妊婦が死ぬのは医者のミス?
「Sugar」という三人組女性コーラスのデビュー曲に「ウエディング・ベル」がある。元カレの結婚式に招待された女性の胸中を「くたばっちまえ!アーメン」と歌い上げて、大ヒットとなり、紅白出場も果たした。その後もたまに懐メロ番組で見かけるが、女性二人しか出演していない。というのも、元リーダーのモーリは出産時の羊水塞栓症で、29才で死亡したからである。
羊水塞栓症とは、分娩時に羊水や胎児成分が母体の血管内に入り込むことで、肺血管が詰まって心肺停止したり、重篤なアレルギー反応で血が止まらなくなったりする症候群である。「2~3万分娩に一例」といった発生率だが、「それまで全く異常のなかった妊婦に、急激に発症して進行し数時間後には心肺停止」というケースが多く、死亡率は現在でも60~80%とされる。テレビドラマにもなった人気漫画「コウノドリ」の産科医は「児童養護施設で育った孤児」という設定だが、最終回あたりで「母親が分娩時の羊水塞栓症で亡くなった」エピソードが登場する…と、私は予想している。
「産後の肥立ちが悪かった」という言葉があるように、女性が出産前後に亡くなることは、かつての日本では珍しいことではなかった。戦前では「数百分娩に一例」レベル(≒現在の途上国)で、日本の高度経済成長期には「数千に一例」(≒現在の新興国)となった。産婦人科医たちの不眠不断の努力によって、ここ10年は「一万に一例」以下という世界トップレベルで推移している。でもって、なまじ見聞きしなくなったために、死亡してしまった妊婦の遺族は「健康だった若い女性がお産で死ぬなんてあり得ない!」「医者がミスしたに違いない!」となりがちで、話がこじれて医療訴訟になりやすい。
中には、「2006年、福島県某病院における妊婦死亡」のように、刑事事件として産科医逮捕に至る症例すらある。逮捕により病院から産科医が消えたので、この病院の産科診療は終了した。この事件は、2008年に無罪判決が確定して一応の解決を見たが、福島県の産科診療は今なお荒廃したままで「正常妊婦の里帰り分娩受け入れ産院」すら見つけることが困難なままである。
5月27日、ある母子の分娩時の死亡をめぐる医療裁判の判決は、日本中の産婦人科医を震撼させた。「妊婦は(中略)羊水塞栓症を発症していた可能性がある」が「適切な治療を行っていれば救命できた」として、裁判所は「医師側に約7500万円の支払い」を命じたからである。「適切に行えば助かる…ってさあ、オマエやってみろ!」「福島の産科医逮捕のような愚行」「ただでさえ少ない産科医は滅亡だな」と、ブログやSNSは大騒ぎである。また、訴えられた病院では産科医が次々と辞めてしまったそうで、2016年4月からお産の扱いを休止している。
私自身も、羊水塞栓症の診療経験は3例あるが、全て死亡した。いずれも大学病院で、「集中治療室での人工呼吸器・人工透析・補助循環装置・肺動脈カテーテル・経食道心エコー」といった高額医療機器を投入し、10人以上の医師が関与しても救命できなかった。幸い訴訟にはならなかったが、訴えられた医師のことは他人事とは思えない。
不幸中の幸いなのは、東京高裁での判決なので、確定したわけではない。産科医と病院と代理人は頑張って支払い命令を覆し、日本の産科診療を守ってほしい。
画像はモーニング公式ホームページより
筒井冨美
フリーランス麻酔科医
1966年生まれ。フリーランス麻酔科医。地方の非医師家庭に生まれ、某国立大学を卒業。米国留学、医大講師を経て、2007年より「特定の職場を持たないフリーランス医師」に転身。本業の傍ら、2012年から、「ドクターX~外科医・大門未知子~」「医師たちの恋愛事情」など医療ドラマの制作協力に携わる。2013年から、東洋経済オンライン「ノマドドクターは見た! 」で論壇デビューし、執筆活動も行う。近著の「フリーランス女医が教える 「名医」と「迷医」の見分け方」で、産科医療の実情をレポートしている。
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