ストーカーにめった刺しにされたり、握手では飽き足らず空気を売るという暴挙にうって出たアイドル市場に関して書いていく。
日曜日の朝10時からフジテレビで放送されているワイドナショーという番組。
その番組で古市憲寿さんが言っていたことにひどく共感したことを覚えている。
アイドル宛てに送られたプレゼントのぬいぐるみの中に盗聴器が仕掛けられていたというニュースをうけてのコメントで
「アイドルのファンよりアイドルが怖い。化け物に見える」と言っていた
僕も同じように思う。アイドルという生き物が怖いのだ。10代や20代前半で技能的に承認される術はないにも関わらずテレビの前に現れ私の存在を承認してと、歌って踊る様は時に化け物のそれに見える。
今回、ついにシャレにならないニュースが飛び込んできた。アイドルがそのファンにめった刺しにされるという目を覆いたくなるほどの悲惨なニュースだ。
ニュース単体で見れば狂った犯罪者の奇行だとしか言えないがアイドルという商売のリスクが最も最悪の形で表れてしまった。
アイドルは存在承認であり人材承認ではない。社会には家族のように存在そのものを求められる場合と仕事などで要求されるようにその人の能力が求められる場合がある。
前者が存在承認、後者が人材承認だがアイドルのそれは存在承認にあたる。歌がうまくなくてもそれすらかわいい、トークができなくてもいい、社会人としての最低限の能力であるコミュニケーションスキルでさえ塩対応とかわいがられる。
何もできないと書くとたいへんな語弊があるがある程度、無条件に承認されるのがアイドルだ。そして本来は家族しか持ちえない存在承認を不特定多数から集めれば時にストーカーのような強固でゆがんだ愛情を持つ人間が現れるのも自然といえば自然だ。今回のニュースだけの話ではない。そういうふうに出てきたストーカーは悪であることは間違いないが赤の他人に異常な愛情を持つという観点から言えば悪く言えば幼稚でありよく言えば純粋といえてしまう。犯罪行為は文句なく悪であるが家族に接するように他人と接する人間のことを果たして悪と断じて良いのか僕にはわからない。むしろアイドルという商売が持つ構造的な問題のほうが大きいように見えてしまうからだ。
これも存在を認めてあげるという観点で説明がつく。こちらはストーカーのような悪とは違いむしろポジティブな意味もあるが我が子に与える教育費を厭わないようにアイドルのCDを何百枚も買う人間はストーカーと同じだ。どちらに振れるかだけの違いでしかない。CDを買う人間はポジティブ、ストーカーになる人間はネガティブな意味を持つが問題はその感情を揺さぶるアイドルという振り子そのものなのではないかと思えてならないのだ。
今一度、こんな承認欲求が取りざたされる社会なのだから確認すべきことがある。「誰からも承認される人間などいない」ということを。歴史を振り返ればキリストや仏陀ですら批判されかのソクラテスですら裁判にかけられて死んだ。アイドルは笑う。よく笑う。それはうしろめたさなどないような素敵で透明感のある顔で笑う。
しかしそれでもなおかわいくないと本気で思う人間がたしかにいる。けれどそれは無視すべき声ではないのだ。アイドルであっても関係ない。そういう人間を捨て置くのは得策ではない。承認においては絶望することが人間には必要なのだ。さればこそきちんと人と接することができるようになる。
無様なアイドル
有吉弘行がテレビでグラビアアイドルは実際に表にでてくるとがっかりするといっていた。彼は毒舌を売りにしているのでそれは差し引いて評価しなければいけないのだろうが上記のようにグラビアアイドルの内面性のなさというものはグラビアアイドルになるという精神性によるところが大きいとも言っていた。
この言動が芸なのか本音なのかわからないが女性アイドルのSNSなどを見てみてもいわゆる人の含蓄がにじみ出ているようなブログやついったーは見たことがない。自分を殺すような物語も聞いたことがない。彼女達は愛される能力は非常に高いのだろうが愛する能力に関しては幼いのだろう。
マネージャーがつき不特定多数から愛される様はまさにアイドル様なのだろうが、彼女たちはその人間性においては何様でもない。ピュエリリズムを体現している姿はむしろとても無様だ。
承認欲求によって、救われたいのでは? 隣人愛に溢れる人ばかりではないから、人はお互いに苦労をするのだろうね。
刺されたの元アイドルだろ つまりアイドルやめると刺されるから一度アイドルやったら死ぬまでアイドルやらなきゃいけないんだよ