が軒並み成長に行き詰まるのはなぜか。
いろいろ言われますが、先頭を走る日本で大きいのは、やっぱり「高齢化」でしょうか。
先進国の豊かさゆえに国民が長寿になる。それ自体は本当に幸せなことです。問題はむしろ、それによって働く現役世代の人口割合が減ることの裏返しでしょう。消費の担い手でもある働く世代が劣勢となれば、新たな需要も生まれにくくなる。経済成長が高齢化につれて行き詰まる流れです。
◆成長がなくとも
国もまた高齢化によって税収が減る半面、社会福祉などの負担が重くなれば、次世代への借金は膨らむ一方です。何とか需要を生み出そうと金融政策に頼れば、弱肉強食の市場で富の偏在を招き、ひときわ格差を広げます。
国の借金や格差で次世代に希望が開けないなら、人々はあえて子どもを持とうとも思わない。こうして高齢化は「少子化」「人口減」も加速させながら、相乗的に成長力は衰えていくのでしょう。
伊勢志摩サミットの経済討議は従来の成長路線に沿った短期策に終始しました。でも、この衰えの現実を踏まえれば、先進各国は目先の成長回復を追うだけでなく「たそがれ」後の先行きにも目を向け直す時ではなかったか。
例えばこの先、成長がなくとも一定程度は豊かな社会にと、目標を切り替えてみるのです。とりわけ日本がたどる「国の老い方」は、以後の世界モデルにもなりえます。ただ、欧米の後を追った上り坂と違って、今度は人類未踏の下り坂です。まだよく分かっていないのです。その先にどんな光景が待つのか。
一つのヒントです。恐らく世界一級の情報機関である米国家情報会議(NIC)の元分析・報告部長が著しました。二〇三五年の近未来予測『シフト』(マシュー・バロウズ、訳・藤原朝子、ダイヤモンド社)には、残念ながら影の薄くなった日本が登場します。
そんな小見出しです。二十年後の日本は世界で「中の上」程度のパワーを維持する。ただし「大規模な構造改革を実行すれば」の条件が付く。それは例えば、退職年齢の引き上げや移民受け入れなど「より破壊的な改革」です。
◆未知の痛み分担
仮にそうなら“破壊”に伴う痛みもまた、未体験の激しさということになるのでしょう。国民的な覚悟も必要です。
そういえば五六年白書にも「覚悟」の一節がありました。近代化で中小企業や農業が一時的に抱く矛盾は「国民相互にその力に応じて」分担するしかない−と。
衰えた先に未知の痛みも分け合って、新たな価値観で輝き続ける国へと時代を開けるか。再び日本人の底力が問われます。
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