呉の歴代丞相には初代丞相は孫卲(そんしょう)から始まり、
顧雍(こよう)・陸遜(りくそん)・歩隲(ほしつ)などが任命されます。
今回紹介する張悌(ちょうてい)は呉の最後の丞相として名を連ねます。
ミスが少ない丞相でしたが晋軍の攻撃から呉の国を守れなかった事を後悔し、
呉の国に殉じた悲劇の丞相なのです。
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呉の三代目皇帝孫休に仕える
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張悌は呉の三代目皇帝の孫休(そんきゅう)の時代に呉に仕えます。
青年期から文才があり、筋道を通した生き方をしていたそうです。
彼は襄陽出身であったため、幼少期に孔明と会い褒められた事がありました。
呉に仕えた後も孔明に褒められた事を糧にして、
コツコツと一生懸命職務に励みます。
彼は屯騎校尉(皇帝の周りを守備する親衛隊)に任命されます。
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蜀の滅亡を予言
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263年魏軍が大軍を率いて蜀の討伐を開始。
張悌は魏の軍勢が蜀に侵攻した事を知ると、友人と集まり、議論します。
ある友人は「司馬家の基盤が確立されていないから、蜀軍に敗北するはずだ。」
と予想を言います。
しかし張悌はこの発言に賛同せず「司馬家は歴代の曹氏が行った圧政から民衆を
解放しようとしている。そのため曹氏から皇帝の位を簒奪したとしても、
民衆は司馬家の行いに反対しないであろう。また司馬家は兵士の訓練をしっかりと行い、力を養ってきた。
しかし蜀は宦官らが政治を行い、毎年行われる北伐により、
兵士も民衆も皆疲れ果てているだろう。
そのため魏の討伐軍に蜀軍は敗れる可能性は高く、我が国も魏軍に備えなくてはならない。」と友人に話します。
この言葉を聞いた友人は「お前。心配しすぎだぞ。」と笑いながら楽観視していました。
結果は張悌の予想通りになり、蜀は魏に降り滅亡してしまいます。
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孫晧が皇帝の位を継ぐ
三代皇帝孫休が亡くなると、皇帝の位を孫晧が継ぎます。
陸凱は孫休の時代から丞相を務めており、孫晧も彼がいる間は凶暴性に歯止めをかけていました。
しかし陸凱が亡くなると、孫晧は自らの好き放題やりたいため、丞相を数年間、任命しませんでした。
そのため民衆は疲弊。
群臣は国を引っ張る丞相の必要性を感じていましたが、
孫晧の凶暴性に恐怖し、誰も意見を述べませんでした。
孫晧の一声で丞相へ
孫晧は突然張悌を呼び「お前明日から、丞相やれ」と命じられます。
張悌はいきなりの事でビックリしましたが、呉の国を良くするため承諾。
次の日から張悌は税を安くし、軍の力を強くするため
訓練を強化するなど、色々な政策を実施。
しかし呉の国はその程度の政策じゃ立ち直れないほど、弱っていました。
滅亡へのカウントダウン
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張悌が丞相になって一年後、呉の国にとって緊急事態が起きます。
晋の軍勢が六方面から同時侵攻を開始したと知らせが入ります。
張悌はすぐさま孫晧の元に行き、報告します。
孫晧は報告を受けると「お前に三万の軍勢と三人の将軍を預ける。晋軍を迎撃せよ」と命令を受けます。
張悌は孫晧の命令を受け、自ら三万の軍勢と三人の将軍を率いて迎撃に出ます。
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