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Act. 5
福沢漁業の朝は早い。 2週間後の調査航海を控えて、マグロ漁船は港に帰港しているが、沖合漁業は通常通り行なわれていた。
また、マグロ漁船にしても乗組員たちを休ませる必要もあったが、2週間後の調査航海のため食料や消耗品の調達や調査団の居室の準備、その他調査に必要な機器の調整を行なう必要もあり、それほどのんびりとしていられる状況ではなかった。
明け方に事務所にやってきた福沢は、眠気覚ましにコーヒーを淹れた。いつもなら綾乃の方が先に起きていて、福沢が事務所のドアを開けると同時にコーヒーの香りが漂ってくるのだが、今朝は体調がわるいらしい。福沢が事務所の二階にある寝室を後にした時には、綾乃はまだ眠っていた。昨日も何やら夜遅くまで寝付けなかったようで、目覚ましなどなくても明け方に起きて、夜中になると眠るというサイクルが体に染み付いているはずの綾乃にしては、とても珍しいことだった。ひょっとしたら体調不良なのかもしれない、と思った福沢は綾乃を起こさずに事務所に降りて来たのだった。
コーヒーを飲みつつ、パソコンを立ち上げる。そうこうしているうちに、綾乃だろうか二階から足音が降りて来た。
「ごめんなさい、あなた。」
寝坊したことに焦った様子で綾乃が事務室に入って来た。福沢がすでにコーヒーを淹れて飲んでいることに気がつき、更に申し訳なさそうに福沢をみた。そんな妻の様子に、福沢は用意していたもう一つのカップにコーヒーを注ぎ、綾乃の席にもっていく。
「体調でも悪いか?」
綾乃は席につきながら、福沢からコーヒーカップを受け取った。
「いえ、大丈夫よ。なんでもないわ。」
綾乃はそう答えながら、慌ただしく帳簿をめくって仕事を始めた。その様子は何となく落ち着きがない。いつもと違う綾乃に首をひねりつつも、福沢は、
「じゃあ、ちょっと船の方を見てくるから」
と事務所を出てすぐ前の船着き場へと向かった。
福沢が港に来てみると、なんとそこにはソロがいた。せわしなく船で準備をしている乗組員たちを、少し離れたところから眺めている。
「ソロさん。来てたんですか。おはようございます。」
沖合底引き船やマグロ漁船、その上を動き回る乗組員たちを興味深げに見ていたソロは、福沢の声に振り返って人懐っこい笑みを浮かべた。
「おはようございます。福沢さん。もう少しお伺いしたいことができましてね。」
福沢が遠くからソロに声をかけたせいか、ソロは大きな声で返事をした。明け方の海は穏やかで、風もなく、沖合漁船の上で準備をしていた乗組員たちにも、ソロがなにかしら声を出したのは聞こえただろう。
「こんな朝早くからは大変だったのではないですか。いつでも仰って下されば、お昼にでも時間をとりましたものを。」
自分たちは漁師はなれているが、そうではない人には早すぎるだろう、と福沢はソロを気遣うように言った。確かに明け方といってもまだ日が出るかでないかと言った時刻。こんな時間に普通はアポイントメントなんて取らない。
「いえ、今日は乗組員の方たちにも直接話を聞いてみたくて。朝、出港前の方が皆さんお揃いなのではないかと思いまして。」
沖合漁船で出港準備をしている乗組員たちを指してソロがいう。
「いえいえ、ソロさん。今、出港準備しているのは中型漁船の船乗りたちですよ。腐乱死体を引き上げたマグロ漁船の乗組員たちは今は順に休ませています。何人かは調査航海のための準備に出て来てくれていますけどね。でも、せっかくのんびりできる時にこんなに早くは出てこないんじゃないかな…。彼らには海に出たら休みがありませんから。」
そういわれてソロはオーバーリアクションともとれる大きな身振りで大げさに困ったフリをしてみせた。
「あちゃー。そうですか。それで、昨日の昼前にいらしゃった方々とメンツがちがうんですね。まぁ、それならそれでかまいません。せっかくなんでマグロ漁船内を見せてはいただけませんか?」
せっかく出て来たのだから何かを情報を集めて帰らなければ…と肩をすくめるソロに福沢は
「どうぞ。もちろん構いませんよ。今は誰もいないと思うので私が案内しましょう」
と言いかけて、はたと立ち止まった。
「そうだった。すごく熱心な乗組員がいましてね。機関士のインドネシア人なんですが、もう船の中のことはよく知ってましてね。彼に案内させましょう。」
ソロを引き連れ、タラップを上がり、船の入り口に入ったところで福沢は「アセプ」と機関士の名を呼んだ。
「その、アセプさん…は休暇はとらないんですか?」
「ええ、私も少しは休めと言ってるんですが、船が好きらしくて。昔から機関士として腕の立つ奴でしたが、最近特に船にいついてますよ。外に出ないといっても、陽気で人懐っこいやつなんで。うちの綾乃や他の従業員とも非常によくなじんでくれています。」
アセプという名前らしい機関士のことを福沢は気に入っているようだった。「アセプ」と声をかけながら、機関士のいそうな場所へと船内の階段を下りていく。ソロもその後に続いた。
しかし、せっかくの貴重な休暇に、どうしてまた船にずっと居座っているんだろう。これは、いきなり”ご対面”なんじゃないか…?そうソロが思案していると、やがて、階下でバタバタとした音が聞こえたかと思うと、階段を一人の男が駆け上がって来た。
「社長ー?どうしたの?なにかあったの?」
福沢の言う通り打ち解けやすい雰囲気を身にまとったアセプは、不思議そうに福沢に問うた。ニコニコと笑うその表情は見る者を安心させる。しかし、ソロはアセプの訛りや声の特徴に聞き覚えがあることを瞬時に悟った。ノイズにまみれてはいたけれど…。
「いや、アセプ、この人に船内を案内してあげてくれないか。」
福沢はそういって、体をすこし引き、ソロをアセプに紹介した。ソロはにっこり笑って手を差し出した。
「ソロ。ナポレオン・ソロです。」
アセプは、やはりどこまでも人懐っこい笑みを浮かべてソロの手を両手で握り返し、
「初めまして、ソロさん」と言った。
お互いにニコニコとした笑顔をする二人をみて、福沢社長は大いに気分をよくしたようだった。
「アセプ、この人はインターポールの人なんだ。前に腐乱したいがあがっただろう?その事で調査に来てるんだ。ソロさん、アセプにきけば船のことは何でもわかりますよ。腐乱死体を引き上げたときも、率先して処理をしてくれたのはこのアセプなんです。アセプ、しっかりとソロさんに話すんだよ。」
この二人なら、上手くやってくれるだろう。福沢はソロとアセプにそう言いおいて、「じゃあ、私は戻って仕事をしています。何か合ったら事務室に来て下さい。」と言いおいて船をあとにした。
タラップを降りて、事務所に向かう。事務所の扉の前で車のエンジン音にふと通りを眺めたら、一台の白い車が走り去るところだった。こんな朝早くに袋小路になっているこの船着き場まで車がくることなんて滅多にない。珍しいな、と思いながら事務所に入った。
さっきいれたコーヒーの香りがまだ漂っている。開いた帳簿に、打ちかけの電卓。新しく処理の終わった伝票。帳簿の数字が目に入り、あからさまな計算ミスが目に入る。細かいことに気を使える綾乃はあまりケアレスミスをしない女だった。やっぱり、体調がよくないのかもしれない、と福沢は思った。
姿の見えない綾乃に、トイレでも行ってるんだろうか、それとも薬でも飲みに二階の住居スペースにもどっているのだろうかと深くは考えなかったが、15分たっても30分たっても綾乃は戻ってこなかった。
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時をさかのぼること少し前。福沢が事務所を出て船着き場へと歩いていくのを、一人の男が見送っていた。頭からニットキャップを被って、黒い上下に身を固めている。福沢の様子をうかがい、やがて福沢がソロと話し始めた頃、福沢が出て行った事務室のドアをこっそりとあけた。
ドアが開く音がして、夫が帰って来たのかと綾乃がドアの方を振り返った。しかし、ドアの側には誰もいない。
おかしい。確かにドアがあく音を聞いたと思ったのに。
綾乃は恐る恐る立ち上がるとドアの方に向かって声をなげかけた。
「誰かいるの?…あなた?」
返事はない。
「…もしかして、アセプ…?」
そう言うが早いか、後ろから抱きかかえられ、すぐさま口を手で塞がれた。とっさのことで抵抗する余裕もない。驚きと恐怖で目を見張りながら横目で自分の顔のすぐ真横にある襲撃者をのぞき見る。一瞬合った目は蒼いように思えた。その時、綾乃の体を抱きかかえる腕に力が入り、襲撃者がぐっと綾の顔を自分の顔の方へと寄せ、耳元でささやいた。
「乱暴なことしてごめんね。君を助けたいんだ、アヤノ」
口を塞ぐ手が微かに動いたかと思ったが、綾乃の意識は急速に薄れていった。
男は綾乃を抱きかかえると身を屈めて事務所を後にした。顔をあげて船の方をみると、福沢がちょうどタラップへと足をかけたところだった。低姿勢のまま綾乃を連れ、通りに泊めてある白い車へと乗り込んだ。福沢が事務所の前に到達した時、車は静かに走り出した。
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アセプと二人で残されたソロは機嫌良く下船していく福沢の背中を見送った。ふとソロの視界の片隅で、ソロの右手を包むアセプの両手のうちの片方がそっと離れていったのが見えた。
その瞬間、ソロは握られた右手はそのままに、半歩下がって体を後ろへひねった。間髪を入れずに今の今までソロがいた場所を一発の弾丸が通りすぎていく。
ガチャン!と大きな音をたてて空を突っ切った弾丸は壁に備え付けられた電灯を割った。
逃すものかと二発目を撃とうと銃を持つ右手に力を入れようとしたその瞬間、ソロの右手を握っていたはずの左手をひっぱられ、アセプは体勢を崩した。こめかみに冷たい感覚を受けて、そのまま動きを止めるしかなかった。
ソロは左手でもった銃をアセプのこめかみに押し当てて、のんびりとした口調で言った。
「おたく、物騒だよねぇ。動くとズドンといくからね、動いちゃダメよ。」
アセプは微動だにしなかったが、なんとかこの状況を打開できないものかと全身でソロの隙をうかがっていた。しかし、UNCLEきっての凄腕であるソロがどんなにのんびりした声を出していようと、こんな状況でその動きには無駄も隙もあろうはずがなかった。
「で?おたくはどうして僕を撃って来たの?」
ソロはいつのまにか握られていた手を掴み返して引き寄せ、アセプの体の主導権を握っている。値踏みするように頭の先から足の先までを眺めた。
「…。」
「…ま、だんまりだよね。下手なことをしゃべっちゃうと、上の人におこられちゃうかな、つぐみの集団では。」
”つぐみ”をやんわり強調してアセプの顔色をうかがった。今回のような事件を起こすのはまずスラッシュだと思っていたし、何より、調べに来たとはいえ、まだどの程度探っているのかもわからないインターポールをいきなり撃つなんて考えられない。撃って来たということから考えて答えは一つ。相手はきっと自分を知っている。自分を知っている組織となれば、やはりこいつはスラッシュなのだ。
”スラッシュでしょ?”と暗に聞かれてもアセプは顔色を変えるようなことはなかった。黙りこくるアセプにソロが更に銃口を押し当て、次の質問をしようとしたとき、船の入り口の方から足音が聞こえて来た。タラップをそのまま登ってくる。そのとたんアセプは、右手に持っていた銃を手放し、
「旦那、何するんだ、助けてくれ!」
と大きな声で叫んだ。慌てたソロがアセプの口を塞ごうとするが、その声は船の外の人に聞こえてしまったらしい。何事かとタラップを駆け上がる音が速いリズムを刻むようになった。あっという間に、「どうかしましたか?」という声が外から聞こえてくる。驚いたことに、声の主はヒマリだった。調査の準備のために、来たのかもしれない。
ヒマリに銃を持った姿を見られるわけにいかない!
ソロはあわててアセプを引き連れて、物陰に隠れようとしたが、ここで思わぬ動きをしたのはアセプだった。
アセプを引きずり移動しようと体を引いたソロに向かって、足下に落としたはずの銃を素早く拾い、撃って来たのだ。銃の発砲音が船内にこだまし、身を翻して弾丸をよけようとしたソロの左肩の前を弾がかすめて飛んでいき、ソロのスーツに一筋のこげ後を作った。通りすぎた弾がカーン!と甲高い音をたてて船内の壁で跳ね返るよりも速く、ソロの銃が火を噴いた。
それは、続けざまに第二発目を撃とうとしたアセプの銃をはじき、はねとばされた銃が船の入り口の方へと飛んでいった。
そこに、タラップを駆け上がって来たヒマリが姿を見せた。はじき飛ばされたアセプの銃は、ちょうどヒマリの足下へと落下した。
足下の銃、手をかばうアセプ、その奥に銃を構えたソロ。ヒマリが目の前の光景に目を見張り絶句したところへ、手をかばうアセプとソロが叫んだのは同時だった。
「ソロを殺せ!」
「ヒマリ、僕はインターポールなんだ!」
ソロは素早く構えた銃をおろし、ついで両手をぱっと上げてみせた。
ヒマリは入り口から入ってこようとせず、顔をひきつらせたまま、その光景を見ていた。ソロが銃を構えるのをやめたのが大きかったのかもしれない。そろそろと足下の銃を拾い、両手で銃口を下に向けながら抱えた。
「ヒマリ、大丈夫だよ。」
相変わらず銃を持った右手も、そうでない左手も上に上げたままのソロは、ヒマリにやさしく声をかける。
と、そのとたん、ヒマリを振り返っていたアセプがソロに躍りかかって来た。とっさのことでもみ合いになる。銃を持ったソロの右手にアセプはつかみかかった。そんな時にふとソロの頭にはイリヤが昔された日本の柔術の話がよぎった。押し寄せるアセプの勢いを利用して、ソロはアセプを投げ飛ばした。
アセプを押さえ込んだソロは、入り口に立ち尽くすヒマリに、極上の笑みを投げかけ「ヒマリ、説明するからちょっと待ってね」と言った。
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ソロはアセプから凶器をとりあげ一通りの身体検査をしたあと、UNCLE特製の手錠で拘束して睡眠薬を打った。万一のことを考えれば寝てもらっていた方がこの後の仕事が楽だろう。気を失ったアセプを船内の一室に軟禁し、身繕いを整えたソロは、船内のカフェスペースでヒマリに向き合っていた。ヒマリが抱えていたアセプの銃を受け取り、自分はインターポールであること、腐乱死体について調べていることを語った。偽の名詞を見せて環境ジャーナリストだと語ったことを丁寧に詫びる。
ヒマリはしばらくだまって聞いていたが、やがて
「わかった。そんな大変なお仕事をしてる人だったのね。ソロさんは」
と言った。どうやらインターポールだという話を飲み込んでくれたらしい。ついでヒマリはソロに少し怯えたような視線を向けつつ尋ねた。
「さっきのアセプさんは、どうしてソロさんを撃って来たの?その腐乱死体の事件の関係者なのかしら…?」
それにしてもいきなり撃ってくるなんてのはどうしてなのかしら、と首を傾げるヒマリに、ソロは静かに首を振りながら
「それは、わからないんだ。とにかく、彼が何かしら、腐乱死体の事件に関係していることは確かだね」
と答えた。
ヒマリに全てを話してもいいのかもしれない。しかし、アセプの行動を通じてこの件にスラッシュが噛んでいるということに確信を抱いたソロは、誰かに自分の身分を明かすことはその相手を事件に巻き込んでしまう可能性を高めることだと考えた。
「でも…、ソロさん。そうだとすると、二週間後の調査はどうなるのかしら。福沢社長もこの事件に関わりがあるの?この船はこれからインターポールの指揮下で現場検証なんかが行なわれるのかしら…?」
腐乱死体の事件、と言ったところで、死体があがっただけならばインターポールが出てくるほどの事件にもなりそうにもない。裏に何か大きなことでもあるんだろうかと考えたのかヒマリは事件が二週間後の調査に与える影響について気になったようだった。
思ったよりも、事件に関することからはなれないヒマリにソロは優しく微笑みかけた。
「大丈夫だよ、ヒマリ。確かに今回アセプが捜査線上にあがり、僕を殺そうとしたことで少し事件は複雑になったけれど、もともとそれほど大きな事件じゃないんだ。それに現馬検証自体は実際に腐乱死体が引き上げられた直後に一度入ってる。だからヒマリが心配することは何もないんだよ。だから、調査に向けてしっかり準備するといい。」
すでに銃を近くで見たショックから覚めたとはいえ、未だに少し動転しているヒマリの顔をソロはそっとやさしくなで、顔を覗き込んでもう一度微笑んだ。
「さ、ヒマリ。僕はアセプを連れて行かなきゃ行けない。一度、福沢社長に話をしてくるね。アセプは動けないはずだけどあの部屋に近寄っちゃダメだよ。」
「ええ。わかってるわ。でも…アセプさんが悪い人だったなんて…。昨日からだけど、彼とてもいい人で今回の私の準備の手伝いもとても快く引き受けてくれたのよ…。」
アセプの社交性はソロも福沢の態度から感じていた。おそらく他の乗組員からも慕われているはずだ。
ソロはヒマリが変な同情心や好奇心を持ったないよう、しっかりと目を見つめてからゆっくりと言った。
「ヒマリ、それが彼らの手口なんだよ。危ないことは僕に任せて。そのために来たんだから。君はしっかりと自分の仕事をしたらいいからね。」
社交性や人に与える印象の良さではソロはそうそう誰にもひけをとらない。ソロの女に限らず男まで落とすと言われている、この人懐っこい笑みに、ヒマリも安心したような表情をしてソロの言葉に頷いた。
調査用物資の確認にきたヒマリを貨物室まで送り届けた後、ソロは福沢がいるはずの事務所へと向かった。
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