心霊治療においてモラルを問うこと
―批判・擁護・解釈―
池田光穂
人は錯誤に立脚して始めなければならず、錯誤に真理を承服させなければならない。
すなわち、人は錯誤の源泉を暴露しなければならない。さもなければ、真理の声を聞いてもわれわれには何の役にも立たない。何か他のものが代わりに居座っているとき、真理は入ってくることができない。
ある人に真理を納得させるには、真理を証明するだけでは十分でなく、錯誤から真理への道を発見しなければならない。
──L・ヴィトゲンシュタイン「フレーザー『金枝篇』について」杖下隆英訳『ウィトゲンシュタイン全集6』p.393、大修館書店、1975年
心霊手術、信仰治療、呪術など、ここで私が便宜的に「心霊治療」とよぶ現象の諸事例は、世界の多くの地域で報告されてきたが、その行為の「道徳」や「倫理」についての議論はほとんどなされてこなかった。その理由はいくつか考えられるが、古典的な民族誌上の記述のスタイルにおいては、認識論的な文化相対主義が貫かれ西洋の哲学・倫理学的な議論から距離がおかれたとともに、現象の解釈と理解により多くの努力が割かれてきたことと無縁ではなかろう。むろん言うまでもなく人類学者は、多様な社会おいて多様な「倫理」をみようとしてきた。R・ファースが言うように、人類学者は“道徳的普遍を拒否するのではなく、それを人類学者の社会的素材の本性そのもののうちに探求”するという姿勢をもちつづけている。
ところで心霊治療における多くの人びとの関心は、それ自体の信憑性についてでありトリックの告発にある。同じように人類学者自身も、現実の心霊治療を前にして、そのような興味につねに無関心でいられるわけではない。だがひるがえってみると、トリックの告発はどこかに“誠実で真正な治療”があることを前提にしなければ成立しないし、また極めて相互関与的な態度決定である。とするならば、多様な社会には多様な倫理があり、と同時に人類共通の道徳もあることも否定できない、という一般的見解以上に踏み込んで「道徳」や「倫理」の問題を具体的な観点から論じる必要性もでてこよう。
筆者の「心霊治療」および「倫理学」のそれぞれに対する立場を明らかにしよう。
まず心霊治療に対する立場である。あらゆる「治病行為」ないしは「医療」はそれを支えている文化や社会が共有している抽象的な観念の一連の体系、すなわちその社会の「信条体系」と密接に関係しており、他の医療人類学者たちと同様に、私はそれが経験的に納得いくかたちで描写されうるものだと信じている。そのような信条体系は近代医療システムが導入されている先進工業地域の諸社会においてもみられることは、近代医療の社会的受容そのものが科学的有効性だけでは説明できず、人びとをしてそのシステムに信頼を抱かせる信条的働きかけがあると考えざるをえない。「心霊治療」の社会的受容とそこから派生する「倫理問題」のことを論ずる拙論において、治療の科学的有効性の是非をよりも、それが受容された社会的文化的背景を考慮することが重要とみなしたい。
次に私が「倫理学」に対してとる位置は、ちょうどフランケナーが主張した「メタ倫理学」が採用した態度に学ぶものである。それは「従来の規範的倫理学とは別の角度から倫理問題にアプローチし、倫理的命題とか判断の理論的な反省にかかわる」(岡田,1980:226)という立場である。フランケナーのことばによると、次のような一連の問いで表現される。「<倫理的に正しい><善である>というような表現あるいは用法はどういうものか、いかにして倫理的判断や価値判断は確立されかつ正当化されうるか、そもそもこのような判断の正当化は可能なのか、道徳の本性とはどのようなものか、道徳的なことと道徳外のことを区別するものは何か、<自由である>あるいは<責任がある>ということばの意味は何か、などの問いである」(ibid:227-8)。
むろんこのエッセーの目的は心霊治療をメタ倫理学パラダイムから検討するものではなく、またその擁護にあるのでもない。メタ倫理学が規範的倫理学から距離をとって眺めてみたように、心霊治療において考えられる<倫理>や<モラル>というものがどのようにして社会的に構築されているのかを考察する。
いわゆる伝統社会における呪術や治病儀礼に関する論文が現在まで数多く公刊されたのに対して、近代医学における手術への技術信仰と神秘主義的な呪術概念の習合形態と評価されることがおおい「心霊手術」は、医療人類学の研究対象としては等閑視され、意外にその実態は知られていない。
「フィリピン心霊手術師による病気のマネージメント」と題された精神科医S・ダインの報告は、その点で小さいながらも貴重である(Dein,1992)。彼は1990年11月から翌年の1月までのあいだフィリピンのルソン島北部パンガシナンの心霊手術師ルディのもとで行われた観察の記録である。ダインは精神科の医師であり、この心霊手術に興味をもっていることを予め表明し、その治療を観察することをルディから許された。彼は通訳を介して患者の術前・術後の状態についてインタビューもおこなっている。
フィリピンの大多数はカトリック教徒だが、少数派ながら5万人を越えるフィリピンキリスト教聖霊主義者連合(Union Espiritista Christiana de Filipinas)の信者がいる。彼らは聖霊像を掲げて祭礼行列をなすが、その間トランス(一種の恍惚)状態になったものに治療能力があるとされている。心霊手術師たちはこれらの聖霊主義運動に属しているが、現実に術者になれるのはルディも含めてもきわめて僅かである。また、どのようにして心霊手術師になるかは、個々人によってまちまちである。
心霊手術師ルディは1949年現地の労働者の子供として生まれた。彼自身は教育をほとんど受けておらず、それまでの人生の大半を魚売りとして過ごした。当時既婚で6歳から20歳までの5人の子供がいた。ルディはひどく重い肺の病気から回復することを通して術師になった。つまり病臥の沈頭にキリストと思わしき白いガウンを着た男が現れたのである。その男は、彼自身が治療師になることで病気が回復することを告げた。回復後、彼は山中へ40日間の巡礼をおこない、その間ほとんど食べずに水だけを飲んで過ごした。そして「深い瞑想的トランス」によって、数年後にはやがて「手術」をおこなうことができるようになったという。
ただしルディによると彼自身が術を身に付けているのではなく、彼の身体は聖霊の器であり、彼に憑いた神が何をなすべきか、どのように手を動かすべきかを告げる。手術は「注射」と手先の操作による術からなり、それらは彼が見てきたアロパシー医学の影響を受けており、また世界各地でみられる非正統医学と類似性をもつ。
毎日曜日に百名ほどが集まった小さな教会のなかで、およそ30名の患者に対して治療がおこなれる。患者はほとんどが地元の人びとであるが、2割はフィリピンの他の県から、1割はドイツ、米国、スペインからきた外国人であった。患者の訴えは、高血圧、子供の発熱、慢性的な腹部の痛みと腫脹、甲状腺腫などであるが、健康診断として受けるものもいる。ルディ本人はどのような病気にも対処できるようだが、心理的な悩みをもった患者が訪れることは少ない。
およそ2時間ほど祈りと聖水による祝福を行った後、患者に対して手術が施行されるが、それはそのうちの20名ほどである。残りの約10名には「聖霊的注射」が行われるのみである。ダインの表現によると、これは見たところ針を使わずに体に霊的なエネルギーを患者の腕に注入するものだとされている。それよりも以前にルディのもとを訪れた本山博によると、手術師が一回毎に聖書に手を置き、すぐにその人差指で白布の上から信者の身体を撫でるような表現がなされている。(本山,1977:12)。手術は、麻酔も消毒も行わずに、素手で体から「血の凝り」を取り出すという、我々には比較的お馴染みのものである。手術中の患者はその手を聖書の上に置く。ルディは聖水を口に含み患部に吹きかけ、身体から赤い液を押し出し、その中から病気の原因である血の凝りを取り出す。ルディによると“霊的なX線”の助けによって患部からそのようなものを探り当てることができる。伝統的な病因論によれば、病気は、健康を損なうような生活、呪術、血の凝りによる臓器の障害の3大要因からなるが、彼は最後の要因を除去していることになる。病気の原因が取り出された後、患部がココナッツオイルで拭かれるが、傷口は残っていない。
さて、効果のほどであるが、ダインが確かめたのは以下の2つの観点からである。ひとつは患者へのインタビューを通して患者の自覚症状がどれだけ改善されたか、ということ。もうひとつは、肉眼で診た患部の塊や腫れの術前・術後の変化である。前者の自覚症状では、この手術の効果を否定する患者は誰もいなかった。ただし、満足した者がいる反面、約半分のケースでは自覚症状の改善が一時的であり、すぐに手術前の状態に戻ってしまったという。他方、患者たちは効果があったと述べたにも関わらず、彼自身の肉眼による観察ではほとんど改善が見られなかったとしている。
この心霊手術の諸ケースに対するダインの評価はきわめて“穏健”なものである。彼は、その際に医療人類学パラダイムにおける病気の認識論的二分法である疾病/病い(disease/illness)を持ち出して議論する。すなわち、心霊手術は「血の凝り」を摘出するというふうに病いの生物学的諸相――疾病(disease)――に介入する(様に見える)が、その効果には疑問がある。にもかかわらず患いをもつ患者やその家族あるいは社会的ネットワークに感じられる諸相――病い(illness)――には一定の効果がある、というものである。この見解に異議を申し立てる必要はなかろう。ここで2つの疑問が生じる。ひとつは、その科学的信憑性が失われたとき、ルディとその患者はどのような態度を取るべきなのであろうか。別のひとつの疑問は、その社会的諸相に与える「効果」というものをどのようなかたちで人びとに明確に説明できるのだろうかということだ。
文化相対主義にともなう認識論的ジレンマに対して自覚的な人類学者ならば、前者の疑問には、我々人類学者は「態度を云々すべし」という議論には関与せず、彼らの行動を観察し、また彼らの言説を通してどのような「倫理観」が見られたかを明らかにすべきであると主張するだろう(浜本,1985)。基本的には私もこれに同意する。しかしながら、このような相対主義的な対象への無関与と問題にされている結論の延期が、「倫理問題」というきめて相互関与的な議論の参加に人類学者をして後込みさせる結果になったことは否めない。
心霊治療の効果を説明するのにフィリピンの歴史および社会的文脈についての説明がどのように動員されるか次にそれをみよう。
ルディの事例においても示唆されていたが、現在のフィリピンの心霊手術は聖霊主義者たちによるスピリティスタ運動(spiritista movement)の隆盛のなかで土着的な呪術的治療者――babaylanやkatalonanと呼ばれる――による治病の要素が習合して形成されたと考えられている(Salazar,1980)。
19世紀終わりの革命期[1890〜1920年代]の初期において、メシア的=千年王国主義的な運動がおこったが、スピリティスタ運動もそのなかから胚胎してきたという。この運動は、フィリピンの土着的な呪術−宗教的心性に支えられており、スピリティスタ運動は現在の信仰による治療は多かれ少なかれその影響下にある(Salazar,1980:33)。他方、心霊手術が生み出される以前の伝統的な呪術的治療者は、魂と生命力(human being's life force)という2つの精霊(霊)の二分法にもとづく治療的―宗教的実践をおこなっていたとされている。この治療原理は、サラザール(1980:35)によると、オーストロネシア系(またはマラヨ−ポリネシア系)にひろく共通する概念だという。魂と生命力の二分法において、魂は――タガログ語でkaluluwa、ビコルおよびビサヤ語ではkalag――知性および道徳的力源泉になり、死ぬとアニト(anito)あるいは精霊(spirit)になる。その際には魂は頭部に所在する。同様に生命力はフィリピノ系のグループではginhawaとして知られているものであり、消化管の部分、時には肝臓(atay)にあると考えられているという。
このような身体観のもとでの病気の治療とは、病人の身体に入った(ある意味で擬人化した)病気の原因(aswang)を摘出することを意味する。オーストロネシア系のビコルを話す民族言語グループの場合、治療儀礼の際にはbuyoと呼ばれる植物の葉をハップ薬として患者の頭部に貼り、儀礼的なメッセージが込められた踊りをおこなう。また魂を身体に再び組み入れることを、katalonanが予め捕まえていた昆虫を患者の頭から取り除いたり、あるいは(その逆に)吹き込んだりした(Salazar,1980:37)。
このような「伝統的」といわれる病因−治病論は、心霊治療の現場で説明されるものときわめて類似している。すなわち病因を身体から取り出したり、また生命力が外部から注入されるということである。ただし心霊治療の場合には「磁気の調節」を行なうことによって患者の身体に「エネルギー」を注入したり「充電する」と言われるように、これらは伝統的な用語が現代的な科学用語に置き変わっている。治療の場において重要になる記号の機能や操作は変わっていないのだが、記号そのものが置換されている。
フィリピンの心霊手術が、その歴史的・社会的・文化的文脈のなかでこのように特色づけられるにせよ、それはあくまでも研究し分析する側にとって辻褄のあう説明であることには変わりない。手術を受けにくるクライエントは、現地の人だけでなく、そのような文脈を共有していない欧米や日本からもやってくることに対して有効な説明がない。後者の人びとがなぜ治療に参画するかということは、マスメディアの発達やクライエントを呼び込む国際的なブローカーがいるという類の貧弱な説明しか用意されていない。このような文化の混交状況に対して文化人類学は積極的な理解を示してこなかったが、医療人類学における心霊治療の認識論的位置もほぼそれと二重写しになると言っても過言ではない。
ブラジルとコスタリカにおける心霊治療――とくに現代社会の文脈にみられる超自然的治療に焦点をあてて――を見てみよう。留意したいのは、ルソン島のルディにも見られたように、ここでも治療する主体は「治療者」自身ではなく彼についた「憑依霊」であることだ。
ブラジルの宗教状況というものがいかに錯綜したものであり、表層的には論じられないことは研究者のあいだで一致するところである。とくに、先住民族、黒人奴隷に起源するアフロ系の信仰が混交した精霊信仰――スピリティズムと総称される――があり、それらはさらにハイ・スピリティズム(espiritismo alto)[カルデシスタ部門]とロー・スピリティズム(baixo espiritismo)[ウンバンディスタ部門]に分けられており、それぞれ信者数は215万、253万(ともに1980年)だが、国民の9割を占めるカトリック教徒でこの運動に参加している潜在信者は3300万と推定され、これはブラジル人口の3割強にあたる(藤田,1992:182-3)。
ここでは3つの事例を紹介する。第1に無資格の男性が憑依して治療したアリゴーのケース。第2に現役の医師が憑依して治療するデ・ケイロスのケース、そして第3に実体としての術者が存在せず「治癒霊」ともいうべきものが病者の夢見のなかで「治療」するコスタリカのケースである。
(1)1950年代以降1971年に死亡するまでブラジルにおいてセンセーショナルな注目を浴びた心霊手術者である通称アリゴー(Jose Pedro de Freitas,1918〜1971)の事例を最初にとりあげよう。J・フラー(1985)によるアリゴーの伝記から彼のライフヒストリーの概略は以下のようなものである。
彼はブラジル国内でのカトリックの巡礼地のひとつであるミナス・ジェライス州コンゴーニャスにおいて農業を営む男8人兄弟の一人として生まれた。幼年時代から幻視・幻聴を体験する。小学校を3学年で中退し、地元の鉄鉱山労働に従事する。1943年(25歳)結婚し、その後組合の委員長に選出される。1946年ごろ会社から解雇され、酒場兼食堂を自営するようになるが、このころ悪夢に悩まされる。夢のなかでドイツ語を話す男性のしわがれ声を聞く。その男はドイツの医師アドルフォ・フリッツ博士と語り、アリゴーが覚醒している際にも頭痛や幻聴があるようになる。フリッツの幻覚からは解放されず、現代医療の検査からカトリック神父の悪魔払いの儀礼まで受けるが好転しない。やがて、フリッツ博士の幻聴のままに指示すると――例えば、松葉杖の病人に、それを奪い“歩け”と命令すること――その通りになり彼自身は動転するが、頭痛や幻覚は消失したという。
1950年(32歳)憑依の状態でブラジル上院議員ルシオ・ビテンクールの「肺癌」を初めて切除する。ビテンクールの病気の好転とそのセンセーショナルな公表によって村中で注目の的になる。村落の聖霊主義者たちは、交霊会を開催しフリッツ博士がアリゴーに憑依していることが公に表明されるようになり、やがて、彼は憑依の内に患者を治療することがルーティン化するようになった。
地元のカルデック主義者――フランスに起源をもつ聖霊主義だが慈善や福祉事業に積極的で各地に病院、ホーム、学校などを建設する社会活動をおこなう――の協力のもとで聖霊センターを開設する。のち、「ナザレのイエス聖霊センター」と称する新しい治療センターを開設する。このとき村長選挙に出るも落選している。50年代の後半にブラジル大統領ジュセリーノ・クビチェクの娘が腎結石のためアリゴーに手術を受け、ブラジル国内のマスコミに大々的に取りあげられるようになり国内において毀誉褒貶相半ばした。
1956年8月カトリック教会と州の専門医が働きかけ、不法医療行為――ブラジル刑法284条、医師免許なくして薬物の投与もしくは手術、催眠を禁じた法律――の疑いで訴追されるが。57年3月に1年3カ月の懲役刑の判決が下り。さらに上級審では8カ月(執行猶予1年)とされたが、58年5月クビチェク大統領による特赦が下る。その後、以前と同様に治療を続ける。1960年米国の医師プーアリッチの脂肪腫への手術がマスメディアを通して再び有名になった。1964年10月起訴。同11月1年4カ月の懲役が下りすぐに収監される。プーアリッチは彼の活動に対して理解を求める旨の手紙を書き、またブラジルのメディアも抗議をした。65年6月仮釈放、控訴審で減刑され、同年8月から11月まで服役した。ただし藤田(1992)によると、連邦最高裁判所は「宣言」を破棄とし、彼は刑期途中で釈放されたことになっている。67年に米国の医学研究者による調査され、それ以降北米のさまざまな領域の研究者がアリゴーを調査しているが、71年交通事故で死亡している。
アリゴーによる治療は無料で行なわれた。彼は病人の前で憑依した状態になり――これはフリッツ博士とイエスが憑依したと説明されている――になり、鋏や包丁などの道具で患部から“病巣”を取り出す。さらになぐり書きで「ドイツの薬品名」が含まれた処方箋を書く。フリッツ博士の声は、ポルトガル語で彼の左耳から聞こえ、その声に従って手を動かす。手かざしも、ハンセン病患者の治療で用いられたという。アリゴーの心霊治療師としての後半生は法的権力による無資格者治療の告発とそれに対する世論の擁護という構図の中で過ごされた。
(3)医師の有資格者が心霊治療を恒常的におこなった場合はどのようなものであろうか。デ・ケイロス医師の場合がその恰好の素材を提供する(藤田,1992:179-181)。
デ・ケイロス(Edson Cavalcante de Queiros )は、アリゴー、オスカル・ヴィルデ、バイア州のエバルドに続く第4のフリッツ博士の霊媒であるとの評判をもつ男である。つまり71年のアリゴーの死後、その憑依霊であったフリッツ博士は、第2、第3の心霊治療者たちに次々と憑依してゆき、四代目の継承者がデ・ケイロスであるというのである。
彼はペルナルブコ州のレシフェの現役の産婦人科医である。デ・ケイロスは、1980年代にフリッツ博士の霊を受けたという。外科用のメスを用いるが麻酔剤は使用しない。ブラジルの南部を旅行し、スピリティストセンターで毎水曜日に助手を3名使って治療をおこなう。多数の手術希望者から、憑依したフリッツ博士の霊が多数の患者の手紙から選び、その治療法を自動書記で教える。デ・ケイロスは当初、手術を公開しなかったが、その所属宗派であるスピリティスト連合によって公開された後には、専門医やマスメディアにもその手術の状況を公表しているという。
彼はいつもは産婦人科医として収入を得ているが、フリッツ博士として手術する時には料金を取らない。そのため、彼の報酬を要求しないほうの行為が医師法に違反しているとして、ペルナンブコ地方医師会は彼の免許状の取消を承認することを投票可決した。それに対して全国レベルの国家医師会は、地方医師会の決定を覆して差し戻した。しかしながら最終的に同地方医師会は1988年に医師免状の取消を可決している。
このアリゴーやデ・ケイロスの治療に関する叙述や、ブラジリア郊外で心霊手術――ゴヤス州パルメラのアントニオ師による――を実見した外科医である佐藤純一(1992,および私信)よると、フィリピンの心霊手術のように傷口が「消失」するとされるのとは対照的に、ブラジルの手術の特色は実際にメスやナイフなどの刃物を用いて皮膚が切開され術後に傷跡が残ることである。皮膚の切開は、法的な概念では傷害行為にあたるが医師の手術行為は正当業務行為となり、その違法性が阻却される。したがって、アリゴーの場合には不法な医療行為が摘発されたのであり、デ・ケイロスの場合は、法律のレベルではなく、医師の専門職集団である医師会内部の「自律性」から導かれる内的規制に抵触し免許を剥奪されたものであろう。いずれにせよ、この具体的な皮膚の切開という事実がブラジルの心霊手術を大きく特徴づけるとともに、つねに「不法な医療行為」として告発される危険性をもっている。
(3)フリッツ博士のような憑依霊は、媒介となるある具体的な人間――霊媒――なくしては我々の前には登場しないのであろうか。霊媒ぬきのいわば「治癒霊」あるいは霊媒を通して指示こそはするが、あくまでも病者の夢見のなかでしか「手術」したという事例がコスタリカをフィールドにする人類学者セタ・ロウによって報告されている(Low,1982)。ここでの憑依霊または治癒霊は、かつて実在した医師なのである。
実際のモレノ・カーニャス博士(Ricardo Moreno Can~as)は1890年5月8日にコスタリカの首都サンホセに生まれている。1915年にスイス・ジュネーブ大学の医学校を卒業。インターンとしてジュネーブ、外科のレジデントととしてサヴォイで過ごした。20年に帰国し、23年サン・ファン・デ・ディオス病院――現在でも同国最大の病床数をもつ――で外科助手、27年に整形外科長に就任する。34年コスタリカで初めて開胸心臓手術をおこない、36年に外科長になった。その間、心臓外科領域の実践や論文の出版などの功績により数々の栄誉を受ける。1938年8月23日に彼の元患者から射殺された。犯人の供述によると、彼の手術によって腕の変形を引き起こしたことへの逆恨みだというが、政治的な理由によるものという説もある。カーニャスの人柄についてはなかば神話化されている。彼は、そのエネルギッシュで誠実な人柄、どのような患者に対しても平等な治療を行なったことなど、生前からカリスマ的魅力があったらしいが、彼の悲劇的な死によって一躍コスタリカの愛国的なシンボルにまで押し上げられてしまった。彼の活躍は、当時から現在まで新聞等のメディアで繰り返し誉め讃えられている。街や村落の薬草店には彼の写真を配した祈祷文が売っていることもある。祈祷文は写真=像にコップ一杯の水と一本の蝋燭を灯して読み上げられる。彼はカトリック信仰の土壌のなかで民衆の守護聖人なみに扱われているのである。
彼の没後から、モレノ・カーニャース博士が夢見を通して手術したり霊媒の口を通して指示を与えるという信仰が登場しはじめた。例えば祈祷文を繰り返し唱えながら祈祷していたら病気が治っていた。就寝前に祈祷してレモン水を飲むとそれが薬に変わったのか翌朝には治っていた。カーニャス博士の手や白衣が幽霊のように現れて癒す。時に看護婦を伴いながら博士が出てきて病者に施術する。霊媒の口を通して治療や指示を与える、といった具合である。コスタリカ独特の交霊術(エスピリティスモ)の霊媒によると、博士以外にもアリ博士,ジョンソン博士,パトリシオ師など霊的な医師がおり博士の友人となって登場し、先のような治療をおこなうというのである。
ロウがあげるより具体的な現代の事例は次のようなものである。身体の片麻痺をおこした女性が脊髄の手術を受ける予定で病院に入院した。彼女は、同じ病室の隣のベットの女性患者に(治癒霊としての)カーニャス博士の評判とその祈祷文を教えられた。彼女はそれに対して当惑したが、疑いながらもそれに従ったという。しかし、その夜白衣の医師が看護婦を伴って彼女のところに現れ寝ている間に手術をおこなったことを告げた。翌朝自分の腕と足が自由になっていた。担当の医師は驚いたがその理由については一切分からなかった。それ以降、カーニャスが2週ごとに現れて、彼女は踊れるまでに回復した。退院し病気が治ったという時点においてもカーニャス博士は(夢見において)ときどき現れ現代医学さながらのことをやって帰るという。
この治癒霊信仰という現象に対する人類学者ロウの説明は、きわめて社会学的に一般化されたものである。つまり、コスタリカの保健に関する文化は、近代医療、パラメディカル医療、および民俗的医療(フォーク・メディスン)によって構成されており、多元的な体系をなす。しかしながら、1970年代の国家財政に占める保健予算の割合の急増、マスメディアにおける健康関連記事の多さは、彼らが“保健中心の”文化に生きていることを示すと同時に、それが多元的なものから近代医療を偏重したものにシフトする傾向にある。つまり「医療化」や「専門職医療」の権力は増大している。そのような中で、カーニャス博士は、高度技術医学と聖なる医師のイメージが合体化されたシンボルであるといえる。人々のカーニャス信仰のカルトへの傾斜は、近代医療の現実的効果よりもカーニャスへの信頼への表明する点で近代医療からの解離すなわち“脱医療化”現象のように思えるが、人びとにとっての理想化された医師=全能の力をもつ医師としてのカーニャスへの信仰という現象は、あきからに増大する医師の権力を象徴しているとロウは主張する(Low,1982:530)。
現実――少なくとも世俗界――において、実体のない治癒霊が患者との関係において成立する「契約」に基づく道徳的問題を抱えるとは考えられない。ではフィリピンやブラジルの心霊手術のように憑依霊の指示のもとに「手術」を敢行した治療者は、その手術の成否に対して責務を負うべきものなのだろうか。あるいは、摘出した病巣といわれるものが患者の身体から出てきたものでない――実際他の動物の脂肪組織と同定された報告もある――場合、心霊手術者に道徳的責任は問われるのだろうか。さらに、より明確に手術者がトリックを弄していると知っている場合の治療者のモラルは問われるべきなのだろうか。このことを理解するためにも、すくなくとも治療者がモラルにおいてダブル・スタンダード――この場合は治療者のアイデンティティに関わるモラルと患者に対するモラルの2つの基準――を具有している事例の検討が必要となる。次にそのことを考えてみよう。
4.呪術者がトリックを弄するとき――クワキウトルのケサリード
レヴィ=ストロースはその古典的な論文「呪術者とその呪術」のなかで“呪術がどうして未開社会の人びとに効力をもつのか?”という誰もが抱く疑問に対して、彼の社会理論と当時の生理学的知識の水準とを折衷的に統合させている。後者の医学理論とはキャノンのブードゥー・デスに関する論文に依拠し、呪術による死亡が心身相関の医学理論から説明できることを示唆する(レヴィ=ストロース,1972:183-5)。しかしながら、その効果は――論理的帰結として呪術がかかるそれ以前に――“呪術への信仰”がなければ期待できない。そして彼によれば、その信仰は相互に補う次の3つの要素からなりたつ。
すなわち、(1)当該の社会集団が抱く信頼と要求、(2)患者や被害者の呪術師の術の効験に対する信仰、(3)呪術師の自分自身の術に対する信仰、である。しかしながら、シャーマニズム複合ともいうべきこれらの要素を相互に完全に分離することは不可能である(op.sit.:197)。したがって、それらの設問を敷衍した次のような新たな問いとして立て直す。すなわち、(1')呪術者の“例外的能力”はどのように信じられ、またどのように批判されるか?、(2')呪術師の告発は集団の合意に基づくが、そのとき告発された人間はどのように行動し抗弁するか?、(3')呪術師が患者に対してトリックを用いるとき、術師からはそれをどう意識するか?。そして、彼はそれぞれの問題に対して民族誌から対応する3つの事例(ナンビクワラ、ズニ、およびクワキウトルのそれぞれの民族)をとりあげる。心霊治療に関する道徳の問題を検討するには、(1')(2')とも重要な課題であり後に検討を加えたいが、ここでは前節の最後に呈した疑問である治療者のモラルのダブル・スタンダードについて、レヴィ=ストロースが取りあげた結果きわめて有名になったボアズの採集したクワキウトル語との英語対訳テクスト(Boaz,1930[1969])に綴られた通称ケサリードという男の自伝的物語について考えてみよう。
改めて問題をより簡潔に表明しよう。呪術師が患者に対してトリックを意図的に用いていることが理解されているとき、呪術師はそれをどう意識しているのか、と。レヴィ=ストロース(op.sit.:192-201)よるボアズのテクストの要約でありケサリードのメタストーリーともいえる物語を次に整理して提示する。
(1).クワキウトル・インディアンのケサリードは、呪術師たちのトリックを知りたい、あるいは暴露したいという好奇心で呪術師集団に弟子入りする。実際、彼は徒弟教練を通して呪術師の種々のトリックについて知ることになる。その手管は次のようなものである。「失神を装う術。ヒステリー発作の真似。呪歌の習得。みずから吐瀉する技術。聴診や助産術に関するかなり的確な概念。『夢みる人』とよばれるスパイの利用法。その任務は私的会話を盗み聴いて、誰かがかかっている病気の原因や症候について何ほどかの情報を秘かにシャーマンにつたえることである」。あるいは、綿毛の房を「口の隅にかくし、潮時に自分の舌をかむか歯茎の血を出すかしてからこれを血まみれにして吐き出し、おごそかにこれを病人と居並ぶ人たちに見せて、これが、彼の吸い出しとその他の操作によって患者の身体から追い出された病原体だというのである」。これらは総じて「無言劇と奇術と経験的知識の奇妙な混合」とレヴィ=ストロースはみなしている。
トリックの内容を知りたい彼の欲望は、その知識と技術の習得をさらに強化することになる。なぜなら、より見事なトリックが呪術者のより深度の増した訓練のなかで教えられるかもしれないからである。その時点で彼は周囲からシャーマンの弟子であることを認知されており、彼自身にも“治療”の依頼がくる。その治療では大成功を収めたが、ケサリードは自分がおこなった治療がトリックであることを知っており、病人の彼への過剰な信頼がそれを治療なさしめたと自ら理解する。
(2).コスキモー・インディアンのシャーマンを訪れたあたりから、ケサリードのトリックを使った治療に関する信念はゆらいでゆく。コスキモーの治療師は、たんに口から唾を出してそれを病気の原因だと称する。ケサリードはこの治療法で回復しなかった婦人を、血塗れの綿毛のトリックによって見事に回復させるのである。このことは自分が不誠実な治療を行なっていたことを自覚しているケサリード本人をさらに困惑させた。信用を失ったコスキモーのシャーマンたちは秘密の会議を開催し、ケサリードにも同席を求めて彼ら自身の病因論・疾病論を解説した。コスキモーたちによると、病気は災いをおこす人であり、病気の魂をシャーマンが捕まえるやいなや病気は死に、その病気の肉体はシャーマンの体内において消失するという。ケサリードがなぜ病気を眼に見えるかたちで示したのかについて、コスキモーたちは質問をしたが、彼は自身が修行中であることを理由にそれに答えることを拒否した。「秘密」の保持は、それとは論理的な対立をなす「漏洩」への誘惑によって極めて先鋭化した経験をかたちづくっており(ジンメル,1979)、ケサリードまさにその渦中にいたのである。答えることを取引の条件にしたと思われる処女の提供という誘惑にも彼は耐える。彼は「秘密」を明かさなかったのだ。
(3).ケサリードは次に高名なシャーマンから験比べの挑戦を受ける。彼はケサリードが見破れなかったテクニックを用いて施術するが、またしてもケサリードが勝利して病気治療に成功する。名誉が失墜した老シャーマンはその血塗れの(綿毛の)虫の術についてケサリードに説明を求める。ケサリードは老シャーマンが使ったテクニックの聞き出しに成功するが、自分のものについては語らなかった。威信を失った老シャーマンは家族と共に夜逃げをし、悲劇的な最期を迎える。
(4).ケサリードはその後、他のいくつかの治療師のトリックを暴露しながらも、自分の治療を続けた。そのような多様な経験を積んだ彼にも見破ることができなかった技術をもつシャーマンがいるという。彼によると、そのシャーマンが本物である証拠としてあげた条件とは次のような特性である。つまり、癒された人々から彼が報酬を受け取らなかったことと。また彼が一度も笑ったことがないことをあげている。
初期の動機であるトリックを暴露したいという欲望から、シャーマンの真贋を下せるようになるに至ったケサリードのシャーマン的転回はどこに見いだせるのだろうか。レヴィ=ストロースによると、それはケサリードの初期の虚偽の暴露という最初の動機から浮上し、最終的に本物のシャーマンが存在するに至ったという確信こそが「彼がその職業を誠実に遂行していること」(op.sit.:196)を如実に証明するものだとしている。そして、彼自身が本物のシャーマンになったかどうかについては、「物語の終りにきても、それはわからない。しかし、彼がその職業を誠実に遂行していること、その成功を誇っていること、また対抗するすべての流派に対して、血まみれの綿毛の技術を熱烈に擁護していることは明らかであり、はじめはあれほど嘲笑していたこの術の欺瞞性のことは、すっかり忘れてしまったかに見える」(op.sit.:196-7)と評する。
ところでクワキウトルのシャーマンはまったく自然科学的根拠のないトリックだけを弄していたのではない。クワキウトルおよびその周辺のインディアンの治療者たちは、経験的かつ実証的な知識の集積や一定の効果のある技術体系をもっていた。彼らの治療は、我々の水準から見ても荒唐無稽なものではない。またそれ以上にシャーマニズム複合というも現象がみられ、心身相関的な「心理療法」としてその治療効果を論じることもできよう。だが、それ以上に大切なことは、シャーマンの治療の効果を験比べによって比較することができる、つまりそれを社会的に裁定できるクライエントの集団があることだ。これは、患者の側から医師の治療水準を評定できない――経験的事実と異なり近代医療の専門職集団はそれに属する医師間の能力差を公的には認めていない―−我々の社会とは根本的に異なった様式で治療者を位置づける。だからこそ、レヴィ=ストロースのこの論文における著名なレトリック――「ケサリードは病気をなおしたから大呪術師になったのではなく、大呪術師になったから病気をなおしたのだ」(op.sit.:198)――が、逆説的であるにもかかわらず常に新鮮に感じられるのは、病気治療に関して我々が理解している病気治療能力の因果理解と実際の経験との不協和のなかに我々自身が生きているからにほかならない。
むろんケサリードの勝利は、彼自身が演じた役割の内在的な理由のほかに外部条件にもよっている。それは他のシャーマンたちがその験比べにおいて壊滅したからである。ではなぜ他のシャーマンたちは敗北したのだろうか。まず、彼らの壊滅の原因は、その状況における彼ら自身の態度の中に求めるべきである、とレヴィ=ストロースは指摘する。「世間の物笑いになったと嘆き、‥‥その屈辱感を表に出す」(op.sit.:199)ことは、その壊滅がシャーマンと集団とクライエントの間の社会的合意の失敗にあることを意味する。この彼の論理を敷衍すると、ケサリードの成功は非常にパラドクシカルである。もともとケサリード自身はシャーマンのトリックを暴こうとしてこの道に入ったのであり、シャーマンとしての名声を獲得するという野心は無かった。野心とはシャーマンとして認められるという社会的合意を取りつけることである――野心が無ければ失望することはない。また、他のシャーマンたちが験比べに敗北したとき、彼に対して秘密であった自分たちの治療理論や技術を容易に教示した――それは彼らにしてみれば“情報の取り引き”ための代価であった。しかし、彼は“修行中”の身であることを盾に、その取り引きに応じなかった。端的に言うと“彼は自分の欲望のために仲間を裏切った”のだ。彼は他者の知識と技術の本性を暴くという目的性ゆえに、逆にそれらを特権的に享受することができた。他方自らの情報を漏らすという別の欲望に溺れることがなかった。結果的に、それがケサリードの動機とは裏腹に、彼自身がシャーマンのなかのシャーマンとして成長させたのである。
古代ギリシャ医学のテクストの中にも心霊治療に関する議論を見つけることができる。それはヒポクラテスないしは彼の属する医学派がそれとは敵対関係にある治療システムについて批判したもののなかにある(『古い医術について』)。その批判のねらいは、超自然的な原因とされ、それにもとづいて治療がおこなわれていた「神聖病」というカテゴリーの解体と彼らに敵対する治療体系の無力化にあった。
神聖病の様態とは具体的にはいかなるものであろうか。ヒポクラテスの説明は次のようなものである。「‥‥声が出せなくなって息が苦しくなり、口から泡を吹き出し、歯を喰いしばり、両手をひきつらせ、眼をぐるぐる回し、意識を失い、中には脱糞する者もある。」(op.sit.:47)「幼児から病みついて習性化した人にあっては、風の変わる季節にこの病気をおこし、たいていの患者が発作をおこす癖がついている。」(op.sit.:51)「幾年間もこの病気にかかっている人は、発作のおこりそうな時にはその予期がある、そして自宅が近ければ人中から家へ逃げ帰るし、家が近くなければなるべく人気のない場所へ行って、倒れたところを見られないようにするため、急いで顔を蔽う」(op.sit.:52)。
ヒポクラテスは神聖病への治療と患者への禁忌について次のように描写する。「‥‥祓いを施し呪文をとなえ、沐浴を禁じ、病人が食べるに不適当な多くのものの摂取を禁じた。すなわち海のものでは赤ぼら、尾黒、撞木鮫、うなぎ――これらはもっとも有害な魚であるから――、山羊、鹿、豚、犬の肉――これらは肉類の内でももっとも胃腸をいためるから――、また鳥では雉、鳩、野雁、その他もっともキツイと考えられているもの、野菜では薄荷、韮、玉葱――辛烈なものは病弱者によくないから。また黒い衣服を着てはならぬ――黒は死のしるし、山羊皮を寝具にしたり着物にしたりしてはならぬ、足と足、手と手を重ねてはならぬ――すべてこのような所作は禁止であるから」(op.sit.:39)。あるいは「‥‥祓い清めと呪文を施し、‥‥この病気にとりつかれた人々を血やその他のこれに類似したもので清めるのであり、これは汚れをもっている者、仇として追われている者、他人から呪詛されている者、もしくは不敬虔な行いをした者であるかのような取り扱いが(おこなわれて)‥‥、そしてその廃物は誰にも触れたり踏んだりしたりしない土中に埋め、海に捨て、山に運んで捨てる。」(op.sit.:42)
さらに批判の対象となっている治療者集団に共有されていた神聖病の徴候の説明にまでヒポクラテスは踏み込む。「患者が山羊のまねをしたり、啼声をあげたり、右半身痙攣をおこしたりするならば、それを神々の母(ヘラ)のせいだと言う。また鋭くてよく透る声を発するならば、それを馬になぞらえてポセイドーンのせいだと言う。また病気の緊張のためによくあることだが、糞便をもらすならば、異名をエノディア(道中神すなわちヘカテー、もしくはペルセポネー)とつける。もし鳥のそれのように回数が頻繁で希薄になれば、牧羊神アポロと名づける。もし口から泡を吹き足で蹴るならば、その責をアーレスが負わされる。夜間おびえて恐怖がおこり、精神錯乱し、寝床から跳び起きて戸外へ逃げ出すならば、ヘカテーが憑いた、もしくは半神たちが襲ったのだという」(ibid.)。
この描写はヒポクラテスないしは彼が属した学派の標榜する病気の認識論から出発したものである。しかしながら彼が批判を加えた“神聖病”派の病因論への言及が揚げ足取りのために枝葉末節をあげつらったために、逆に古代ギリシャの神話と身体の徴候の隠喩的関係についての資料を我々に教えることになったのは皮肉である。
他方、ヒポクラテス派の医学理論はあまりにもシンプルである。モラルと技術が直結した医術とは「およそ病人から病患を除去し、病患からその苦痛を減じることである、そして病患に征服されてしまった人に治療を施すことは、医術のおよばぬところと知って、これを企てることを断わることである。」(op.sit.:87)。多くの心霊治療が御都合主義的レトリックと治療の万能性を標榜するのに対して、医術の限界を悟ることをこの学派のモラルとして厳密に要求する。つまり「‥‥医術のおよび得ないことを医術に対して要求し、自然(人体の自然的力)のおよび得ないことを自然に対して要求することの無知は、無知よりもむしろ狂気に縁が近いからである。なぜならばわれわれは身体にそなわる自然的手段によって征服することの可能な病気を扱うことを業とする者にはなり得ても、そうでない病気を取り扱う者にはなり得ないのである。それゆえもし人間が医術にそなわる手段よりも優勢な病患におかされるばあい、これを医術で征服できるなどと期待してはならないである」(op.sit.:92)。したがって、それはまた医術を実体としてつつましく認める立場にも通底する。すなわち、「‥‥思うに、およそ存在しない技術なるものはないのである、存在するところのもののうちの何かを存在せぬと言うのは不条理だから。‥‥そして私の意見では、それらの技術がその名称を得るのも、その実体(エイデア)のためにほかならないのである。名称から実体が生まれ出るなどと考えるのは不条理であり、また不可能であるのだから」(op.sit.:86)。
このような背景を理解すれば、ヒポクラテスが「神聖病」概念に対して仕掛ける言説戦略が「神聖病」の脱神話化にあることは明かである。ヒポクラテス派の狙いはこうである。特定の病いに対して「神聖病」という特権的な地位を与えることの不当性を証明すること。そしてその目的を遂行するために彼(ないしは彼の学派)によって採用された言説上の戦略は連携する2つの戦術を用いる。ひとつは神業の無謬性ないしは(人間に対する)非攻撃性という宗教的ドグマをもって「神聖病」という概念が存在しないことを主張することである。そして他のひとつは、この分類上の位置を失った「神聖病」が、彼らが支持する医学理論によって整合的に説明することができ、通常の病気として取り扱える(=分類的に再配置される)ことを主張するのである。この2つの戦術はある意味で明晰な展開をみせる。
と同時に、彼は敵対する「妖術師、祈祷師(祓師)、托鉢僧、野師等」が虚偽――内面に感じている意識と実際の行動の不整合――であることを告発する。つまり道徳的裁断を下す。「‥‥この者たちはいかにも神を崇め知識もすぐれているかのように見せかける。けれども実のところ神をかくれみのに使って、処置に窮したのをごまかそうとしているのである。そうして無知の曝露をおそれ、この徴候を神聖と見なしたのである」「彼らは知恵が優れているかのようによそおったり、理由をもうけて神業のゆえにこれらを禁止を課したりする。それはもし患者が健康を回復するならば彼らが有能だという名声があがり、もし死亡しても十分言いわけできて、けっして彼らのせいであるという口実をもてるようにである」(op.sit.:39-40)。そして、ヒポクラテスは告発される側の内面に立ち入って解釈を敷衍し、“外面”とは逆の事実が進行していることを告発する。「したがって私の考えるところでは、この仕方でこれらの病気を神聖とも神業によるとも思ってはいないのである」(op.sit.:40)。そして、最終的にはこのような所行は詐欺であり、また神に対する不敬であると言うのだ。
我々はここに心霊治療に対する批判の原型というものを認めることができる。というのは、ヒポクラテスが加える批判には、自分が拠って立つ理論やパラダイムからの論駁と同時に論証ぬきの道徳的非難――反道徳であるという一方的決めつけ――から構成されているからである。
社会的な効果としてのトリックの告発とその認定は、その情報を得た人びとに否定的な感情を喚起する。すなわちそれまでの治療行為が一転して反道徳的な行為として人びとの眼に映るからだ。だが、誰がそれをトリックであると告発し、また表明するのか。ここでは、次の3つの場合が考えられる。(1)治療者本人あるいは治療に関わる内部からの暴露的告白。(2)患者の病気の治癒――少なくとも“自覚症状の改善”――がなかった”ことによる患者本人あるいは家族の異議申し立て。そして(3)ビデオなどの映像の分析や摘出物の科学的分析など、心霊治療の文脈とは別の外部からの告発、である。
まず最初の治療者本人による告白というものは通常ではほとんど見られない――それゆえに人びとの関心も大きくしばしばスキャンダルになる。「大呪術師」ケサリードは功成り名をとげてから、過去を振り返り心情を告白したが、彼は自分の職務内容の秘密を現役の時代には語らなかった。そして、過去の時点で抱いていたシャーマンの術に対する欺瞞の念は、人類学者ボアズに告白し終えたときには忘却(アムネジア)されていた。つぎの患者からの告発であるが、もともとクライエントは一種の宗教的信者であり、患者の権利主張のように治療における近代法的な契約そのものが成立しにくい(=“治すのは術者ではなく憑依霊である”)ためもあるのだろうか、実際多くを認めない。そこで、理屈の上でトリックの告発がいちばん多いと予想されるのは、第3番目の告発つまり“科学的検証にかけてみたがまったくの出鱈目であった”という外部からの評定であり、これは経験的事実と一致する。
だが現代の心霊治療は近代科学による異端審問に常にさらされているわけではない。フィリピンの心霊手術を報告した精神科医ダインのように「オカルト科学」には組みしない学者の報告の多くは、その治療の技術的内容については不問にする。あるいは有効性がないと表明しながらも、患者の自覚症状の改善――それも比較的短期間――があるとしている。結局、心霊治療を近代社会にはびこらせている危険性(リスク)よりも、それを根絶することに伴う排外主義の危険性を警戒する倫理的な相対主義者は、A・ワイルの主張する穏健な代替医療に関する結論に同意せざるを得ない。広範囲なそして比較的リベラルな調査からワイルは、すべての治療法には以下の5つの共通点みられるという(ワイル,1984:258-262)。
1.絶対に効かないという治療法はない。
2.絶対に効くという治療法もない。
3.各治療法は互いにつじつまが会わない。
4.草創期の新興治療法はよく効く。
5.信念だけでも治ることがある。
そして、この5つのそれぞれの共通点を包括する統一変数は“治療に対する信仰心”であるというのだ。すくなくとも、いかなる治療法もそれに対する“信仰心”――「信条体系」とも解せる――があれば効果があることになるというこの結論のもとで、心身二元論にたつ生物医学パラダイムにおける治療の有効性を論証するためには、心身相関あるいは偽薬=プラシーボ効果という現象を認める必要が生ずる。
実際に治療者の側から「トリック」があることを暴露しながらも、かつ治療の有効性を主張する人間はこの偽薬=プラシーボ効果を楯に心霊治療を擁護する。フィリピンの治療師に2年半弟子入りをした米国の治療師の言い分は次のようなものだ。
「自分の目で見なければ何ごとも信じないような時代には、手術がその役割を果たしている。ひとつには、その儀式が偽薬となり、患者の自己治癒力を呼び覚まし、通常の医療以外の方法でも健康になれるという思いが強まるのだ。患者の病気の原因となっているエネルギーを、掌に隠し持った組織片に移し、健康回復に向けてあらためてエネルギーを注ぎ込むのが、この儀式の本質だ」(クリップナーとヴィロルド,1986:380-381)。
見方によってはほとんどトリックを弄することに道義的反省もなく、虚偽を指摘されても居直るような見解ではある。ところがトリックそのものを悪いものと考えないより一歩踏み込んだケースもある。R・ローズが調査したオーストラリア・アボリジニーのシャーマンは、トリックを指摘された時に「効き目があるからさ」と答えたという(ibid.)。この場合、トリックを行なうことの道義的責任をシャーマンは感じていない。また患者の側にも治療儀礼の際にトリックが行なわれることを了解している場合もある。むろん、そのような社会においてそれがトリックであるというコンセンサスは得られていないはずである。それを「トリック」と認定して質問を発したのは、ほかならない<外部>からきた調査者であるからだ。なお補足しておかねばならないが、私は倫理的相対主義における<内部>と<外部>の区分はじつは極めて便宜的なものであり、当該の倫理を裁定する権力関係の社会的網目のなかでいかようにもその境界は変わり得ると考えている。
では、プラシーボ効果による治療が有効であった場合、その治療行為は正当化できるのだろうか。心霊手術師の派手なパフォーマンスによって患者の状態が改善されたことを考えてみよう。(A)非合理的な治療に倫理を持ち込むことはできないという考えと、(B)科学的に辻褄があった場合の倫理について考える、という2つに分けられる。前者は、科学的観点からみて非合理的な履行内容を要求する契約そのものが無効であるので、合理的な契約における倫理原則が成立しないという主張である。後者では、手術が超自然的な“奇蹟”以外の要因でおこったとすれば、それは科学的に辻褄が合わねばならず倫理について考えようという立場である。
さらに後者(B)における科学的辻褄には二つの可能性が考えられる。つまり心霊治療を行なったこととは無関係の(α)自然治癒か、あるいは治療と因果関係をもつ(β)プラシーボ効果、である。両方とも、心霊治療を受けたことは治癒の契機にはなったが、直接治癒に関わったのではない。たまたま偶然に自然治癒したか、あるいはプラシーボ効果を生んだのである。従って治癒させたのは自分の身体そのものなのである。
(α)自然治癒の場合。心霊治療と因果関係はなく、たまたま偶然に生起したので、倫理的な問題は起こらない。しかし強いて問題化するならば、治療とその効果に因果関係を認めないならば心霊治療者は、明らかに患者を欺いていることになる。
(β)プラシーボ効果の場合も同様である。患者が治療を受ける以前から“奇蹟”を治療者に期待して手術を受けたわけであるから、治療者は奇蹟をおこなったことを患者に証明する(ないしは納得させる)ことができない場合、患者に対して騙した態度をとったことになる。手術師は、患者が騙されることを知って手術を施行したわけである。
しかしながら、心霊治療において治療者がその道義的責任問題について追求される可能性は、たんに患者が治癒を感じなかった場合よりも、はるかに低い。すなわち、現実的に倫理問題がでることは極めて稀だ。だが、騙されることがプラシーボ効果を生み出すための必要な条件であったとき、手術者はその虚偽を正当化できるだろうか。「手術は虚偽を行なうことであり、その虚偽のプラシーボ効果によって治癒がもたらせるのだ」と“科学的”に主張する術者はなどいまい。
人びとが代替としての心霊治療を求めている以上、この行為は有効でありまた正当性をもつといういささか功利的な主張もある。例えばアリゴーが事故死した後にフリッツ博士が憑依し、心霊手術をおこなっていたオスカール・ヴィルデが、75年に医師法違反で訴えられたとき、彼[とその弁護側]の弁明は次のようなものであった。彼は、自分がフリッツ・ヘルマン(アリゴーではアドルフ・フリッツ)の霊媒であり、医師数や医療施設の不足しているブラジルでは(代替医療として)この種の治療が有効であると主張する。また、霊媒である自分が死んでも、別の人に憑依し、新しい医学であるこの種の療法を続けるであろうと述べた、という(東,1985:341)。
“治療者の<ほんとう>の意識”はどうだったかという疑問は現在のところ意味をなさない。誠実さと<ほんとう>(オーセンティック)を社会的態度のなかで比較的近接なものとして意識づけることは決して普遍的なものではなく歴史的社会的諸条件のなかで形成されるものだからだ(トリリング,1989)。むろん我々は、そのような「外面の行動」と「内面の意識」を関連づけて人びとが紡ぎだす虚構には、それが現代人にとって大きな意味をもつ以上じゅうぶんな注意を払わねばならない。「<自己完結的な内面性>という発想は、他者との具体的な関わりを単に二次的なものとみなす点で、人間にとって危険な、非人間的な誤解である」(大庭,1993:11-12)という見解すらある。
その点で、法廷に立った手術者やその弁護人と判事とのやり取りには、真実の宣誓のもとでの法廷における対面的交渉が先鋭化する事例として興味ふかいものとなる。もとより、心霊治療の法廷での論争はモラルという観点からなされるのではなく、違法性をめぐっておこなわれる。ブラジルの心霊手術師アリゴーでの判事とのやりとりを見てみよう(クリップナーとヴィロルド,1986:167-8)。この中でアリゴーは自分自身で、心霊手術中は“心神喪失状態”ないしは“抵抗できない強制”であると証言して、罪に問われないことを主張している。
アリゴー「‥‥自分が不法行為を行なっているのかどうかさえ、自分ではわからないということです。自分でわかるのは、肉体的な霊の助けを求めて誰がいつ来ても、その人たちを助けようとしなければならないということだけです。私にはそういう人を追い返すことはできません。その人たちには、健康を神にお願いするように言っています」
判事「それでどんなふうにするのですか。」
ア「まずお祈りをします。主の祈りです。そこから先は何も見えなくなって何もわからなくなります。自分でしていることがあとで思い出せないのです。記憶が全然残らないのです。人の話では処方箋を書くそうですが、そのことも覚えていません。それがどういう薬かもわかりませんし、どうしてそんなことになるのかもわからないのです。書いていても処方箋が見えていないのです。」
判「証言にある手術のことはどうですか」
ア「それも同じです。言いたくても言えないのです。自分でもわからない状態になっているのです。みんなそういうことを私がしたと言います。どう説明すればいいのかわかれば自分でもうれしいのですが」
心霊治療のクライエントが、自分におこなわれた治療が超自然的な作用によるものであったと信じており、後にそれが虚偽であることが分かったとき、手術者は患者を裏切ったことになるのか。また患者は裏切られたと感じるのだろうか。経験的事実からすると、そのような事件の発覚は、手術師の名声を著しく損ない、クライエントも――そのインパクトの大きさに応じて――減少する。だが、手術で“治った”という確信をもった元患者は、その事実と現実の整合性に関連する疑問に対して何等かの答が求められる。その疑問とは、その時の患者であった自分の身にいったい何が起こったのか?、ということである。
にもかかわらず虚偽であることが発覚しても変わらない支持が得られることもある。それは心霊治療ではないニセ医者のケースでみられる。非常に信頼を受けていたと言われるニセ医者の場合、発覚後も元患者から「ニセ医者でもかまわない。もう一度、診てもらいたいから連絡先を教えてください」という要請――電話での問い合わせ――が入ることもあるという(高田,1989:26)。ここではニセ医者=トリックという“事実”は問題視されずに、ニセ医者との間に生じたと思われるレトリックによる“治癒”への期待のほうが重視されているのである。
このようなレトリックの受容に対する解釈のうち、集団が呪術師の“例外的能力”をどのように信じるのかについてレヴィ=ストロース(1972:185-188)はひとつの解釈を提示する。それは彼自身の調査事例であり、ナンビクワラの人びとのあいだで起こった、一見非合理な出来事――雷が男を何キロも遠方に連れ去り、身ぐるみ剥いだ後に元の場所に帰した――について、公の見解がそれと意見を異にする別の非公的な見解におきかわってゆくときいったいその社会にはどのようなことが生起したのかという説明である。
彼によると、相異なる解釈のうち、特定の解釈が受容されてゆくとき、ある種の客観的分析が試みられるのではなく、個人の経験に基づくぼんやりとした(ひとつの解釈に対する)態度が要求するデータに従って決定されてゆく。そのような決定は、“集団の文化の中に浮動する特定の図式”によってなされる。この図式への同化によって「主観的状態を対象化」でき「いいあらわし難い印象をいいあらわ」し「分節されぬ経験を体系へと統合することができる」というのである。
むろんこのレヴィ=ストロースの手仕事(ブリコラージュ)的説明への同意は、我々にとって非合理に映る現象を我々が持っている手持ちの認識論をもって都合良く理解させるという彼自身のレトリック戦略に同意することを意味する。だが、ある社会現象を理解するために書かれる論文において、言説実践としてのレトリックを欠いた“公正なもの”などそもそも存在するのだろうか。
アリストテレスの時代が共有していた倫理とは、言うまでもなく「エートス的な、ないしはエートスをめぐる諸問題」(高田,1973:238) のことである。エートスのラテン語訳こそがモーレス――モスの複数形――でありモラルの語源なのである。エートスは、住み慣れた場所や故郷のことであり、そこから派生する集団が遵守する慣習や慣行であり、そのような慣習によって社会の成員によって、共有されている意識や実践のことをさすのである。『ニコマコス倫理学』によると、人びとに共有される道徳的な意識が、集団の慣習や慣行に由来し、それは住み慣れた場所・住い・故郷という場所性と密接に関わっている。慣行とは、日常生活のなかで無反省的おこなわれている反復的行為であり、アリストテレスは<徳の獲得>を<技術の習得>になぞらえる(上巻:56)。「倫理的卓越性は習慣づけに基づいて生ずる。「習慣」「習慣づけ」(エトス)という言葉から少しく転化した倫理的(エーティケー=エトス的)という名称を得ている所以である」(下巻:55)。また「徳は本性的に生まれてくるのではなく、習慣づけによって完成する」(op.sit.:56)。したがって人間は本性的に卓越性を受け入れてゆくことになる。そして、慣習的行為の基礎は言うまでもなく身体にある。したがって、身体はあらゆる社会の道徳的基盤となりうる。だからこそ道徳の説明は身体ないしはその感覚の隠喩――例えば心の痛み――をもちいて表現されるのだ。
この主張の興味深いところは、道徳はバナキュラーなものだと考えられていたということだ。ところが西洋における倫理学の展開はそのバナキュラー性から離脱する方向へとすすむ。それ以降の「旧式な倫理学は、モラルと礼儀作法が統一しているということで、相変わらず社会的階層というものに依存しており、またそのうえ18世紀においては、結局のところ所有配分の問題に依拠していたのである」(ルーマン1992:12)。倫理のトポスは人びとが共有する地理的空間から、“社会階層”という社会的空間へと移行した。
倫理学の反省が18世紀の終わり要請された。すなわち、18世紀の80年代に、カントの先験主義、ベンサムの功利主義的合理性の考量、そして(功利主義とは逆行する)マルキ・ド・サドの哲学というヴァリエーションとともに、モラルの反省理論たるべき倫理学は登場したのである(op.sit.:11)。ところが、「先験主義的倫理学におけると同様、功利主義的倫理学においても、問題となったのはモラルの判断の合理性もしくは(特殊ドイツ的状況において)理性的基礎づけであった。‥‥。いづれにせよ、生活様式の決定と目的選択とに対し距離をとる契機が組み込まれた。」(op.sit.:16-7)
では「モラルの反省理論」以降の時代の人間において倫理はどこに居場所を見いだすのであろうか。それは、ほかならない<人格>という概念の中においてである。「人格という概念を基軸とし、平等の権利を分有する主体の同意によって成り立つ関係が最終的には配分を決定するという近代倫理の基本概念」(加藤・飯田,1988:vi)が登場するのである。
現代社会において倫理が<人格>という概念の中に住処を見いだしたことは極めて重要である。それは、アリストテレスにおける局所的な慣習、つまり人びとが無反省におこなっている<事実>というものが、近代啓蒙主義が規定する“普遍的な人間”がおこなう<観念>へと長期的に変容したことを意味する。倫理が、集団が共有している慣習という意味から<人格>に基づく主体をめぐる判断や行為として変化したからといって、集団が共有する慣行と完全に無縁になったというわけではない。
例えば「倫理要綱」というものは、医師という専門職集団が社会に対して信用あるものであるということを表明し、かつその自律性を認めさせる機能として働いている。したがって「倫理要綱が存在することそれ自体が、この職業の成員が専門職の心性を個人的特質として備えていることを含意する」(フリードソン,1992:125)。これには、慣行の遵守が<倫理>としての特性を帯びていることと、人格概念の拡張あるいはメタファーとしての<法人>が倫理を管理する行為主体になることという2つの異なった側面をもっている。倫理はさまざまにその住処を変えてきたが、と同時にそれまでの住処にその痕跡を残しているというべきだろうか。
では、心霊治療における倫理は、それらのうちの何処にその住処を見いだすのであろうか。心霊治療に関する倫理的問題を取り扱った議論は、それらの論者たちが依拠する倫理観に根ざしており現代社会において重要な役割をはたしているものではあるが、一般には退屈かつ陳腐なものである。
たとえば、(α)「生活実践上の課題」として信仰と科学が両立できるかという設問を投げかけることである。心霊治療が、信仰の心身的な相関として医学的に効果をもつだろうという見解は、その一部として容認されているが、統一的な合意はみられない。近代的な生活において、信仰と科学[とその利用]はそれぞれに別物の領域と信じられているために、信仰が科学的な治療の手順を妨げると考えられる場合に問題が生じることになる。これは具体的にはエホバの証人信者の輸血拒否問題に代表される。あるいは(β)「経験の理解や解釈上の課題」として、信者によって信じられている“真理”内容を他者は受け入れることができるかという設問。心霊治療を“信じない人”にとって、この治療体系は、虚偽、詐欺、不誠実、気休めなどと理解される。それを“真実”と見なす人にそれは誠実で確かなものに映る。信仰治療の“信者”の多くは、信じられない事実が眼前で起こった経験を基調としてそれを語る場合が多い。どのようにそれを知ることができるかという問題は、その“道徳的判断”を下すためには重要な課題となる、云々である(Vanderpool,1978:1124)。
要するに、行為を決定する主体に倫理の守備範囲を任せる一方で、倫理のバナキュラーな性格から生じる多様性(=ここでは多様な信仰)と集団を超えた“普遍的な”倫理観を調和させるという不可能な芸当を強いているのである。このような倫理的相対主義をめぐる問題は、近代医療のグローバル化に伴って、いよいよ無視できない問題となっている。エンゲルハルトは、「道徳的なよそ者に対する道徳言語」を正当化するための可能性を探求することをバイオエシックスの試みのひとつにあげているが、彼にとって道徳の多元化という事態はほとんどプロブレマティークの様相を示す。「‥‥共同体の発生以来の特別な道徳上の前提を受け入れている特定の道徳共同体の内部で維持されている道徳上の議論を、さらに大きな規模の共同体に適用することは困難だと思っている。そのように大規模な共同体では、人々はさまざまな道徳的共同体の構成員となっており、その結果としてお互いに道徳上ではよそものとしてしばしば対立することになる。これがポストモダンの状況におけるジレンマである」(エンゲルハルト,1989:viii)。べつにポストモダン状況においてのみこのような道徳的多元主義のジレンマが生じたわけではないが確かに現在の我々の社会が直面している問題には少なからずこの種の葛藤が強調される。
ニクラス・ルーマンにならってそのような葛藤を「パラダイム・ロスト」と名づけてもよい。ルーマンによると、モラルは「尊敬と軽蔑との示唆を携える、特殊なコミュニケーションのひとつ」である(ルーマン,1992:14)。だから、個々の社会的役割における「仕事の成果が問題なのではなく、コミュニケーションへの参与者として評価される限りでの、全人格(Person als ganze:全体としての人――引用者)が問題」になる(ibid.)。モラルは、「その時どきの使用に応じた全体性」であることから、常態的に提示されているよりも、「由々しき事態になってはじめて」表面化する(ibid.)。「したがってモラルの領域は経験的に画定されるのであって、いわば一定の規範、規則あるいは価値の適用領域として定義されるものではない」(op.sit.:15)。そして「経験的に見れば、モラルのコミュニケーションは、しばしば論争に赴き、それゆえ暴力のかたわらに置かれる。このコミュニケーションは尊敬と軽蔑を表現することで、関与者が過剰にアンガージュする」(op.sit.:20)。そして良い/悪いという「モラルのバイナリー・コードも、自己自身にそうしたコードを適用すると、パラドックスに行き着くということである。良いと悪いということを区別する、その区別自体が良いかどうか、われわれには決めることができない。」(op.sit.:21)
18世紀後半に生まれたモラルの反省理論は「モラルの判断のモラルの内容に関する基礎付けの問題に集中することで、社会的現実との関係を失ってしまった」(op.sit.:27)。したがって、このような理論枠組みでは「もはや倫理的反省は機能しえない」。これが「パラダイム・ロスト」なのだという。
ではどうすればよいのか。ルーマンの答は意外とあっさりしたものである。「現代社会が、もはやモラルの上に統合されえず、またモラルをもって人間にそのポジションを割り当てることができないという想定が正しいとわかれば、倫理学はモラルの使用範囲を限定しなければならない」(op.sit.:30)。そして「モラルを研究する者は、無条件とはいわないが、みずからモラルの判断にしたがう倫理学を書かなければならない。しかしモラルを研究する者は、このことを社会のコミュニケーションとして行なうことを避けるわけにはいかない。‥‥このことは倫理とモラルについての発言のすべての基礎付けが、自己準拠的に構想されなければならないということの示唆として、心に留めなければならない」(op.sit.:26)と。
これは確かに示唆に富むものであっても消極的な対応でしかない。だからこそ、そのような状況こそが古い倫理観を抱く者にとってのパラダイム・ロストなのだろう。心霊治療における倫理を議論するということも、結局はこの倫理を論ずることに伴う<自己準拠性>と<外部からの介入の不能性>ということに直面せざるを得ない。だがこの現代の倫理状況の指摘には過小評価されている側面もある。それは、倫理の生成には常に<他者>の存在があり、またその存在が倫理の唯我論化を防ぐ働きがあることだ。アリストテレスにおける倫理のバナキュラーな特性は、倫理が無機的な空間の中で存在することではなく、バナキュラーな起源の<他者>との混交によって張り付けられた空間的イメージであったことを想起させる。もしお望みなら<他者>という言葉はミハイル・バフチンに倣って時間的・空間的・文化的な<非所属>という言葉に置き換えてもよいだろう。
パラダイムロストは倫理の自らの住処を失った状態を示唆する極めて的確な言葉ではあるが、我々自身が住処を失ったわけではない。それと同様に、知識人が倫理のかつての根拠は失われたと嘆いているあいだにも、心霊治療師は自らのトリックとレトリックに対して“誠実に”その職務を遂行しているではないか。どんなところにも必ず抜け穴はあるのだ。臨終のバフチンはお気に入りの物語『デカメロン』第1日第1話――「チャッペレット氏は偽りの懺悔をして信心深い坊主を騙して死に、その在世は極悪な人間だったが、死後聖人とみなされて聖チャッペレットとよばれる」――を読んで聞かせてくれるように頼んだという(クラークとホルクイスト,1990:430)。心霊治療の倫理の物語はそこから再び始めなければならないかもしれない。
後記
私が心霊治療とモラルについて考えるきっかけになったのは日本保健医療行動科学会近畿支部研究会(1992年6月20日・生命科学振興会大阪支部)において中川米造先生によるソウルのハレルヤ祈祷院の金桂花師の心霊治療のビデオ(同祈祷院制作)の紹介とそれをめぐる全体討論に参加したことである。医学における心霊治療研究は、一方では思い込みとしか感じられない熱狂的な“治療のユートピア”をみるオカルト科学と、一切がトリックでありそこに“治療のカコトピア”をみる通常科学信奉派に明確に区分される。また心霊治療について触れれば、このどちらかに分別される宿命にあり、また研究すること自体が白眼視される。それは「人びとに関心をもたれないから」という表層的な理由のほかにより深層的な理由があるように思える。それはトリックの告発を含めて心霊治療には人のモラルに訴える極めて感情喚起な作用があることだ。心理治療のおぞましき側面である。このおぞましきもの(アブジェクト)を覗かずして、何のための医療人類学なのだろうか?という気持ちが私にはある。
本稿はその後の第13回バイオエシックス懇話会(1992年9月25日・北海道医師会館)における研究発表「心霊治療において倫理は可能か?」に大幅に加筆修正した部分をもとに、その後の見解の変化をあわせて書き下ろしたものである。発表の機会を与えてくださったうえに示唆に富んだご指摘をしてくださった旭川医科大学の岡田雅勝先生ほか懇話会のメンバーの方々に謝意を表したい。興味深くまた重要なテーマを的確につたえ筆者の主張を明白にするという発表のモラルに対して私自身がその責務を全うしたかについては自信がない。「未完の作業としての研究」という弁明において許しを乞うほかはない。
文献
アリストテレス
1971,1977『ニコマコス倫理学』上・下,高田三郎訳,岩波文庫.
Boas, Franz.
1930[1969]The Religion of the Kwakiutl Indians, New York; AMS Press.
クラーク,KとM.ホルクイスト
1990 『ミハイール・バフチーンの世界』川端香男里・鈴木晶訳,せりか書房
Dein, Simon.
1992 The Management of Illness by a Filipino Pcychic Surgeon.,
Social Scinece and Medicine, 34(4):461-464.
エンゲルハルト
1989 『バイオエシックスの基礎づけ』朝日出版社.
J・フラー
1985 『錆びたナイフの奇蹟』笠原敏雄訳,日本教文社.
藤田富雄
1992 「ブラジルにおけるカルデシズムの一考察」『インディアスの迷宮』
(神奈川大学人文学研究所編),勁草書房, pp.155-188.
ジンメル
1979 『秘密の社会学』居安正訳,世界思想社.
浜本満
1985 「文化相対主義の代価」『理想』627号,pp.105-121.
東長人
1985 「フリッツ博士に関する一考察」J・フラー『錆びたナイフの奇蹟』所収,
pp.340-350.
ヒポクラテス
1963 『古い医術について』小川政恭訳,岩波文庫
加藤尚武・飯田亘之
1988 「はしがき」『バイオエシックスの基礎』東海大学出版会所収,pp.v-viii.
クリップナー,SとA.ヴィロルド
1986 『マジカル・ヒーラー』笠原敏雄訳,工作舎
Leighton, Dorothea
1978 Medicine, Anthropology of, "Encyclopedia of Bioethics"(W.T.Reich ed.),
pp.1045-1049, The Free Press
レヴィ=ストロース
1972 「呪術師とその呪術」(田島節夫訳)『構造人類学』みすず書房,pp.183-204,
Low, Setha M.
1982 Dr.Moreno Can~as:A Symbolic Bridge to the Demedicalzation of Healing.,
Social Science and Medicine, 16:527-531.
ルーマン
1992 『パラダイム・ロスト』土方昭訳,国文社.
モンロー,D.H.
1990 「倫理的相対主義」(稲垣良典訳)『西洋思想大事典』(フィリップ・P・ウイナー編)
4巻,pp.522-526
本山博
1977 『フィリピンの心霊手術』宗教心理出版.
大庭健
1992 「なぜ道徳を気にしなければいけないのか」
『道徳の理由』(安彦一彦・大庭健・溝口宏平編)昭和堂,pp.4-29
岡田雅勝
1980 「論理と倫理」『西洋倫理思想』(宇都宮芳明編著)弘文堂,pp.217-247.
Salazar,Zeus A.
1980, Faith healing in the Philippines: An Historical perspective,
Asian Studies XVIII:27-41
佐藤純一
1992 「ブラジル日系人の間における『心霊手術』の流行について」,日本保健
医療行動科学会近畿支部例会レジュメ,1992年6月20日
サムナー,W.G.
1975 『フォークウェイズ』(青柳清孝ほか訳)青木書店.
高田公理
1987 「フィリピン民俗社会の信仰治療」『ライフサイエンス』
14(2):76-79, 14(3):62-65
1989 「ニセ医者の話――無資格診療事犯と医師の『犯罪』」
『思想の科学』121:21-30
高田三郎
1973 「解説」『ニコマコス倫理学』下,岩波文庫,pp.229-55.
Vanderpool, Harold Y.
1978 Miracle and Faith Healing, in "Encyclopedia of Bioethics"
(W.T.Reich ed.),pp.1120-1125, The Free Press
ワイル,A.
1984 『人はなぜ治るのか』(上野圭一訳),日本教文社.
ごくろうさん! 最後まで見てくれたの?
Copyright, Mitzuho Ikeda, 1997-2000