曹操(そうそう)は献帝を許へ迎えた当時、北は袁紹(えんしょう)。
南は劉表(りゅうひょう)。
東は呂布(りょふ)などの群雄と争っていました。
そのため西方の独立勢力である馬謄(ばとう)や韓遂(かんすい)らに
目を向ける余裕をもっておりませんでした。
彼は西方の抑えとして、一人の人物を派遣します。
その人の名は鍾繇(しょうよう)です。
鍾繇は単身長安へ赴き、西方で独立していた馬謄や韓遂らの反乱を抑え込みます
曹操は彼のおかげで西方を気にせず、各地の実力者と戦う事が出来たのです。
潁川出身の賢才
鍾繇は潁川郡 (えいせんぐん) 出身の人です。
この地域は賢才を多く輩出した地域で、
郭嘉(かくか)や荀彧(じゅんいく)などがこの地域の出身で、彼らは曹操に仕えて歴史に名を連ねます。
彼もまた賢才の一人で曹操に仕えた事により、
歴史に名を刻むことになります。
人相見の予言
鍾繇はある日叔父の鍾瑜(しょうゆ)に連れられて、洛陽へ行きます。
洛陽へ行く途中一人の人相見と遭遇。
この人相見は鍾繇を見て「この子は後に顕官に就くことになるが、水難の相が
あるので気を付けなさい。」と言われます。
鍾瑜はこの予言を聞き流し、洛陽へ急ぎます。
しかし900メートルほど行くと橋を渡っている途中に馬が突如驚き、
彼らは河へ転落し、危うく死にかけます。
鍾瑜は人相見の言葉を信じ、この甥の為に高額な学資を出資して
学問に専念させます。
彼は叔父の好意を受け取り、一生懸命学問に打ち込みます。
漢王朝に仕える
鍾繇は孝廉(こうれん)に推挙され、漢王朝に仕えますが、
病を患い仕事を辞めます。
その後三公の府に招かれて、黄門侍郎に抜擢され、
再び漢王朝仕えます。
この時には病も回復し、彼は大いに政務に励みます。
関連記事:献帝(けんてい)とはどんな人?後漢のラストエンペラーの青年期
関連記事:献帝(けんてい)とはどんな人?後漢のラストエンペラーの成人期
関連記事:【後漢のラストエンペラー】献帝の妻・伏皇后が危険な橋を渡った理由!
関連記事:献帝を手にいれて、群雄から抜きん出た曹操
献帝と共に洛陽を脱出し、曹操に仕える
鍾繇は献帝と共に長安へ赴きます。
当時洛陽の主は李傕と郭汜です。
彼らは些細な事で仲違いし、洛陽城内で争いを始めます。
この状況を憂いた献帝は、「朕(ちん)は洛陽に帰りたい」と臣下らに伝えます。
すると鍾繇は謀略を巡らし、献帝を連れて長安を脱出し、洛陽へ向かいます。
献帝は洛陽へ到着すると、曹操に保護されて許へ迎えられます。
曹操は鍾繇の優秀さを荀彧から聞いており、彼を御史中丞に任命し、
官吏の監察の仕事を任せます。
西方鎮撫の為、長安へ赴く
曹操は献帝を許へ迎えたころ、各地の実力者達としのぎを削って勢力争いを
しておりました。
北は袁紹。南は劉表。東は呂布や袁術などの群雄と戦っており、
西で独立勢力を保っている馬謄(ばとう)や韓遂(かんすい)ら関中の勢力にまで
手をまわしている兵力も時間もありませんでした。
そこで曹操は鍾繇に法令に関わらず西方の全てを彼に一任。
鍾繇は曹操の信頼に応える為、関中の玄関口である長安に赴きます。
馬謄・韓遂らと誠心誠意付き合う
鍾繇は長安に着くと早速馬謄・韓遂に軽率な行動を起こして、
天下を乱れさせないようにと誠意をもって説得します。
馬謄らは鍾繇の誠意に応え、彼に人質を出し、軽率な行動を起こさない事を
誓います。
また天下の覇者を決める「官渡の戦い」では曹操に馬や兵糧を送り届けます。
鍾繇のこの行動に感動した曹操は「あなたが送ってくれた馬や兵糧は非常に役に立った。
函谷関以西が乱れなかったのはあなたの功績だ」と褒め称えます。
【次のページに続きます】