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うさるの厨二病な読書・漫画日記

本や漫画、ドラマなどについて語っています。【ネタバレ前提です。注意してください】

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{ゲーム} PSP「ファイナルファンタジータクティクス」をプレイしていて疑問に思ったこと。

ゲーム

 

PSPのゲーム「ファイナルファンタジータクティクス」をプレイしていて疑問に思ったことがあったので、書きます。

 

ファイナルファンタジータクティクス」をプレイしていて疑問に思ったことを

思い出したので、書いてみます。

 

「なにを疑問に思ったのか、といえば」

一言でいえば、

 

「身分ごとの知識のレベルに、差がなさすぎないか?」

 

ということです。

ラノベ風味ファンタジーあるある、だとは思うのですが。

 

主は「ファイナルファンタジータクティクス」(以下FFT)が大好きで、

何回もプレイしています。

ただ、この部分には、当初からひっかかっていました。

 

歴史を専門的に学んだことがあるわけではないので、完全にイメージで話します。

間違っていたら、すみません。

 

ファイナルファンタジータクティクスは、

たぶん14世紀15世紀の中世終わりごろをモデルにしていると思います。

 

ひと口に「平民」と言っても、

「貧しい農民」から「富裕層」や「知識階級」までいます。

「自分たちも同じ人間だ」っていう思想をもって社会の変革を試みたのは、

この「知識階級」なんじゃないかな? と思うのです。

ウィーグラフやミルウーダは、この層に属していたのかな?と思うのですが、

その割にはミルウーダが

「ひもじい思いをしたことがある? 数か月間、豆のスープで暮らしたことがある?」

というセリフを言っているので、「貧しい農民をイメージしている?」と思って混乱しました。

貧しい農民の育ちだとすると、

貴族階級と論争するほどの知識や言論をどこで身につけたのかな?と思ったわけです。

  

あくまで主のイメージですが、同じ平民とはいえ

 

農民階級 ⇒ 生活の困窮など、生理的な条件から反乱を起こす

知識階級 ⇒ 知識や思想を身につけ、それを軸にして反乱を起こす

 

という違いがあると思っていたので、

FFTはこの辺りがごっちゃになっているのかなと思いました。

 

「家畜に神はない」…その通りなのですが。

アルガスの有名な「家畜に神はない」のセリフも、

わざわざ口に出して言うことに違和感がありました。

 

貧乏貴族の子供だと、平民の富裕層よりも生活に困窮していると思います。

「貧しい学のない農民」に対してそう思っているのならば分かるのですが、

「平民」全部をとらえて、

「家畜」と定義できるような単純な社会構造ではなかったと思います。

 

さらに言うと、

「貧しい学のない農民」は「家畜と同等である」っていう価値観というのは、

この時代において、そんなに顔を真っ赤にして叫ぶものなのかな?と思いました。

貴族にとっても、当の農民にとっても「当たり前すぎる価値観」だと思うのです。

今で言うと、ワンちゃんにむかって、

「お前は犬だ。犬に神はない」って言っているのと、同じ感覚だと思います。

「そうですけれど、それが何か?」みたいな。

ワンちゃんにとっても、「何のこっちゃ???」っていう話だと思うんですよね。

 

価値観を叫ぶときというのは、

その価値観と対立する価値観があるから、叫ばれるのだと思います。

そして、自分が叫ぶその価値観を相手が理解する能力がある、と思っている

という前提がなければ言わないと思うんですよね。

 

「貧しい農民は、家畜同然である」という価値観に対立する思想や価値観を、

FFT」の農民層が持っていたと思えないんです。

貧しい農民が学問をする余裕がある社会には見えない。

 

富裕な平民から知識階級が生まれて、社会の構造に疑問を持つ。

新しい社会構造の構想や思想、価値観が生まれて、

それがじょじょに社会全体に広まる。

 

この段階が、完全にすっ飛ばされていないかと

そこがひっかかって仕方がなかったです。

 

仮想歴史もので、全員が義務教育を受けたかのような会話をされると、ちょっと白けます。

 

アルガスも相手を家畜だと定義しているのであれば、

その家畜に対して価値観を言葉で説こうとしている状態に

何かしらの矛盾を感じないのかな?と思ってしまいます。

「相手に自分の説明が通じる」と思っている時点で、

「相手を自分と同程度の知識と思考力を持つ、同じ人間だと思っている」

ということだと思うのですが。

 

デュマの「ダルタニャン物語」などを読むと、

ダルタニャンみたいな貴族が従者に接する態度って、

同じ人間だと思っていない感じがもっとナチュラルです。

それこそ家畜扱いというか、自分の馬みたいな扱いをするのですが、

自分の馬なので、ひどい扱いのときもあるけれど

愛情や好意を示すときもあるんですよね。

 

そういう感じと比べると、

アルガスはむしろ現代人に近いキャラクターに見えます。

 

「家畜は神はない」っていうセリフは、

現代社会の「生まれながらの身分などない民主主義」という価値観と

対立する価値観として叫んでいるんですよね。

つまり、プレイヤーに向かって叫んでいるというのが分かるので、

主みたいにゲームの世界にどっぷり浸って、ロールプレイをしたい人間だと、

いっきに現実に引き戻されてしまいます。

「そういうメタな主張とか仕掛けはいらないから。」

と思ってしまいます。

 

いいんですよ。

ファンタジーなんですから、現代社会の価値観なんて考慮に入れなくて。

スカイリムくらい、

人権なんてガン無視の下衆な山賊がそこら中でゲヒゲヒ言っていたり、

人間なんて神様のオモチャですけれど、それが何か? くらいでちょうどいいです。

 

突然、どういった経緯で生まれたのかも分からない、

「人間みな平等」といった価値観をぶちこまれると、気になって話に入り込めません。

結局、「主人公に感情移入しやすいように、ということなんだろうな」

と納得するしかありませんが、

それならばおとなしく現代ものでゲームを作って欲しいと思ってしまいます。

 

FFTの主要登場人物は、全員、現代人なんですよね。

ラムザディリータもオヴェリアも、現代人の価値観を持ち、

「自分とは何者なのか」という悩みを持っています。

世界観という観点から見たときに、そのことにものすごい違和感を覚えました。

 

「世界観」はどうかと思う。ただ……。

「世界観」という観点から見たときは、

未だに背中がもぞもぞするような違和感を覚え、さんざん文句を書きましたが、

人間ドラマという観点から見たときは、とても面白い物語だと思います。

 

さんざん、現代人の感覚を持った登場人物うぜえ

みたいなことを語っておいて、とても言いづらいのですが……、

 

主は、ガフ・ガフガリオンが創作上の登場人物の中で、五指に入るくらい大好きです。

 

ガフガリオンのラムザへの説教も完全に現代人感覚のものですが、

でも、格好いいですよね、ガフガリオン。

 

「“しかし”って言うンじゃねぇ!」
「おまえは“現実”から 目を背け、逃げているだけの子供なンだよ!」
「それがイヤなら自分の足で誰にも頼らずに歩けッ! 独りで生きてみせろッ!!
「それができないうちはオレにでかい口をきくンじゃねぇッ!」

 

このセリフとか、本当にかっこいい。 

 

FFTはゲームとしても面白いし、

人間ドラマとして見たときにストーリーもとても面白いです。

それだけに、世界観と人間ドラマの折り合いがもう少しつけられなかったかな、

とつい贅沢な希望を抱いてしまいます。

ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争

ファイナルファンタジータクティクス 獅子戦争

 

 

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