交通労働災害ゼロへの道

自動車運送事業では、輸送の安全の確保が事業経営の根幹です。そのさい重要なキーワードは、経営トップの安全確保の意志と行動です。労働災害は「人」と「物」とのかかわりから発生します。「人」の不安全行動と「物」の不安全状態を無くすることが”交通労働災害ゼロへの道”です。
ここでは、安全対策に取り組む上で参考になる資料を紹介します。
トラックの過労運転による事故を防止するための安全対策の提言 国土交通省
交通労働災害防止のためのガイドライン 厚生労働省
人はどんなミスをして交通事故を起こすのか ITARDA
トラックドライバーのための安全運転の基礎知識 全日本トラック協会
SASを正しく理解し、早期治療で安全運転を 全日本トラック協会
事業用自動車総合安全プラン2009 国土交通省
事故事例集-(トラックの事故) 国土交通省
社会的影響の大きい重大事故の要因分析 国土交通省
交通事故加害者の手記「贖いの日々」 東京安全協会発行誌より
事業用自動車の運転者の健康管理に係るマニュアル 国土交通省
陸上貨物運送事業労働災害防止規程 陸上貨物運送事業労働災害防止協会
トラック輸送の過労運転防止対策マニュアル 国土交通省

交通事故加害者の手記「贖いの日々」          財団法人東京安全協会発行誌より
『判断の甘さと過労の果て H・Y 37歳 トラック運転手
『プロドライバーの過信 M・S 25歳 運転手
『ハンドルの重さ』 H・N 40歳 会社員
「ゼロ」からのスタート』 Y・K 40歳 元団体職員
『もう一度会いたい』 遺族の手記  岡 静子
『一瞬の出来事の先には』 K・K 31歳

悲惨な交通事故が毎日発生しています。
ここに紹介する手記は、交通事故の加害者となり市原刑務所に服役している受刑者の涙と反省の記録です。
この手記を読みますと、行間には本人はもちろん、家族を含めた悲しみが滲んでおります。
「少しぐらいの酒なら」「見つからなければ」など、日常茶飯事に飲酒運転を繰り返していた例が多くみられます。交通ルールやマナーを守ることはもちろん、日ごろから常に自己を律し、他人を思いやり、心してハンドルを握ることが必要ではないかと、改めて痛感させられます。
車の運転は、いったんハンドルを握ると、どうしても自己本位になりがちです。そのため、ドライバー一人ひとりの性格や、日々変化する喜怒哀楽の感情や体調などが運転に現れ、それが知らず知らずのうちに惰性となり、交通ルール、交通マナーの軽視につながっていきます。
「まちがえる可能性のあることは、必ずまちがえる」という法則があります。
車の運転も身体の健康診断と同じように、安全運転のためには自分の運転を常に点検し、初心に返ることが大切です。
この手記を通じて、重大事故を起こして服役している人たちの反省を教訓として、ハンドルを握るすべての人々の戒めとしていただければ幸いです。
 

「財団法人東京交通安全協会」発行誌より(抜粋)。

判断の甘さと過労の果て    H・Y 37歳 トラック運転手

私は今、最愛の家族と離れ2度目の正月をここ市原刑務所で迎えようとしています。
今から2年前の平成10年12月3日午後2時25分ごろ、その悲劇は起こりました。
私の仕事は長距離トラックの運転手でした。
前日の夜9時ごろ、山梨県の会社を出発し、目的地である群馬県T町に夜中の0時過ぎに到着し、トラックのベッドで仮眠しておりました。翌朝6時ごろより荷物を降ろし初め、1時間ほどで降ろし終えると、とりあえず会社の営業所のある茨城県M方面に向かいました。
途中営業所に電話を入れ、次の仕事の確認をして茨城県M町で荷物を積むことになりました。そして、11時半ごろ、荷物を積み終えました。
普段でしたら、昼も近いので車を止め近くの食堂で昼食を取ってから出発するのですが、暮れも近く道路も混んでいるので道路の空く昼の時間帯に少しでも距離を稼ごうと、荷降ろし地である岡山県T市へ向け出発しました。昼食は高速道路に乗って1つ目のパーキングで取ろうと決め、中央道の八王子インターより高速道路に入りました。
そして、1つ目の藤野パーキングに近づきましたが、混雑のため流入車線まで駐車している状態を見て素道りすることに決めました。次は談合坂サービスエリアなのですが、ここは料金が高いので、その次の初狩パーキングまで行こうと決め、さらに車を進めました。
しばらく走るとヒーターと高速道路の短調な運転のために少し眠気をもよおしてきました。本来ならばここで談合坂サービスエリアへ入り休憩を取るのが当たり前なのですが、まだもう少し大丈夫だろうという自分勝手で安易な判断でそのまま車を走らせました。それが悲劇の始まりとは気付かないままに………。
サービスエリアを過ぎ5分ぐらい走ったでしょうか、なにかのショックでふと我に返ったときは、もうすでに1人目の被害者をはね、目の前には1人の被害者が、こちらを向き立っていました。私はあわててブレーキを踏むのがやっとでした。時すでに遅くあっという間にガラスにヒビが入り2人目の方もはねてしまいました。
やっとの思いで車を止め急いで車を降りて走っていくと、ぶつかったはずの場所から30メートルも離れた所に人が倒れていました。
奥さんらしい人が一生懸命倒れている人に呼びかけていました。
すぐに車に戻り携帯電話で警察と救急車を手配しました。私はすっかり気が動転してしまい、なにもできずただ立ちつくすばかりでした。
救急者が到着し被害者が運ばれていく時、冷たい雨が降り始め、警察の現場検証が始まりました。そして、パトカーで取り調べのため警察へ行き、そこで被害者が2人とも亡くなったことを聞かされました。
頭の中が真っ白になり、ただ身体が震えるばかりでした。取調べが終わり会社の上司が迎えに来て被害者の収容された病院に向かうため外に出た時には、雨が雪に変わり、積もり始めていました。
病院へ着き、被害者の奥さんを始め親戚の方たちも駈けつけていました。私は土下座して「申しわけありませんでした」という言葉しか出てきませんでした。
しかし、事故当時の私の情けない対応のせいか、とてもお話を出来る状態ではありませんでした。何とか線香だけは上げさせていただき、その日は帰りました。
家に帰り悲惨な表情で妻と今後のことを話していると、まだ1歳半の幼い子どもも雰囲気を感じ取り、悲しそうな顔をしていました。
それから数日後、会社の社長、上司の方たちとお通夜、お葬式に行きました。2家族合同ということもあってか遺族の方たちのお怒りは大変なもので、焼香もさせてもらえずにただ土下座して謝るばかりでした。
それから10ヶ月余り過ぎ、とうとうお墓さえも教えていただくこともできずに禁固2年という判決をいただき、現在も市原刑務所で刑に服しています。
あの時ほんの何気ない自分勝手な考えが2つの家族の大黒柱を一瞬にして奪い、不幸のどん底に突き落としてしまいました。
そして、自分の家族や多くの方々に迷惑をかけ今は何も出来ずに悔やんでおります。
判決の時、裁判官に「あなたと被害者の違いが分かりますか。それは、あなたは帰ることができますが、被害者は2度と帰って来ません」と言われました。
言葉では簡単ですが絶対に埋めることの出来ない違い、私はこの言葉を一生忘れることなくこれから先死ぬまで償いを続けていきます。


プロドライバーの過信    M・S 25歳 運転手

私はTさんという男性のこれから先の生きていく権利を、自分勝手な行動で奪い去ってしまいました。大型トラックを“凶器”に代えてTさんを殺してしまったのです。
今、私は市原刑務所で禁固1年8月の受刑生活を送っている途中です。
私は運送会社で長距離ドライバーとして働いていました。会社ではよい上司や先輩に恵まれていました。今回の事故の原因でもあるスピードの出し過ぎについても、会社の仲間から日ごろ注意されていました。
しかし私は自分だけは大丈夫と言う気持が強かったのか、折角の忠告も上の空でした。その時に素直に聞いていればと後悔しております。
事故は平成11年2月の夜に起きました。事故当日は関西から北海道へ荷物を運んでいる途中でした。
北海道の2月はまだ雪が残っており、昼間に雪が溶けて路面が濡れ、夜になって気温が下がると、濡れていた路面がアイスバーンになるという最悪の状況になることは何回も同じところを走っているので知っていました。
事故当日も夕方から雪が降ってきて、最悪の路面状況になるのは誰の目から見ても分かりきっていました。しかし、私は何回も走っている慣れからくる気の緩みと、交通量がたまたま少なかったことで集中力が散漫になっていました。
法定速度時速50キロのところ、35キロオーバーの時速85キロで走行していました。
しばらくして左カーブへ差し掛かる手前で初めてスピードの出し過ぎに気づきました。このままではカーブを曲がりきれないので減速をしなくてはいけないと思い、ブレーキを必要以上にかけてしまったのです。
車体はスリップして対向車線に向かって行きました。その時、目前に乗用車のヘッドライトが見えてきました。
「やばい」と思う間に「グシャ」という鈍い音とシートに伝わる衝撃を伴い、正面から衝突してしまいました。相手が乗用車ということで大怪我をしたのではないかと思い、すぐに相手の車に向かいました。
1人は運転席でハンドルにもたれかかって意識がなく、後部座席には2人が血だらけになってうなり声を上げていました。
すぐ救急車を呼び2人は病院に搬送されましたが、救急車が来るまでの時間がとてつもなく長く感じられたのを今でも覚えております。
私はそのまま現場検証をして警察署に連れていかれました。全身の力が抜け、自分はこれから先どうなるのか、どうしたらよいのか想像もつかずに、ただ呆然としていました。
次の日、私は釈放され、お通夜、お葬式に出席することになりました。初めはいくのが嫌で仕方ありませんでした。しかし、ご遺族のことを思うと、どのような仕打ちをされようが仕方ないという覚悟で出席しました。
たくさんの人々の中、息子さんから「何しに来た。さっさと帰れ」と言われ、ただ「申し訳ありません。すいませんでした」と繰り返し言うことがやっとでした。
そして、すべてが終わって帰ろうとした時、Tさんの母親が私にどうしても会って話がしたいと話されました。
私はなにかきついことを言われるのではないかと覚悟していましたが、「なにもあなたが全て悪いのではなく、うちの息子も少なからず悪いのだから気を落とさないでください。あなたもまだ若いのだからこれから先も頑張って生きて行きなさい」と100パーセント悪い私に、もったいないくらいの言葉を言ってくださいました。
その後、四十九日、月命日、お彼岸、お盆と、お墓参りを欠かさずさせてもらいに行きました。そのたびに、Tさんの奥さんには「もう済んだことだし、あなたは若いのだからお互い前向きになって頑張りましょう」と謝罪に行った私がいつも慰められていました。
Tさんが亡くなってから1年が過ぎて「もう来なくて結構ですよ」と言われましたが、私自身納得するまではと思い、しばらくはお墓参りに行きました。
私は現在、1年8月の刑に服しています。月日が過ぎれば刑期も終了しますが、Tさんの命という尊いものを奪った私の罪は、一生かけても償えるものだとは思っていません。
しかし、私は変わらなければいけません。今までの自分勝手な考え、自分への甘えを改め、当たり前のことを確実にこなす人間になりたいのです。そして亡くなったTさんの分までこれからの人生頑張って生きていくことが、ある意味では罪の償いでもあるのではないかと思っています。


ハンドルの重さ    H・N 40歳 会社員

木枯らしが吹きすさぶ中、市原刑務所で最愛の家族と離れて最初の正月を迎えようとしています。
平成13年5月8日、午前零時20分ごろ、死亡事故を起こしてしまいました。一瞬にして38歳の男性の尊い命を奪ってしまった、忘れることのできない日です。
私は父が経営する運送会社で運行管理者として、日ごろから安全運転の実施などについて従業員に対し指導してきました。また、地元の商工会青年部や消防団に所属し、中心となって活動してきました。
私は仕事が終わると会合に参加し、その後は仲間同士で飲みにいくという生活を送っていました。有頂天になっていた矢先の出来事でした。
その日は午後7時ごろ仕事を終え会合に行き、帰りに行きつけのスナックへ午後8時30分ごろ着きました。私の自宅からスナックまでの距離は約500メートルぐらいでしたので、一度自宅に戻って車を置いて出直そうかと思いました。
でも、「自分は大丈夫、自宅がすぐ近いから」などと車の運転には甘えがありました。その結果、取り返しのつかない重大な事故を起こしてしまったのです。
スナックで焼酎水割り8杯くらい飲み、店を出てハンドルを握りました。窓を開け気持ち良い風を受け、走り始めて間もなかったと思います。突然、歩行者が出て来て「ガシャ」と鈍い音と車に伝わる衝撃を感じました。車から降りると男性が倒れていましたので、すぐに救急車を呼びました。男性は同じスナックで飲んでいた客の一人で、「大丈夫ですか」と何度も繰り返し声をかけるのが精一杯でした。
救急車が到着し「即死です」と聞かされたとき、絶望感を感じました。その場で逮捕され事故現場の人混みの中から私の両親と妻がとても悲しそうな目で見送ってくれたことは、今でもはっきり覚えています。
酒気帯び運転のほか、制限速度40キロのところ20キロオーバーの60キロで走行し、前方不注意が原因でした。
自分自身が車を運転することの厳しさと責任の重さを自覚し、安易な考えをしなければ事故を防ぐことができたと後悔しました。逮捕され留置場に入った私は、時間が経つにつれ大変なことをしてしまったという気持で一杯でした。夢であって欲しいと何度思ったことか、死んでお詫びをしようかとも何度も考えました。
通夜と告別式は両親と妻、弟、妻の父親、それと私の友人、知人がお伺いしました。そして、私が保釈を許されるまで毎日、妻と母がお詫びに行っていたことを後で聞かされました。遺族の方だけでなしに、家族にも迷惑をかけてしまい本当に申しわけない気持で一杯でした。
留置場に入って3日間は何もできずただ被害者のことしか考えられず、私は人殺しだと自分を責め、泣いた時もありました。
しかし、その後だんだん留置場の生活に慣れてくる自分がとても嫌いに思いました。日ごろ、両親から人を指導する立場にあって飲酒運転やスピードの出し過ぎには注意を受けていました。その忠告も上の空で聞いていた自分が恥かしいとともに、そのとき「素直に聞いていればと後悔する日が続きました。
やがて保釈を許された私は被害者宅へ謝罪に行きました。そのとき、遺族の方に「飲酒運転さえしなければこんなことには…もう主人は戻らない。幸せだった生活を返して下さい」と言われた私はどのような言葉や態度をしたら良いか分からず、頭を下げているのが精一杯でした。亡くなられた被害者は新婚3ヶ月で、遺族の憎しみと怒りに満ちた目が印象に残っています。
それから週に何度かは必ず謝罪に行き、事故4ヶ月で示談が成立し、任意保険から5千500万円という金額が支払われました。私は判決の日まで、できるだけ被害者宅へ伺い線香を上げさせてもらいました。
そして、遺族から思わぬ言葉を頂いたのです。「救急車を呼んでくださってありがとうございました。あなたにも家族が居るのだから同じ過ちを二度と繰り返さず、これからは人生前向きに生きてください」と言われたのです。自分の身勝手な行動で一人の尊い命を奪ってしまったというのに反対に励ましの言葉を頂いたのです。
やがて判決で懲役1年4月となり、現在は人殺しという現実を見つめ、市原刑務所で規則正しい生活を送っています。
今回の事故は、私が罪の意識も無いまま飲酒運転を続けている限りいつか起きなければならない事故だったと思います。
私の家族は両親と妻、子供3人の7人家族でしたが、被害者が近所ということもあって妻子は引っ越し、両親と別々に暮らしています。子供たちは、学校で友だちから私の話を聞かされ辛い思いをしているそうです。元気がないようですが、私に心配をかけまいと手紙には一言も書いてこないのです。
私は最愛の家族の幸せな生活までも一転させてしまいました。
私のために辛い思いをして待っていてくれる家族、励ましてくれた友人、会社関係の方々に対し感謝を忘れず、一日でも早く出所出来るよう努力したいと思います。
この受刑生活の中で自分の考え方や行動を見つめ直し、被害者のご冥福を心からお祈りするとともに、遺族に対し一生償いをしていこうと思います。
私は今日も精一杯大きな声を出して行進します。家で待っている家族に声が届くように…。


「ゼロ」からのスタート    Y・K 40歳 元団体職員

平成14年6月、道路交通法の改正により、飲酒運転等の悪質・危険運転に対する罰則が引き上げられた。
勤務先の朝礼にて、改正内容が記載されたコピーが全員に配布され、「車通勤者は交通ルールを遵守し、十分注意して運転するように」との忠告がありました。
私はそれまでは当然のことながら飲酒運転はいけないことと頭で理解していながら、一方で「自分だけは大丈夫」とか「飲んでも休んでいけば大丈夫」という甘えた考えを持っていたのです。その結果、取り返しのつかない悲劇を起こすことになるのでした。
その日は月末だったので、いつものように仕事は忙しく昼食も取らずに慌ただしく仕事をしていると、他の支店の仲の良い上司から「たまには飲みに行こうよ」と誘いがありました。
ちょうどその日はいやなことがあったため、愚痴でも聞いてもらおうと久し振りに会うことになりました。
居酒屋で待ち合わせをし、そこでビール1本と焼酎のウーロン割り3〜4杯飲みました。昼食抜きだったので酔いが回り、気分もよくなっていました。時間も10時を過ぎて明日も忙しいということで、その場で解散となりました。
いつもならそこで帰るのですが、その日に限って臨時収入があったので「たまにはスナックでも行ってみるか」と思い、車を走らせたのです。
そこでも焼酎の水割りを3〜4杯ほど飲み、カラオケを数曲歌っているうちに時間は午前零時を回っていたのです。車の中で休んで朝帰りをしようかと思ったのですが、明日も忙しいので家に帰って布団で寝た方が疲れは取れると思い、またもや車を走らせたのです。
そして、その帰り道の途中、信号機の見落としにより左方から直進してきた車と衝突してしまったのです。
一瞬「ドーン」という音と同時にエアバックが作動し目の前が真っ白になり「キーン」という耳鳴りがし、自分の車は惰性で100メートル位走った後、たまたまそこが分岐点だったので事故現場から見づらい場所に止まっていたのでした。
私はシートベルトを締めていたため幸いにも大した怪我もありませんでした。そこで、「自分が大したことないのだから、相手の人も大したことはないだろう」と自分勝手な解釈をし、相手の車を確認せず相手の方を救護することなく自分の車を道端に置いて、その場から逃げてしまったのです。
現場から15分ほど歩き、タクシーで家に帰り妻に報告した後に、ふと我に返り「自分は何やっているんだ。相手の人が怪我をしているかもしれないのに」と思い、電話でタクシーを呼び、現場に出頭して現行犯逮捕となりました。
その場で相手の方が即死したことを警察官から聞き、目の前が真っ暗になり、その場で崩れ落ちてしまいました。「自分だけは大丈夫だろう」という自分勝手な考えが尊い人の生命を奪い、幸福な家族を一瞬にして不幸のどん底に陥れてしまったのです。今まで人を傷つけたこともなかった私が人殺しをしてしまったのです。
私は留置場に拘束されている間、「何と大変なことをしてしまったのだろうか」「何で私が生きていて相手が亡くなってしまったのか。自分が死ねばよかった」などと毎日後悔し、眠れない夜が続きました。
その間、妻と両親には通夜、告別式、初七日、四十九日と、私に代わって伺わせてもらいました。遺族の方々からの憎しみは、私に代わって家族に向けられどんなにか辛い思いをしたのかと思うと、何もできない自分が情けなくなってきました。
拘束されて約1ヶ月を過ぎた頃、会社の人事課の人が見えて、懲戒解雇の告知を受けました。約18年間勤務し、お客様、会社の人たちに挨拶もできないまま、解雇となってしまいました。
第1回目の公判にて懲役5年の求刑を受けた後、保釈申請により保釈が許され、直ちに被害者宅へ謝罪に行きました。
線香を上げさせてもらって「本当に申しわけございませんでした」と頭を畳にこすりながら何度も謝りました。奥様に「家に帰って子供を抱っこしないでよね。うちの子供は一生抱っこしてもらえないんだから」と言われた私は、ただただ頭を深く下げるのが精一杯でした。
私の自分勝手な行動により、大切な夫、また大好きなお父さんを奪ってしまったのです。
頭の中で思っていた以上に現実は厳しいものでした。第2回目の公判で懲役2年10月の判決を受け、現在市原刑務所にて反省の日々を送っています。
民事裁判にて、約9千万円支払うことで被害賠償金については一応解決しましたが、これからどのようなかたちで償いをすればよいのか、残された受刑生活の中で考え悩み続けるつもりです。
昨年の交通事故による死者は7,702人と46年ぶりに8千人を下回ったということですが、まだまだ多いと思います。
私たち受刑者が悪い見本となり、1人でも交通事故による犠牲者が減ることを祈りながら、私の帰りを待っている家族のためにも、ゼロからのスタートとなりますが、初心に返って頑張って生きていくつもりです。

もう一度会いたい遺族の手記    岡 静子

・平成16年5月9日、日曜日、母の日。
東京に送り出して9ヶ月、綺麗なグリーン色のアジサイの鉢植えが、次男から送られてきました。
主人を亡くして3年、まだ淋しさから抜け出せていなかった私は嬉しくて、携帯に写メールを送りました。すると「いえいえ」という言葉の中に込められている思いに胸が熱くなり、幸せの余韻がまだ残っていました。
二度と母の日のプレゼントが、届かなくなりました。
・平成16年6月3日、木曜日
午後8時33分頃、乗用車と大型貨物トラックの接触事故で、トラック運転手は50キロ近くのスピードのままブレーキを踏むこともなく、信号待ちしていた次男をミニバイク諸共トラックの下に引きずり込み轢過。即死。
ハンドルを戻していてくれたら、ブレーキを踏んでいてくれたら、息子は怪我だけで、生きていたかも知れないという思いで一杯です。
一人淋しく誰に看取られることなく固いコンクリートの上で、23歳の息子が、加害者に無理やりに母よりも先に父親の元に行ってしまったことも知らず、何も感じることなく私は寝床についていました。
・6月4日
午前3時頃、電話が鳴り響きました。
「岡充さんが、亡くなりました。」
救出に4時間近くかかり、連絡が遅れました。
長男と二人、霊安室に駆け付けると、全身白い布に覆われ床に横たわっていました。
次男の遺品は受け取りましたが、顔を見る事も抱き締めてあげることも出来ない状態で、確認して下さいと言われても母として確認することが出来ず空しさだけが残りました。
加害者は、白い布に覆われた次男の姿を見る事なく逮捕。
息子の姿を見せてやりたかった。
一生忘れて欲しくない。
法律に守られた加害者に辿り着くのに、私達の苦しみの始まりです。
疎外感の日々の中、少しでも情報が欲しくて何度も連絡を取り、月命日には事故現場に足を運び供養しながら待ち続ける事しか出来なかった。
6ヶ月が過ぎた平成17年の年明けにやっと送致され、検事さんの下に移った。
・平成17年5月9日、月曜日
初公判。幸せだった母の日から1年が過ぎていた。
やっと初めて加害者の顔を見ることができた。
裁判を傍聴する度に、遺族であっても聞くことの出来なかった真実が見えてきました。
でも、怒り、悔しさ、空しさが、押し寄せてくる現実に辛いだけだった。
「前科ニ犯 仮出獄中 平成16年9月22日 刑執行終了」意味がわからない。
加害者が9月まで刑務所に入っていれば、次男は生きている。
死ぬことはなかった。
亡くなる3日前に届いたメール「オカン、お米はいいから、ジュースとかおやつがうれしい」という息子の望みも叶えてあげることができ、私は今でも幸せでいる。
判決 懲役3年。
次男が、加害者に毎日毎日3年間怒りをぶつけても、26歳です。
失うものが多過ぎるのに比べて、あまりにも3年は短過ぎると何度も繰り返し続けています。
生きている加害者の権利だけが認められて、控訴・上告、次男の権利はなく私達は何も言うことは出来ない。
・平成18年6月3日
事故から2年が過ぎました。
もう待ちたくない。
法律で守られた加害者を一日でも早く法律で刑務所に収監して下さい。
息子に償って欲しい。
母として心穏やかに次男を供養してあげたい。

一瞬の出来事の先には  K・K 31歳

「ドーン」「バリーン」ほんの一瞬でした。
私は1月中旬、昼間の現場作業を終え、その夜にある緊急工事のために家にも帰らず、会社の事務所で夕食を済ませ、夜間の緊急工事に向かいました。工事も無事に終わり、朝方の午前4時頃、会社の事務所に着きました。前の日の昼間から朝まで頑張って働いたので、専務さんが「お疲れ」とつまみと350ミリリットルの缶ビール3本をくれました。それをいただいた後、とても疲れていたため、そのまま事務所の椅子で寝てしまいました。
2時間半たった頃、目が覚め時刻は午前7時少し前でした。私はそこで家に帰れば良かったのですが、しばらく寝て疲れがとれた感じだったので、緊急工事で借りてある照明器具が4トンダンプに載せたままだったのを思い出しました。昼間には作業する人たちのために、借りてある器具をレンタル会社へ返しに向かいました。途中、小腹が空いたので親のところに寄りご飯を食べ、再びレンタル会社に向かい走り始めました。
会社までは順調に行けば20分位で着く距離でした。走り出してすぐに車内が暖房で暖かくなりました。満腹感もあり、体が疲れているせいと3時間前に飲んだアルコールもあり眠気が襲ってきました。「慣れている道だし、会社に戻れば今日は休みだから頑張れ」と自分を励まし、頬をたたき、足をつねったり、眠気と戦い運転を続けていました。
道路は上りで直線から少し右カーブ、そこで私の4トンダンプの左前タイヤが縁石に「ドーン」と当たり、元の道路にはじき戻されました。「ドーン」とともに目覚め、訳も分からずハンドルを回していたのですが、はじき戻されている途中に人の影のようなものが見え、左サイドミラーが「バリーン」と割れました。ほんの一瞬の出来事でした。車が普通に道路に戻った時点で止まれば良かったのですが、30メートル位走った所で、後を振り返りましたが、人の姿も見えなかったので「大丈夫だ、でも、もしかしたら………」と恐くなり、その場を走り去ってしまいました。
その後、5分位走った所で赤信号で止まっている所に、後から走ってきた車の方に「あんた、さっきの交差点すごいことになっているよ」と聞かされました。
「まさか!やっぱり」と思い急いでUターンして現場に恐る恐る戻りました。ほんの10分位しか経っていないのに、現場では既に警察の方がいて被害者の姿はありませんでした。現場を見た瞬間「やってしまった。俺がやってしまったんだ」と確信し、その場にいた警察官に自首しました。いろいろなことが頭に浮かび、自分の責任感の無さが思い知らされた瞬間でした。
そのまま逮捕され取り調べの最中、被害者の方はほぼ即死状態だったと聞かされ、私は体が震え自分が死んでお詫びしなければと思いました。
被害者の方は仕事に向かう途中で、押しボタンの横断歩道で青になるのを自転車にまたがり待っていたそうです。3人の娘の母親で、やっとお子さんが大人になり手が離れ、娘さんの晴れ姿を楽しみにしていた人生を、私の自分勝手な行動ですべて奪い去ってしまったのです。
更に1年も経たずに、今度はお父様も亡くなられました。これは私のせいで心労や寂しさが重なり、二次被害を与えてしまったと思いました。家族を失った人の傷は計り知れず、とても深く重いものだと思いました。そして、被害者だけでなく、私の周りの人たちにも被害を与えてしまいました。
私自身が何かを失うことは当然のことですが、妻、両親、兄弟、会社の皆さまにも大変な迷惑を掛けてしまいました。中でも仕事中の事故ということで会社は罰金、1ヶ月間指名停止で仕事がもらえず、専務さんも中期免停になりました。そして、一番は会社の信用、信頼というお金では手に入れられないものを失うのが大きかったと思います。後悔先に立たずとは本当です。私自身の気持ちの中に、遵法精神が欠けていたからだったと思います。
私は懲役2年半の判決を受け、この受刑生活で責任のある行動、我慢、耐え忍ぶこと、相手の気持ち、ルールの大切さなどを学びました。ここを一歩外へ踏み出したその日から、本当の償いのスタートだと思います。今後、ご遺族に謝罪、お詫びに伺ったとき、どう対応されるか分かりませんが、二次被害を与えないよう、ご遺族の気持ちを考え、自分が出来る償いをしたいとは思います。あれこれしても償いきれないとは思いますが、誠意ある行動をしていき、私自身の気持ちを伝える努力をしていかなければと思います。
また、こんな私の代わりに謝罪をしてくれたり、辛い思いをしながら帰りを待ってくれている妻をはじめ、皆さまに感謝の気持ちを忘れずに、少しずつでも恩返しをして生きていきたいと思います。
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