小学校の頃、バスケで「ピボット」を習ったんですけれど、あれって人生に通じる気がするんです。ピボットというのは「ボールを持っているプレーヤーが、片方を軸足として重心をおき、もう片方で自由に方向を変えられるようにする」という足使いの基本ですね。バスケではボールを持ったまま3歩歩くとトラベリングをとられるので、歩かずに方向転換する必要があるわけです。
重心を体の真ん中におくと、安定するけれど身動きがとれなくなります。素早い方向転換が出来なくなる。だから片方に重心をおいて、もう片方には遊びを持たせる。そうすると歩かずとも広い範囲を動けるようになる。視界が広がって、敵に追いつめられることを防げます。
このピボット、人生に通じるところがあるんじゃない?と思っていて、重心を真ん中してひとつのコミュニティに浸かりすぎると、身動きとれなくなるじゃないですか。楽しいときは良いけれど、追いつめられるとどうしようもなくなる。
だから足は片方ずつ別のコミュニティにおいて、重心はどちらかの足に乗せつつ、もう片方は自由に動けるようにしておくのが大切だと思うのです。そうして、言い方は悪いかもしれませんが「逃げ場所」を用意しておくと、心のゆとりができて見える世界も広がるよねと。
前置きが長くなったんですが、『ミナトホテルの裏庭には』を読みおわりました。発売されてから割と早く購入した記憶がありつつ、本編と、スピンオフっぽい短編があって、短編を読まずにとっておいたら今に。
わけありの人々が泊まりにくる小さな宿泊施設「ミナトホテル」で秘密のバイトをすることになった主人公・芯(しん)が、裏庭に繋がる鍵と猫を探して色んな人々と触れあったり語りあったりする物語です。
眠って体を健やかにしないと頭もうまく働かないよねと、レトロな外観ながら防音完備なんですこのホテル。そこで眠って、元気になってから問題に向き合っていきます。
独特のリズム感で語られるユーモアと、ほんのり意地悪な読後の余韻に浸りつつ思ったんですけれど、いい意味で「お互い様」な話だなと。
色んな形の親愛があって、迷惑をかけたりかけられたりしながら、でも長いスパンでみると持ちつ持たれつになっている。かけた迷惑とかけられた迷惑の重さがどんぶり勘定にトントンになって、世間が出来ている感じ。親愛のだいたいが友情や家族の形を取っていて、それが軽かったり重かったりしつつ、平均を取れば主人公の「いい意味で冷淡」がいまどきっぽいのかなとか思ったり。
ミナトホテルは、わけありな人々の逃げ場所として描かれています。そんな場所で、主人公はいろんな人に迷惑をかけ/かけられながら、でも問題自体を解決するわけでもなく話を聞いてあげて物語が進んでいく。
お互い様で迷惑かけあうの、かけられる方は重心を真ん中においちゃいけない気がするんですよ。親身になって寄り添うのは大切だけれど、迷惑をかける方と一緒になってかけられる方も倒れるとたいへんですし。
ピボットのように軸足はどちらかにおいて、もう片方、遊びがあるほうで支えるくらいが良い。いっそ側にいるだけくらいのほうが、迷惑をかける方も気兼ねしなくて良いかもしれないし。心の借金て現金より重かったりするんですよね。
ミナトホテルを営む湊さんも、
「でも、事情を知ろうとするな」
木山くん、と湊は言う。
「君はものすごく疲れている時に他人から「どうしたの?よかったら話聞くよ?としつこく聞かれたらどう思う。ただ静かに休みたいだけの時に」
芯はちょっと考えてから「うるせえな、と思います」と答える。そうだろう。湊は頷く。そういうことだ、つまりは。
「それに、いちいち客の事情を考えていたら、自分が参ってしまう」
ていってますし。多分、何もいわずに寄り添うだけなのも大変な気がしますけれど。だって出来ることがあるのにじっとしてるのってガリガリ精神削られる。その意味で芯を送り出したおじいちゃんがバルーンアートに精魂込めるのは理に適ってるなと思うんです。
そういえば、物語における謎が解決していくのって「伏線回収」ぽくて好きなんですけれど、ミナトホテルに埋まっている謎は伏線というより宝箱っぽくて、しかも開けなくても良さげな、でも知っている人や気がつく人がいてくれるとそれはそれで報われる気もする何気なさが好きです。
つれづれに書きすぎたのでまとめると、人生はピボットな足使いがいいし、『ミナトホテルの裏庭には』面白かったです、という話です。読みおわりに表紙を見ると、あの表紙かわいいだけじゃないんだなと気がつき、あと、香水って何の役割だったのかすぐ思いつかないんですけれど、ひょっとして自分エピソード読み飛ばしています?