唐土(もろこし)に伝わる「西遊記」伝説では、沙悟浄は河童の姿をしていないということです。もともとは、天帝に仕える「捲簾大将(けんれんたいしょう)」という高官であったのが、つまらない失策によって天界を追われ、「流沙河(りゅうさが)」という砂漠で人を食う妖怪になったといいます。この「流沙河」が川と誤解されたことから、「河伯(かはく)」という水にちなんだ妖怪の名前を与えられ、わが国に伝わると、河童と混同されて、最後には岸部シローと同一視されるに到ったわけです。
中島敦の「悟浄出世」は、もちろんこの「西遊記」をもとにし、原本では端役であった沙悟浄を主人公にすえて書かれた短編連作(といっても二作品しか書かれていませんが)の第一作目です。
「出世」というのは、平が主任になり主任が係長になり係長が……という意味の出世ではなくて、玄奘法師と出会った悟浄が、水から出て人間としてこの世に生まれ変わるということを意味しています。つまり、この短編は、三蔵や悟空や八戒と出会う前の沙悟浄の話です。(当世風のタイトルをつけるならば、悟浄ZEROとか悟浄RISINGとかいったふうなものになりましょうか)
一人の作家が、こういう名高い作品のパスティシュを書こうというわけですから、なにがしかの工夫を凝らし、先行作品に敬意をはらいつつも、大胆な改変を行うのは普通のことです。
中島敦の書く悟浄は、はじめからなんとも情けない妖怪(ばけもの)です。「西遊記」では、沙悟浄は人を食らうだけでなく、僧侶を九人も食ったという罰当たりな妖怪です。「出世」の中の悟浄も自分ではそう信じているのですが、まわりにいる仲間の妖怪はぜんぜん信じていません。悟浄が言うには、九人の僧侶のしゃれこうべが、彼の首のまわりに巻きついて離れないとのことですが、他の者には、しゃれこうべなど全然見えないからです。僧侶どころか、人間すら食ったことはないだろうと思われています。
加えて悟浄には独り言をする癖がありました。
渠 が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛 まれ、心の中で反芻 されるその哀 しい自己苛責 が、つい独 り言となって洩 れるがゆえである。遠方から見ると小さな泡 が渠 の口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が微 かな声で呟 いているのである。「俺 はばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は堕天使 だ」とか。
「堕天使」というからには、これはもしかすると元祖「中二病」といえるかもしれません。本当に元祖かどうかは分かりませんが、そうでなかったとしても、本家「中二病」くらいは名のってかまわないのでないかと思います。
なぜなら、本文の言葉を借りて言えば、『事実、渠(かれ)は病気だった。』からです。悟浄は、自分とは一体何なのだろう? とか、世界というものの究極の意味は何なのだろう? とか、なぜ俺は存在し、なぜ世界は存在するのか、というような、答えの出そうにもない問題に始終とらわれて生きている妖怪(ばけもの)だったのです。
この病のために、悟浄ははげしい肉体の痛みにまで苛まれます。『妖怪の世界にあっては、身体と心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいなかった』ためにそうなるというのです。痛みにたえられなくなった彼は、こう決意して旅に出ます。
「このうえは、いかに骨が折れようと、また、いかに行く先々で
愚弄 され哂 われようと、とにかく一応、この河の底に栖 むあらゆる賢人 、あらゆる医者、あらゆる占星師 に親しく会って、自分に納得 のいくまで、教えを乞 おう」
したがって、この短編を読み進める読者は、悟浄と一緒に、「流沙河」に棲む、色々の賢人や仙人(といっても妖怪ですが)や哲学者に会い、さまざまな悟りの境地を見、体験し、また、いくつもの「ありがたい」言葉をさずかるでしょう。
けれども、必ずしもそれらの言葉を真に理解しようと努めたり、あるいは賢者達の態度や思想を疑って、真面目な反駁をこころみようとしなくてもかまわないように思います。凡庸なわれわれには、したがって、悟浄ほど手の施しようがない病気にはかかっていないわれわれには、その必要がないからです。
むしろ、個人的な読書の楽しみにふさわしく、もっと気軽に作者のユーモアを楽しむことをおすすめしたい。ここに登場する妖怪の賢者、哲学者は、妖怪というにからには、それにふさわしい『自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡(つりあい)を絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者』という容姿をしています。そういう彼等の個性や、作者が語る河底の色々な風景を読むだけでも、きっと面白いはずです。
例えば、年老いて腰が曲がった蝦(エビ)の精は、半分河底の砂に埋もれて暮らしつつ、『世はなべて空しい』ということについて深遠な哲学を語り、貪食怪力の鯰(ナマズ)の妖怪は、長いヒゲをしごき、考えること自体の愚かさを説きつつ、目の前の鯉を素早く捕まえてむしゃぶりつくと、鯉だけでは飽き足らず、悟浄を見る眼を光らせるのです。隣人愛を説くことで名高い蟹(カニ)の妖精は、その説教の最中に空腹をおぼえると、たちまち○○○を……
しかし、このまま最後まで語ってしまうのでは、読書のすすめにはなりませんから、今回はこのあたりで、私の話は打ち止めにするといたしましょう。
「悟浄出世」の続編は「悟浄歎異」といいます。一作目をもし読んで面白ければぜひ続きをどうぞ。