ぼくはよくこのブログで「フィクションとリアリティは相反しない」とよく書いているけれど、それに関してのぼくの考えは、以下で引用する。
……決闘のあとで、ほんとうは無関係な俺たちがこうやってのこって、夕陽に照らされて、血があざやかにひろがって、愚鈍なあんたにはわからないかもしれないけれど、いま俺たちは俺たちにとってとくべつな時間のないにいるんだよ、あんたはこのとくべつな時間を俺たちじゃなくて真山やほかのにんげんとすごしたかったかもしれないけれど、それは俺だっていっしょなんだ、でも、それはどうしようもないんだ、こういう状況なんて偶然でしかない、偶然いっしょにいるのが俺とあんたで、偶然その俺たちにとくべつな時間がおとずれたんだ、いま俺たちに降りそそいでいるのは俺たちがいままで生きていたなかでぜったいに話せなかったことを話せたりぜったいに感じられなかったことを感じられたりするとくべつな時間なんだよ、だから、たとえあんたが傷ついたり俺が傷ついたりしても、俺たちがそういうやりかたしか選べなかったとしても、なにがなんでもなにかを話さなくちゃいけないんだよ。
桜井晴也,「世界泥棒」
リアルというのは、ふだんのぼくらの生活とフィクション作品とのあいだで区別して定義されるべきものなのだろうか。両者がもしも区別されるべきものなのであれば、本を読んだり映像作品を見たりするという「行為」はいったいなにを意味することになるのか。小説「世界泥棒」で描かれる世界は、ぼくらが生きるこの地球とは月の数がちがうし、放課後には他愛のない認識のちがいを統一するための命をかけた決闘が行われ、戦場までバスで行くことができる。このシチュエーションを、ぼくらの常識ではリアルだなんて呼ぶことはできない。しかし、この状況下でなされる思考や議論のすべてまではたしてリアルではないといえるのか、つまり、「いままで生きていたなかでぜったいに話せなかったことを話せたりぜったいに感じられなかったことを感じられたりするとくべつな時間」について、ぼくらはどう接するべきなのかという問題のほうが、あらゆる創作でなされる物語の論理や表現技巧のあさはかな議論よりもずっと、はるかに時間をかけて語られるべきなんじゃないかとぼくはおもう。友だちの宇野さんは、「世界泥棒」という小説がすばらしいのは、作中で主人公がたくさんの小説や映画をその固有名詞をあげながらたくさん読んだり見たりすることだ、といった。それを聞いて、ぼくはこう考えた。
もしも小説や映像作品のなかでまた別の小説や映像作品を読まれたり見られたりする場面があったとき、それ、つまりいちばん大枠にある物語を読むものがその議論するときに「メタ構造」なんてものを持ち出したら、それは批評としていちばんおろかなものなんじゃないか。月が複数ある世界であっても、不毛な決闘でクラスメイトが頻繁に死んでいってしまう教室でも、近所の戦争のことにまったく現実感を持てないのだとしても、たとえどんな状況にぼくらが身をおいていたとしても、ぼくらはプルーストを読み、タルコフスキーを見ることができる。その瞬間瞬間でなされる思考のすべては、ほんものの思考としてしかぼくらは回収できない。書かれているものを、書かれている通りに受け取ることこそ、リアリティなのだとおもう。リアリティは作者によらない。リアリティということばは、どこかの世界の「絶対」が、読者に振りかざす暴力だ。
そしてフィクションとは、ここではない世界、あるいは「いままで生きていたなかでぜったいに話せなかったことを話せたりぜったいに感じられなかったことを感じられたりするとくべつな時間」をつくっているシステム(法)のことをいうのだとぼくはおもう。
- 作者: 桜井晴也
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2013/11/11
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (4件) を見る
たまっていた今期のアニメを
きのうくらいからようやく消化し始めることができた。そこで気になったのは、ともに岡田麿里が関わっているという共通点を持つ、「キズナイーバー」と「迷家」のふたつだった。もっといえば、さいきんの岡田麿里が制作に関与している作品たちにもどうようのことを感じていた。
両者の設定をまとめてみる。
*
キズナイーバー
7人の高校生がそれぞれに受けた痛み(物理的なもの、のちに心理的なものも含む)を互いに分配する「キズナシステム」によって強制的に「つながり」をもたされ、ひと夏のあいだに与えられるさまざまなミッションをチームとして解決する。
迷家
これまでの人生を捨てることを望むひとたちが、都市伝説として知られる失踪者がつくったという地図上にない村「納鳴村」への移住を目的としたツアーに参加する。しかしたどり着いた「納鳴村」では「怪物」が現れ、そのために参加者たちは村から出ることができなくなってしまう。
*
これらの作品におけるフィクションとしての「とくべつ」はいうまでもなく上記にあげたものである。科学的に仕組まれた痛みの共有、そして見るものにとって絶対に見たくないものをうつす鏡である納鳴村の怪物、これらは作品世界にあるひとびとの心的外傷を物質化する装置として機能している。たんじゅんに、ぼくらは話したくないことは話さないし、見たくないものは見なかったことにする。たとえじぶんのなかで無視しえないことであっても、ぼくらじゃないなにものかに知られなければ、そんなものがあるるなんてことをそもそも信じる必要なんてない。しかし、そういう極めてプライベートな情報がぼくらの身体をはなれ、五感で感知しうるものになってしまったならば、話したくなかったり見なかったことにしたものたちについて、もう無視できなくなってしまう。だから作中でなんども「いままで生きていたなかでぜったいに話せなかったことを話せたりぜったいに感じられなかったことを感じられたりするとくべつな時間」が発生する。
こういった世界のねじを巻く装置じたいはなにもめずらしいものじゃない、それよりももっと考えなくちゃならないことは、この装置を作中のひとびとが認識できるかにあるのだとぼくはおもう。
この装置で、もっともわかりやすいのはカフカなんじゃないかってぼくはおもう。カフカの書く小説は、ひたすらシチュエーションだけが与えられる。たとえば有名な「変身」であれば、最初にザムザが起きたら虫になっていたという、強い不安定な状況下に主人公を放り投げることにより、思考することが強制されてしまう。そしてひとつしこうすることが、一歩さらに不安定な場所への移動となり、連鎖的にシチュエーションが吐き出されていく。このような連鎖が結果的に物語となるけれど、ザムザはじぶんが何の虫かを一度もかんがえなかった。ザムザはいったい何だったのか、それをナボコフが考えたという話を、大学生のとき、授業で聞いた。ザムザはカブトムシだった、ナボコフはいった、だからザムザはじぶんが何者かを知っていれば、窓から外へいつでも逃げだせたのだ。
空間を構築し物語を駆動させる装置が作品内で発見されるということは、ザムザがカブトムシだと自覚することにおなじだ。そして、ぼくはザムザが窓から羽ばたくような物語を、まだちゃんと読んだことがないような気がする。
- 作者: フランツ・カフカ,Franz Kafka,高橋義孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1952/07/28
- メディア: 文庫
- 購入: 18人 クリック: 359回
- この商品を含むブログ (361件) を見る