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ねじれた境界線 作者:苑
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好きだなんて

「あっ、これが可愛いですよ」
 偶然の再会から三日。
 結局、従姉妹の誕生日に渡すプレゼントを決めることができなかった僕は、遥香に意見を仰ごうと買い物に誘った。いつぶりだろうか……というほどに緊張してメールの文章を考えたのに、ふたつ返事で同伴の許可が出たのだった。どうも拍子抜けして、携帯電話の画面をしばし見つめたほどである。
「……ブローチ?」
 最近に遥香と接触することを避けねばと決意したばかりだと、どうにも情けなくいやに思ったが、こういった事態に頼れる友人のなくなった僕は、ついに交流の機会をこちらから設けてしまったのだ。一度も二度も変わらない、といって自分を無理に納得させたことには、目を瞑ろう。
 駅で待ち合わせ、百貨店を付かず離れずの距離でならんで歩きまわった。
「この色……山吹っていうんでしたっけ? 黄色がお好きなら、きっと喜ばれます」
 なるほど、と手にとって眺めてみる。思いのほか繊細なそれに、慎重に触れる。なんの花をモチーフにしているのかわからなかったが、銀の糸をところどころに使用しているらしく、華やかな印象だった。
「こういうものはカバンにも着けられるし、これなら普段から使えますよ。もちろん、改まった場でも。……どうでしょう?」
「ああ、きっと喜ぶだろう。これにしよう」
 目を合わせると、遥香はふんわりと笑った。
 彼女のおかげですんなりとプレゼントは決まり、やはり女性の視点は重要であるとあらためて感心した。プレゼント用にラッピングしてもらうと、一日付き合ってくれた礼を兼ねて、屋上にあるカフェで一休みすることにした。歩き回っているうちに見つけた独創的な商品などについて語り、笑い合った。
「ねえ、亮さん」
 会話が途切れ、互いに飲み物に口をつけ味わっていると、ふいに瞳を輝かせて遥香が名を呼んだ。自然に目を見つめ、続きを待つ。
「亮さんは海外旅行って、よくなさるんですか?」
 あまりの唐突さに、数瞬間彼女の黒い瞳を覗き込んだ。が、ただ関心があって尋ねたいだけのようで、僕を見つめる彼女は相変わらず真っ直ぐな目をしていた。こういった唐突さも、なんだか素敵のように感じられた。
「亮さんの作品には、世界の様々な地域が登場するじゃないですか。きっと書く前には訪れているんでしょうけれど、度々行かれるのか、気になりまして」
「そうですね、このところはあまり行っていないでしょう。しかし、まあ多いときは、一年のうちに何度も飛びましたね」
「どの国が印象に残ってます?」
 このような尋ね方は、単純に会話の上手い人ならば続くものだが、この女性はきっと、そうではない。本人が気づいているかどうかは定かでないが、僕自身に少なからず関心を持ってくださっているためだろう。ふっと心の素直な部分が軽くなる。
 本当に、不思議な力を持った女性だ。
「印象か、それならばイギリスだろうか」
「イギリス、ですか」
「特には、ストラトフォード=アポン=エイボンだね、シェイクスピアの眠る地だ。二つ三つの作品に登場させたことのある場所なのだが、それほどに好んでいる。ホーリー・トリニティ教会は見事だったよ。ステンドグラスがふんだんに使われていて」
「シェイクスピアが、妻のアン=ハサウェイとともに眠る教会ですよね、わ、素敵です」
 にこにこと機嫌よく話す遥香に、このとき僕は変な屈託を忘れていた。ただ純粋に、彼女との時間を楽しんでいたのだ。
「あなたは。どこか行きたい国などありますか」
 そう尋ねると、ふと口元に手を当てて考え込む。飲み物に口をつけ待っていると、少しして目線はやや伏せがちのまま、顔だけを上げた。
「パリへは、行ったことがありますか?」
 多少回答がずれてはいるものの、きっとフランスへ行きたいのだと推測してみる。
「ええ、ありますよ」
「それはいいですね。たくさん訪れたのですか」
「それなりには、多いでしょう。幼少の頃、向こうに住まわっていたんです。居心地も良いし、知り合いもありますから」
 そのとき、遥香の表情がうっとりと輝いた。目を細めて遠くを眺める、適度に潤んできらりと光る瞳、自然に緩んだ口元、それから、うす桃色に染まった頰。
「フランスに住むなんて……憧れです。言葉はわからないんです、けれど、おしゃれの街でしょう、女性の憧れですよ」
「きっとそうでしょう。旅行かなにか、訪れた経験はおありでしょうか」
「いいえ、一度だってないんです。海外だって、母の友人の結婚式へついて行ったときの一回しかなくって。最も訪れたいのが、フランス、パリなんです。旅行の雑誌なんかを読んで、勝手に行ったような気分に浸るほどですよ。行ってみたいなあ。……あっ、そうだ」
 雑誌を広げて空想を膨らませる遥香を想像し、ふと息を漏らし笑った。理由もなく特別な興味をもつほど綺麗で、同じ人間とは思えないようなこの存在が、夢の世界へ旅立つのだ。なんと可愛らしいことだろう。
 鞄をゴソゴソと探る姿を見つめ、興味が大きくなる。これまでに出逢ったことのない性格の女性で、どうにも目をそらせなかった。面白い女性、もっと知ってみたい。ただそれだけだった。
「亮さん、亮さん。この本、知ってます?」
 そう興奮気味に言って差し出した携帯電話の画面にあったのは、予想外だった。
 大きく鼓動した僕の意識は、次の瞬間にはそのなりを潜めた。思考も、瞬きも、呼吸も、突如として時の流れを忘れる。
「あの……亮さん?」
 とっさに動かなくなった僕に、不思議がるような声がかけられる。ちらちらと表情を覗き、反応を窺っている。僕は、まったく自分だけの世界であれこれと悩む心に、一体どうしたものかとばかり脳ははたらいて、身動きがとれなかった。
「やっぱり、ご存知ないですか?」
 寂しそうに眉根を寄せるのが視野に入るのと、ほぼ時を同じくして小さく首を振っていた。なぜ正直に答えたのか、自分でもわからなかったが、知っている、なんてところの話ではないのだ。
「え、知っていますか? わ、嬉しい……大好きなんです、この物語。マイナーですけれどね、すごく、胸に響くといいますか。純文学らしい、文章もきれいで、なんというか心地よいんです」
 そう、と生返事だけの僕にはまったく気づかず「それ」を絶賛する彼女。中盤の退屈になりそうなシーンも熱中したとか、素直な文章ですっきりと描かれている点が想像をかき立てられて感情移入できるだとか、純粋な遥香らしい素敵な感想を頭の半分で聞く。
 同時に、僕はその本を、知っているなんてほどの話じゃない。それを書いたのは、確かに自分なのだから。そう、心の中で強く叫んだ。頭蓋のなかで繰り返し反響するほど。
「この作者さん、隣先生も、すごく好きで、なんと言えばいいか……価値観とか考え方とか、なんとなく作品中に表れている気がして。読んで物語を楽しんでいるだけなのに、作り手と一心同体になったような、そんな気がするんです……って、おこがましいですけれども」
 ふふ、と遥香が笑った。はっとした。
 僕は「隣」として作品を書いていた過去を、憎んできた。若気の至りとしか言いようのないどうしようもない作品を作ることに熱中していたあの頃。ただ衝動のままに物語を描いていただけの青二才。もう二度と、あんな甘えた過去は振り返るまいと、名を変え、品も変え、新たな自己で作品を書くようになった。
 それが「亮」という作家の誕生だった。
 読者が求めるもの、それだけを求め、本当のやりたいことを偽り、偽っていることすら自分でも忘れ……現在がある。いや、「今」の自分こそが真の自分であると信じ込んでしまって疑わないのだ。
 それだのに、君はそれを、そんな「過去」の僕を、好きだと言うのか。
 一向に信じられない気持ちでいた。どんな味付けを施してみたって、どんなに噛み砕いてみたって、嚥下できない、そんな気分だった。飲み込めばきっと、アレルギーよりも激しい応答が身体から起こりそうだった。
 それから……いったいどんな話をしたかは記憶していない。適当に相づちを打っているうちに、時間は過ぎ、西の空地平線に融けかける陽のまばゆさに僕たちは包まれていた。これ以上遅くまで女性を引き止めてはおけない。駅近くの駐車場に停めてあった車に乗せて、遥香を家まで送り届けた、と思う。
 ぼんやりとしたまま、いつものように、決まりきった動線をなぞるように、シャワーを浴びると髪を適当に乾かし、仕事机の前に進む。真っさらに積み重なった原稿用紙、手に馴染んだ万年筆。物語の続きを思い出そうとしてそのまま、原稿用紙を、頭の中をまるっきり投影したようなそれを、睨んだ。無情にも時は留まらず、やがて全身を襲ってきた眠気とともに、寝台へ向かった。
 それからだ。
 筆がまったく進まない。どう足掻いてみても、一向に進まないのだ。見慣れたはずのこの手が、まるで他人のものにすり替わったかのように動かず、ほんの少し集中すれば意識の中に溢れて折り重なるはずの言葉も、居所を失ったかのように彷徨い歩き、忽然と姿を消した。
 手探りに求めてみても、どこにもなかった。僕が書くべき言葉が、まるで見当たらないのだ。影すら、痕跡すら、見つからない。

 もう、忘れたものと思っていた。

 自分にとってあれは過去だと、つまり、過ぎ去ったものだと、そう、認識していた。遠い時間に棄て去り、思い出すことを忘れた、馬鹿げたむかし話。一生を拾い上げないまま終えるつもりだった。それが……たった一言だ。
 過去の自分を好いている。
 ただそれだけの事実が、胸に重くのしかかり、僕の思考の最優先に立ち、そうして自分というものを見失わせた。なぜだろう。答えのないそんな問いを、愚かにも繰り返していた。
 目蓋の裏には、嬉しそうに「隣」について語る遥香の笑顔があった。よほど好きなのだろう、ガラス玉など霞むような輝きで、どんな宝石よりも儚く美しい、瞳をしていた。きらきらと僕の視界いっぱいに広がる。
 貧血のように怠く軋んだ頭を振ってみる。それでも僕の脳と心を支配した思考は、僕の意識の中に留まった。背を向ければ肩に手をかけて、さあ構えとでもいうように重さをかけてくる。しかし、なけなしの勇気でもって直視すると、まるで僕を嘲笑うかのように周囲をぐるぐると動き回って、到底捕まらない。気力は部屋の隅に座した。もう一度ブンと頭を振る。
 「今」を信じていた。それは過ちだと、もう一人の自分がどこか遠くから叫ぶ。さあ気づいただろう、正すときが来たのだぞと、しっかりと座りこんで置きものと化した隅の僕へと語りかける。しかし、自らの力のみでこの現実を受け容れるには、偽ってきたものが、時が、膨大すぎたのだ。今さらになって、そんな当たり前に気づかされたのだ。
 もう、無理だ。
 これ以上、なにをすればよいのか。こんな状態の僕に、一体なにができようか。意識の外にある元来の自分を引き戻せないまま、何事を為せるというのか。
 決意に似た何かを背負い、ペンを置く。携帯電話を手に取ると、顔を上げ勢いよく立ち上がる。身体がわずかに軽いのには、気づかぬふりをした。

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