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Act. 6
Act. 6
綾乃が目を覚ますと、目の前にはリゾートホテルらしい小綺麗な天井が見えた。ここはどこで、自分はどうしてこんなところにいるのか。はっと、事務所で何者かに後ろから口を塞がれ一気に意識が薄れていったときのことを思い出した。かすかに頭痛がする。
いわゆる”拉致された”という状態であるはずだが、体のどこかを縛られることもなく、ベッドの上に寝かされていることに気がついた。おそるおそる体を起こして周囲を見渡すと、確かにそこは小綺麗なリゾートホテルだ。左手に大きな窓がありオーシャンビューになっている。そこから見える海の景色は綾乃にとって見慣れたものだった。
正面のドアがあいて、ポットを片手にもった金髪の男が入って来た。男は綾乃ににっこりと微笑む。拉致されたという事実さえなければ、誰も怖いとも、嫌だとも思わないよな魅力的な笑みだった。
「アヤノ、気分はどう?ひょっとしたら少し頭痛がしてるかもしれないけれど…。」
親しげに自分を”アヤノ”と呼ぶ男。遅れて気がついたが、この男が話しているのは綺麗な日本語だった。何がどうなっているのかさっぱりわからない。気が動転して何も言えないでいる綾乃を怖がらせないよう、ベッドから離れた位置に椅子を置き、男は椅子の背もたれを両腕で抱えるような体勢で綾乃に向き合って座った。
「ごめんね。びっくりしてるよね。僕はイリヤ。イリヤ・クリヤキン。昨日、僕の相棒が綾乃の家に行ったはずなんだけど、知らないかな?ナポレオン・ソロ。」
イリヤと名乗る男から、いきなり聞かされた昨日の訪問者の名前。彼はインターポールのはずだった。陽気でとても感じのいい男だった。
「…ソロさんの相棒…?あなたもインターポールなの…?」
ソロ、と聞いてとたんに頭に浮かんだ疑問を目の前の男にむかって、ためらいがちに投げかけた。正直なところ、事態の状況についていけず頭はまともには動いていなかった。そこではたと疑惑が浮かんで、綾乃は顔を引きつらせる。インターポールなら、どうしてこんな風に、自分を拉致したりするのだろう。
イリヤは怯えた綾乃を見て、綾乃が何を怖がっているのかすぐに察したようだった。
…こんなとき、ナポレオンがいてくれるとたすかるんだけど…
今頃は船内調査をしているであろう相棒を頭に思い描きながら、イリヤはほんの少しだけ、女性をほだすナポレオンを意識しながら綾乃に笑いかけようとしたが、すぐさまそれを放棄した。あんな女ったらしな笑顔、自分にはできるわけがない。結局イリヤはいつもの通り、真摯に相手に向き合うことに決めた。綾乃のを目を優しく見つめて、怖がらせないようにゆっくりと支度調で弁解をはじめた。
「どうしてこんなことをするんだろう、って思ってるよね。当然だよ。ひどい扱いをしたよね。これから説明をするから、少し聞いてくれないかな。それで僕を信用できなかったら、すぐに帰ってくれたらいいから。」
イリヤの魅力はナポレオンのそれとはまた違う。でもイリヤの魅力も十二分に他人にアピールするものだった。それをわかっていないのは本人ぐらいのものだ。”堅物”イリヤ・クリヤキンが真面目さを発揮したときには、その態度は人の信頼を得るには十分なものだった。
イリヤの言葉に耳を傾けた綾乃はちらりと窓の外を見る。それにすかさずイリヤが行った。
「ね、ここは君のしっている町だろう?僕の話を聞いてくれる?」
綾乃はイリヤに視線をもどし、こくりと一つ頷いた。
「ありがとう。先に一つお願いがあるんだけど、君は誰かに脅されているよね。アセプ、という男なのかな…?」
アセプという名前を聞いてさっと綾乃の顔が青くなる。慌ててイリヤは言葉をつなげた。
「ここにいれば大丈夫。彼にはもうアヤノに手出しなんてさせないから。ね?」
だまりこくる綾乃を見ながら、失敗したかなとおもいつつもイリヤは先を続ける。綾乃は叫びこそしなかったが、その蒼白な顔に頭の中でパニックが起きていることは用意に想像された。イリヤは先に綾乃から血液を採取して、綾乃を説得する間に分析にかけたかったのだ。少し焦ったかもしれない。しかし、すでに一歩踏み出してしまっていたのだから、このまま突き進むほうがきっと綾乃を混乱させずにすむはずだ。
「アヤノはあの男に何かされたんじゃないか?例えば、何かしらの薬剤を打たれたとか。…血液を採取させてくれないか。こちらである程度の目星はつけてるんだ。うまくいけば、薬剤の効果を打ち消すことができるかもしれない。君は何か症状を感じていないか…?」
綾乃の目にうっすらと涙がにじんでくる。そうかと思うと顔を被い声を殺すように泣き始めた。
イリヤは椅子をはなれそっと綾乃に近づき、静かに綾乃を抱きしめた。頭をなでて、イリヤはいった。
「僕とナポレオンが、君も君の旦那さんも守ってあげる。だから協力してほしい。」
綾乃の肩の震えがとまるのを待って、イリヤはそっと綾乃を話した。
涙の溜まる目を伏せたまま、綾乃は腕をそっと差し出す。ベッドから立ち上がったイリヤは隣の部屋から、注射器やシリンダー、サンプルを入れる小さなプラスチック容器など、往診する医師が持ち合わせているような機具がつまったスーツケースをもって来て、途中でさっきまで座っていた椅子を片手ですくい綾乃の隣、ベッドの側におくとそこに腰掛けた。なれた手つきで綾乃から採決をすますと、スーツケースから出した小さな遠心分離機をサイドテーブルにセットしてその中に採取した血を一部入れた小さなエッペンをかけた。
「これが済んだら、もう一手間あるから、ちょっとだけ待っててね。」
そういいながらイリヤは分離を終えて二層になっているエッペンの中身から黄色く透明になった上澄み液をスポイドで抽出し、別のシリンダーに取り分けた。今度はそれにスーツケースから取り出した小さな試験紙のようなものを差し入れて、遠心分離機のホルダーを試験管立て代わりにエッペンを静置した。
イリヤはくるりと綾乃を振り返った。
「待たせてごめんね。じゃあ、一から説明するね。」
そうしてイリヤは自分がソロの相棒でインターポールであるということ、イリヤたちはアセプが綾乃を新薬をつかって脅していることを突き止めていること、アセプがどこで聞き耳をたてているかわからないため事務所で話をしてつれてくるわけにはいかなかったこと、アセプ以外の仲間がいる可能性を考えて自分の存在を表に出したくなかったこと、などをゆっくりと話した。綾乃はこちらで保護するんだし、UNCLEだと身分を打ち明けてもいいんじゃないか、とイリヤはそうも思ったけれど、まだわからないことも多すぎる、とその考えを打ち消した。
「だから、君を誰にも無断で連れ出すしかなかったんだ。もちろん君自身にも説明することはできなかった。本当にごめんね。もし望むなら、君は会社にもどらなくてもいい。福沢社長もこちらにつれてくるからしばらく僕らの保護下に入ってくれてもいいんだ。一週間ぐらいでこの事件のカタをつけるつもりでいるから。」
イリヤは言葉をとめて、腕時計を眺めた。静置しておいたエッペンから試験薬を取り出し、新しいエッペンに試験薬をいれた。ついで、何かしらの試薬を2,3種類ほどそこに混ぜた。そうしておいて、開いて机の上においてあるスーツケースの右端に備え付けになっている卓上キーに番号を打ち込み…、カシャンと音をたてて開いた小さな穴にそのエッペンを差し込んだ。その後、また何かしらの数字を卓上キーからセットする。イリヤがポンっと人差し指でひときわ大きくキーをたたくと、スーツケースと一体になっているらしい機械がピーッと音をたてた。
「アヤノのおかげで、事件の裏にたどり着ける。さっさと片付けちゃうから、安心して待っててくれたらいい。」
ただ優しいだけの笑顔とも違う、何かに挑むようなそんな雰囲気も漂わせたイリヤの顔に、綾乃は少し不思議そうにイリヤを眺めた。
「いずれにせよ、落ち着くまでしばらく休んでいたら良い。寝れそう?」
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タラップを降りたところで、ソロは歩きながら胸ポケットからペン型の通信機を出した。沖合へと出て行く漁船を見送りながら、いつものとおりつぶやく。
「オープンチャンネルD。こちらソロ。首尾はどう?イリヤ」
相棒の返事はすぐだった。
「はい、ナポレオン。こっちは順調。今、綾乃から採取した血液を簡易的にPCRにかけてる。綾乃はさっき説得を終えて少し休んでもらってる。よく眠ってるよ。今、本部宛に血液サンプルの荷造りをしているところ。そちらさんは?」
そういう、おたくも何か進展があったみたいだよね、とイリヤはナポレオンに問い返した。こういう時は、声の調子である程度相手のことがわかってしまう。
「ん?こっちも順調だよ。というか、ビンゴ!って感じだよ。今から綾乃を脅してた男を連れて帰る。ただ簡単には口を割らない感じなんだ。」
ちょっと準備をお願いしていいかな?と問いかけようとしたところでイリヤが思わぬこと言った。
「アセプ?捕まえたの?泳がしておくのかと思ったけど。」
相棒がアセプの名前を知っていることにソロは一瞬驚いたが、そうか綾乃から聞き出したんだなと一人で納得した。まぁ、何事にも抜かりないイリヤのこと、わかる情報は全部引き出してるよね…。
「ん?ああ、それが船にずっと張り付いててさ。社長に案内してもらう予定が、彼に案内してもらうことになっちゃって。それで二人きりに鳴ったらとたんにバン!だよ。危ないったら。びっくりしちゃったよ」
ちらりとスーツの左肩についた焼けこげを指でなぞりながらソロは相変わらずな口調で言う。
「え、いきなり?…それって…僕たちが誰だか知ってるってことか…。じゃあ、やっぱりツグミなんだ。」
「ま、そりゃそうなんじゃないかな。って今更?イリヤ。ひょっとして慣れない女性のお相手をしてちょっと勘が狂ちゃった?」
ツグミがいるって、そんなのはじめからわかってたじゃない、とここぞとばかりにソロはイリヤをからかう。いつもながらのお遊びに、イリヤが通信機の向こうでむくれているのがソロにはすぐにわかった。
「アヤノは真摯に話したらちゃんと聞いてくれたよ。どこかの誰かさんみたいに誰彼構わず口説き回るほど、僕は不誠実じゃないんでね。」
そういってソロをなじるけれど、不誠実なんて言葉、イリヤからは何度も聞かされていてソロには痛くも痒くもなかった。
「はいはい。そういう”誠実”なところに実は隠れファンが多いんだよね。ま、そういうことだから、準備をお願い。アセプをそっちに届けたら、僕は船を一度全部見て回るよ。奴がここしばらくずっと張り付いていたというのなら、何か細工してる可能性は高い。それに…」
とここで少しばつが悪そうしソロは口ごもった。
「それに?」
そんなソロの様子にイリヤはすかさず突っ込む。
「それに、アセプがいきなり撃って来たもんだから、ヒマリに取り押さえるところ見られちゃって。一応インターポールってことで話は通しておいたんだけど…」
ソロのミスにイリヤは少しばかり不機嫌になった。
「ヒマリはまだ白とは決まってないでしょ。何やってんの、全く。ま、女性のことだから、おたくにまかすよ。さぞかし上手に納めてくれるんだろうし。」
先ほどのお返しとばかりに嫌みを混めてソロに返す。ただ、半分は嫌みであっても半分はソロの能力を信用してのことであった。
「もちろん。当然ですよ。じゃ、今から福沢社長に話をつけて帰るから。」
「OK。準備して待ってるからね。」
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カランと事務所の扉につけた鈴が鳴った。奥の社長室から「綾乃?大丈夫か?」と福沢は声をかけたが、扉から入って来たのはソロだった。
「ああ、ソロさん。すみません。ちょっと綾乃が体調を崩しているみたいで。」
さすがに小一時間帰ってこない綾乃に福沢は少し心配をしているようだった。
「ああ、福沢さん、その件とアセプについて少しお話が。」
少し困ったような顔でソロが福沢に言った。その声にはかすかな緊張感が混ざっている。この男とは昨日からの付き合いだが、常に軟派な物言いで、大事が起きてもその姿勢は崩れないような大物なんじゃないか、という気が福沢にはしていた。そんなソロの声にまじった微かな緊張感に、少し身を構えた。
「え、ええ。アセプがどうかしたんですか?それに、綾乃についてとはどういうことですか?」
昨日とおなじ応接用のソファをソロに勧めながら、自分もデスクをはなれソファーへと移動する。
腰掛けながらソロは身を前に乗り出し、両手を膝の上に組んで話しだした。その様子に福沢も少し前のめりになる。
「まずはアセプですが、彼をこちらで取り調べます。」
ソロの単刀直入な物言いには有無を言わせぬ雰囲気が混ざっていた。なんで、と言いかけた福沢は言葉を封じられた。そこに続けてソロがいう。
「あの後アセプと一緒にいたところ、彼に不信な点がありまして。それに、アヤノさんをアセプが脅していたようです。彼は先日の腐乱死体の事件の犯人一味の一人なんです。ここを見張っていた。私が来ることを察知して、アヤノさんから情報を得ようとどうやら彼女の体に何かしらの薬剤を打っていたようなんです。アヤノさんには今、こちらで治療を受けてもらっています。」
一気に説明されても福沢は全てをすぐに把握できるわけがない。色々な疑問が頭に浮かんでは消え、最後に、
「綾乃を連れて行ったんですか?何故先にそういってくれなかったんです…?」
「アヤノさんを脅している人間がいたことはわかっていたのですが、その特定を急いでいました。もちろん特定してからアヤノさんに事情をお話して来てもらうことも可能だったのですが…。昨日あたりからアヤノさんは体調を崩されていたのでは…?彼女はなにがしかの薬剤を投与されています。その影響が出ていたと思われたので、すぐに対処する必要があると思いました。」
福沢は目を見開いてソロをみた。まるで今の言葉の真偽を探っているようだ。しかし、しばらくして自分にとって最も大切な綾乃の状況が芳しくないのではないかと思い至りすがるようにソロに尋ねた。
「それで…綾乃は大丈夫なんですか…?」
「ええ。まだ治療法を調べているところですが…。でも今は落ち着いていますし、まだ重症というわけでもありません。安全は保障しますよ。」
ソロのはっきりとした口調に福沢は一応は落ち着いたようだった。普段の軟派な口調はどこえやら、今の声の響きには信頼感が感じられた。
「つきましては、アセプをつれて行きたいと思います。かまいませんね…?」
今まで妻のことで頭がいっぱいだった福沢は急に意識を従業員へと向けさせられた。未だにあの働き者のアセプが犯罪者の一味だなんて信じられない。しかし、それを綾乃の身を危険にさらした男だと言われて庇う理由もなかった。しかし…。
「ソロさん、綾乃に会わせていただけますか…?」
それでもこれまでの働きを思えば簡単に従業員を疑うこともできなかった。ソロは信用できるとそうは思ってはいるものの、たかだか昨日知ったばかりの人間。しかも福沢の日常とはかけ離れた話を目の前に突きつけられたのだ。アセプが綾乃を脅していたのなら、綾乃の口からも確かめたかったし、何より綾乃の無事を確かめたかった。
ソロはひときわ穏やかな表情で答えた。
「もちろんですよ。今から一緒にいきませんか?」
ええ、そうさせてください、と福沢が答えかけたそのとき、大型船の出港する音が聞こえた。
この船着き場に止まっている船といえば、福沢産業のマグロ漁船しかない。福沢に取っては聞き慣れた音。ソロは一瞬のうちに福沢の表情を見、ついではじかれたように身を翻しそのまま事務所を飛び出していった。福沢も後に続く。
まさに船は出港しようとしていた。つないでいたはずのロープがほどけている。
「そんなばかな!」
走りよりながら福沢が叫ぶ。船は大型で乗組員が揃わなければ動かすことなど不可能なはずだった。
船着き場のアンカーに巻き付いたロープがずるりと海の中へと落ちていく。その様はまるでタコの足のような動きだった。
猛スピードで走りよったソロは船着き場の縁を目の前にしても足を止めず、それどころか更に勢いを増してコンクリートを蹴った。体が宙に舞い、船体から垂れ下がりまさにその端が海の中へと消えそうに鳴っているロープにしがみついた。勢いを余らせて、体が船体へとそのまま突っ込んでいく。その衝撃をうまく両足で吸収したと思ったら、そのまま猿のように手慣れた感じで船体の壁をロープを伝ってあがっていった。
船着き場からはその様を福沢が呆然とみている。上等なスーツにスマートな振る舞い。ソロはオシャレが好きで、アウトドアに興じている様などあまり連想するような男ではなかったのに。
あっという間に船に乗り込んだソロは福沢に向かって叫んだ。海風がつよく、船のエンジン音もしてきちんとは聞き取れない。しかし福沢にはかすかに、「ホテル•シーサイド焼津」と聞こえた。
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