挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ねじれた境界線 作者:苑
1/4

出逢い

ピンクゴールドの上品な煌めきを放つシャンパンを不慣れな手つきで受け取ると、そろりと辺りを見渡す。
その瞳には隠しきれぬ悦びと、隠そうという意志すら見当たらない興奮と、初めてにたいするときの恐れと、すべてが几帳面に表現され、グラスのなかふわりと揺れるピンクゴールドの輝きよりも、なによりもまぶしく映った。
そこそこ名の知れた出版社の会長就任パーティーは、その一瞬にガラリと雰囲気を変えた。



今宵のパーティーを催している会社というのは、駆け出しでまったく僕の小説が売れなかった頃世話になった出版社で、知り合いが社長を務めている。どうにか名前が売れるようになった今でも、ときおり執筆依頼が来て、過去の恩からその度に快く引き受けている。友人のよしみという部分も、もちろんあるが。
今回も、社長の知人として、それから出版社を代表する作家として、パーティーに参加していた。世に知られるようになった数年前から何度も経験したせいで、こういった類いの催し物にはやや慣れてきている。だが、どうしたって退屈な建前の会話が溢れる場所で、どこか息苦しい。
今日も何一つ変わらない、退屈な夜は更けていくのだ。そう思ったとき「それ」に出逢うのだ。
意図せず、全身がその存在を追いかけていた。
人々の合間を、ぎこちなく縫って進んでゆく後ろ姿は、よく見ると華奢だった。普段、女性に関心を示すことのない僕だが、気がつけば彼女の背中を追いかけていた。
「まあ、先生。やはりいらしていたのですね」
タイミング悪く、どなたかの奥方から声をかけられた。密かに嘆息をついて振り返る。まったく、先ほど暇をしているときに見つけていただけたならよかったのに。
「これは、ご夫人。先日は素敵なお土産をありがとうございました」
「いいえ、いいえ、先生には主人ともども、お世話になっておりますから」
「銀婚式でしたね、誠におめでたいことだ」
「ふふふ、ありがとうございます」
それから、さらに長ったらしい話をはじめようと息を吸い直すご夫人に、失礼、と簡単に断りを入れると、僕の目は再び、これまでに直面したことのない華奢な輝きを追った。
一歩ずつ、柔らかな絨毯の感触を確かめながら人ごみに紛れてゆく影をたどると、なおも輝きを失わず、かえって振りまく姿。
幸せの女神を彷彿させる、一人の女性。そこへ視線を吸い寄せられたまま、無心に彼女を追いかけていた
これという理由もなく、ただ目を離せない……所作が危なげに映るからであろうか?
しかしそれだけとは到底思えない引力。どうしてだろうか、と薄ぼんやりとした頭に疑問を抱いたところで、吸い寄せた視線と関心を決して離してはくれない……目に映らないために自覚されぬ、しかし何者にも振り解けぬ強固な束縛。蜘蛛の糸にかかってしまった蝶のごとくその空間にゆるやかに繋ぎとめられ、やんわりと自由をこの手から奪われ……それでいて、心安らかな気分なのだ。
何も考えず、ただ彼女という明かりを追う。彼女は人々の合間をふわりと舞う。その、ややぎこちないふるまいにさえ、気がつけば熱中していた……
女性は会場の隅の方へ向かっていた。
そこは、人の波が届かない防波堤の上だ。探しもののために静かに中央を見渡せば、目当てのものが澄みきった水面下に映る。挨拶まわりが済んだことを確認するのに、もってこいの場所と認識している。
そんなことを知ってか知らずか、彼女は、最も見晴らしの良い位置にぴたりと足を止めた。あっと感心の声を呑みながら半ば無意識に近寄ると、心臓にまで蜘蛛の糸が絡まるのを自覚した。――緊張。そう言ってしまえば早いかもしれない。しかしそれとは明らかに毛色の違う「感情」が、確かにこの胸には沸いていた。その正体は暴くまでもない「興味」だが、こんなにも高揚した気分は一体いつぶりかというほどで、歓喜してもいた。
さりげなく、輝きのとなりに身を寄せ、同じ中央を向いてみる。むっとした空気の向こうに、雑多の音が遊んでいた。
「今夜はまた、あついですね」
桃色に様変わりした彼女の頰に、さりげなく声をかければ、黒い瞳を揺らした。意図せぬ僅かな所作ひとつひとつに、なおも心はがんじがらめだ。
す、と湿った生温かい空気を吸い込む。
「こういった場は、何度来たって慣れるものではありません」
振る舞いから、きっとこういうパーティーに慣れていないだろう女性の緊張と警戒を僅かでも和らげようと、ため息まじりの声を出す。
実際、秩序の見あたらない人々の波を眺めるだけで眩暈がおこり、酔いそうである。片手に見栄えのためと持っていた、すっかり温くなったシャンパンで唇を湿らせたところで、不快な気分は一向にすぐれない。閉め切った空間に溢れ返る無秩序な音の向こうに、単調なクラシックが、時おり浮かんではまた沈んでゆく。
「いつも、こうなのです」
独り言つつもりでもぞもぞと口先を動かしたが、器用にも隣の彼女はこの声を拾ったらしい。
「……退屈そうな目、ですね」
今にも消え入りそうにか細い声は、しかしながら凛として僕の耳元まで届き、周りのどんな音よりも確かに聞こえた。
少しか、関心をもっていただけたのだろうか。
「さようですか」
ぼんやりと訊き返すと、彼女は静かに首肯した。
「なぜです」
彼女への「興味」はますますふくらみ、とっさに問いかけてみた。
ふっと目を伏せると、長いまつ毛が惑うように揺れる。一切の動きを視野の隅におさめながら、意識は完全に周囲というものを忘れていた。「興味」が「魅力」に変化しつつあった。
「帰りたい、とみえました」
「顔に書かれていましたか」
笑いまじりの僕に、真剣な顔つきでもってその女性は応える。
「本当に、ですよ。それよりも、別にしたいことがあるようです」
「それはまた……よくわかりましたね」
「わかりますよ。意識が、パーティーではないどこかへお出かけしているようでしたから」
それが貴女自身だと、僕はどうにか言わずにとどめた。初対面にしての軽々しい発言は、人と人との出会いを台無しにしてしまう。
どこか特別なにおいのするこの出会いに、僕はやや慎重になっていたのだろう。女性の扱いは苦手ではないが、そこそこにあしらおうというつもりの起こらないのは、まことに珍しいことであった。
「ばれてしまいましたね。お恥ずかしい」
「いいえ、何度もこういった場を経験している方では、そのように感じるのかもしれませんね。私にとっては、なにもかもが新鮮で、まぶしく見えて。浮かれていない風を装うので、精一杯です」
素直な女性だ、と率直に思った。嘘のつけないひと、光の中をずっと歩いてきた人生……そういうものを予感する。美しさの中に生きてきた、そんな女の人だ。だから、彼女をひと目みたとき、心ごと絡め取られたのだろう。
中途半端に汚れた存在は、救いを求めるという。この場において、彼女は僕にとっての救いなのだろう。彼女に夢中になっている傍で、なんとなくそんなことを考える。
距離を縮めたいか。
試しに手を伸ばし、触れてみようか。
彼女はまったくの未知だ。少し、知ることくらいは許されよう。
「……お名前は。僕は、亮と申します」
二度と逢うことはないだろう。そう思いながら、せめて聞いておきたいと、訊ねてみた。トクッと心臓の脈打つのを意識した。じわりと手と足の先が冷えてゆき、背すじには言い知れぬぬめりのようなものが伝った。冷たく熱い、粘度のある何かが。
ドクッともう一度心臓が鳴る。一切の音が耳元から消え、彼女以外のものが認識されず、脳みそがかき混ぜられたかのように、まるで混乱していた。
「――遥香、です」
瞬間、ふわっ、と風が吹き込んだ。春の風だ。あたたかな、太陽のにおいを乗せた、いきものを眠りから優しく起こしてくれる、穏やかさ。やわらかく巻き起こると、いっせいに僕を包みこんで、青空へと舞い上がらせる。
とりたてて美しいひとではなかった。溢れるほどの自信をそなえているわけでも、洗練された身のこなしを披露するわけでもない、一見特徴というものがなかった、どこかにいる女性、ただ、視線を奪われたぎり、どうもそらせなくなっていたのだ。

+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ