王淩(おうりょう)は知勇兼備の将として、魏の後期から活躍した武将です。
彼の生涯の内、前半期は叔父・王允に呼ばれ洛陽で過ごしますが、
李傕と郭汜の専横に耐えかねて、故郷に戻ります。
その後曹操に仕えて、メキメキと頭角を現します。
魏の三代皇帝である明帝の時代には淮南郡(呉との国境に近い魏の領土)を
治める実力者として魏の国内でその名を広め、魏の重鎮として活躍した名将です。
呂布と同じ出身の王淩
王淩(おうりょう)は太原郡の生まれです。
この地方で有名な武将と言えば、
飛将軍として各地の実力者から恐れられ、一騎当千の武勇を誇った呂布が有名です。
そんな呂布と故郷を同じくする彼ですが、武勇に秀でたわけではなく、
どちらかといえば文官よりの人でした。
叔父である王允に招かれ、長安へ
叔父である王允は呂布と組んで董卓を殺害。
その後兄と共に王允から招かれ、長安へ向かいます。
長安に着くと叔父である王允の家に住み、天子の居る都の雰囲気を感じ取りながら
兄弟は成長していきます。
しかし董卓の残党である李傕と郭汜らが長安に攻め込んできます。
王允は呂布や徐栄に軍勢を与えますが、二人は敗北。
王允はその後長安へ攻めて来た李傕と郭汜らの軍勢に殺害されてしまいます。
王淩は王允が亡くなった事を知ると兄に
「長安に留まっていたら自分たちの命も危ない。ひとまず故郷へ
帰りましょう」と提案。
兄は王淩の意見に賛成し、二人は何とか故郷へ帰ります。
太守となって実績を積む
二人は何とか故郷へたどり着きます。
その後王淩は中山太守の位を漢王朝から授けられます。
彼は太守となり、着実に実績を積んで行きます。
曹操は中山太守で実績を挙げていた王淩の名を聞き、
彼を召し出し丞相掾(じょうしょうえん)に任命。
こうして彼は曹操の配下としての道を歩んでいく事になります。
呉の水軍を撃破し、大活躍
王淩は曹丕(そうひ)の時代になると、冀州刺史に任命されます。
その後曹丕自ら呉の討伐戦に出陣した際、彼も曹丕に従って出陣します。
王淩は冀州の兵を率いて、呉の水軍の将である呉範の軍勢に大勝利を収め、
建武将軍の位を与えられます。
【次のページに続きます】