http://anond.hatelabo.jp/20160528181236
「広告で稼げなくなったインターネットのその後を見てみたい」のエントリーがおもしろかった。近年、広告を嫌うユーザーが増えている。広告ブロック機能が発達し普及したあと、ネットはほぼ全て有料化され閑古鳥が鳴くのだろうか?という疑問である。時の流れという縦の座標軸に加え、人の多様性という横の座標軸を設定してみたい。
日本の広告は土佐日記に初出する(諸説あり)。「十六日。今日の夜さつかた、京へ上る。ついでに見れば、山崎の小櫃の絵も、まがりの大鉤の像も、変はらざりけり。売り人の心をぞ知らぬとぞ言ふなる」 訳すと以下のようになる。「16日。今日の夕方京都へ戻る。道中、山崎(地名)にある小さな箱型の絵看板も、曲(地名)にある釣り針型の看板も、以前と変わっていなかった。商売人は移り気だと聞くがなあ」 広告は、土佐日記にあるようなモノから、紙、電波、インターネット(=電子信号)と居場所すなわちメディアを変えてきたが、本質を変えず永きに渡り存続し続けてきた。資本主義が、手持ちの材をなるべく高く、多くに人に売り込むことで成り立つ以上、仮に巨人軍が滅亡しても広告は永遠に不滅である。モノからインターネットへの流れは、軽量化にその本質がある。電波は受け取る箱(テレビ)が大きいという難点から、古い媒体である紙にしつこく応戦されたが、質量ゼロの電子信号をスマホで受け取るネットの前に風前の灯である。周知の通り、広告費は紙、電波からネットへシフトしている。googleはスマホより軽快なメガネ型メディアの開発に勤(いそし)しんでいるようだが、ネットが最軽量の地位を保つ限り、ネット上の広告は不滅である。歴史の流れを見ればそう確信できる。
引用した増田氏は、広告嫌いで「広告ブロックの機能を積極的に導入している」とある。しかし、人は多様なものだ。中学生の頃ロート製薬の広告費の割合の高さを知り義憤を感じ、広告費の分味を犠牲にしているハウスのカレー(←SBと比較した主観)を一度も購入したことがない根っからの広告嫌いである私でも、広告ブロックを導入していない。広告だらけでどこに記事があるか分からないようなサイトは瞬時に離脱するが、目に優しいgoogleアドセンスやはてなのネイティブアドはほとんど気にならない。増田氏のような極度の広告嫌い、私のような強めのアンチから始まり、ほとんど広告を気にしない人まで多くの「人種」が存在する。「人の多様性」という横の座標軸を設定して考えてみたい。ほとんど広告を気にしない人の思考回路はどのようになっているのだろうか?誤解を恐れずに言えば、おぽんち、もとい批判的精神が弱い(やさしい)人種である。増田氏がこのような人種の思考を追体験するには、働き過ぎて疲れきり体調が悪くなった週末が絶好の機会である。疲れきって炭水化物や糖分を欲し、それを供給するとさらに疲れが襲ってくる不健康な状況である。そのとき横になりスマホを見ていると、普段なら見ないようなクソサイトを読み込んでしまっていることがあるのではないか。ツイッターをくっつけたようなサイトである。この批判精神なく頭が回転していないおぽんち状態の思考が、広告をあんまり気にしない思考に近い。普段ならスルーするような広告をポチットなみたいな事象が発生する。かのごとく、広告に対する処し方は多様であり、ブロックを導入する人は少数派であり続ける。そして実はブロックを導入する人は、商品選別が厳しいという属性を持つので、広告を表示しても多分買わず、広告主としてもムフフだったりするのだ(win-winの法則)。さりとて、うざい広告はひとつの型の広告の寿命を縮めてしまう。googleが考えた、スマホの下の方に出てくるが邪魔なときにシャッターを閉じるように消せる広告は素晴らしいと思う。私は特に下の方で蠢(うごめ)く広告が大嫌いなので助かる。論旨と矛盾するようだが、広告業界は現在の広告の型が永続化するようにgoogle(あるいは、はてな)の考え方を見習ってほしい。googleアドセンスの広告はデザインがダサくて誰もクリックしないなどと馬鹿な意見を見かけたことがあるが、冗談は顔だけにしてほしいものである。