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ねじれた境界線 作者:苑
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偶然と

 心の軽いまま、数週間の時が流れた。
 彼女に出逢ったあの夜から、目に映る世界がどこかクリアになったような感覚だった。それは普段、意識しないほどのかすかな変化であったが、胸に手を当てると、奥ゆかしいような実感が、しかしながら確かに沸くのだ。
 そんな心中とまったくよく似た清々しい陽気。半日をのんびりと過ごし、午後になって新作の構想を練るのにヒントを集めようと、外を出歩くことにした。
「あ……」
 それは運命を思った瞬間。
 目と目が合った途端、今度こそ確かな感覚として、この胸の深くに佇う心に視認されぬ蜘蛛の糸がかかった。
 街中にいて目立たない、ごく一般的な洋服に身を包みながらも、出会いの夜と同じたぐいの輝きやきらめきを振りまいていた。それは何気ない今日に、七色の光以上をもたらした。
 人通りもそこそこある広い歩道で、はたと目が合ったのだ。次の瞬間、考えるよりも先に足は彼女の方へと向いていた。
「また、お会いしましたね」
 挨拶に対し小さく会釈するひかえめな笑顔は、人見知りのこわばりを、ほんの少し隠しきれないままに称えていた。自信に満ちた女性に出会うことの多かった僕にとって、そのような表情はとても新鮮で、人間らしいと、ぼんやり思った。そういったところが興味に繋がり、そして僕の好みだったのだろう。
「お出かけですか。……買い物かな」
 小さなビニル袋を抱えているのを見つけ、付け足して言う。たとえ刹那ほどの時間でも、そのきらめきをこの目に留めておきたかった。
「ええ、そんなところで。これから帰るんです」
「では、ご自宅までお送りしましょう。荷物など、重たいでしょう」
「そんな、この程度何ということはありませんよ。大丈夫、間に合ってるんです」
 ちょっとだけ不器用にはにかんだ表情は、どうやら嬉しそうだ。可能性を感じさせる貴女は、小悪魔なのだろうか?
「ご遠慮なさらず、ちょうど暇なんですよ。さあ、道はどっちですか」
「……お願いしてもよろしいですか、こちらです」
 そうして僕は、関心の隣にならぶ権利を手にした。遥香の手から見た目の二倍も重い荷物を奪うと、微妙な距離をおいて歩き出す。ほんの少し指を伸ばせば、彼女というきらめきにも触れられよう。しかしそうするだけの口実はどこにもなかった。仕様がないので、ただもどかしく思いながら歩く。
 話題を見つけて声をかけようと口を開いたところで、数瞬早く向こうが声を発した。
「今日は、どうなさったんです」
 ぽつり、と口の先の方だけで問いかけるその声に警戒は見あたらない。ただ二度目の逢瀬にしては不自然なほど、自然体にちかいやわらかな耳心地。罪を知らぬ方だ、と率直に思った。
 僕は、どうということはなく、出歩いていただけである。ちょっとした気分転換と言いますか、発見をしに出かけたところです。
 隠すほどのことではなく応えると、怪訝そうに目を動かした。
「生業がね、ネタを探さねばならないでしょう。思いつくキッカケ探しですよ」
 そう、軽く説明を加えると、あっと目を開く彼女。
「亮さんというのは、あの、有名である作家の先生でいらっしゃいましたか。失礼いたしました、気づきませんで」
 こちらから説明せずとも気づく人の多いために、まともな自己紹介をしていなかったと、このときようやく気づいて、急いで肯定の返事をする。
 そうだ、僕の本で写真を見るか何かしなければ、気づこうはずもなかろう。それだのに丁寧に頭まで下げる姿に、ふと笑みがもれる。意識の外で、どういうわけか、頬をゆるませていた。こんなことはこれまでの日々で一度さえなく、なんだかこそばゆく感じるひとつの灯りが、胸の奥のほうにちらついた。温度のある灯りだった。
「僕自身はどうだっていい、貴女に興味があるんです。趣味などございますか」
 少しでも遥香のことを知って近づこうという魂胆があからさまだが、この女性はどうやら気づいていない様子だ。まったく、どんな子ども時代を過ごしてきたのだろうかと心配をしてしまう。
「趣味ですか、仕事が趣味のようなもので」
「へえ、何をなさってるんです」
「とある雑誌の、編集をしております。小さな会社ですから、資格を持っている私が、校正なんかもたまにはしますけれど」
「それは素晴らしい。職業が近いですね」
「ええ、嬉しいことです。今度ぜひ、亮さんの小説を載せたいですね。……あっ、お忙しいのだから、難しいですよね、すみません」
 ややしょんぼりとして視線を落とす横顔に、愛らしさがにじむ。遥香の願いであれば、喜び勇んで執筆に取り組むだろうに。僕が興味を持っているのは、君なのだから。
「書いてもいいですよ、一つや二つ、貴女からの頼みであればね」
「本当ですか? そんな、ついこの前知り合ったばかりだのに。お断りしている依頼も多いことでしょう、悪いですよ」
「いいんです、僕の独断ですから、他社の担当も説き伏せてみせます」
 そんなことをしてしまって、怒られますよ。愉快そうな口調に、カラフルの笑顔が重なった。カラフルは僕の内部、奥底まで踊り入ってきた。妙に浮きたつ意識で笑い声を返す。
「ここです、この小さいアパート。着きました」
 白く外壁を塗られた二階建てが、そこにはあった。夕暮れ色を反射するシンプルな外観を、しばし眺めた。
「本当に、今日は、お会いできて嬉しかったです」
 すっかり人見知りも警戒も忘れた彼女の、お茶でも、との誘いはきっぱりと断り、それでも申し訳なさげの彼女に、連絡先の交換を申し出ると、快く応じてくれた。
 純粋なのもよいが、危機感を持てるようにと、勝手に家の前までついて来て、さらには連絡先までもらっておいて、そのことは忘れたのかというようなお節介をかけると、背を向けた。不思議そうに首を傾けた彼女は、曲がり角に消えるまで見送ってくれる。背中に夕陽と彼女の視線があたたかかった。
 世界が朱く染まるころ。
 彼女を思いながらさっきまでを戻る道は、いつもと変わらない無機質な道路。往路のときの多彩な色にあふれた時間、それに違和感を覚えたのは、偶然か。
 しかし、ちょっとくらいは近しくなれただろう。そのことが無性に喜ばしく、素晴らしいことに思えた。自然と歩く足が速まる。
 だが、終わりにはすっかり心を許してくださった彼女であったが……どうにも僕自身からは距離を縮められている様子がない。まだまだ親しくないのだと言ってしまえばそれまでかと試みたが、それとはあからさまに違う。なにやら、彼女と僕の間には決定的な差があり、くっきりと境界が引かれているに相違ない。
 そう思うと、腑に落ちた。
 彼女は昼間の太陽……そんな印象だ。きらめき、輝き、それから明るさを振りまく、まぶしいひと。あたりをあたたかく照らしている。
 だけれど、黒い影に隠れ、汚れ染まってしまった僕に、歩み寄ってくれようと努めているのだ。それは、実は異次元にでも飛び込むような勇気だが、彼女はそれに気づいていない。こちらから押しとどめねば、純粋無垢、無知の彼女という光を、これから僕はこの手でけがしてしまう。これ以上距離が縮まってはいけないのだ。
 今日の逢瀬で、またさらに関心が高まった。しかしそれを忘れよう。さらに彼女を知る前の今なら、何も傷つけずに離れられよう。
 このとき、僕と彼女との間に引かれた境界線は、すでにねじくれ始めていたのだ。
 なるほど、と納得して、さらに足を速めた。
 羽毛のような胸の内と重力を忘れた足どりで、橙がかった陽の落とす影をずるずると引きずる。コンクリートの道は、ごつごつと尖っていた。
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