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はてな村定点観測所

汚物は消毒だ〜!

織田信長とおつやの方のNTRな関係

おつやの方とは

戦国時代に実在した数少ない女城主に織田家のおつやの方がいる。

おつやの方は織田信長の年下の叔母にあたる。織田信定の娘で、東美濃の豪族で岩村城を居城としていた遠山景任(齋藤家とは半独立状態の惣領格)に嫁いだ。しかし2人の間に子供はできず、遠山景任は織田家の美濃攻略の時期に病死する。

これを好機とみた織田家は東美濃に軍勢を派遣、血統の途絶えた遠山氏の養嗣子として信長の五男であった御坊丸(織田勝長)を指定し、おつやの方を御坊丸の妻とした。しかし御坊丸は幼少であったため、おつやの方は後見人として岩村城の城主となった。

武田軍による岩村城攻略

1572年に織田信長と将軍・足利義昭の対立が決定的となり、足利義昭は武田家に上洛を命じるなど、いわゆる第二次信長包囲網が形成される。

おつやの方はこの武田家の西上を前に降伏を決断。岩村城を開城して、秋山虎繁の軍勢を受け入れることとなった。この決定は東美濃の国衆の反発を招いたため、おつやの方の東山氏と東美濃の国衆で小規模な戦闘が起こっている。

漫画『センゴク』では、おつやの方が信長に慕情を抱いていて信長から櫛を賜ったという仮説に基づいて、NTR属性を刺激するような武田家の秋山虎繁による篭絡シーンが描かれている。真相は定かではない。

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(『センゴク』第9巻)

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(『センゴク』第9巻)

おつやの方は秋山虎繁の妻となった

岩村城陥落の時、おつやの方は秋山虎繁の妻となった。

この経緯は詳しくは分かっていないが、降伏の条件として婚姻を申し出たとする説もある。おつやの方の離反によって御坊丸も武田の人質として捕らわれて甲斐に送られることになった。

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(『センゴク』第9巻)

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(『センゴク』第9巻)

信長包囲網の中で織田家は各方面に戦力を割かれていたため、東美濃に充分な戦力を置くことができずにいた。しかし、おつやの方の離反に激怒した織田信長は、武田軍と直接対決していた徳川軍への後詰め(兵力増強)を決断した。

三方原の戦い

こうして織田・徳川連合軍と武田軍との間に三方原の戦いが起きる。

武田というと無敵の騎馬軍団というイメージがあるが、このイメージは史料から現在は否定されている。『甲陽軍艦』によれば武田軍の騎馬武者は約千人の兵力の中で7、8人であったとされる。残りは槍を主要戦力とする足軽・雑兵である。

また日本在来種の馬は現在のポニー程度の大きさであったため、よく映画や大河ドラマや信長の野望などで描かれる騎馬軍団のイメージとはほど遠い。『センゴク』はその辺も詳細に解説されており好感が持てる。

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三方ヶ原の戦いは織田・徳川連合軍の惨敗であった。武田軍は徳川領を制圧する絶好の機会を得る。そう、武田信玄が病死するまでは。

長篠の合戦とおつやの方の処刑

武田信玄の急死によって一時的に兵力を引いた武田家であったかが、再び戦力を整えて織田・徳川連合軍と戦いを挑んで長篠の合戦が起きる。

この時、織田家は鉄砲三段構えによって武田騎馬軍団を打ち破ったとする通俗的理解が根強いが、現在はこの鉄砲三段構えの信憑性は殆どないとされている。織田家の鉄砲装備率は高い水準にあったが、戦局に決定的な影響を与えるほどの数ではなかった。

また武田側も鉄砲による威嚇効果は把握しており、鉄砲の射程距離の範囲内に騎馬武者が突進していく無謀な戦法を強行したとは考えにくい(そもそも前述のように実際の武田軍はそれほど多くの騎馬武者を抱えてはいない)。武田軍がなぜ大敗したかに関しては、馬防柵の設置以外にも陣形の崩れなど諸説ある。

いずれにせよ、長篠の合戦によって武田軍は敗走し、織田信忠の大軍が岩村城を包囲した。

秋山虎繁とおつやの方は降伏を申し出て、織田家は降伏条件として秋山虎繁とおつやの方の助命を受け入れる。

しかし、おつやの方が寝返ったことに激怒していた信長は、城兵を全て殺害。秋山虎繁とおつやの方は長良川の河原で逆さ磔の極刑に処せられた。

戦国時代のNTRな話

戦国にもこういうNTRな話は多数存在する。

それを描いた『センゴク』は名作だと思う(性的な意味で)。